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nothing to lose title

act.69

<side-SHINO>

 「造り酒屋の奮闘記???」
 予想通り、岡崎さんの頭の上には、たくさんの疑問符が浮かんでいるのが、僕には見えた。
  ── ま、ある程度はこの反応、予想していたけどさ。
 岡崎さんは、窓の外のビル群に目をやり、視線を泳がせた後、何かを言おうとして口をパクパクさせた後、結局最後には「本気でそれ、書くつもりなの?」という至極当たり前な台詞を僕に投げつけた。
 僕はゴホンと咳払いすると、
「ええ、書きますよ。本気で書くつもりです。そう皆の前で宣言したんですから」
 僕はいきがってそう答えたが、岡崎さんは僕の中にある不安を見逃さなかった。
「 ── で、今、物凄く後悔している・・・と」
 僕は耐えきれなくなって、机の上に突っ伏した。
「ええ! そうですよ! 後悔してます! だって、全然僕らしくないテーマだし、そんな形式の小説なんて書いたこともない! 第一、書けるかどうか、わからない!」
 僕はそう早口でまくしたてると、ガバッと身体を起こした。
 岡崎さんを始め、パーテーションの向こうからこちらの様子を窺っていた編集室のスタッフがのけぞる。
 僕は短く息を吐き出すと、「でも書きます。僕は、書きます」と静かに言った。
 そして、僕を見つめる全ての人をぐるっと見回して、「最終的な目標は、朝の連ドラの原作です」と言うと、訳のわからない地鳴りのような「お~」という声が周囲に満ちた。
「何事も、成せばなる、です」
 硬く腕組みをし、目を閉じて僕がそう言うと、不意に岡崎さんが吹き出した。
 僕は片目だけ開けて、岡崎さんを見る。
 岡崎さんは、さも楽しそうにクックッと肩を揺らして笑っていた。周囲の人達は不気味なものを見るかのような目で岡崎さんを見つめている。
 僕は両手を広げると、「何かコメントはないんですか?」とイライラした口調で岡崎さんに言った。
 岡崎さんは目尻を拭うと、「澤先生ったら、随分遠くまで篠田さんに連れて行かれちゃったのねぇ」と答えた。
「あなたが描こうとしている世界は、まさに篠田さんの世界だもの。 ── で? 主人公はどうするの? 当然、篠田さんがモデルなんでしょ?」
 う~ん、岡崎さん、伊達に長年僕のお守りをしてきただけあるなぁ・・・。
 今更ながら彼女の凄さを思い知らされることになろうとは。
「さすがに酒類卸の営業マンだと書きにくいですから若い杜氏ということにしますけど、僕のモチベーションのためにシノさんをモデルにさせてください」
 岡崎さんはウンウンと頷きながら、「ちょっと~! お代わりのコーヒー、誰か持ってきて~!」と叫び、手元の小さなノートパソコンを立ち上げると、小説のプロットをカチカチと打ち込み始めた。
「しかし、朝の連ドラとなると、主役は若い女の子の方がいいんじゃないの?」
 僕は右手で目頭を擦りつつ、溜め息を吐いた。
「それはそうなんですけど、それでは僕のやる気が途切れそうな気がして恐ろしいです」
「なるほど。 ── ま、小説の出来がよければ、夢じゃないかもよ」
  ── 岡崎さん、完全におもしろがってるなぁ・・・。
「で、タイトルとかは決めてるの?」
 僕は首を横に振る。
 昨日の今日で柿谷酒造から帰ってきたのだ。
 まだまるで何も思いついてない。
 だから僕は、岡崎さんに登場人物とその性格や役割だけをざっと説明した。
 その点については、ほぼ柿谷の実際いる人々をモデルにする訳なので、すんなりと答えられる。
 リアルなモデルがいるというのは、何もないよりも多少は書きやすいように思う。
 とはいえ、ホームドラマのような小説などこれまで一切書いてきたことがないのは確かなので、自分が本当にやり遂げられるのかがさっぱりわからない。
 僕が思わず再び大きな溜め息を吐くと、岡崎さんは僕の腕をポンと叩いた。
「そんな弱気でどうするの? 書くって決めたんでしょ? 澤君、書き始めたら案外筆は早い方だから、最初のスタートだけよ、苦労するのは」
 岡崎さんは、パソコンと自分の手帳を交互に眺める。
「雑多な仕事はこれからきちんとセーブしていくわ。必要最低限のものだけ受けるようにする。取り敢えず一ヶ月分書き貯めなさい。連載はそれができたら枠を取ります。バックアップは全力でしますから、何でも言ってきて」
「はい・・・」
「後でWi-Fiルーターあげるから、実際にその酒蔵に泊まり込んで書けばいいじゃない。あ、それだと篠田さんが困るか」
 岡崎さんは、僕がシノさんの晩ご飯の生命線を握ってることを承知している。
 でも、その点については、夕べこちらに帰ってきてからシノさんと話し合った。
 シノさんは、僕の小説家再開宣言をかなり喜んでいてくれてるらしく、「俺のことなんか気にせず、頑張ってほしい」と言った。
  ── チクショー、シノさん、僕の手料理に未練はないのかよーって内心悪態をついてはみたけど、物凄くキラキラした瞳で「千春、頑張れ!」って言ってくれるシノさんを見たら、僕の毒吐きもみるみるしぼんでしまった。
「シノさんには、夕食の件も含めて了承をもらいました」
 僕が口を尖らせながらボソボソとそう答えると、岡崎さんはニヤニヤ顔で僕を見た。
「で? 篠田さん、なんて?」
「 ── 頑張れって。僕なら、絶対に素敵な小説が書けるって励ましてくれました」
「さすが篠田さんだわ~。完全に猛獣を手なずけてる」
「猛獣って、酷いですね」
「だってあなた、これまで澤清順に命令して聞き入れられた人なんて他にいる? ねぇ!」
 岡崎さんが周囲のスタッフに目をやる。話題をふられた彼らも、物凄い勢いで「そんなやつはいない」と首を横に振った。
  ── はぁ、一体僕は流潮社でどんな捉え方をされていたんでしょうね?
 本日幾度目かの溜め息を吐いた僕は、椅子から立ち上がると破れかぶれの気分のまま、岡崎さんの前に手を差し出し、こう叫んだ。
「Wi-Fiルーターください!」
 

<side-SHINO>

 「え~~~~~! 成澤さん、そんなこと言っちゃったんですか?!」
 ランチタイムのカフェテリア。
 俺が先週末の柿谷での顛末を田中さん達仲良し四人組に話すと、彼女達は目を丸くして互いに顔を見合わせた。
「なになに? そんなに大事なのかよ」
 俺の隣でアジフライにかぶりついてた手島さんが不思議そうに田中さん達を見る。
 田中さんは手島さんの腕をバシッと叩いて「もう! 全然わかってないんだから!」と叫んだ。
 手島さんは大げさに痛がるフリをすると、「俺にとってしてみれば、柿谷の親父を怒鳴りつけたことの方が驚愕に値するけどな」と肩を竦める。
「シノの嫁は随分剛毅なんだなぁと。 ── お前、尻に敷かれてるだろ?」
 手島さんがニヤニヤしながら俺の脇腹に肘鉄を入れてくる。
 俺は思わず咳払いをした。
「そんな当たり前なことはともかく、成澤さん、大丈夫なんですか?」
 おいおい、田中さん。「そんな当たり前なこと」って・・・  ── ま、確かに尻には敷かれてるけどさ。
「本人は随分プレッシャー感じてるみたいだけど。でも千春なら大丈夫だと俺は思う。絶対」
 俺がそう言うと、田中さん達は再び顔を見合わせた。
 そして溜め息を吐く。
「スーパーポジティブシンキンガーが傍にいると、何かと気苦労が絶えなさそ~」
 なんだよ! 酷い言い草だな!
「俺、何かダメなこと言いました?」
 俺は思わず手島さんに助け舟を求めたが、手島さんは締まりのない顔でアジフライを口の中に突っ込みながら、
「はぁ? 何か言ったか、お前?」
 と答えた。
  ── ダメだこりゃ。
 俺は腕時計で時間を見て、立ち上がった。
「じゃ、午後の配送についていく時間だから。お先」
 お疲れさまで~すという気のない声を聞きながら、俺はカフェテリアを出た。
 田中さん達の反応を見ても、やはり千春が言い出したことはかなりハードルの高いことなんだということを今更ながら俺は実感させられた。
 確かに夕べこちらに帰ってきてから後も千春は随分強ばった顔つきをしていたし。
 そんな千春に「頑張れ」って言っちゃったのは、やはりマズいことだったのかなぁ・・・。俺がプレッシャーをかけてしまってるんだろうか、千春に。
 でも、千春ならやり遂げられるって俺は本気で思ったら、そう言ったんだけど・・・。
「う~ん・・・、難しい・・・」
 頭をガリガリと掻いていたら、浅川が「篠田さん、頭痒いんですか? 風呂はいってないとか?」と言われてしまった。
  ── はぁ・・・。浅川にしろ、手島さんにしろ、男はなんか大雑把なんだよなぁ、反応が。・・・・・。って、俺もなのか。
「いよいよ商戦に突入ですねぇ」
 配送車を運転しながら、浅川が言う。
 街はすっかり、クリスマス一色になっていた。
 洋酒部門はボジョレーが終わった後、息つく暇なくクリスマス商戦に向けて体勢を整える。
 我ら日本酒課はクリスマスについては余り影響はないが、年末年始が一年で一番大切な販売シーズンだ。
 本当言うと、今年の日本酒課の販売戦略では、薫風でいつも変化のないクリスマス商戦に乗り込もうとしていたが、薫風がなくなった今となっては、その計画も反故となってしまった。
 征夫さんと川島の行方は未だにわからない。
 どうやら川島だけは実家に定期的に連絡を入れているらしいのだが、どこでどのように過ごしているのかははっきりと答えないらしく、新しい情報がもたらされることはなかった。
 けれど俺は、今のこの状況を悲観してはいなかった。
 田中さん達が言う通りの根拠のないポジティブシンキングなのかもしれないけれど、もうすぐ酒の仕込みの時期が訪れるし、柿谷のあの様子ならきっと、今年更にできのいい薫風を作り上げてくれるような気がするんだ。
 昨日千春と揃って柿谷を後にした時、皆がわざわざ見送りに出てきてくれて、俺らの車がそれぞれ見えなくなるまでずっと手を振ってくれた。
 きっと千春の思いがしっかりと伝わったんだと思う。
 だから柿谷はきっとやってくれる。
 俺はそう信じている。


 俺が酒のケースをバックヤードに運び込むと、いつものように迫田さんが元気に出迎えてくれた。
「お疲れさま~。あ、そうそう、年末に向けて注文増やしたいって店長が言ってたわよ」
 迫田さんがそう言って、俺の肩を叩いた。
 俺は思わずビールの箱を抱えた浅川と顔を見合わせる。
 このスーパーは、例の『取引停止騒動』があってから、注文はずっと横ばいだった。
 こちらとしては、取引を再開してもらっただけで御の字だったので、受けた注文をしっかりこなして行くことを大切にしてきた。
 酒卸関係でいえば、うち以外にも搬入業者がいて、そことの関係もあって注文はこれ以上出せないとずっと言われていたのだ。
 それに店長さんは、俺と顔をあわせるのがバツが悪いのか、俺がいつも納入に来る日は出ていることが多く、今日も外出しているとのことだった。
「篠田さん、よかったですね」
 浅川にそう言われ、俺は「ああ」と頷いた。
「でも迫田さん、どうして急に・・・」
 純粋な疑問が沸き上がってきて俺がそう訊くと、迫田さんは顔をくしゃくしゃにして笑う。
「これよ、これ」
 迫田さんが、側の机の上に置かれてあった雑誌を手に取る。
  ── 『キャラバン』じゃないか。
「うちの店長、毎号搬入されるごとにいの一番にこの雑誌個人で購入してるのよ。篠田くんのページ、スクラップまでしてるって噂なんだから」
 浅川の表情がパァッと明るくなる。
「うわぁ、篠田さん、頑張った甲斐がありましたね!」
 まさか、キャラバンの仕事がこんなのところで効果を発揮するとは思ってもみなかった。
 確かに初めてチャレンジする仕事で大変だったけど、やっただけのことはあったということか・・・。
「まさかうちの店長があんなにミーハーだとは思わなかったわよ。まぁでも、この記事面白いし、篠田君も毎回男前に写ってるから、お客さんが買う前にうちの従業員だけで売り切れになっちゃう勢いなのよぉ」
 迫田さんに腕を叩かれながら、俺はお腹の底がジンワリ温かくなっていくのを感じた。
 それもこれも、俺に挽回のチャンスをくれたのは千春だ。
 千春が出版社と交渉してくれて、かなりいい条件でこの仕事を決めてくれたのだ。
 やはり、千春って凄い。
 千春がこのことを見越して仕事を決めてきてくれたのかはわからないけれど、いつも最良のタイミングで最高のフォローをしてくれる。それが千春なんだ。
 俺は、いつもの倍の量の日本酒・・・しかもオススメ銘柄をお任せで持ってきていいというオーダーを手帳に書き付けながら、千春に感謝の気持ちでいっぱいになった。
「早く社に戻って報告しましょう! いやぁ、篠田さん、お手柄ですね!」
 浅川のそんな声を聞きながら、俺は今すぐ千春に会いたいと思ってしまった。
 早く千春に会って、お礼がしたい。
 そして伝えたいんだ。
 千春は素晴らしい人。最強の男。
  ── 俺の隣にいてくれて、本当にありがとう、と。
 

<side-CHIHARU>


 
 結局僕は、その後も半ば流潮社に缶詰の状態になって、雑多な仕事の事後処理を行った。
 いくらコラムや書評など小さな仕事といえども、辞めるとなればそれ相当の段取りを踏まなくてはならない。
 その点で言えば、岡崎さんは随分尽力してくれた。
 中には断りにくい仕事もあったようだけど、彼女は僕の新しい創作活動に集中できるようにと、できる限りの環境づくりをしてくれるようだ。
 まぁそれは、期待の現れなんだろうけど・・・。
 ついこの間まで「作家を辞める」と息巻いていた僕が、よもやこんなことになろうとは。
 自分で言ったこととはいえ、今だに信じられない。
  ── ってか、僕ってこんな性格してたっけ?
 完全にシノさんの影響を受けちゃってるよ・・・。
「もうこんな時間。篠田さんの家まで送るわね」
 エレベーターで一階ロビーまで降りると、「車の手配をしてくるからちょっと待ってて」と岡崎さんが姿を消す。
 僕はこの日何度目になるかわからない溜め息をついて、ロビーの片隅に置いてあるソファーに座った。
 ロビーはもう終業時間を過ぎているのに、様々な人が出入りしている。さすが大手出版社だ。
 何となく入口の方に目をやって、ギョッとした。
 シノさんがどこか不安げな顔で流潮社のビルを眺めていた。
「何やってるんだ? あの人」
 僕が入口のガラス際に近づいて手を振ると、それに気がついたシノさんはホッとしたような笑顔を浮かべた。
 僕が「入ってこい」とジャスチャーをすると、シノさんはオズオズと中に入ってくる。
 シノさんは受付の方を随分気にしながら入ってきたが、僕がガードマンに目をやると、彼らは軽く会釈を返してくる。彼らは僕が誰であるかはもうわかっているので、シノさんが澤清順の関係者だと直ぐに認識してくれたようだ。
「よかった・・・。まさか会えるとは思ってなかった」
 シノさんの発言に、僕は益々ギョッとした。
「あなた、ここで僕に会える確信なしにここまで来たんですか?!」
「いやぁ、実は以前、ここで門前払いにあったことがあってさ・・・」
「門前払い?!」
 シノさんの言い草に僕が目の色を変えると、シノさんは慌てて僕をなだめるように「いやいやいや、もうずっと前だよ。付き合い始める前。千春がいなくなった時に、ここにくれば会えると思ってきたんだけど、頭のおかしな熱狂的ファンと勘違いされて・・・」と早口でまくしたてた。
  ── 千春がいなくなった時に、か。まぁ確かに以前、そんなことがあったけど、まさかシノさん、その時に流潮社にまで来ていたとは。
「今日はうまい具合に千春がいてくれたから助かった」
 なんてシノさんは呑気なことを言っている。
「そんなことなら、事前に連絡してくれればいいじゃないですか」
 僕がそう言うと、「メールはしたんだけど」とシノさんは言った。
「え?」
 僕は慌てて腰からスマホを取り出す。
 確かに、メールが来ていた。
「ごめん、仕事の処理で忙しくて気がついてなかった・・・」
「いや、いいんだ。丁度良かったんだ」
「丁度よかったって?」
「千春が先に帰って、晩ご飯の支度をしてしまってたらどうしようって・・・そう思ってさ」
「晩ご飯の支度? シノさん、今日どこかに食べに行きたかったの?」
 僕はそう言いながら、スマホで今の時刻を確認した。
 七時半だ。
 確かに少し遅いかもしれないけど、これから晩ご飯の支度をしても充分間に合う。
 でもわざわざここまで僕を迎えにくるってことは、どこかに食べに行きたいんだろう。
「今岡崎さんが車の手配をしてくれてるところだけど、行きたいお店が決まってたらそこまで送ってもらいますか?」
 シノさんは、えっという表情をしたが、送ってもらうことに関しては嬉しかったようだ。
「お言葉に甘えてもいいかなぁ」
 とか言いながら、ニコニコしている。
  ── なんだろう。なんか企んでる?
 僕は何となくシノさんに違和感を覚えつつも、「シノさん、今日は残業なしですか?」と尋ねる。シノさんは、「今日は残業より大事なことがあるからさ」と答えた。
  ── 残業より大事なこと???
 益々何がなんだかわからない。
 でも絶対これ、なんか隠してる。
 それをシノさんに問いただそうとした時、岡崎さんが帰ってきた。
 シノさんを見て、岡崎さんが目を丸くする。
「あら! 篠田さん! どうしたんですか?」
「こんばんは。ちょっと千春に用があって・・・」
「どうやら、彼、僕と一緒に行きたい店があるみたいで・・・。送って行ってもらってもいいでしょうか?」
「え、ええ。運転手に言ってもらえれば、どこだって送って行けますよ」
 僕らは岡崎さんについて、地下の駐車場に降りた。
 岡崎さんはこのまま社に残ってまだ仕事をするとのことで、僕らだけ車に乗り込むことになった。
 シノさんは運転手に目的の場所の住所をつげた。
 小さい声で言ったので僕には聞こえない。
  ── シノさんの行きたい店ってどこなだろう・・・
 そう思いながら車が辿り着いたのは、加寿宮の本社前だった。
「あれ? シノさん、忘れ物?」
 僕がシノさんを振り返ってそう訊くと、シノさんは僕の腕を掴み、そのまま車から降りてしまう。
「ありがとうございました」
 シノさんが声をかけると、流潮社の車はそのまま行ってしまった。
 僕は加寿宮のビルを見上げながら、「シノさんの来たかったところって、まさかここ?」と呟いた。
「うん、そう」
 シノさんはニコニコと笑いながらそう答える。
 ビルにはところどころ明りがついていて、終業時間後も社員が幾人か残っていることが窺えた。
「まさか僕も一緒に残業しろってことじゃないよね?」
 僕が冗談まじりにそう言うと、シノさんは手を横にブンブンと振って、「違う違う!」と慌てて答えた。
「まぁいいから、ついてきて」
 シノさんに言われ、加寿宮ビルの非常口から中に入る(正面玄関は既に閉まっているからだ)。
 明りの落ちたロビーを通り過ぎ、エレベーターに乗り込む。
 シノさんの仕事場があるフロアは通り過ぎて、最上階で止まった。
 ここまできても、僕にはまったくチンプンカンプンだ。
 怪訝そうに顔を顰める僕の手を引いて、シノさんは最上階にあるカフェテリアのドアを開けた。
「ここに座って」
 窓際の席に誘導されて、僕はそのまま座る。
 周囲のビルからの光や下の道路を通り過ぎて行く車のライトがキレイに瞬いていた。意外にロマンチックな風景。
「ちょっと待ってて」
 シノさんはそう言い残して、カフェテリアの厨房に姿を消した。
 厨房の明りがついて、ガシャガシャと何やら音がする。
 そのうち、ジューッと何かが焼ける音がして僕がぎょっとしていると、やがてシノさんがトレイを持って厨房から出てきた。
「じゃぁ~ん!」
 目の前に置かれたトレイには。
 湯気を立てているわかめの味噌汁にご飯、そして形のいびつな卵焼きが鎮座していた。
「・・・・え? これ、まさかシノさんが作ったの?」
 シノさんは向かいに座り、うんと頷く。
「終業後に女子社員の皆に作り方教わって、なんとか作れるようにしてもらったんだよー。卵のパック、2パック無駄にした・・・」
 僕は無意識のうちに自分の顔が半笑いになっていることに気がついた。
「え? 何? なんでこの展開なの?」
 今日一日どんより暗かった僕の周囲の空気が、何だかこの奇妙な展開に浮き足立っている。
「今日、例の取引停止騒動があったスーパーが注文を増やしてくれたんだ。キャラバンの記事を見て、店長さんが俺のこと見直してくれたみたいで。俺、凄く嬉しくてさ」
「なるほど」
「全部千春のお陰だから、感謝の気持ちを伝えたいって思って。いつも俺のことを助けてくれる千春に、俺が今度は助けられることってなんだろうって思ったら、千春がいなくてもご飯作れるよってこと証明することなんじゃないかなって思いついて」
「 ── で、今に至る、と」
 シノさんはうんと頷く。
「いや、なんか突然過ぎて、また千春を困惑させちゃったかなぁ」
 シノさんは複雑な顔を浮かべている僕を見て、まいったなぁと頭を掻いた。
  ── なんだろ、この人。ホントに、なんなんだ、この人。
 やることが余りにも直情過ぎる。
 いや、単純明快とでもいうのか。
 本当に何といっていいかわからずにいると、シノさんが「早く食べて」と僕を促した。
「あ、ああ。そうですね。温かいうちに」
 僕は「いただきます」と両手を合わせ、まず味噌汁を啜り、そして卵焼きを箸で割って口に含んだ。
「 ── ど、どう?」
 恐る恐るシノさんが訊いてくるので、僕はこう答えた。
「シノさん・・・、マズいです」
 僕はもう耐えきれなくなって、笑った。
「アッハハハハハハハ!」
 本当に久しぶりに腹の底から笑った。
「アハハハハ、ま、マズい・・・!!! アハハハハ」
 シノさんは口を尖らせながら、「酷いなぁ」と声を上げる。
「だって、だってシノさん、これ、味見しました? ちゃんと」
 僕が味噌汁を指差して言うと、シノさんは「味見忘れてた」と言う。
「まぁ、ちょっと飲んでみてください」
 シノさんが反対側から味噌汁の椀を手に取り、ズズっと啜る。
「どう?」
「 ── 確かにマズい」
 シノさんがガックリと頭を項垂れる。
「味噌の量が圧倒的に足りません。それに卵焼きは反対に塩辛いです」 
「あ~、計画失敗かぁ~~~~」
 シノさんが頭を抱える。
 僕は笑いを何とか納めつつ、最後まで全部食べた。
「無理して食べなくていいよぉ」
 そう言うシノさんに、僕は首を横に振る。
  ── シノさんの作った晩ご飯、マズいけど、でも、美味しい。
「ごちそうさまでした」
 シノさん、あなたは周りがびっくりするほど真っ直ぐな球しか投げられない人だけどでも、それがこんなにも僕を幸せにしてくれるんです。
「大根おろしができなかった頃から考えると、凄い進歩ですよ、シノさん」
「そ、そうかなぁ」
「ええ。だって卵焼き、焦がさずにちゃんと巻けてるじゃないですか。凄くないですか、これ?」
「いや、仕事終わって相当練習したからね、それ・・・」
 シノさんは溜め息を吐いている。
 僕は、一応周囲を見回して誰もいないことを確認すると、シノさんの頬にチュッとキスをした。
「これなら僕が晩ご飯作れない日があったって、コンビニ弁当だらけの生活にはならないね」
「う、うん・・・。た、多分・・・」
 本当はきっと、コンビニ弁当になるのかもしれないけど。
 僕にはシノさんの気持ちが嬉しかった。
  ── 自分のことは心配するな。小説を書くことに集中すればいい。
 そういうメッセージなんだよね。
 不器用だけど、最高の応援だよ、シノさん。
「なんだか、元気出てきたかも」
 僕がそう言って微笑むと、シノさんもやっと笑顔を見せてくれた。
「千春。今度のこと、凄く負担だろうけど、失敗したっていいんだよ。 ── いや、千春はきっと失敗なんかしないんだろうけど、それくらい気持ちを楽にしてチャレンジすればいい。一生懸命やれば、結果は後から自然とついてくる。だから、千春は千春のできることをそのままやればいいんだよ」
 シノさんの台詞を聞きながら、僕はウンウンと頷いた。
  ── そうだね、シノさん。例え失敗しても、シノさんは変わらず僕の傍にいてくれるはずだ。そう思ったら、何も怖くない。
「シノさん、ありがとう」
 僕がそう言うと、シノさんは慌てて「それはこっちの台詞だよ!」と大声で答えたのだった。

 

here comes the sun act.69 end.

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編集後記

いっときますが、国沢の料理の腕はシノくんとほぼ同等です(笑)。
パスタはできるけど、和食はからっきしダメです。

やっぱり料理って、必要にかられないと上手になりませんよね?

まぁ、そんなんだから行かず後家なんですけどね・・・(脂汗)。

しかし、シノくんの直球勝負、いかがだったでしょうか?
シノくんのこのアイデアが頭の中に浮かんできた時は、国沢も思わず腹抱えて笑いました。
「そりゃ無謀過ぎるわ~~~~~~」って。
ということで同僚のオネェ様達の指導のかいもなく、ゲロマズな芸術作品ができ上がったわけですが、千春が幸せそうなんで、まぁいっかと(笑)。
結果オーライw

思えば69話までツラツラとノロケ話をずっと書いてきたなぁと感慨深いです(笑)。というか、いいのかな、こんなんでってなもんです。
これまで、こんなに長く「付き合ってからの二人」というのを書いてきたことはなかったように思います。
大概、付き合うことになって終わりってパターンが多いですもんね。
続編があったとしても、一緒に住むパターンは余りない。
それを考えると、よくもまぁこんなノロケ話を長く続けてるなぁと思います。

他のお話と比べると、あまりに緩さに自分でびびりますが、書いてて楽しんで、もう少しお付き合いください。

でも、話のラストのシーンや一文は思い浮かびました。

ああ、そこまで無事に辿り着けるといいなぁ。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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