irregular a.o.ロゴ

nothing to lose title

act.26

 櫻井を乗せたタクシーは、次第により華やかな繁華街へと進んでいった。
 派手派手しいネオンがひしめき合う、櫻井でもテレビや雑誌等で見知っているような風景だった。
「シャンハイ・ストリートね」
 運転手が言う。
 運転手は、観光客相手の解説も慣れているのか、流れるような口調で次々と矢継ぎ早に上海街の案内をした。
 どうやらこの辺りの繁華街は、新興開発が目覚ましい他の地区とは違って昔ながらの老舗の店が数多く残っているらしい。1960年代までは、ここが香港の中心的繁華街だったと運転手は言う。
 今では高層建築の現代的なビルが数多く建ち並ぶ香港島だが、上海街には少し薄汚れた昔ながらの建物が残っていて、雑多なイメージが否めない。しかし中心繁華街ではなくなったとはいえ、いまだ香港らしいエネルギッシュさは消えていない様子だ。
 通りにはきれいに着飾った香港美女もいれば、いろんな雑貨がぶら下がっている店先で額がテカテカしている小太りのおじさんが汗を拭き拭き、通りに向いて大声で何か怒鳴っていたりもする。
 同じアジア圏とはいえ、あまりに日本と違う活気に溢れていて、櫻井は少し圧倒された。しかしすぐ、こんな気持ちでは駄目だと思い直す。こんな弱気では、肝心の華見歌壇にも潜入できない・・・。
 櫻井がそう思った矢先、突然タクシーは路肩に止められた。
 ハッとして櫻井が運転手を見ると、運転手は向かいの通りを指さした。
「あそこ。あそこの通りから奥に行くとお目当ての店がある」
 櫻井は運転手の指先を目で追った。
 上海街のメインストリートから伸びる測道がある。
 たいして道幅は広くない。車一台が通れるほどの幅だ。
「俺らみたいな庶民派のタクシーが横付けできる店じゃない。だからあんたはここで降りて歩いて行った方がいい。様子を伺うだけならね」
 運転手にそう言われ、櫻井は請求された金額を支払いタクシーを降りた。
 あれよあれよという間にトランクに乗せていた大きなスーツケースも下ろされて、気づけばタクシーは走り去っていった。
 外国の路上に突如大きな荷物と共に下ろされて、櫻井はキョトンとする。
 そして運転手が乗っている間仕切りと「先にホテルに行かなくてもいいのか」と確認してきた意味をやっと理解した。
 慣れない海外旅行。
 まず一番目の失敗だ。
 櫻井は、自分の失態にため息をついた。
 道行く人達が、大きな荷物と共に立ちつくす櫻井を興味本位な目で眺めていく。
 ── とにかく、一旦店の前まで様子を見に行こう・・・。
 櫻井は黒いスーツケースをひょいと持ち、通りを見渡した。
 交通量は多い。
 周辺の店々は、鍋や食器、乾物、雑貨など日用品の店や屋台を店にしたような軽食屋ずらりと並び、華やかなネオンに彩られた下町・・・といった風情だ。
 こんな庶民的な町並みに、政府要人も訪れるという高級クラブが本当に存在するのか、些か信用しがたい。
 ── ひょっとして俺、担がれたのかな・・・。おのぼりさん過ぎて。
 櫻井は、自分の右手からバカみたいにぶら下がっているスーツケースを眺め、再度ため息をついた。
 しかし、いつまでもこうしてはいられない。
 櫻井は一瞬車の流れた途切れた間をついて向かいに渡った。
「お兄さん、ネックレス安いよ。買ってかないか」
 金のネックレスが無造作に並べられた店先から櫻井に向けて声がかかる。
 櫻井は雑踏を交わして、路地に入った。
 少し歩いただけで先ほどの雑踏が嘘のように静まりかえる。
 路地は暗く、明かりらしきものはない。
 櫻井は、路地の先を注意深く見つめた。
 道の突き当たりにネオンとは違う暖かい色の小さいライトが複数瞬いて見える。
 そのライトは規則正しく並んでいて、それだけで美しく見える。
 櫻井は、ライトに誘われるように足を進めた。
 20メートルほど進むと、急に視界が開けた。
 路地からいきなり高級ホテルの広いエントランスに出たかのような錯覚に陥った。
 ゆったりとしたロータリーは上品な石畳が敷き詰められており、車止めの奥からアカデミックな幅広い石の階段が上に伸びている。
 櫻井は思わず口をぽかんと開け、建物を見上げた。
 四本建てられた大きな柱にはデコレイティブな装飾が施され、柱の上にはクラシカルなデザインの飾り時計が薄く光っている。柱の奥にある大きな両開きの扉もシダの葉のような浮き彫りが四隅を飾っていた。アジアというよりはイギリスの香りが色濃く感じるデザインだ。
 しかし全体的な色合いは、木肌を活かした黒光りする重厚さがある。まるで建物全体に蜂蜜を掛けたかのような艶が建物を被っていた。その色合いからすると、軽やかなビクトリア様式というよりも中国古来からある建物のような重々しさがある。
 西洋と東洋の融合・・・といったところか。
 建物から漂う雰囲気だけで、圧倒される。
 確かにタクシーの運転手が言っていたように、一般庶民が入れそうにない敷居の高さを感じさせる。
 櫻井が建物の迫力に飲まれていると、ふいに背後から車のライトを受けた。
 クラクションを鳴らされる。
 とっさに櫻井は壁際に身を寄せた。
 リムジンとまではいかないが、明らかに高級な黒塗りの車が櫻井を追い越していく。
 車は静かに建物正面の車止めに停まった。
 黒いスーツに白い手袋をはめたアジア系の運転手が降り、後部座席のドアを開く。
 シックな赤いドレスに身を包んだ女性とタキシードを着た男が車から出てきた。共に白人だ。
 二人は仲良く談笑しながら階段を上がっていく。
 重厚なドアの前にはドアマンが立っていて、少しやりとりが続いた後、二人はドアの向こうに消えていった。
 なるほど、白いTシャツにジーンズ、黒のカジュアルジャケットである櫻井では到底入れそうにない。
 ── さて、どうするか・・・。
 しばしの間呆然とした後、壁際でスーツケースに腰掛けつつ、思わず櫻井はため息をついた。と、突然「ヘイ、ボーイ」と声を掛けられる。
 声のする方に目をやると、先ほどの白人を乗せてきた車が、側の駐車スペースに停まっていた。声の主はその運転手だった。
 先ほどまでの上品な身のこなしはどこへやら、今は車の窓の上で腕を組み、咥えタバコで櫻井の方をおもしろそうに眺めている。
「そこで何をしてるんだ」
 言っている内容はキツかったが、その表情は至ってなごやかだった。「店に入りたいのか」と訊いてくる。
 櫻井が頷くと、ハハハと声を出して笑った。
「君みたいな一般観光客が入れる店じゃぁないぜ」
「それでも入りたい」
 櫻井はすぐにそう言い返した。
 運転手がオッという感じで目を見開く。
「リンファに逢いたいんだ」
 男は、再びおもしろいものを見たとでもいうように、目を細めた。
「何だ、兄さん、恋する少年か」
「少年なんかじゃない。もう三十は過ぎてる」
 櫻井の返事に、運転手は目をまん丸にした。表情の豊かな男だ。
「あんた、随分若く見えるな」
「それより、どうしたら店に入れるか教えてくれないか」
「そんなナリじゃ到底入れてもらえないな」
「恰好の問題か?」
「ま、恰好と財布の中身の問題だな」
「スーツにネクタイなら持ってきてるんだが」
 運転手は肩を竦める。
「それなら問題ない。別にタクシーである必要はないし、誰かの紹介がないと入れないということはないさ。現にさっきここへ送り届けたあの二人も、ちょっとリッチな観光客だ。物見遊山でほんの少しの間だけの予定だから、俺もここで待たされてる」
 男の話してくれたことに、櫻井はホッと胸をなで下ろした。
 男の口ぶりだと金さえ用意すれば、店にはいるのは容易そうだ。
「教えてくれて、ありがとう」
 櫻井がそう返すと、男にニヤニヤと笑われた。明らかに冷やかしている目つきだ。
 櫻井が怪訝そうに見返すと、男はニヤニヤ顔のままこう言った。
「でも例え店に入れたとしても、例え見ることができたにしろ、兄さんがリンファに『逢える』可能性はほとんどゼロに近いね」
「 ── どういう意味・・・」
 櫻井が聞き返した矢先、ふいに車を呼ぶ声が聞こえた。
 ドアマンの一人が降りてきていて、運転手を呼んでいた。
 どうやら、運転手が言っていた『ほんの少しの間』というのが早くも経過してしまったらしい。
 時間にすると15分か20分か。
 それでも二人の客は、頬を高揚させ興奮した様子で「素晴らしいショーだった」と感嘆のため息を漏らしていた。夢うつつな足取りで階段を下りてくる。
 結局、櫻井が謎の言葉の真意を聞く前に、運転手はさっさと客を乗せて走り去ってしまったのだった。

 

接続 act.26 end.

NEXT NOVEL MENU webclap

編集後記


一日遅れの更新でございます。すみません、遅くなりました。
連休を利用して我が家を訪れている甥っ子のけたたましい笑い声と生まれたばかりの姪っ子の泣き声に翻弄されながらの更新でございます(脂汗)。

いや=、ダメダ。しゅ、集中できん・・・。

そんなことより(どんなことより?)、今年も9.11の日が過ぎていきましたね。
さすがに七年もの年月が経つと、ニュースでも簡単にしか取り扱われなくなりました。
他ならぬ国沢も、新聞で読むまで気づかなかったという・・・(汗)。
あんなに衝撃をうけた出来事だったのに、本当に事件というのは風化していくものだと痛感させられました。いやだなぁ・・・人間って・・・。忘れる能力、優れすぎ(汗)。
改めて、世界平和を願う国沢なのでした。

さて、ブログの更新も久しぶりに行い、残るノルマは万ヒッツ記念CD制作のみ・・・。
最近サイトが弱小化している当サイトなので、はたしてCD作ってももらってくれる人がいるかどうか、大いなる謎なんですが、恒例行事なので一応作ろうと思ってます。
今は、収録曲を選曲中。
あとはジャケットのデザインをどうするかだなぁ~・・・。


[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

Copyright © 2002-2019 Syusei Kunisawa, All Rights Reserved.