act.77
<side-SHINO>
── あれは薫風だったかもしれない・・・。
寺田の発言に、俺は驚きを隠せなかった。
椅子から立ち上がった俺に、寺田は「まぁ落ち着け。座れよ」と寺田本人がちっとも落ち着いていない声でそう言った。
再び椅子に座った俺の横で、寺田が荒々しく手帳のページを捲る。
「ええと・・・、どこにメモったっけ・・・」
「メモったって何を?」
「だから、ハセベさんの息子さんが買ったって言ってた相手の名前だよ」
寺田の話によると、その酒はオークションサイトで販売されており、同一のハンドルネームの出品者から同じ酒が複数出品されていたらしい。
ハセベの息子さんは、市場で見たことのない銘柄の日本酒だったので、興味本位で購入したとのことだった。
ハセベの息子さんは、あのリカーショップ・ハセベの跡取りだ。彼自身店の仕入れを手伝ったりしているし、支店の切り盛りも既に任されていたりもする実力者だ。
その彼が「ラベルを張り替えただけで転売された薫風かもしれない」と言っているのだから、信憑性は高い。
「ああ! あった、あった! nakano_iwakaze・・・だって」
「なかの、いわかぜ・・・?」
俺は考えを巡らせた。
頭の中でその瞬間、川島の実家で出くわした時、川島が車で走り去った映像が浮かんだ。
その車のナンバープレートは、『長野』。
「おい、寺田・・・、なかのって、ひょっとして長野県の中野市のことか?」
寺田が顔を顰める。
「俺に聞いたってわかるもんかよ。俺はお前みたいに全国津々浦々出張には行かないし。その長野県の中野市がどうした?」
「中野市は小さい街なんだけど、比較的古くからの造り酒屋が残っている地域なんだ。以前川島の実家でヤツと出くわした時、長野ナンバーの車に乗ってたからさ・・・」
「おいおい、それじゃ益々怪しいじゃないか」
「ああ・・・。でも岩風なんて名前の酒は長野では作られてないけどな・・・」
「まぁとにかく、そのオークションサイトを見てみようぜ。また出てるかもしれない」
「あ、ああ」
俺は、ブラウザを立ち上げて、寺田の言うオークションサイトを表示させた。
いろいろ検索してみたが、その日は問題の商品が出品されてはいなかった・・・。
翌朝。
俺は寝不足で頭をユラユラさせながら、会社に向かった。
とにかく、夕べ寺田からもたらされた情報を課長に報告しなくてはならない。
会社に到着すると、幸いなことに課長は既に出社していた。
「あ、篠田さん、おはようございます」
田中さんに明るく挨拶をされ、俺も「おはよう」と返したが、寝不足なのと例の問題に気を取られ、まるで生返事のような挨拶となってしまった。
そのまま課長の机に向かう俺の後を、何かを察した田中さんがついてくる。更に田中さんは、通りがかりの手島さんまで引っ張ってきた。
「課長、お話があります」
俺は夕べ寺田から聞いた話をすべて課長に報告した。
さすがの課長もかなり驚いた表情で聞いていた。
「まだ、確かなことは言えませんが、ひょっとしたら・・・」
俺がそこまで言い終わると、背後で手島さんが「あ! そういや!!」と声を上げた。
その場にいた皆が、手島さんの方を振り返る。
「篠田には詳しく言わずにいたが・・・。川島がテコ入れしようとして結果倒産した酒蔵、確か長野県の酒蔵だぞ」
「え? そうなんですか?」
「ああ。川島から、お前には余り詳細を言うなって口止めされてたんだけどさ・・・」
手島さんはそう呟きながら、自分のデスクに戻って、過去の手帳をひっくり返し始めた。
俺はさっきの手島さんが言ったことに、少なからずショックを受けた。
川島がなんとかしようとしていた酒蔵が倒産したことは知っていたし、川島の落ち込みぶりの酷さから詳しく聞けずにいたのは事実だったが、川島自身がその酒蔵のことを俺に言わないように口止めしていたことに驚いた。
── そうまでして俺を避けていたなんて・・・。
やはり俺は、川島にとって重荷でしかなかったんだろうか。
同期入社で、互いに苦労話を語り合い、飯も一緒に食いに行った。可愛い子が英会話スクールの受付してるからって言うんで、一緒に通ったこともある。俺が一方的に怒られることが多かったけど、それでも楽しく仕事をしてきた仲間だと思っていた。
俺は川島のことを唯一無二の存在だって思っていたのに、川島にとっては違っていたんだな・・・。
ぼんやりと立っていた俺の表情を見て、田中さんは何かを察してくれたらしい。
「 ── 篠田さん、大丈夫ですか?」
そう聞かれ、俺は「ん?」と田中さんに目をやった。彼女は再度、「大丈夫ですか?」と聞いてくる。
「うん、大丈夫だよ」
俺がそう答えると、田中さんは苦笑いした。
「篠田さんって、いつもそう答えますよね」
── 大丈夫じゃないくせに。
ふいに後ろで千春の声がしたような気がした。
田中さんの言ったことは、千春からよく言われていた台詞でもあった。
でも今は、千春に対しては「大丈夫じゃない」ってちゃんと言えるようになったんだ。
そう思うと、何だか身体の奥から力が湧いてきて。
俺は姿勢を正して田中さんに向き直ると、今度ははっきりした声で言った。
「大丈夫だよ」
と。
── うん。俺には千春がいてくれるから、大丈夫。どんなことがあっても、千春だけは味方でいてくれるから、俺は大丈夫。
そんな俺を見て田中さんはどう思ったのか。
でも次の瞬間、田中さんも笑顔で「そ? よかったです」と答えてくれた。
「あ、そうそう。やっぱり! 川島が関わっていた酒蔵、長野県中野市にあった小岩酒造だ」
手島さんが大きな声を上げる。
皆で顔を見合わせる。
誰もが考えていることは同じのようだった。
「限りなく黒に近いように思うな」
課長が皆の考えていたことを具体的に口にする。
「 ── 取り敢えず、通常業務の合間をみて、調べてみます」
俺がそう言うと、課長は俺の肩を叩き、「それはわかったが、あまり根を詰めないようにしろよ。お前、なんでもやり始めたら思い詰めるタイプだから」と言った。
「私も篠田さんのサポート、します」
田中さんがそう言ってくれて、その場はお開きとなった。
<side-CHIHARU>
「ただいまー」
トランクを玄関の内側に引き入れながら、大きな声でそう言うと、部屋の奥の方から「おかえりー」とシノさんの声がした。思わず自分の顔が綻んでいるのを感じて、僕は改めて顔を引き締めた。
もちろん、前のシノさんの家でも「ただいま」「おかえり」のやり取りはしてきたけど、やっぱり今とは状況が全然違う。だって今は、『二人の家』だから・・。
トランクを引いてリビングに入ると、そこにシノさんの姿はなかった。
「あれ? どこにいるんだろう・・・」
時間は夜の7時過ぎで、夕食は一緒に食べようとLINEで約束していたから、てっきりリビングでテレビを見ながら待っていてくれていたと持っていた。
僕は一先ずリビングに荷物を置いて ── 今回も柿谷の皆からたくさんのお土産物を貰ってしまった ── 、「シノさん、どこにいるの?」と声をかけた。すぐにシノさんから「寝室にいる」と返事が返ってくる。
寝室を覗くと、シノさんは床にスーツケースを広げて、出張に向けての荷造りをしていた。
「え? シノさん、出張? 今週は柿谷以外出張はないって言ってなかった?」
僕はシノさんの向かいに腰を降ろしながら、シノさんの荷造りを手伝った。
「ああ、それが・・・。急に明日長野に行くことになったんだ」
「長野?」
反射的に僕は聞き返した。
長野県はこれまでシノさんのテリトリーではなかったからだ。
シノさんは一瞬荷造りの手を止めると、「川島達の居場所がわかったかもしれないんだ」と言った。
── 川島・・・
もちろん、その名前を忘れた訳じゃないけれど、僕の中では既に随分と『過去の人』的な名前だった。
シノさんにしろ柿谷の皆にしろ、征夫さんと川島さんの起こした騒動を乗り越え、克服しようとしている段階だったからだ。
僕は一気に不安になった。
シノさんがまた、あの川島とかいう男に傷つけられるのではないかと思った。
「日帰り? それとも泊まりになるの?」
シノさんがスーツケースを閉じる様を見つめながら僕がそう聞くと、シノさんは「雪に降られたら、日帰りは無理だな」と答えた。
1月のこの時期、栃木でも雪は降っている。長野なら更に積もっていることだろう。
「一緒に着いて行こうか」と思わず言いそうになるのを、僕は何とか堪えた。
シノさんは、きっとそんなこと望んじゃいないだろう。
でも、その思いは顔に出ていたらしい。
シノさんは苦笑いをすると、僕の腕をポンと軽く叩いて、
「俺は大丈夫だよ、千春。絶対に何があっても、千春が味方でいてくれるってわかってるから」
と言った。
その言葉を聞いた瞬間。
まるで魔法のように、僕の中の不安がスーと消えて行った。
── そうだ。例えシノさんに何があっても、僕だけはシノさんの味方でいる。そしてシノさんの傍から離れたりはしない。
僕は黙ったまま、笑顔を浮かべてウンウンと頷いた。
「さ、晩飯、食べに行こう」
シノさんが立ち上がる。
「ああ、シノさん、今日は外でいいの?」
僕が聞くと、シノさんはウンと頷いた。
「千春だって帰ってきたばっかりで疲れてるだろ? 『渡瀬』にでも行こうよ」
シノさんの行きつけの居酒屋の名前が出てきて、僕は「いいですね、久しぶりだ」と答え、立ち上がった。
here comes the sun act.77 end.
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編集後記
度々の更新お休み、すみませんでした~。
台湾旅行からやっと帰って参りました。
初めて何もかも個人で手配した海外旅行で結構緊張していましたが、大きなトラブルもなく、楽しんで参りました。
いや~~、よかったなぁ、台北。
また行きたい。
現在、ブログにて旅行の記録を更新中ですが、完全に自分の今後の記録のために書いている記事なので、あまりおもしろくありません・・・(汗)。
それでも興味のある方は、ご覧ください。
とはいえ、最近、姿勢の悪さもたたってか、長時間のパソコン作業ができにくいようになって参りました。
首のヘルニアにはまだ到達していないだろうけど、限りなくそれに近づいている悪寒・・・いや、予感。
台湾の足裏マッサージの先生にも「頸椎退化」とカルテに書かれ、思わず苦笑いの国沢でございます。
ということで現在、姿勢を正すことを日々の目標としているところです・・・。
[国沢]
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