act.44
クライドは家を出る間際、櫻井にこの家に留まって待つようにと言った。
「なぜです?」
櫻井がソファーから立ち上がって食ってかかると、キレイにひいた深紅のルージュがグニャリと歪んだ。
「まだお前を王龍に会わせる訳にはいかねぇ。お前の身ばかりか、こっちの身もヤバくなるからな」
「じゃ、なんで自分をここまで連れてきたんですか?」
「お前みたいなヒヨッコに一人で街を彷徨かれると困ったことになるからだ。何せお前、不器用そうだからな。いろいろ」
以前榊にもそういうことを言われたことがある櫻井は、バツが悪くなってソファーに座った。
確かに、クライドの言う通りかもしれない。
この街で櫻井は、確かに右も左も分からないおのぼりさんだ。
「だからここで、クリスにお前を見張っておいてもらおうと思ってな。お前、クリスには逆らえないだろう?」
クライドにニヤニヤと笑われた。
櫻井はチラリとクリスティを見る。クリスティは今も変わらず穏やかな微笑みを浮かべている。── 確かに、彼女を押しのけてまで強引にこの家を出て行けそうにない。
不本意そうに唇を尖らせた櫻井が可愛く思えたのか、クライドは櫻井の頭をクシャクシャと掻き乱して、頬にチュッと口づけた。
櫻井は、ザッと身体を引く。
そんな櫻井にクライドは言った。
「まぁ、おとなしく待ってろって。お前の欲しがっている情報は、俺が王龍から仕入れてくる。約束する」
クライドは投げキッスを残して、出ていった。
櫻井が視線を戻すと、クリスティも老婦人もクスクスと笑っていた。
「どうやら旦那様は随分あなたがお気に入りのようだわ」
老婦人がそう言いながらティッシュを一枚取り、櫻井に差し出した。
櫻井が怪訝そうにそのティッシュを見ると、クリスティが飾り棚に置いてある手鏡を櫻井の前に翳す。見ると、頬にべったりとキスマークがついていた。
こんな強烈なキスマークをつけられたのは、生まれてこの方初めてである。
残念ながらというべきかクライドは男であるため、例の症状が出ないのだ。例え女装していても。
櫻井が、ゴシゴシとティッシュでキスマークを拭っていると、クリスティがメモ帳にこう書き付けてきた。
『兄があなたを可愛がるのは、きっとあなたが私たちの幼なじみの男の子に似ているせいよ』
「幼なじみ?」
クリスティは頷く。
『でもその子は幼い頃に亡くなってしまったの。兄は、本当の弟のように可愛がっていたのだけれど』
「あなた方は、香港の生まれなんですか? 噂によると、香港人とアメリカ人のハーフだと聞きましたが」
櫻井がそう訊くと、クリスティと老婦人は顔を見合わせた。
微妙な空気を感じて、櫻井は慌ててこう付け加えた。
「言いにくいのなら、別に何も答えなくて構いません。いきなり不躾な質問をして、すみません」
「いえ、いいんですよ。そういう意味ではありません。ねぇ、蓮花様」
クリスティは頷いた。
メモに何やら書き付ける。
『そんな風な話になっているとは思わなかったんです。私たちは、大陸の生まれです』
「大陸とは・・・中国大陸のことですか?」
クリスティが頷く。
『あなたになら正直に話しても、クライドはきっと怒らないわね』
「そんな・・・。いいんですか?」
櫻井がメモ帳から顔を上げると、クリスティが老婦人に向かって頷いて見せた。
老婦人が櫻井に視線を向ける。
「蓮花様と旦那様の父親は、日本人。母親はアメリカ人です」
「日本人?!」
流石に櫻井も驚いて、思わず声が大きくなる。
「ええ。日本人とはいっても、中国残留孤児だったそうです。母親は上海に興行にきていたダンスチームの踊り子で、それはそれはとても美しい人でした」
表現が過去形であることが気にかかった。
櫻井が僅かに眉間にシワを寄せると、櫻井の内心を察したのかクリスティがメモ帳に書き付けて、よこした。
『私たちが物心つく前に殺されてしまったの。中国のマフィアにね』
「当時は今にも増して、中国の芸能界には闇社会の影響が強かったんです。二人のお母様は余りにも美しすぎた。マフィアの幹部に見初められたのです。彼は彼女に愛する家族がいることを承知でそれでも彼女を奪おうとした。まさに身体を奪われそうになった夜、蓮花様のお父上がその幹部を殺してしまったのです。後は逃げるしか手段はありませんでした。彼らは、まだ幼かった旦那様と蓮花様を連れて蘇州に逃げました。けれど、見つかるのは時間の問題でした」
老婦人は、苦々しい過去を振り返るようにもの悲しい表情を見せた。
「あなたは、その当時の二人を知っているのですか?」
櫻井がそう尋ねると、クリスティがメモ帳をよこした。
『暁琳(シャオリン)は上海で母の身の回りの世話をずっとしてくれていた人なの。両親の死後、娼館に売られていた私たちを見つけ出してくれたのも彼女なのよ』
櫻井は、『娼館』という文字に目を見張った。
英語を読み間違えたかと思って、再度目を通した。
だがやはりそのように読める。
櫻井が気まずそうに視線を上げると、クリスティにぐっと手を掴まれた。
今度は、まったく拒絶反応は出なかった。
クリスティの真摯な瞳に見つめられていたからだ。
クリスティが再び書き付ける。
『あなたには、正直に話すと決めたのですから』
「しかし・・・。辛い思い出ではありませんか? 幼いながらも、そこで仕事をさせられていた訳でしょう。ひょっとしてその傷は、その頃できたものですか?」
クリスティは頷いた。暁琳が返事を返してくれる。
「娼館の主が蓮花様の喉を潰したのです。物の言えない幼い娼婦は、需要がたくさんありました。外で余計な口を開く心配がありませんからね。まして日本の血を引いていることも災いをしました。日本に対する復讐心が今でも根強い中国では、それを果たすために彼女を買う男達がたくさんいたのです」
櫻井は、なぜ自分がクリスティに対して他の女性とは違う雰囲気を感じていたのか、それを聞いて分かったような気がした。
幼い頃に性的暴力に晒されてきたクリスティは、『性』に関する一切の感情が心の奥に押し込められているからだ。細かなディティールは違うが、丁度自分が幼い頃、姉から『性』に関する感情ブロックをかけられた時の状況と酷似している。そんな同志めいたものを直感的に感じたのかもしれない。むろん、クリスティも。
だから彼女は、最初に櫻井に出会った時、酷く感傷的な表情を浮かべ、更に彼を助けるようなヒントを櫻井に与えてくれたのかもしれない。
櫻井は、思い切ってクリスティの手をグッと握り返した。先ほどクリスティがしたのと同じように。
クリスティは嬉しそうに微笑む。
「クライドも同じ娼館にいたのですか?」
暁琳は頷く。
「私が旦那様と蓮花様を見つけた時、蓮花様の身代わりとして店に出ていたのは、旦那様の方でした。後に話を聞くと、最初は生き別れになって別の農家で下働きをさせられていたようです。その間にも妹の行方を尋ね歩き、彼が蓮花様と再会した時は既に蓮花様は喉を潰された状態で、きつい仕事のせいで身体をこわしていたのです。何度か二人で逃げようとしたそうですが、その度に連れ戻され酷い仕打ちを受けたそうです。それでも彼は妹を守ろうとして、自分が蓮花様の代わりに店に出ると店主に詰め寄り、店主はそれを聞き入れました。日本を憎む客達は、むしろ男の子の方が自分たちの歪んだ復讐心を満たすにはよかったからです。それに旦那様は、少しでもいい待遇で暮らせるようにと努力を惜しみませんでした。幼いながら彼は男娼としての技に磨きをかけ、その地域一帯ではとても有名になっておりました。だからこそ、私もお二人を見つけることができたのです」
櫻井は、ズキリと心が痛んだ。
クライドの、あの身体の内面から涌き出るような色気は、彼が生きていく術として身につけたものだったのだ。
本当なら、そう普通に育っていれば、あんなものを身につける必要などなかった。そしてクリスティも喉を潰されることはなかった。
『今、私が兄の身代わりを勝手出ているのは、その時の恩があるからです。あの頃、兄が私の身代わりになってくれていなければ、私は生きてここにいなかった。兄は、いつも天の邪鬼で思わせぶりな人に思われるかもしれないけれど、本当はとても優しい人なのよ』
クリスティがそう書き付けたメモ用紙を差し出して、必死な瞳で櫻井を見る。
櫻井はキュッと唇を噛みしめ、頷いた。
「── 分かってます。あの人が本当は優しい人だってこと。よく分かります」
彼らは、日本が過去大陸で犯した罪のツケを払わされた人達だということを、櫻井は痛感したのだった。
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編集後記
なんか、妙に重たい内容の更新となってしまいました(汗)。
巷は新型インフルエンザで大騒ぎですね(大汗)。
ちなみに国沢の住んでいる地域ではまだ患者さんは発生していない模様です。
でもなぁ~・・・。
六月に神戸でミッツィイーがらみのライブがあるんだよなぁ~・・・。
奇跡的にチケットが取れて息巻いてたら、よもやこんな伏兵が攻撃してくるとは思いもしませんでした。
はたしてライブが中止になるかどうかは分かりませんが、ホテルも予約している手前、早く決断しなきゃ・・・(脂汗)。
マスクも感染予防には大して効果を発揮しないという話だし、なんだかなぁ~・・・(遠い目)。
[国沢]
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