act.37
<side-CHIHARU>
田中さんに加寿宮の配送倉庫まで送ってもらった後、僕は岡崎さんに報告の電話を一本入れ、今日予定していた仕事は明日以降に持ち越してもらえることを確認した。
岡崎さんの方も、今回の記事への対応で急遽予定外のスケジュールで動くことになっているそうで、「もう一度、スケジュールを整える」との返事だった。だが、明日午後のコラム出版記念の記者発表は動かせないらしく、苦々しい気分になった。
この分だと、最初来る予定でなかったところからも記者が来そうだ。
これでは、まるで本の宣伝をするために写真週刊誌に記事を書いてもらったかのようなタイミングじゃないか。
本当に最悪のタイミング。
写真週刊誌は別に流潮社の系列の出版社じゃないんだから、わざわざ宣伝してくれるような真似、してくれなくてもいいのに。本当に、なんだってんだろう。
僕は電話を切った後タクシーを捕まえ、運転手に「月島へ」と告げた。
シノさんの家に行く予定にはしてあったけど、それを意識すると来なく、自然に「月島」の言葉が出ていた。
なんだか気分が昂っていて、胸の動悸をなんとか沈めたかった。
そうするためには月島に行くのが一番なんじゃないかって、無意識でも僕は”考えて”いたんだ。
やっぱり月島は僕のホームグラウンドなのかもしれない。
幼い頃を過ごした名古屋時代の思い出はひとつもない。
僕が人としての記憶を残しているのは、月島での祖母との生活からだった。
古くさくて、今ひとつあか抜けない町だけど、意外に僕はそう言う方が好きなんだってしみじみと思った。
結局僕は、月島の商店街にある古い喫茶店の一番奥の片隅にある席に”引きこもった”。
この店は祖母が生きている頃、よく連れてきてくれた店だった。
飲むと舌が緑色になるクリームソーダーをよく飲んでいた。
商店街の他の店主は幼い頃の僕と今の僕が結びついていない人がほとんどだが、この店の女主人だけは多分違う。彼女は口に出さないが、僕が何者であるかを覚えている様子が伺えた。
僕が店の中に入ると、中途半端な時間帯のせいか店には客がおらず、閑散としていた。
僕は一番奥の目立たない席に座ると、70をとうに超えている女主人は「いつものにするかね」と声をかけてきた。
「いつもの」と声をかけられるほど頻繁に来ていないはずだが ── 来ていたのは僕の祖母だ ── 、女主人にそう声をかけられ、僕は無言で頷いた。
こう言ってはなんだが、とにかく人目にさらされないところでただ静かにしたかった僕に取って、店ががら空きだったのは幸いだった。
結局、僕の前に出されたのは祖母がいつも飲んでいたマンダリンコーヒーだった。それを見て僕は、「ああ、この人、やっぱりわかっているんだな」と思った。そうでなければ、祖母がいつも頼んでいたはずのマンダリンコーヒーが僕に出されるはずがない。
ちょっと酸味の立ったコーヒーを口に含み、ほっと溜め息をつく。
ああ、少し落ち着いてきたかもしれない。
そして僕はこう思った。
── シノさんと一緒に住むのなら、やっぱりこの月島がいいな・・・と。
祖母との思い出が詰まった町。そしてシノさんと出会うことができた町。
シノさんは許してくれるかどうかわからないけれど、できれば月島内でマンションの部屋を買って住むのがいい。
新興住宅地区に立つ大型のマンションなんかじゃなく、中古のマンションと呼ぶには多少年季の入った物件。
そういう物件の方が商店街に近いし、シノさんの賃貸マンションからも近いのが探せると思う。
古ければ全面リフォームすればいい話だし、最低限でも入館のセキュリティーがきちんとしているところを探せば、マスコミなんかの不審者に煩わされることも一戸建てよりは少ないと思う。
「・・・って、僕も気が早いよね・・・。シノさんと一緒に住めるなんて、まだ決まった訳じゃないのにね」
僕はコーヒーカップを下唇に押し付けながら、ひっそりと呟いた。
シノさんの身に火の粉がかかるのはきっとこれからが本番だし、第一、加寿宮社長が僕を認めてくれたかもわからないっていうのに・・・。
「シノさん、会社、大丈夫だったかな・・・・」
図らずもこんな形で強制的にカミングアウトさせられた人も珍しいって思うよ。
シノさんは平然とした顔をしていたけど、社内の・・・特に男性社員から距離を置かれたりしてないだろうか。
まぁ幸い、田中さん達女子社員が助けてくれるような気配はあるものの、やはり会社は男性社員が多いはずだし、主導権を握っているのも男性社員に違いない。
シノさん、仲間はずれにされたりしないかな。男社会の方が、拒否感は強いだろうからな・・・。
僕は、ああと溜め息をついて頭を抱えた。
シノさんのことを考えると、心配は尽きない。
僕は生まれて初めて、自分が女に生まれてくればよかったって心底思っていた。
そんなこと、吹越さんと別れることになった時ですら、考えもしなかったのに。
でももし僕が女だったら、少なくともシノさんをここまで窮地に追いやることはなかった。
これまでは加寿宮社長に会ったことで身体の中がソワソワとして落ち着かない感じだったのに、今はこれから起こりうることに対する不安感で心臓が落ち着かなくなってきて、僕は本当にどうしたらいいかわからなくなってしまった。
何度も溜め息をついて、何度も顔を両手で擦った。
大きく息を吸い込んでも、一向に肺の中に空気が入ってこない感じ・・・。
また顔を両手で擦ったところで、ふと傍らに人の気配を感じ顔の覆いを外すと、自分の目の前に小さな羊羹が二切れのった小皿が差し出されていた。
僕が顔を上げると、そこに女主人が立っていた。
「サービス」
彼女はぶっきらぼうにそう言うと、小皿を置いてさっさとカウンターの向こうに消えて行った。
コーヒーに羊羹。
ふいに僕は気が抜けて、少し笑った。
羊羹を少し齧ると、昔ながらのしっかりとした甘さが口の中に広がり、心臓の苦しさが少し和らいだ気がした。
やっぱり、シノさんと一緒に住むのなら、ここ月島がいい・・・。
喫茶店で都合五時間も粘って ── 昼食も喫茶店でナポリタンを食べた ── 、僕が店を出たのは四時過ぎのことだった。
久しぶりに商店街で食材の買い物をしたが、まだ記事の影響は出ていないのか、店の店主達の反応はいつもと同じだった。
今日は何だか和食の方がいいような気がして、スタンダードだけど作るのはちょっと手間のかかるブリ大根とほうれん草のごま和え、ニンジンと大根の皮のきんぴら、豆腐とわかめのみそ汁にしようと思いつつ、シノさんのマンションまで辿り着くと、いかにも『それ風』な男が電柱の影に立っているのに気がついた。
心臓がドキリとする。
男は首からカメラをぶら下げていたが、しかし格好はカメラマンというよりは記者風な身なりだった。
ああ、折角落ち着いていた心臓がまたせわしなく脈打ち始める。
── どうしよう。シノさんの自宅の住所までバレてるのか。
通行人が、怪訝そうな顔で記者と思しき男を横目で見ながら通り過ぎて行く。
ああ、こんなところで記者に追い立てられるのを近所の人に見られたら、どうなることやら・・・。
シノさんのマンションはマンションとは名ばかりの鉄筋作りのアパートみたいなものだから管理室はないし、むろん入口もオートロックではない。
ダッシュで建物の敷地に入れたとしても、絶対に追いかけてくるに決まってる。
── ああ、ホント、どうしよう・・・。
焦った僕は、思わず携帯でシノさんの電話番号をタップしてしまったのだった。
here comes the sun act.37 end.
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編集後記
ごめんなさい、本日、少ししか書けませんでした(汗)。 これ、なにを描いたんだと思います?
・・・・。 でも、でき上がった絵はこれ↓
人に見せる前から自分の絵が「イケテナイ」ことがわかっている画伯、絵を出す前から既に笑ってる↓
画伯の才能・・・凄過ぎる・・・。 [国沢]
なんだか千春のソワソワ感が国沢に乗り移ったのか、国沢自身もソワソワしてしまい、、なんだか集中できませんでした(大汗)。
なんだろう、特に何もないのに。
先週はシノさんのへったくそな似顔絵で終わりましたが、実は国沢がシノさんのモデルと言って憚らないユノヒョンも、大した画力です(笑)。
もうその独創的な絵の才能たるや、もはや『巨匠』といって過言ではないです。
ダンスもキレキレで、歌も努力に努力を重ね末に上手になり、ボランティア活動も積極的に行っている(なんせ生粋のクリスチャンだからね・・・)ザ・完璧主義人間のヒョンが、まさかあんなに絵がヘタだとは・・・!!!
い、いや、ヘタじゃないですね。
芸術です。ええ。
ちなみに国沢が度肝を抜かれた(または「腹がよじれるまで笑った」とも言う)ユノ画伯の絵がこちら↓
正解は・・・・
ぶあっはっはっは!!!!
は、ハラワタよじれる・・・・!!!!
さすが巨匠。
描いてる姿は、こんなにクールでカッコいいのにね(遠い目)。
結局誰にも理解されず、一体何を描いたんだと問われ、本人は「サイ」だと言い切って、満面のこの笑顔(笑)。
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