act.60
<side-SHINO>
川島の実家で川島と鉢合わせしたことを、俺は町田の駅に向かう道すがら、会社に電話で報告した。
会社には課長がまだ残っており、彼はひと言「わかった」と返事をした。
残業嫌いな課長が残ってまで仕事をしているのは、俺の分の仕事を変わりにしていることもあるが、おそらくいろんな取引先に柿谷との取引継続してもらえるよう、交渉するための検討を他の課と行っているに違いなかった。
昼の百貨店のバイヤーに反応を報告すると課長は既に他の営業からも似たような反応を聞かされていたのか、別段リアクションをする訳でもなく、ひと言静かに「そうか」と答えただけだった。
通常納品するはずのものに穴をあけるというのは、やはり心証が悪い。
コツコツと積み上げてきた信用は一瞬にして崩れるとは想像に容易いことだけど、まさに今俺達はそれを身を以て味わってる。
来月以降、変な影響が出なければいいが・・・。
電話を切った後、重い脱力感を感じた俺は、自動販売機でホットコーヒーを買って駅前のガードレールに寄りかかってそれを飲んだ。
普段は無糖のコーヒーを飲んでいるが、自販機に無糖のものがなくて微糖のコーヒーを買う羽目になったが、意外にこれが美味く感じた。
糖分に癒されているのは、俺の身体なのか脳みそなのか・・・。
ほーっと長い息を吐いて目を閉じると、嫌でも別れ際の川島の目が瞼の裏に浮かんできた。
「なんでお前がこんなところにいるんだ?」という驚きと「しまった」とでもいうような驚きのバツの悪さ。
何だか鼻の奥がツンとなった。
同時に営業職になりたての頃、不器用ながらも互いに助け合いながら一緒に仕事をしてきた。
高校を中退して以来、その頃の友人とはすっかり疎遠になっていた俺に取って、同期の川島や川島を通じて知り合った友人達が掛け替えのない友となった。それでもいろいろ皆の仕事の状況やプライベートの変化で縁遠くなっていくヤツもいて、気づけばいつも隣にいたのは川島だった。
不平不満を互いに言い合い、ケンカをすることもあったけれど、やっぱり一番信頼していたのは川島だった。
── それなのに、まさか川島からあんな目で見られる日が来ることになろうとは・・・
「お兄さん? 誰か待ってるの?」
ふいに声をかけられた。
思ったより近くで若い女性の声がしたので、俺は少し驚いて顔を上げた。
「会社の帰り? これから暇ですか?」
OL風の女の子だった。
普通っぽいが、それでもキレイな身なりをしていてブランドっぽいバッグを持っているカワイイ女の子だった。最近よくテレビに出てくる大勢のアイドルの中にいてもおかしくはなさそうな感じの。
「え? えっと・・・」
俺が躊躇っていると、女の子は「これからちょっと飲みにいきません? 急に予定が変わっちゃって、一人でご飯食べたくないんです」と言ってニッコリと笑った。
── これってなんだろう? ウソみたいだが、俺、ナンパされてるのか?
俺は苦笑いした。
「何で俺なんか・・・」
「だってお兄さん、ステキだから」
ステキと言われて、何だかおかしくなった。
だって、俺はこんなにヨレヨレでくたびれてるのに、それをステキだなんて言われても。
俺は親友の気持ちを引き止めることすらできなかったのに、そんな俺をステキな訳ないじゃないか。
なんだか俺は、脱力感に加え、虚しさみたいな物も感じて、ゆるゆると首を横に振った。
「悪いけど、つきあってる人がいるんだ。申し訳ないけど」
女の子は一気に落胆した表情を浮かべた。
「そうなんだ~。今晩一晩だけでもダメ?」
俺は首を横に振る。
女の子は苦笑いを浮かべた。
「ですよね。お兄さん、あまり器用そうじゃないもの」
そこは見透かされてるわけか(汗)。
そう思った瞬間、電話が鳴った。
千春からだ。
「もしもし?」
俺が電話に出ると、女の子は軽く会釈して駅の入口の方に歩いて行った。
『 ── シノさん、今どこ? 田中さんに電話したら、もう会社を出たって言われたからさ。それにしては帰りが遅いって思って・・・』
心配げな声。
その声を聞くだけで、身体の奥がキュゥと締め付けられるような心地になった。
ああ、今すぐ千春の元に帰りたい・・・。
俺は大きく息を吐いた後、「今、町田の駅前にいる。ちょっと用事があって」と答えた。
「今から帰るよ。千春はどっちにいるの?」
『シノさんの家。シノさんの好きなチーズハンバーグ作って待ってるよ』
それを聞いて、俺は不覚にも泣きそうになった。
夕べも千春は俺の好きな酢豚を作って待っていてくれたんだ。
今すぐ、飛んで帰りたいよ・・・。
少しの沈黙を千春はどう取ったのだろう。
千春は『シノさん、僕、車で迎えに行こうか?』と言ってくれた。
俺は腕時計を見る。
この時間、都内は車が混む時間だ。電車で帰った方が案外早く帰り着くだろう。
「いや、今から電車で帰るよ」
俺はそう言って電話を切った。
<side-CHIHARU>
疲れ切った声。
取り敢えず電話は切ったけれど、僕は少し不安になった。
── 本当に大丈夫かな? シノさん。
実はシノさんには言わなかったけれど、僕は加寿宮でここ最近起こっていることの顛末を、田中さんから教えてもらっていた。
ここのところシノさんは忙しさに誤摩化されて普段と変わらない様子でいたけれど、話の内容を聞く限り、かなり精神的に堪えるような出来事ばかり起こっていた。
一見落ち込んでいるように見えないシノさんが不思議なくらいだった。
でも・・・。
夜の世界に生きていた僕は裏切りや嘘なんてもう慣れっこだったけれど、きっとシノさんは違う。
あのシノさんの性格からして、彼が落ち込んでないはずがない。
それは田中さんも心配していた。
けれど会社でのシノさんは、いつもと変わらない勢い・・・いや川島さんがいなくなった分、いつも以上に精力的に仕事をこなしているという。
僕の頭の中は、嫌な予感で真っ黒だった。
シノさん、壊れてしまわなければいいけれど・・・。
今の僕にできることはと言えば、ご飯を作って帰りを待っていること。
ここしばらく、岡崎さんに無理を言って仕事を調整してもらい、夕食の支度ができる時間には解放してもらっている。
岡崎さんには「そんなことじゃ、新作も当分期待できないわね」と嫌みを言われたが、僕がこうと決めたらてこでも動かないことは・・・特にシノさんのことに関しては・・・岡崎さんも重々わかっているので、それ以上彼女は何も言わなかった。
僕の脳裏に、坂井菊に言われた言葉が浮かぶ。
『あなたが落ちぶれて行くのは見たくない。辞めて。作家』
落ちぶれるかそうでないかはよくわからないが、このまま中途半端な気持ちのまま作家で居続けるのもいけないようなことのように思えた。
シノさんと作家を両立できないのなら、やはり僕は作家を辞めた方がいいのではないかと思いを強くした。
一生分とは言えないが、それでもかなり蓄えはある。
それを上手いこと資産運用すれば、細々ながらも普通に食べて行くことはできるのではないか。
大きな買い物は、この前のマンションとリノベーション屋さんに払ってしまったし、これ以降、あれほど高価な買い物は必要ないはずだ。
もともと、いい加減な気持ちで始めた作家業だ。未練はない。
「作家辞めるって言ったら、岡崎さん、卒倒するかな」
僕は壁掛け時計を眺めながら、そう呟いた。
シノさんが帰ってきたのは、それから40分後のことだった。
「ただいま」
その声は、いつもと同じ声だった。
「お帰り」
玄関口でシノさんの手から鞄を受け取る。シノさんはネクタイを弛めながら、靴を脱いだ。
「シノさん、手を洗ってきなよ。その間にハンバーグ温めるから」
僕がそう言うと、シノさんは「ごめんな、遅くなるって連絡せずに・・・」と呟いた。
僕はシノさんの腰を軽く叩く。
「仕事が忙しいのはわかってるよ」
シノさんは苦笑いしながら、洗面所に姿を消した。
── うーん。やっぱり顔色悪い。
僕はハンバーグの乗った皿をレンジに突っ込み、テーブルの上にセロリとパプリカのマリネと茹でたニンジンとインゲン、キノコの炒めサラダとご飯をテーブルの上に並べた。
シノさんは随分お腹が減っていたのか、スーツ姿のままご飯を食べ始めた。
食欲は相変わらず旺盛だ。それだけは見ていてほっとする。
口いっぱいご飯を頬張って無言で食べる食べ方は相変わらずだけど、そんな豪快な食べ方を見ているだけで何だか癒される。
シノさんはしばらくご飯を無心で食べた後、ひと言「美味い」と言った。
僕は「そ? それはよかった」と返した。
「シノさん、町田なんて、なんの用事があったの?」
熱いお茶を湯のみに注ぎながら僕が聞くと、すっかり食べ終えたシノさんは「ん?」と小さく聞き返した。
「町田なんて、普段行かないでしょ?」
シノさんの営業エリアに町田は入ってないことぐらい、僕は知っている。
シノさんは、「ああ・・・」と溜め息にも似た声で答えると、お茶を一飲みしてから続けた。
「川島が退職届を会社に送ってきたんだ。全然連絡が取れず仕舞いだったから、私物を川島の実家に届けて・・・」
「川島さんの実家って、町田なんだ」
シノさんは頷く。
「ご両親が健在で荷物を渡してきた。その時たまたま川島が実家に帰ってきて・・・」
「え?!」
僕は思わず大きな声を上げてしまった。
シノさん、疲れてるのに、ごめん。
「川島さんに会えたの?」
僕がそう聞くと、シノさんは苦笑いした。
「まぁ、会えたと言えばそうなるのかもしれないけど・・・」
シノさんはそう言って、言葉を濁す。
らしくない、シノさん。
僕が思わず眉間に皺を寄せたのがわかったようだ。
シノさんは小さな溜め息をつくと、「川島、俺の顔見たら逃げて行った」と言って、肩を竦めたのだった。
── 逃げて行った、だって?
やっぱりあの『川島さん』とかいうヤツは、自分が後ろめたいことをしているとわかって、今回の一連の騒ぎを起こした訳だ。
僕は内心怒りが一気に込み上げてきたが、それは努めて顔に出さないようにした。だって、僕が怒りをあらわにすれば、困るのはきっとシノさん。
「それで?」
僕が聞き返すと、シノさんはまた「ん?」と答えた。
「大丈夫なの? シノさん」
僕は訊いた。
ここのところ、僕の質問と言えば、こればかり。
そしてシノさんは、決まってこう答える。
「うん。大丈夫だよ」
── そんなの嘘だ。
その力のない笑顔の裏にシノさんがどんな思いを抱えているか、想像するのは容易い。
だって僕は、もうずっとシノさんだけを見つめてきたんだもの。
さっき感じた怒りと相まって、僕の中でじれったさと悔しさが沸き上がってくる。
そしてついに僕は言ってはいけないひと言を言ってしまった。
「大丈夫じゃないでしょ、全然」
一瞬で、シノさんの表情が強ばった。
でもまだまだ未熟な僕は、これ以上我慢ができなかった。
「我慢してるでしょ? いろいろ。ねぇシノさん。もっと僕に頼ってよ。甘えてよ。僕はそんなに頼り甲斐がないですか?」
シノさんの顔がくしゃりと歪んだ。
彼はゆっくりと首を横に振る。
「そんな・・・、千春・・・。そんなこと思ってないよ。千春が頼りないだなんて、そんな・・・」
「でもシノさん、全然大丈夫じゃないくせに、いつも大丈夫って言うじゃない。どうしてひと言、辛いって苦しいって言ってくれないの? 僕じゃシノさんの抱えている問題を解決するには役立たずかもしれないけれど、シノさんの辛さを共有したいって思うのはいけないこと? 話せば楽になること、あるじゃないか」
── ああ、こんな風にシノさんを責めたい訳じゃないのに。シノさんの辛さを和らげたいだけなのに。僕はシノさんを追いつめることしかできていない。
「・・・千春・・・」
シノさんは、ポカンとした顔つきで僕を見た。
僕はハッとする。
辛いのはシノさんのはずなのに、僕が泣いていた。
── こんなの、格好悪過ぎる。
「ごめん、シノさん。こんなつもりじゃなかった」
僕はそう言って立ち上がった。
テーブルの端っこに置いてあった財布と鍵を手に取り、踵を返す。
「 ── 千春!」
僕の腕は、玄関先でシノさんに捕まえられた。
「どこにいくんだ?」
シノさんが訊いてくる。
僕は振り返らず答えた。
「今日はもう帰ります。僕が側にいるとシノさんがもっと辛くなるだけだから」
その瞬間、背後からシノさんに抱きしめられた。
「シノさん?」
シノさんは僕の肩に顔を埋め、「行かないでくれ」と呟いた。
here comes the sun act.60 end.
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編集後記
二週連続でお休みして、すみませんでした(大汗)。
風邪はなんとか峠を越え、現在痰が絡んだ咳を多発しております(脂汗)。もうすぐ治ると予想。しかし、今回の風邪、なんだかやたらと長かった・・・。久々に風邪をこじらせました。
そして子猫はと言えば、先住ネコに怒られつつも、本人はのびのび快適な(?)生活を送っております。
なんだかんだで、またネコ3匹の生活がはじまった・・・。
次週は、二度目のワクチンを打ちに行く予定。そして来月はタマタマとっちゃうのw
そろそろちゃんとした本革のバッグを買わねばと思っていたのに、その予算はネコへと割り当てるしかなさそう・・・。
ま、無類のネコ好きなんで、しかたないんですけどね!
[国沢]
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