act.55
<side-SHINO>
百合枝さんに案内されて入った征夫さんの部屋は、一見すると綺麗に片付いているただの部屋という感じで、パッと見、どこかに変な様子があるようには見えなかった。
俺が疑問符を浮かべながら百合枝さんに目をやると、百合枝さんは溜め息を吐きながら、こう言った。
「デスク周りの棚に趣味で集めてあったフィギュアが全部なくなっとるんよ。それに・・・」
百合枝さんがクローゼットを開ける。
中を覗き込むと、空っぽだった。
衣類が根こそぎなくなっている。
「液晶テレビもノートパソコンもなくなってる。多分、征夫は家を出て行ったんやね」
「そんな・・・どうして・・・?」
「そんなのは本人に聞かんとわからんけど・・・。夕べは征夫と川島さんが一生懸命在庫チェックと発送準備をしてくれているものとばかり思っとって、征夫も後は自分達がやっとくから、皆先に休みやーって・・・。このところ川島さんとお得意様開拓の営業に出かけたりしてくれてたから、父ともやっと跡継ぎの自覚が出てきてくれたって喜んでた矢先だったんよ・・・」
百合枝さんはそう言いながら、少し顔を顰めた。
その表情は、沸き上がってくる涙を必死に堪えているように見えた。
「じゃ、じゃぁ、薫風も征夫さんが全部持って行ったと・・・?」
俺がそう訊くと、百合枝さんは唇を噛み締めた。
「多分、ね。その可能性が高いと思う」
おそらく、この状況だと征夫さんの行いに川島が手助けしているのは確実のようだ。
そうでなければ、あれだけ在庫があった薫風を運び出すことはできないし、会社に報告もなく営業周りのコースを変え、柿谷に固執していたことも合点が行く。
── 川島が電話に出ないのは、出れないのではなく、出ない、ということなんだろう・・・。
「なんでだ・・・川島・・・」
俺は全身が鉛の固まりのように重く沈んで行くような錯覚を覚えた。
こんな事態を招いたのは、柿谷だけの責任じゃない。
加寿宮側にも責任がある。
これはおそらく、征夫さんと川島の間で「そうする」と決めたことなんだ。
俺達は一旦、事務所に戻った。
事務所には、親父さんと奥さん、百合枝さん夫婦の他に杜氏の広山さんと斉藤さん、経理・総務の山本さん、若手社員の磯田君が残っていた。
「部外者の僕が言うのもなんですが・・・。もし本当に二人が薫風を持ち去ったとして、どうされるおつもりですか?」
ショックを受けて思考が停止していた俺に代わり、冷静な表情の千春がテーブルを囲む面々を見つめながら、第一声を上げた。
だが、この場面では返って千春のような立場の人がこうして仕切る展開になったのはよかったのかもしれない。
そうでないと、永遠に重い沈黙が続いていくだけのように思えた。
「二人の行き先に、心当たりはありますか?」
千春の質問に、誰もが首を横に振った。
「征夫君の携帯はもちろん繋がらないし、征夫君の友達にも連絡してみたけど、手がかりになるような話は聞けませんでした」
百合枝さんの夫である和人が答える。
千春は、俺の方を見た。
「シノさんも、川島さんが行きそうなところに心当たりはないですよね?」
「あ、ああ・・・。あれだけの在庫を持って行くからには、瓶の保管にある程度の広さの場所が必要だと思う。それを考えると、川島の自宅では到底無理だ。それにトラックに乗せっぱなしだと品質が確実に低下することぐらい、征夫さんや川島ならわかっているはずだと思うから、絶対に保管場所をまずは確保してからの行動だと思う」
俺がそう答えると、千春はフゥ・・・と息を吐いた。
「どこかの貸し倉庫などを借りているのかもしれないですね・・・。いずれにしても、行方は追えないか」
千春の吐息を合図に、その場にいた全員が同じように溜め息をついた。
しばらくの沈黙が続いた後、百合枝さんが俺を窺うように見た。
「あの・・・、それで次回の薫風の納品がダメになった場合は、一体どうなるんやろ・・・? うちはともかく、篠田君んとこは・・・」
俺は少しだけ笑った。
「それは、気にしないでください。我が社にも責任の一端はあるんですから」
俺がそう言うと、俺の左隣に座っていた親父さんが唸り声を上げた。
「こんな時に気ィ使わんでええ。どうなるかはっきり言ってくれ」
真摯な目をしていた。
やはりこの人は、そういう人だ。
「まずは納入先に在庫切れを伝えます。ただ今回は一時的な在庫切れでなく、来年の冬、新しく酒を仕込むまでこの状態が続きますので、今回の納入先はおろかオンライン販売や今後の納入予定先の小売店にもお伝えしなければなりません。むろん、弊社としてその穴埋めに対するフォローはしますが、果たしてそれで納得するかは、納入先の判断に任されます。最悪の場合、柿谷の他の銘柄の売り上げにも影響が出てくるかもしれません」
「それってことは、加寿宮の取引にも迷惑がかかるっちゅう訳か」
親父さんにそう訊かれ、俺は素直に頷いた。
隠し立てしても、すぐ見透かされるだけだと思ったからだ。
「取引はやはり信用から成り立っています。小売店鋪の中には、薫風を販売戦略の目玉に持ってきてくれているところもある。そういうところは、お客様に対して告知もしています。弊社への迷惑というより、やはり百貨店や小売店の販売計画に影響が出ます。特に百貨店は納入競争が厳しい業態ですから、ひとつのミスが命取りになる場合もあります」
「なるほど・・・、そうか・・・」
親父さんが頷く。一方、奥さんと百合枝さんは不安そうに俺と親父さんの顔を見比べていた。
直に百合枝さんが泣き始める。
「 ── ほんっとにもう! あいつ、何考えとんの・・・」
百合枝さんは、握りしめた拳で自分の脚を何度も叩いた。
「折角・・・折角、篠田君らが頑張って盛り立てて来てくれたのを、こんなことで反故にしてしまって・・・!! アタシ、悔しいっ・・・! こんな盗人みたいな真似・・・!」
「おい、百合枝」
和人さんが百合枝さんを宥める。
「でも、そうでしょ? うちだけならともかく、篠田君の会社にだって迷惑がかかるんよ? こんなん、泥棒と一緒じゃ」
「まぁまぁ・・・落ち着いてください・・・」
俺がそう言う横で、腕組みをしたままの親父さんが重たい声で言った。
「あいつを警察に訴える」
「お父さん!」
奥さんが大きな声を上げる。周囲の従業員が皆腰を浮かした。
「ここまで人様に迷惑をかけるヤツは、息子でもなんでもない」
「お父さん・・・」
さすがの奥さんもその発言にはショックを受けたらしい。
みるみる目に涙が浮かんでいく。
俺は立ち上がった。
「ちょっ、ちょっと待ってください!」
皆が俺の顔を見る。
俺は大きく息を吐き出した。
「まだその判断を下すのは早いんじゃないでしょうか」
「そうですね」
俺の声に追随するような形で、千春が口を開いた。
誰よりも知的で冷静な声に、その場の空気が縋るように千春に傾いた。
「シノさんの言う通り、その判断はまだ早いのではないでしょうか? 誠意を持って謝罪すれば、わかってくれる取引先もあるでしょう。まだ全てがダメになった訳ではありません。取り敢えず、今は彼らがどこに行ったかを突き止めるのが先決です。うまくすれば、薫風を取り戻すことができるかもしれない。いずれにせよ、彼らは薫風を持っていってるんですから、それを売る気なのでしょう。その動きがあれば、そこは加寿宮の流通ネットワークや柿谷さん独自の業界の付き合いなどに引っかかってくるのではないでしょうか」
千春にそう言われて、皆が「なるほど」となった。
皆、頭がいっぱいになっていて、薫風が『転売される可能性がある』ということにまったく気がついていなかった。
── さすが、千春。頭いいな・・・。
その場にいる誰もが、そのような思いのこもった瞳で千春を見つめた。
よし。でもそうとなったら、今からでも会社に返って流通ルートに声をかける算段をした方がよいのかもしれない。
俺は、傍らに置いていた上着を掴んだ。
「これから会社に戻ります。流通ルートへの根回しと卸先への対策をなるべく早く検討した方がいい。どうなるか方針が決定したら、またご連絡します」
和人さんが頷いた。
「わかりました。こちらでも引き続き、手がかりがないかどうか調べてみます」
さっきまで重々しかった空気に、少し希望の光が射してきた。
俺は千春と視線を合わせると、うんと頷き合った。
帰りの車の中。
俺は一通り課長に電話で事態の流れの報告を済ませると、電話を切った。
街灯の赤みがかったオレンジ色の光が一定のリズムで過ぎ去っていく。
俺は、運転席の千春を見た。
千春は、ただ黙ってハンドルを握っている。
その端正な横顔は、過ぎ行く明りに照らされて美しく闇に浮かび上がる。
千春はいつだって、俺のピンチを救ってくれる救世主だ。
こんなに素晴らしく聡明で才能のある彼に、世界中の誰もが俺の敵になろうとも彼だけは俺の傍にいてくれると言ってもらえるなんて、俺は本当に恵まれている。
この先、誰になんと言われようと、俺達は何も間違ってはいないよな。
「 ── ありがとう」
俺は千春にそう声をかけた。
千春は「ん?」と返事しながら、少しだけ俺を見て、またすぐに前を向いた。
「どうしたんです? 改まって」
「いや・・・。千春がいてくれなかったら、本当にどうしていいかわからなかったからさ」
千春は苦笑いをする。
「それは僕が一番客観的な立場にいたからですよ。僕だって渦中の人間だったなら、冷静に考えられていたかどうか」
「いや、それを抜きにしてもさ。俺のことをここまで支えてもらえて、俺は幸せ者だ」
千春はクスクスと笑った。
「そんな殺し文句、正々堂々と言えるあなたは、やはりプレイボーイですね。僕も精々、あなたが他の人に盗られないように気をつけなくては」
「そ・・・! そんなの、絶対ないよ」
「そうですか? シノさんは自分のこと、本当によくわかってないからな」
「えぇ? そうか?」
「ええ。だってシノさん。僕がこうまでしてしまうのは、『あなただから』ですよ。支える相手がシノさんだから、僕はこうせざるを得ないんです。あなたがどんな時も、どんな苦しい立場になっても一人で受けて立つ覚悟を持っている人だから・・・。だから人は、あなたに迷いなくついて行けるんですよ」
千春に淡々とそう言われ、俺は胸が熱くなった。
── 本当に俺、そんなに素晴らしい男なのかな?
心の中では到底自信なかったけど。
でも千春からそう言われ、とても嬉しかった。
here comes the sun act.55 end.
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編集後記
今日、国沢の従兄弟が天に旅立ちました。
自分より六つも若い彼でした。
突然訪れる死という者が周囲に与えるショックは、準備ができていないだけに大きいです。
彼は晩年・・・といっても三十代前半になりますが・・・はあまりよい人生とはいえなかっただけに、彼の人生の意味はなんだったんだろうと考え込んでしまいました。
人生、長い短いに関わらず、「この人となら」という人を得られるかそうでないかで人生の充実度は違うんだと思います。
まぁ、かくゆう国沢も、そんな人にはまだ巡り会えてないわけですが(汗)。
その点、シノさんと千春は、「出逢えた」んだなぁと思います。
彼らは男同士で、むろん困難なことも多いわけですが、それでも「人生この人なら迷いなく暮らして行ける」という伴侶を得られたのですから、それを考えると男同士による弊害は小さきことなのかもしれないな・・・と。
そう思った次第です。
まぁ・・・、当事者でない国沢が言うことではないのかもしれないし、当のシノさんと千春は架空の人物なので、国沢のさじ加減で何とでもなる訳なんですけれども・・・。
まぁ・・・。
いろいろ考えてしまいます。
[国沢]
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