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nothing to lose title

act.50

<side-SHINO>

 帰りはタクシーは使わず、千春の仕事場まで歩いて帰ろうということになった。
 少し距離はあるけど、歩けない距離じゃない。
 俺は、店を出てからずっと千春のトラウマって結局なんだったんだろうと考えていて、ようやく思い当たった。
 というか、なんでそんな簡単なこと、思いつかなかったんだと自分の鈍感さ加減が嫌になった。
 あの店はきっと、千春の小説に出ていた店だ。
 そう、千春と付き合い始める前、千春の本心を知るきっかけとなった『All You Need is Love』という小説だ。
 その中に出てくるとあるバーで、主人公は昔の彼と知り合い、またそこで昔の彼と彼が連れていた妻に傷つけられたのだ。
 ひょっとして・・・というか、多分、溝渕さんのお店が、その店だったんじゃないか?
 そのことに思い当たった俺は、思わず足を止めた。
 千春は二、三歩進んだ後、怪訝そうに俺を振り返った。
「どうしたの、シノさん? 悪酔いしましたか?」
 心配げにそう訊いてくる千春に、俺は言った。
「あのさ・・・、ひょっとしてあの店、小説の中に出て来た店?」
 俺は具体的に小説のタイトルは言わなかったが、千春にはすぐ、俺が言っていることがわかったようだ。
 一瞬千春は複雑そうな・・・躊躇っているような表情を浮かべたけれど、すぐに微笑みを浮かべた。
「ま、もういいじゃないですか、それは」
 千春はそう言いながら肩を竦めた。
 それを聞いて俺は、何とも言えない気持ちになった。
 確かに今更その時のことを掘り起こして千春が辛くなるのは嫌だという気持ちと、それでもその時の気持ちをちゃんと聞きたいと思ってしまう自分と。
 そんな思いが全て表情に出てしまっていたらしい。
 察しのいい千春は、眉を八の字にして、困ったなぁといったような苦笑を浮かべた。
「ヤダなぁ、シノさん。そんな顔しないでよ」
「ごめん」
 反射的に謝ると、千春は軽く溜め息をつきながら、「そういうことじゃなくて」と近づいて来て、俺の頬に触れようしたけど、不意に周囲に目をやり、その手を下げた。
 遅い時間とはいえ、繁華街だから周囲にはまだ通行人がいて。そして千春はきっと、まだ写真週刊誌のカメラを気にしていた。
 俺は・・・というか俺達が表立って互いの頬にも触れられないのかという別の辛さも込み上げてきて、俺は胸の中がギュッと押しつぶされそうになった。
 道行く人達は俺達より身長が低い人達ばかりだったが、今ここで立ち止まって見つめ合ってる俺達の存在が、物凄くちっぽけなもののように感じられて。
 身体の底から「それは違うんだ」と叫びたくなった。
 俺は本能的に千春の手を握ると、また再び歩き始めた。
「シ、シノさん!」
 千春は焦った声をあげたけど、別に構うものか。
 俺達は、愛し合ってるんだ。それの何が悪い。
「シノさん」
 千春がはっきりと抵抗を示すような声色で俺の名を呼んだので、俺は再び立ち止まって千春を見た。
 千春は俺の顔を見て、珍しく弱気な表情を浮かべた。
 俺が、思い詰めた顔つきをしていたからかな。
「シノさん・・・」
 今度は弱々しく千春が俺の名を呼ぶ。
 俺は千春を真っ直ぐ見つめたまま、握っていた手を更に指を絡ませて繋ぎ直した。
 所謂、『恋人繋ぎ』ってやつだ。
 それが俺の返事だった。
 俺は、再び千春を引っ張るようにして歩き始めた。
 今度は、千春も何も抵抗の声を上げなかった。
 そして、俺の手を握る彼の手にギュッと力が込められるのを感じた。
 俺が千春の方を振り返ると、千春も意を決めたのか、少し照れ臭いというかはにかんだ表情を浮かべ、歩く足を速め、俺の隣に並んで足並みを揃えてくれた。
 なんだか俺はホッとしてしまって顔が緩んだのが自分でもわかったが、間髪入ず千春から「だらしない顔」とツッコまれてしまった(汗)。
  ── 相変わらず、ドS王子・・・。手厳しい・・・。
 それでも、手を繋いだまま歩いていると、ふいに千春が口を開いた。
「確かにあの店で、吹越さんと再会したんです」
 チラリと俺が千春を見ると、千春はまた少し肩を竦めた。
 そのまま歩き続けながら、千春が先を繋げる。
「吹越さん、奥さんと一緒に来てて、奥さんは僕のことを全く知りませんでした。・・・まぁ、当然でしょうけど。 ── その奥さんにただの昔の知り合いのように吹越さんから紹介されたことがショックで・・・。なんというか自分の存在がすごく汚されたように思ったし、恥ずべき存在だということを痛感させられもして、冷静さを失ってしまった。そこに奥さんから姪御さんを今度紹介したいと言われて我慢ができなくなって、吹越さんとの過去をバラしてしまったんです。それはもう最悪な表現で。まぁ、そこら辺の顛末は、小説に書いた通りですが・・・。今でも、とても後悔しています。あのような形で吹越さんを傷つけてしまったことに。その後、あの二人がどうなったかは知らないけれど、僕は罪深いことをしてしまった」
 千春はそこで、言葉を一瞬止めた。
 俺は握る手に力を強めた。
 千春が、フッと息を吐きながら笑う。
「許されるなら、謝りたいと思っています・・・。ただ、そういう機会があるとは思えないことと、再び彼の前に立つ勇気があるかどうか、自分でも自信がありませんが。 ── シノさん、僕がこんな人間で、ごめんね」
 千春のその表情は、泣き笑いのように見えた。
 俺も何だか鼻の奥がツンとして。
 俺は再び、歩く速度を速めた。
「シノさん?」
「 ── 早く・・・早く家に帰ろう」
 早く家に帰って、千春を抱きしめたい。
 決してエッチな意味でとかそういうことでなく、誰にも邪魔されない場所で、誰の目も気にしないところで、早く千春をぎゅっと抱きしめ、千春の辛い気持ちをこの俺の身体で吸い取りたかった。そう、溢れた水の上にティッシュを被せた時みたいに。


 ようやく千春の仕事場に辿り着くと、玄関のドアが閉まったなりに俺はカバンを放り投げて、早速千春をぎゅっと抱きしめた。
「ちょっ、シノさん」
 千春もまさかすぐに抱きしめられるとは思っていなかったんだろう。
 ちょっと面食らったかのような声を上げた。
 俺があまりに力任せに抱きしめたので、千春は声を出してハッハッハと笑うと、「シノさん、全力過ぎる」と声を上げた。
 思わず俺は、腕の力を緩める。
「ごめん、痛かった?」
「そりゃシノさんの腕力で全力出されると、抱きしめられるというよりは、柔道技で締められるってイメージです」
 千春は笑っていたが、その目は「ちったぁ加減しろ」と仰せになっているようで、俺は再度「ごめん」と謝って腕を放した。
「全く、ムードも何もないですね、僕の旦那様は・・・」
 千春がそう言いながら、俺の鼻筋を指で辿る。
「旦那様?」
 俺が聞き返すと、千春は唇を尖らせて、小さく「うん」と答えた。「まぁ、今のところは、旦那様・・・でしょ?」と更に質問で返される。
 確かに、炊事洗濯掃除はほとんど千春にやってもらってるし、夜の生活も俺が千春を抱く形でしかしたことないから ── 一回立場が逆転したことはあるけど、最後までしなかったし ── 、俺は完全無欠の『旦那様』でしかなく。
 俺が考え込んでいるのを不安に思ったのか、「あれ? 旦那様って言い方が嫌だった? もしかして」と千春が訊いてくる。
「まぁ、確かに僕ら結婚してないし、旦那様って言い方は・・・」
「千春、そうじゃないよ」
 珍しく千春が間違った解釈をしていたので、俺は千春の言葉を止めた。
「旦那様って言われるのは嫌じゃない。ただ、立場というか・・・、役割が偏っているのがフェアじゃないかなって思ったんだ。いつも、家事全般をしてもらってばかりだし、夜だって・・・」
「家事のことについては問題ないって前にも言ったでしょ。僕は家事が得意だし、時間もある。シノさんは仕事が忙しいし、家事はヘタ。誰がどう見たって、僕がやった方が合理的じゃないですか」
「ヘタって・・・・」
「事実です」
 ピシャリと言われてしまう。
 俺は両手で顔を覆って天を仰いだ。
  ── ああ、俺ってダメ人間・・・。
「だから。何度も言うようだけど、シノさん家事ができなくてもダメだなんて思わないでください。そんな人は世の中に五万といます。だからって、その人達の存在が全員ダメってことにはならないでしょ?」
「そうだけど・・・」
「シノさんには、シノさんのできることをしてくれてたらいいんです」
「俺のできること?」
「ええ」
「それって・・・」
「1に、一生懸命仕事をすること。 ── 僕はシノさんが仕事をしている時の姿が好きです。2に、時々僕に笑顔を見せてくれること。 ── 僕は意外にあなたのバカ笑いしてる時の声を気に入っています。3、靴を履いたまま、家に上がらないこと。 ── 会社に遅れそうだからと言って、土足で鍵を取りに行くのはやめてください。はっきり言って、あれは汚な過ぎます。4、歯磨き粉のチューブの真ん中を押して歯磨き粉を出すのをやめること。 ── 歯磨き粉がキレイに使えないのは腹が立ちます、それから・・・」
 最初はウンウンと頷いていた俺も、なんだか後の方にいくに従って、首を捻るような方向の話になってきた。
 これって、そんな細かい話してたっけ・・・?
 案の定、また俺は目を白黒させていたようだ。
 千春は、ふいにプッと吹き出した。
「シノさん、大丈夫? 脳みそ、沸騰してない?」
「沸騰してるよ」
「ま、三つ目ぐらいからは半分冗談ですけど」
 半分は、本気なんだな。
「まぁ、細かいことはその都度僕が言ってますし、今後も言いますから、今覚えなくってもいいです」
 よかった・・・。
「ただ、ちゃんとしてほしいのはひとつだけです」
「何?」
 千春は両手で俺の頬を優しく包むと、本当に美しい笑顔を浮かべて、こう言った。
「僕を全力で愛してくれること。 ── 僕にはとても追いつかないような素晴らしい情熱をあなたは持っています」
 俺は、千春にキスをした。
 それだけは、自信を持って約束できると思ったから。
 千春も、情熱的なキスを返してくれる。
 そうやってしばらく激しいキスを繰り返していたら、身体中に千春に対するいとおしさが込み上げてきて、俺は咄嗟にこう囁いていた。
「 ── 今日は千春が・・・最後までしていいから・・・」
 それは、さっき千春が挙げなかったことで、俺にできる・・・そして俺がまだしていない唯一のこと。
 前にもそう切り出したことはあったけど、その時は病気だったから、千春がうんと頷いてくれなかった。
 でも今日は。今日なら、きっと大丈夫。
 俺が仕事でつまづいた時にずっと何も言わず支えてくれたことや今夜千春が辛い心の傷を見せてくれたことに対する、俺の感謝の気持ち。それを表現するには、そうすることが自然なことのように思えたんだ。
 人から見れば、そんな感謝の気持ちを身体で支払うのかって思われるかもしれないけど、そうすることで千春のすべてを受け入れることができそうだと俺は感じたから。
 千春は驚いた顔をして、俺を見た。
「無理してない?」
 俺は首を横に振った。
「ホントに?」
 再度そう訊かれ、「・・・本音言うと・・・どうなってしまうのか、少し、怖いけど・・・」と答えると、千春はクスッと笑った。
 このまままたダメの判定を受けそうだったので、俺は慌てて「でも、千春と全てを分かち合いたいと思ったんだ!」と言葉を繋げた。
「今、本当に自然に、そう思えたんだ」
 なんか、子どもじみてるかな、俺。
 だって千春は、まるでお母さんのような優しい表情を浮かべて、俺を抱きしめたんだ。
 千春を抱き返しながら、やっぱり今日もダメ判定なのかなぁと思っていた俺に、千春は耳元で囁いた。
「 ── なるだけ、優しく、痛くないようにしますね」
 その台詞に、身体の奥底がドクリと鼓動した。

 

here comes the sun act.50 end.

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編集後記

大人シーンまで書けなかった・・・(汗)。すみません。そこまでの馬力はなかった。でも、次週、ついにシノさん、ロストヴァージンでございます!
なんか、もうその時が来たって国沢的に判断しました。
先週分をアップした時は、そんなこと考えていなかったけど。この一週間の間に、そう思えてきたので。

今週一週間は、生と死について考えることが多い一週間でした。
きっかけは三浦さんのチョモランマ登頂だったんだけど、そのニュースを聞いて、以前見たダウラギリ登頂のドキュメンタリー番組を見たことを思い出したんですね。登山家・竹内氏の。
その番組は、日本人で初めて8000mを超える14座の山全てに登頂する最後の挑戦の様子を淡々と追った番組で、たまたま見た番組だったけど、凄く感動したことが思いに残っていました。
日本人登山家は、昔から優れた能力の方がたくさんいたにも関わらず、なぜか10座の壁というのがあって、皆10座を迎える時に遭難死されていて、それを超えるというのは、日本人登山家の悲願だったし、精神的にも肉体的にもとても難しいことだった。それを淡々と粛々と挑戦していく姿が印象深かったものです。
そしてその後、女性の登山家が丁度そのダウラギリで遭難したニュースを聞いて、ますます思いがそこへ飛んでしまった訳です。
高所登山って、本当に人生の縮図というか、あれほど生と死を突きつけられる場所というか行為はないな、と。

8000mくらいで遭難すると、まず遺体は収容されません。
ヘリコプターはホバリングできない高度だし、収容する側の人間の生命が危険に晒される世界だからです。
だから、遺体は半永久的に腐ることなくその場に残される。(寒さと乾燥で微生物も生きにくい世界で分解されないから)
エベレストには、今だにエベレストを初登頂したかもしれないというイギリス人登山家の遺体が、まったく腐らず、遭難した時のそのままの姿で89年の時を経て存在しています。
外国の人は、死んだら遺体はただの肉だと考えることが多いらしいけど、日本人の国沢としては、やはりまだ思いがそこに残っているように思えて、きっと彼は未だに、その場所で自分の奥さんのことを思い続けているように思えたんですよねぇ・・・。「帰れなくて、ごめんね」って。彼は、登山する時に奥さんの写真を持って、頂上に彼女の写真を置いてくるような人だったそうですから。
彼の遺体は、滑落時に斜面を滑り落ちるのをとどめるための姿勢をとったままだったから、きっと最後まで生きて帰ろうと思っていたと思うんですよね。
それが今や、その願いは適わず、奥さんも子どもも亡くなって、土にかえってしまっているのに、彼の肉体はまだそのまま存在している。
8000mを超える世界って、時間が止まるというか、孤独の極みというか、そういうとてつもない世界なんだって思った訳です。
そう思ったら、シノさんと千春が互いに思っている気持ちって、本当に大切というかよすがというか、大事にしなければならないものなのだなぁと余計感じることができました。生憎と国沢はまだシングルで、そういう相手がいないので、シノさんと千春で気持ちを代弁です(笑)。
それがどうしてシノのロストヴァージンにつながるんだって言われそうですが、なんだかそう思ってしまったんですよね(汗)。なぜだか分かりませんが。
久々に長々と変なことを書いてしまいましたが、いろんなことを考えた一週間でした。ではまた。

[国沢]

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