＜side-CHIHARU＞

　「え？！　倉庫に在庫してた薫風が全部なくなってる・・・？！！　それって、どういうことですか？」
　シノさんの言葉に、僕も思わず立ち上がった。
　シノさんの顔つきが一気に強ばる。
　電話の相手が何を言っているかは聞こえなかったが、シノさんの顔色で深刻な状況であるのは違いない。
「・・・はい、はい・・・。今朝まではあったんですか？・・・ええ、はい・・・ああ、薫風の在庫倉庫は、夕べ確認してからは見てないんですね？　・・・はい、ええ。川島には？　川島には連絡しましたか？　 ── ええ・・・、あぁ・・繋がらない・・・。すみません・・・。今から僕がそちらに向かいます。 ── いいえ、行きます。大丈夫です。ええ。はい。じゃ、切ります」
　シノさんは電話を切ると、寝室に向かった。僕も後を追う。
　シノさんは着替えたばかりの部屋着を脱いでいた。
　僕はクローゼットを開け、ワイシャツとスーツを取り出す。
「シノさん、これでいい？」
「ああ、何でもいいよ」
「今から柿谷に行くの？」
　シノさんはうんと頷く。
「薫風が在庫倉庫から消えてなくなったらしい・・・。夕べまではきちんとあったそうなんだけど・・・」
「でも今から行くと、あちらに到着するのが真夜中になりますよ」
「ああ・・・でもいてもたってもいられないから・・・。一先ず、川島に電話する」
　シノさんはワイシャツを羽織りながら、スマホをタップした。
　僕はシノさんの前に跪いて、ワイシャツのボタンをとめる。
　シノさんの耳元からは、虚しいコール音しか聞こえてこない。
「 ── ホントだ・・・川島出ない」
　珍しくシノさんは苛立った声でそう言った。
　僕は次にネクタイを手に取る。
　その間にシノさんは、一度電話を切って、別の電話番号をタップする。
　またコール音が長く続く。
「課長もダメか・・・あの人、夜早く寝ちゃうもんな・・・」
　ネクタイを締め終わった僕は、ジャケットを手に取り、シノさんの背後に立った。
「シノさん、腕」
「ああ、すまん」
　シノさんは、僕にジャケットを着せられている間、また別の番号に電話をかけた。
「 ── ああ・・・、手島さん、留守電じゃないか・・・」
　シノさんは舌打ちをすると、「すみません、篠田です。柿谷の倉庫から薫風が消えました。確認のため、今から俺は柿谷に向かいます。これを聞いたら、電話をください」とメッセージを吹き込んだ。
「シノさん、スラックス」
「おう、サンキュー」
　シノさんがスラックスを履いている間に、僕もクローゼットからシノさん家に置きっぱなしにしていたデニムのジャケットを羽織った。
「千春？　千春も出かけるの？」
　シノさんがベルトを締めながら、不思議そうに僕を見る。
　僕はフッと息を吐き出した。
「僕が運転しますよ。柿谷まで」
「え？！　そんな、いいよ！」
「僕とあなたの間で、遠慮なんてやめてください。あなたは連日の残業で疲れているんだし、そんな中で深夜の高速運転は心配です。それに、僕が運転すれば、柿谷に向かっている間に電話連絡とかできるでしょ？　時間が有用に使えます」
　僕がそう言うと、シノさんも納得してくれた。
「そうだな・・・。じゃ、悪いけど」
　こうして僕たちは、共に柿谷酒造に向かうことになった。

　夜遅い時間ということもあり、高速道路は随分と空いていた。
　長距離トラックや高速バスがほとんどだ。
　助手席のシノさんは、田中さんに電話をかけた。　
　今度は捕まったようだ。
「 ── ああ、そうなんだ。今から柿谷に向かうから、明日の朝出社は難しいかもしれない。課長にはまた電話をかけてみるけど、一応繋がらなかったことも考えて、明日の朝、伝えてほしいんだ。朝一に電話で状況を報告するって」
　シノさんは、膝の上にノートパソコンを開いた。
　エクセル書類を開く。
　車内に、キーボードを叩くカタカタという音が響いた。
「薫風の次の出荷予定日は明後日だ・・・。都内の百貨店2店に合計50本、小売店用に50本・・・。だけど、うちの倉庫にある在庫は13本しかない」
「全然足りませんね・・・」
「ああ。本当なら夕べ柿谷で出荷準備をして、明日うちの会社に発送予定だった」
　シノさんは溜め息をつき、両手で顔を擦った。
「このまま薫風の納期をすっぽかすことになったら、他の柿谷の品を扱ってもらえなくなるかもしれない」
「確かに、在庫管理ができないようなところとの取引は、どこも嫌がるでしょうからね。それに、柿谷だけじゃなく、加寿宮にも影響があるんじゃないですか？」
　僕がチラリと一瞬シノさんに目をやると、シノさんはまた溜め息をついて、二、三度頷いた。
「 ── そうだな・・・。いきなり取引停止にはならないと思うが、それなりの対応を考えておかなきゃならないだろうな・・・」
　シノさんは、再度川島さんに電話をかける。
「・・・ダメだ、川島出ないな・・・。何やってるんだ」
　僕はその声を聞きながら、無性に嫌な予感がした。
　川島さんって、シノさんの同期の人らしいけど、田中さんからは余りいい話を聞いたことがない。そもそも、あの写真週刊誌にシノさんの個人情報を売ったのは彼だ。シノさんは川島さんを信頼しているんだろうけど、悪いが僕はそう思っていない。 ── 僕の嫌な予感が当たらなければいいが・・・。
　僕は、アクセルを踏む足に力を込めた。

　高速を降りると、途端に街灯の灯りが少なくなった。
　柿谷に至るまでの道は温泉街になるのだが、今はシーズンオフの時期にあたるのか閑散としていた。
　高速を降りるまでに、シノさんは課長と先輩社員それぞれに連絡がついた。
　課長は上の幹部社員に事態を報告し、先輩社員は会社倉庫に向かい確実な薫風の在庫確認を行うことで手はずがついた。田中さんは引き続き、川島さんに連絡を取ってくれることになったらしい。
　ほどなく車は柿谷酒造に到着した。
　車が駐車場の砂利を踏む音を聞きつけて、酒蔵の社員が駐車場まで飛び出してきた。
　時間はもう深夜の1時を過ぎていたが、駐車場から見える母屋や蔵の方には煌々と明りが灯っていた。
「ああ！　篠田君！」
　僕らが車を降りると、杜氏の一人斉藤さんがほっとした顔つきでシノさんを見た。
　そして、僕も一緒に来たことに少し驚いた顔をして不思議そうに僕を見たが、だがすぐに笑顔を浮かべてくれた。
「おお！　成澤くんじゃないか！　久しぶり！」
「お久しぶりです」
「今日はまたなんで？」
「たまたま一緒にいたんですよ。僕が車を持ってたので、必然的に」
「ああ、そうかねぇ～、そりゃ悪いことしたな」
「それより斉藤さん、倉庫は・・・」
　シノさんが声をかけると、斉藤さんは苦々しい表情を浮かべた。
「倉庫はからっぽや。どこを探しても薫風は一本も残っとらん」
　斉藤さんと連れ立って酒蔵に入ると、中には柿谷酒造の社員数人と柿谷の親父さん、奥さん、娘さん夫婦が揃っていた。
「ああ、俊ちゃん、来てくれたんやねぇ」
　奥さんもシノさんの姿を見て、ほっとした表情を浮かべる。
「あら、成澤さんも？」
「ええ。運転手が必要だったもので」
「それはすまんかったねぇ」
　奥さんが僕の腕に僅かに触れた。僕も応えるように、彼女の手を握った。
　その間に、シノさんは倉庫の中を覗き込んだ。
　倉庫には様々な酒瓶が入ったケースが整然と並んでいたが、その中にモダンなデザインのあのラベルが貼られた瓶は確かに一本もなかった。
「本当にないですね・・・」
　シノさんがそう呟いて、こちらを振り返る。
「どうして、こんなことに・・・？」
　シノさんの問いかけに、奥さんや社員達が気まずそうに顔を見合わせた。
　柿谷の親父さんは厳つい顔を更に厳つくして腕組みをしたまま、微動だにしない。
　その雰囲気に僕は微妙な空気を感じ取った。　　
「ひょっとして・・・心当たりがおありですか？」
　僕が思わずそう尋ねると、その場にいた誰もがまた顔を見合わせた。
　さすがのシノさんも、その微妙な空気を感じ取ったらしい。
「え？　あるんですか？！　心当たりが」
　シノさんの大きな声が、深夜の酒蔵に響き渡る。
　柿谷の娘さんが重い口を開いた。
「夕べ倉庫を最後に確認したのは、征夫と川島さんなのよ」
「川島？！」
　シノさんは心底驚いた声を上げた。
　シノさんは考え込む。
「でも、確か川島は、昨日別の酒蔵を回る予定になっていたはずなんですが・・・」
　シノさんは、ハッとした顔をして携帯を取り出すと、タップをした。
　すぐに電話が繋がる。
「夜分遅く申し訳ありません、加寿宮の篠田です。 ── はい。そうなんです。そこを確認したくて。ええ・・・、はい・・・。ああ、やはりそうですか。はい。申し訳ありません・・・」
　シノさんが電話を切る。
「本当は昨日行くはずの酒蔵に、川島は行ってませんでした」
　僕の心臓がチリチリとし始める。
　やはり、僕の嫌な予感が当たりつつある雰囲気じゃないか？　これは。
　シノさんと僕は、同時に周囲を見回した。
　多分考えていたことは同じ。
　ここにはもう一人のキーパーソンがいない。
　僕ら同時に、次の瞬間こう言っていた。
「それで、征夫さんは？」
　僕らの声が、虚しく酒蔵に響いたのだった。

　

here comes the sun act.54 end.

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