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nothing to lose title

act.57

<side-SHINO>

 俺は浅川を連れて、千春の仕事場に向かった。
 浅川は、こんないわゆる『億ション』に入ったことがなかったらしく、表のセキュリティーを通ってエレベーターに乗っている間も「何かすげぇっすね」と呟き通しだった。
 内心俺は、浅川を千春の仕事場に連れてくることに対して「いいのかな」と思ったことも事実だったんだが、千春のおにぎりが食べたいっていう欲望に負けてしまった。
 それに浅川をほって一人でいく訳にもいかないし・・・。
 しかし千春は、電話で同僚と一緒だと告げても、特に難色は示さなかった。
 あまり外部の人間に俺らのことを勘ぐられるのを極端に嫌がる千春なのに、ちょっと不思議な気がした。
 千春の仕事場の前まで来てチャイムを鳴らすと、ドアは直ぐに開いた。
「お帰り」
 千春は俺の顔を見て第一声そう言って、その後、俺の後ろに立っていた浅川を見かけて「こんにちは。いらっしゃいませ」と声をかけた。そう、満面の微笑みを浮かべて。
「え、あ・・・・。ど、どどどど、どうも・・・。お邪魔します」
 千春の笑顔攻撃にキョトンとしていた浅川は、首に巻いたタオルを手に取って頭を深々と下げると、額に浮かんだ汗を物凄い勢いで拭いた。
「丁度タイミングがよかった。僕もお昼にしようと思っていたところだったんですよ」
 千春は踵を返し、部屋の中に入って行く。
 俺はいつまでも固まっている浅川の背中を押して、部屋の中に入った。
 浅川は不思議と部屋の中をオノボリサンのようにきょろきょろ見ることはせずに、俺の背中にくっつくように歩きながら、俺に耳打ちをした。
「どえらく美人な人ですね・・・。あ、や、男に美人っておかしいか・・・」
 俺もなんて答えていいかわからずに、「おい、ひっつくなよ」と小さく呟く。
 そして二、三歩進むと、今度は浅川にスーツの裾を引っ張られた。
「何だよ」
 俺が振り返ると、浅川はまだ俯き加減のまま、
「あの人が噂の篠田サンの・・・何というかその・・・・お付き合いされてる人なんっすか?」
 とボソボソ訊いてくる。
 俺は今更隠しても仕方ないので、「あ、ああ」と頷く。
「あんな人とどうやったら知り合えるっていうんですか?」
「さ、さぁ・・・俺も未だによくわかってないよ・・・」
 俺が苦笑いしたところで、ダイニングキッチンから、「そこでいつまでヒソヒソ話しているつもりなんですか?」と千春の冷たい声が飛んできた。
 それを聞いた浅川は、なぜかニヤリと笑みを浮かべると、俺の脇腹に軽い肘鉄を食らわせてきた。
「 ── 篠田さん、めっちゃ尻にひかれてるんですね」
 うるさい! ほっとけ!


 千春のおにぎりは、相も変わらず抜群に美味かった。
 具もオーソドックスなものから、変わり種まで、相変わらずどうやったら急にも関わらずこんなの作れるんだって感心するものばかりで、俺と浅川は冬眠から開けた熊のように貪り食った。
 無言で食べる俺とは対照的に、浅川は終始、「うめ~! すげ~!」の連発だった。
「いや、これ、マジでおにぎりの店出せますよ!」
 千春は終始淡々とした表情で、「おむすびごときに、そこまで盛り上がってもらえるとはね」とお茶を飲んだ。
 浅川は俺の背中をバンバンと二回叩き、「毎日こんなの食べれてんですか?! いや、篠田さん、幸せっすね」と豪快な笑い声を上げた。不意に背中を叩かれた俺は、米粒が変な方に入っていって、ゴボゴボと咽せてしまう。
 千春がアラアラといった風に俺にお茶を差し出すと、あの淡々とした表情のまま浅川を見て、
「食べてる最中の人の背中を不用意に叩くものじゃありません」
 と冷たい声でピシャリと言った。
 その瞬間浅川は「ヒッ」と小さく声を上げ姿勢を正すと、おにぎりを顔の前で握りしめ、「す、すみません・・・」と蚊の鳴くような声で謝った。
 どうだ浅川、千春の怖さを思い知ったか。
 結局俺達は、千春に追加でおにぎりを作ってもらうくらい食べまくって、その後少し仮眠を取った。
 丁度連絡待ちの時間帯に入っていたことと、千春が俺の顔色を見て「ちょっとあり得ないくらい疲れた顔をしてる」
といい、「30分だけでも寝てください」と言ってくれたからだ。
 ということで俺と浅川は、千春の仕事場のソファーで仮眠を取った。(ま、浅川は完全に満腹感からくる眠気に襲われた便乗組だったが・・・)
 千春が時間通りに起こしてくれて、俺達はまた薫風の回収に戻った。
 その車中、浅川はずっと「いやぁ、篠田さん、いい嫁もらったなぁ、ホント・・・・」と何度も呟いたのだった。


 薫風は、無事に目標納品数までかき集めることに成功した。
 今回薫風を提供してくださった小売店すべてに社長自らがお礼に訪れてくれたおかげで、その日の夜、日本酒課の方からお礼とご報告の電話をすると、どの店も快く協力をしてくれたようで、本当にありがたかった。
 日本酒課の面々は、配送部の倉庫で明日の出荷に向けての荷造りを終えた後、日本酒課に戻った。
「ま、これで当面の難局は回避できたな・・・」
 日本酒課の皆で溜め息をついたが、ことは楽観視できなかった。
 確かに当面の時間稼ぎはできたが、オンラインで注文を受けた分は当然発送できず、また新たな受注が来た場合は、対応ができない。
 そんなのまたすぐに作ればいいだろうと思われがちだが、薫風を始め、柿谷酒造の日本酒はすべて寒作りで、気温の下がった季節に一年分の酒を一気に作る。今の時期から仕込んでも満足な品質の酒はできないのだ。
 大手の酒蔵では、酒蔵全体の温度調整を行って年中生産している造り酒屋もあるのだが、柿谷はそこまで規模の大きい酒蔵ではない。自然の力を借りて、昔ながらの作り方しかしていない造り酒屋である。だから、次に薫風が出荷できるのは、来年の春を待たねばならない・・・。
「まぁ行方不明になった薫風が見つかるのならまだしも、それが無理なら今年度の薫風の取引は事実上不可能だろうな」
 課長がそう言って、俺達は溜め息をついた。
「それで・・・、川島とは連絡ついたの?」
 手島さんが田中さんにそう声をかけると、田中さんは首を横に振った。
「もう全然です。留守電にも何度も電話が欲しいといれたんですけど」
「あいつ・・・、何やってんだ・・・・」
 俺がそう呟くと、手島さんが俺の肩を軽く叩いた。
「まぁ、いないヤツのことをとやかく言ったとこで仕方がない。この先、発注が来たところには『今年分は売り切れました』と言えばいいでしょう。問題は受注を受けているオンラインショップの分です。おい、いくつ受注してるんだ?」
「今のところ12ですね」
 田中さんがパソコンとにらめっこしながら答える。  
「オンラインショップにも売り切れ表示はもう出しましたから、その12本だけの対応になります」
「その12本に対しては、送れるものがない。オンラインで、受注しといて後で送れませんってのは流石にヤバいだろ」
「そうですね・・・」
 また一同で溜め息を吐く。
 元々、配送部にあった13本はオンラインショップ用の在庫だった。
 それをハセベに回したから・・・。
「ハセベに納品する数を減らしなさい」
 日本酒課のブースの入口でそう声がして、俺達は一斉にそちらを見た。
 社長だった。
「社長、こんなに遅くまで、お疲れさまです」
 皆、席を立って社長に頭を下げる。
 社長は、「君達こそ、ご苦労だったな」と皆に座れと手でジェスチャーをした。
「先ほど、ハセベの社長と話をしてきた。ハセベには正直に事情を話した方がいいと思ってね」
 ハセベは、小売店から地道に店を大きくしてきたリカーショップだ。
 店舗数は多くないが、都心の駅地下や大手の商業ビルにも出店している。
 オーナーの長谷部さんのこわだりをもった商品選びと売り方で、通のお客がリピーターとして通う有名店だ。
 そこで商品を扱われるのは業界では名誉なことで、今回ハセベに50本も出荷できることが決定したことは、柿谷にとって願ってもないことだったのだ。
「社長・・・。それで、長谷部さんはなんと?」
 社長は川島の席に腰掛けると、両肩を竦めた。
「ん? まぁ、それじゃ仕方ないね、という感じだな」
 余りにも軽い答えだったので、俺達は拍子抜けした。
「おいおい、そんな顔をするな。大分意訳して言ったんだ、今のは。向こうも、こちらの状況を理解してくれたということだ。長谷部さんとしても、酒蔵の倉庫から酒がなくなった・・・なんてことには初めて遭遇したそうだがな。逆に心配してもらったよ。ま、そういうことだ。夕べから徹夜組もいるんだろう。今日はもうこれで置きなさい」
 社長はそう言って、立ち上がり様、俺の頭をくしゃくしゃを掻き乱した。
 その様子を見て、皆が笑う。
 社長の一連の話で、今まで重苦しかった空気が幾分軽くなった。
 やはりこの人は凄い人だって思う。
「じゃ、帰るよ」
 そう言いながら去りかける社長に、課長が「あ!」と声をかける。
「ん? なんだね」
「あの・・・川島のことなんですか・・・。今だ連絡が取れなくてですね・・・」
「ああ、川島か」
 社長はそう言いながら懐を探ると、長3の白い封筒を取り出してこちらに投げた。
 床に落ちそうになって、慌てて俺が拾う。
 その封筒には、退職届と書かれていた。
 それを確認した俺達は、また一斉に社長を見る。
「今日、メール便で届いたそうだ。最近は、退職届も宅急便会社が届けてくれる時代になったんだな」
 社長はそう言って、日本酒課を後にして行った。
 俺はもう一度、自分の手の中にある封筒を見た。
 確かに川島の、少し斜めに跳ねるような字で退職届と書かれあった・・・。

 

here comes the sun act.57 end.

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編集後記

先週は結局お休みしてしまって、すみませんでした(大汗)。
実は日曜日に無様にも階段からこけて、右足首をこっぴどく捻挫してしまい、このまんじりもせず一週間過ごしていました(滝汗)。
年寄りでもないのに、100均の杖を使っておる次第です・・・。お恥ずかしい・・・。
段ボールを持って階段を下りていたとはいえ、足を踏み外すとは、年ですわ(どよ~ん)。
結局、従兄弟の家の片付けを手伝うどころか邪魔しにいったようなもので、しょんぼりです(涙)。

[国沢]

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