act.58
<side-SHINO>
川島の退職届は、封がまだ切られていなかった。
俺は封筒を手にしたまま課長を見ると、課長は促すように手を差し出した。
課長は封筒を受け取ると、ハサミで封を切って中身を取り出した。
三つ折りにされていた白い便箋を広げ、中身を読むと、俺達の方にそれを向けた。
そこにはありきたりな文面で、『一身上の都合により、退職致します』と書かれてあった。
それ以上、何の情報もない。
「なんじゃこりゃ」
手島さんは軽い口調でそう言ったが、俺や田中さんは陰鬱な表情でそれを見つめた。
少しの間の後、田中さんがぐずりと鼻を鳴らす。
「こんな最後なんて・・・。悔しい」
そう言って泣く田中さんの姿が、柿谷の百合枝さんと重なった。
柿谷にしろ加寿宮にしろ、受けたダメージは一緒だということなんだろうな、と思う。
「ねぇ、篠田さん、そう思いますよね」
涙声の田中さんに見つめられる。
── 俺は・・・。俺は・・・・。
<side-CHIHARU>
お昼にシノさんと同僚クンにおむすびをごちそうした後、僕は出版社数社合同で行われる若手作家のレセプションパーティーに出席するため、仕事場を出た。
いつもならそんな集まりなどお断りするのだが、岡崎さんに頼み込まれてしまって断れなかった。
それに、パーティーにはマンションリフォームにも詳しい雑誌を発刊している編集者も来るとのことだし、この際実益を兼ねてしまおうという腹づもりが僕にはあった。
会場のホテルは、幸いにも仕事場のすぐ近くにあった。
歩いてホテルまで行くと、ホテルの入口で従業員が僕の顔を見るなり「こちらでございます」と案内をしてくれた。
僕はグレイのカジュアルスーツに黒ブチの伊達眼鏡だったが、あまりカモフラージュにはなっていなかったらしい。
ホテルの中は、きらびやかで上質なざわめきに埋め尽くされていた。
久しく感じたことのない感覚に、なぜか僕は複雑な気分になった。
シノさんと付き合い始めてすっかりこういう世界に縁遠くなっていた僕は、もはやこういう世界に何の魅力も感じなくなってしまっていた。
以前は、こんな世界が僕の全てだったんだ。
── なんてちっぽけな世界。
僕がそんなことを言うと、シノさんはまた『僕の世界を自分が奪ってしまった』と言うだろうか・・・。
そういえば、シノさん大丈夫だったのかな?・・・あの後。
昼間は、本当に疲れた顔をしていた。
睡眠不足もあったのだろうが、あれはきっとメンタル的なショックも少なからず影響してるはずだと思った。
昼寝をしてもらって幾分はマシになったものの、決して本調子じゃないような顔つきをしていた。
でもああいう顔つきをしている時って、本人はよくわかっていないんだよな。自分の受けているダメージがどれほどのものか。特にシノさんは弱音を言わない人だから、余計心配だ。
今晩はどうしようかな・・・。
疲れて帰ってきたシノさんをどう出迎えようかと考えあぐねていたら、「澤先生~!」と黄色い声に呼ばれた。
僕がパーティー会場の入口でぼんやり立ち尽くしていたのを、中の人達に発見されてしまった。
以前雑誌の対談で一緒になったことがある同年代の女性作家・有森一美が、僕の腕を引いて輪の中へと引っ張って行く。
「わ~、澤先生、お久しぶりですね~」
「ホントに~」
あっという間に女性作家に取り囲まれてしまった。
会場内では、丸テーブルにオードブルやワインが並べられ、広い会場のあちらこちらで人が集まって話をしていた。
パーティーの始まりの挨拶は既に終わっているらしく、会場内は盛り上がっていた。
「最近、あまりこういう場でお姿見なくなったから、今日会えたなんて私達ラッキーだわ」
グラスを持たされ、スパークリングワインをなみなみと注がれる。
僕は思わず、目で岡崎さんの姿を探した。
── ああ、全然岡崎さん、見つからない。ピンチだな、これは。
しばらくこういう世界から離れていたせいか免疫がなくなってしまって、彼女達のパワーに押されてしまう。
女性陣の華やかなテンションに全くついていけず、ここからどうやって抜け出そうと思っていると、背後から明らかに冷たい温度の女性の声が投げかけられた。
「もう作家やめた方がいいんじゃないの? 澤清順大先生」
その声に、その場の華やかな会話がピタリと止まった。
振り返った。
僕よりデビューが二年早い若手作家・坂井菊だった。
以前の僕と同じような、世の中を風刺した刺のある作風で知られた女流作家で、僕の作品とよく比べられることが多い。夜の世界で生きる女性を題材にした作品が多く、僕の夜遊びのテリトリーと彼女のテリトリーが重なることも多かった。儀市とも共通の友人としてつながっている。
同じ作品賞にノミネートされたこともあり、彼女の作品はよく売れていた。
だからなのか、それとも帰国子女である彼女の特性がそうさせるのか、彼女の率直な物言いはいつも周囲に騒ぎを起こしていた。まさに昔の僕の女版だ。
「坂井さん、ちょっと失礼な発言じゃないですか?」
有森一美があからさまな嫌悪感を表に出してそう言ったが、坂井菊は有森一美を相手にするつもりは一切ないらしく、僕だけを見ていた。
「あなたの最新作読んだけど、まるで抜け殻ね。鋭い視点や刺激的な世界観も何もなし。お涙頂戴のラブストーリーなんて、陳腐だわ。 ── あ、そうそう。刺激的な要素と言えば、主人公がゲイってことだけか」
完全に無視される形の有森一美がヒートアップして坂井菊に食って掛かっていったが、彼女はまったくおかまいなしといった様子で僕だけを見ていた。
「あなたはもう自分のプライベートをただ切り売りするだけの私小説家に成り下がったのよ。そんな澤清順なんかいらない」
坂井の物言いに、有森だけでな周囲にいた他の作家も批難の声を上げたが、僕は「ああ、ついに来たな」という思いだった。
これまで、作風の方向転換がいい評価ばかりだった方がおかしかったのだ。
「あなた、クラブにも全然来なくなって、つまんない男になったって噂よ。しかも夢中なのは、しがないサラリーマンなんだって? そんな相手で芸術的感覚が磨かれると思うの?」
坂井菊が薄ら笑いを浮かべる。
元々が美しい造作をしているので、なかなか凄みがある。
彼女は、キーキーと騒ぐ周囲の作家や編集者を冷たくきつい一瞥で黙らせた。
「私達は、他の人間にはできないことを表現することができるの。それを保つためには、何かを犠牲にしてまでも己を高めるべきよ。あなたはそれができる人だと思っていたけど、がっかりだわ。毒牙を抜かれた澤清順なんて、何の魅力も感じない」
坂井菊は、僕の胸元を拳でドンと叩いた。
「あなたが落ちぶれて行くのは見たくない。辞めて。作家」
坂井菊は呟くようにそう言ったが、その声は僕の脳髄に直接響くような、まるでテレパシーのような声だった。
── 作家を、辞める、か。
なるほど、それも一理あるのかもしれない。
僕はシノさんに夢中でいる限り、昔のような作品は書けそうにない。
そして僕の人生の中で、シノさんを手放すという選択はない。
一流作家の道とシノさんとの生活。
両方手に入らないのであれば、選択するのはシノさんとの生活、一択だ。
確かに、坂井菊の言うように、生半可な気持ちで惰性的に作家を続けるのは、世の中に対して失礼なのかもしれない。
── 作家を、辞める、か・・・。
そのフレーズは、現実味を帯びて僕を支配した。
here comes the sun act.58 end.
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編集後記
今週も少ししか書けなかった(汗)。ごめんなさい。
先週、ご指摘をいただいて、辞表を退職届と修正をしました。なんでも、平社員は退職届とするものだそう。国沢、随分長い間社会人をしておりますが、世の中の常識、知りませんでした(大汗)。お知らせいただき、ありがとうございました。
その他にも、ちょいちょい設定の間違いとか誤字脱字の通報をいただいていますが、修正箇所を探し出すのに時間かかかり、ろくに直せておりません(恥)。ごめんなさい!
あと、足の具合をご心配いただき、ありがとうございました。
アーニカくリームをオススメいただいたりもして、早速購入してみたんですが、ドイツからの輸入ということで、本日到着しました(汗)。
へたしたら、足が治ってから届くんじゃないか・・・と思っていたのですが、今だに腫れが引かない部分もあるので、よかったです(笑)。
これからどれだけ効果があるか、ちょっと楽しみです!
皆様、くれぐれも怪我はお気をつけください・・・。
[国沢]
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