act.13
週が開けてから、河田の動きがせわしなくなった。
外出する時間が多くなり、一度会社に帰社してもすぐに次の予定を入れて出ていく・・・といった具合だった。
河田が料亭に出向いた夜から、明らかに河田の動きは変化していた。
必然的に櫻井達セイフティ・ユニゾンのスタッフ面々も忙しくなり、新たな予定が付け加えられる度に先着隊が翻弄される形となり、沖の後を引き継いだ陣野は目を白黒させていた。
陣野も沖に次ぐベテランだが、流石の彼も河田の突発すぎる動きに閉口したのか、社に戻った際、秘書に対して
苦言を一言言ったらしい。しかし秘書自身も正直困っていると逆に愚痴られる始末で、どうしようもなかった。きくところによると、来週こなすはずの予定を前倒しにしてスケジュールを埋めているようだ。
── 何をそんなに焦っているのか・・・。
当然、この動きは櫻井から公安部に報告をしてある。
会社の中では支社長室に籠もってずっと電話をしていることも付け加えて報告していた。
今頃公安部では、河田の電話を盗聴した内容の分析に躍起になっているだろう。
表向き盗聴行為は違法とされているが、公安部ではよく使用される手段だった。
盗聴した内容を元に逮捕することはむろんできなかったが、犯罪抑止には大いに役立つ。
通常の警察職務は発生した事件を解決することが主な任務になるのだが、公安は犯罪を未然に防ぐ前提で動くことの方が多い。
今、車の後部座席に座る河田の様子は、お世辞抜きで心ここにあらずと言った風情だった。
どこかどうにもならない事態を抱えて苛ついている・・・といったような表情である。
いつもは比較的よく話しかけてくる河田も、ここのところは車の中で考え込むことが多くなった。そして時折携帯を取り出して電話をしようとするのだが、櫻井達の存在にはたと気がついて電話を仕舞うということが幾度かあった。
車の外はもうとっぷりと日が暮れ、櫻井のシフト時間はとうに過ぎていた。
「どうされますか、河田さん」
陣野が声をかける。
「社に戻られますか、それともご自宅に直接戻られますか」
「 ── 社に戻ってくれ」
どうやら今夜はまだ仕事が残っているようだ。
オゾッカ製薬日本支社は、品川に自社ビルを有している。五階建てさほど大きな建物ではなかったが、それでも数年前に建て替えられた如何にも外資系らしいピリッとした建物だ。
車の中から馴染みのビルが見えてきたところで、助手席の陣野が運転中の櫻井にそっと耳打ちをした。
「社に戻ったら、君は次の者に引き継ぎをしたまえ。既に次のシフト班は会社に到着している」
本当ならば山田が運転手で櫻井が河田の隣に座っているところだが、今週はあまりにもイレギュラーに予定が変わるので後部座席にはつきっきりになっている秘書が座っている。
「ありがとございます」
櫻井はそう言いつつ、周囲の様子に十分注意を払いながら、半地下の駐車場に車を入れた。
櫻井と陣野は、河田と秘書を間に挟みながら建物の中にエスコートする。
駐車場から数段の階段を上がり内部にはいると、そこはすぐ受付のある1階のエントランスホールに出る。
そこでは、ちょっとした騒ぎが起こっていた。
既に就業時間外だったので受付嬢はいない。代わりにいたのは夜間警備の者だったが、その警備員と受付カウンター越し、ぼさぼさの長い髪を無造作に束ねた四十代らしき男が押し問答をしている。
男はカーキ色のウィンドブレーカーを羽織り、肩からは使い込んだカメラバッグを下げている。明らかにこの会社に似つかわしくなさそうな客だ。
櫻井は警戒の色を強める。
陣野が素早くエレベーターのボタンを押したが、箱が来る前に男が河田に気がついた。
「河田さ~ん」
馴れ馴れしい口調だった。
「随分待ちましたよ。今日こそお話を聞いてくれますよね」
言葉は丁寧だったが、口調はぞんざいだった。
「 ── 河田さん、追い出しますか」
陣野が河田に耳打ちする。河田は苦々しいため息をつくと「いや、いい。通してくれ」と呟いた。この口調は、一気に疲れがどっと押し寄せた、といった風情だった。
やがてエレベーターが到着する。
胡散臭いその男も当然というように、乗り込んでこようとした。
その直前で櫻井は男の行く手を制する。
「念のため、ボディチェックをさせてください」
男は一瞬驚いた顔つきをしたが櫻井を見上げて、「何か格好いいねぇ。SPってやつですか、河田さん」とニヤつく。
櫻井は床に片膝をついて、男の身体と持ち物を入念にチェックした。
男はチェックを受けている間にも、「いいご身分だなぁ。リッチなんですねぇ」と軽口を叩いている。
特に怪しい持ち物はない。
櫻井は男のカメラバッグに名刺を見つけ、それを抜き取った。
『報道フリーライター 田中省三』とだけ書いてあり、連絡先が書かれてある。電話番号は、携帯の番号しか書かれていなかった。
櫻井は男の目を見つめながら、「これ、いただいてもよろしいですか」と訊く。
男は櫻井の濁りのない瞳に真っ直ぐ見つめられて何だか居心地が悪くなったのか、ゴホンとひとつ咳払いをすると「あ、どうぞ」と首を竦めた。
櫻井はその内容を頭に記憶して、名刺を陣野に手渡す。陣野は名刺をちらりと見て懐にしまい込む。
櫻井は身体を起こすと「失礼しました」と男に頭を下げ、道を空けた。
最上階につくと、櫻井はお役ご免となった。
「超過勤務手当をちゃんと申請しろよ」
陣野にそう言われ、櫻井は頭を下げる。
その向こうで河田と男が連れ立って社長室に消えていったのだった。
バイブにしてあった櫻井の腰の携帯が震えたのは、一旦帰社したセイフティ・ユニゾンの入っているオフィスビルを出た時だ。
丁度安全な場所に移動して、例のフリーライターの件を榊に報告しようと考えていたところだった。
腰から取り出してみる。モノクロームの画面に見たこともないアドレスからメールが届いているのが表示されていた。
櫻井の携帯は二つあり、ひとつはセイフティ・ユニゾンから支給されているもの。もうひとつは、高橋秀尋個人で契約しているものだ。とはいっても、この高橋名義の携帯も実は公安部の備品で、盗聴防止のセキュリティが幾重にもかけられてある携帯電話だった。
メールが来たのは、そのセキュリティが厳しい方の携帯だったために、櫻井は少し驚いたのだった。
なぜなら、高橋名義の携帯にこれまで迷惑メールが届いたことは皆無だったからだ。
怪訝に思いながらも、一応用心しながらメールを開けてみて、どきりとした。
『明日、発つ。』
たったそれだけのメール。
だが櫻井はすぐにピンときた。
香倉からだ。
あの休暇以来、顔をあわせることはおろか声すら聞いていないが、香倉がマークしている人物に張り付いていた阿部が辛うじて香倉の近況を教えてくれていた。どうやら阿部はこのチームに正式に投入されたらしい。チームの連絡係として調整役を務めるようだ。これは、公安部がこの件に本腰を入れるという意思表示をしたようなものだ。これで榊も御の字といったところだろう。公安は、他の部署から動きが見えずらいこともあってか、成果を出さないと他の部署からの突き上げがきつい。
── 近々やっこさん、南の方に行くことになりそうだ。
阿部から直接報告を受けたのは、ほんの三日前の話だ。
── やっと謹慎処分が解けたってところだな。
少しほろ酔いだった阿部はそう言って笑ったが、その理由を櫻井が訊いても多くは語らなかった。
香倉は櫻井と知り合うずっと前、海外に赴任していたらしい。
詳しいことは誰も教えてくれないので何とも言えないが、おそらく台湾か香港辺りで危険な任務についていたようである。
香倉の身体に刻まれた朱雀の刺青は、その時に任務上必要に駆られていれたものだということだけは、香倉から聞いていた。
今回の任務はもっとずっと南の東南アジアになるので、公安部も香倉の海外行きを認めたのだろうか。
櫻井は夜空を見上げる。
櫻井の胸には漠然とした不安が沸き起こっていた。
それが単純に距離が離れることから沸いてくる不安なのか、それとももっと別の予感めいたものなのか、櫻井自身よく分からなかったが、今の櫻井にできることと言えばただ、香倉の無事を祈るのみだった。
「すみません、ありがとうございました」
井手がそう言いながら席を立つと、目の前に座っていた40過ぎの医師は「また何かありましたら、いつでもどうぞ」と愛想よく手を差し出してきた。
「ええ、ありがとうございます」
井手はにっこりと微笑むと、相手の手を軽く握った。相手の医師はここぞとばかりに手を握り替えしてきたが、井手はそっけなく手を引くと、頭を下げて席を後にした。
医師から見えなくなる廊下の端までは颯爽とした足取りで歩いていた井手だが、廊下を曲がった途端その足取りは一気に重くなった。
それも無理はない。
結局、八番目に訪れたこの病院でも大した情報は得られなかったためだ。
井手の元にやってくる八人の患者は、未だに例の夢を見続けており、井手が診療しても結果は芳しくはなかった。
それもこれも、夢を見る原因が分からないからだ。
念のため、複数回にわたる退行催眠で昔のトラウマを拾っても八人八様で、どれもが直接夢と関係するものとは思えなかった。八人の幼い頃の忘れていた記憶を掘り起こしても、亜熱帯の風景に行き当たることはなかった。
やはり香倉と話した時のように幻覚を引き起こす何かの薬剤のせいかもしれないと、彼らがかかっていた病院を訪れれば何かのヒントが得られるかと思いきや、それも結局徒労に終わった。
患者の委任状を得て病院から預かった投薬リストにも怪しげなものはなく、通常の医療行為が行われているだけだった。しかもそれで身体が悪くなるどころか、むしろ彼らは今病院に通わずに済んでいるのだから、治療は非常に有効だったといえる。どの医者も、患者達の回復をいたく喜んでいるようだった。
担当医らに夢の話をすると、確かにそれは不思議な話だが、生命に支障がないのであれば大したことではないのではと皆口を揃えて言った。
なぜなら、彼らがそれぞれ担当した患者は一時とはいえ命の危機に直面していた人々であり、治療の効果がこれほどうまく上がっているのは、この病棟にいる他の患者さんに比べて非常に幸運なことなのだと言うのだった。
── 確かにそれはそうなんだけど。
井手はトボトボと病棟を歩きながら、さりげなくドアの開いた病室の中に視線をやった。
看護師が忙しく立ち振る舞うこの病棟はいずれも重病患者が入院しており、誰もが身体のどこかにチューブを差し込まれ、人によっては生命維持装置なしでは生きられない患者達だ。
井手の元を訪れる八人もまた、一昔前は今辛そうに横たわる彼らと同じ立場だった。
看護師と入れ替わりにスーツをきた若いプロパー(製薬会社の営業マン)が忙しく病室に出入りする様子を横目で見ながら井手はようやく喫煙所まで辿り着くと、慌ただしくタバコを咥えてプカプカとそれを吹かした。すぐに一本目は燃え尽き、二本目を口に咥える。
「確かに命は助かったとしても、私に対するリクエストは、それだけじゃすまない・・・」
身体の面倒をみる医者は、身体の具合さえよくなれば全てが解決すると思っている輩が多いようだが、精神の回復もまたそれに匹敵するほど大切な問題だ。
救急医療の現場には井手のような精神科医が常駐している病院は極めて少なく、自殺の常習者や突然の事故で重大な障害を負ってしまった患者、自分の死を目の当たりにした患者などの精神的ケアが十分に行き渡っていない現実がある。
今回のこの一件は、程度はまるで違うにしろ、患者の心のケアが必要な事例である。
患者達が語る異国の世界の夢は、話を聞く度にどこかキナ臭いにおいを感じさせ、それは日を追うごとにエスカレートしている。その不穏さというか、不気味さというか。
その夢を見るからと言って命の危機が差し迫っている訳ではないのだが、この現象をこのままにしておくわけにはいかないのは明らかだった。
── これしきの謎が解けないなんて・・・情けない。
井手は二本目のタバコを灰皿に押しつけ、三本目のタバコを咥えた。癖のない真っ直ぐな黒髪をぐしゃりと左手で掻き乱す。
病室から出てきた若いプロパーが、そんなオヤジ臭い井手の仕草を横目で見ながら、そそくさと去っていく。
その男の胸には、オゾッカ製薬の社章が輝いていた。
── オゾッカ製薬。
何かひっかかるものを感じて、井手はトレードマークの黒い大きなカバンから、八人に対する投薬リストを引っ張り出した。
数多くの薬剤の羅列している横に、薬剤を取り扱っている製薬会社の名前が記載されている。
「共通しているのは、三つの製薬会社か・・・」
三つのうち二つは、井手もよく知っている日本の大手製薬会社だった。
そして残るひとつが、オゾッカ製薬。
「外資系がひとつか・・・。外資系。── 香倉が言ってた外資系の製薬会社って、どこだっけ・・・」
あの晩、香倉と会った夜、世間話程度とはいえ、はっきりと問題の製薬会社の名を聞いておけばよかったと井手は少し後悔した。
だがしかし、あの時井手が訊いても、香倉が素直に答えてくれたかどうかは確証はない。
既にクローズしているケースならいざ知らず、現在内偵を進めている案件の情報を、おいそれと漏らす訳にもいくまい。
── 香倉が追っている問題の製薬会社とオゾッカが同じであるという確率は、どれほどのものだろうか・・・。
井手はしばし考え込んだ。
グローバル化が激しく進行しつつある昨今、外資系企業が日本に参入するケースも増えてきている。
製薬業界も例外ではなく、薬剤先進国アメリカのノウハウを活かして日本に支社を展開している製薬会社は、大小あるものの片手では数え切れないほどの数はある。オゾッカもその中のひとつだ。
ううん・・・と井手は唸った。
いろいろ判断するには、井手の持っている製薬会社の情報は少な過ぎる。
井手はオゾッカ製薬の名前をトントンと爪で叩いて、ファイルをカバンに突っ込んだ。
接続 act.13 end.
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編集後記
皆様、二週間ぶりのご無沙汰です(汗)。
今回もまた、書き立てほやほやだす(汗汗)。ああ、心配だなぁ・・・いろいろ。
すでに破綻しかけている感じがするなぁ。香倉はまだ海外いってないのに(脂汗)。
実はこのお話、もうひとり重要な役割を果たすキーパーソンが出てくる予定なのですが、まだまだそこに行き着かない(涙)。大丈夫か、オレ。
ところで、私生活といたしましては、明日一応忙しかった仕事が完全に終了いたします。
これでようやくほっとできます。
あ~、ちゃんとブログの更新もやろ。
また放置プレイになっていたんで、きっとエロい人達がいっぱいコメント書いてくれているはずです(←ホント、酷いっつーか懲りないですよね。迷惑書き込み)。
[国沢]
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