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act.20

 全身黒づくめの衣装に身を包んだ香倉は、例の工場の建物の中に、今まさに侵入しようとしていた。
 潜入するための装備を何とか手に入れ、とんぼ返りで工場まで戻ってきていたが、それでも香倉の予想以上に時間がかかってしまった。
 だが実際のところ、この国で潜入するに足りる装備を調達するのはなかなか骨が折れた。
 それには、この国の警察組織と日本の公安部の関係が薄いことが影響していた。
 国によっては、密かに協力してくれる人々がいるが、不幸なことにカンボジアには公安部が圧力をかけられる組織や協力してもらえる機構などは存在しなかった。
 結局香倉は、本国のサポートなしにそれらの装備を短時間で構えなければならず、仕方なく香倉は榊の許可を得て、香港にいるCIAの工作員に電話を入れることにした。
 香港の闇社会に紛れ込んでいるその工作員はコード・ロータスと呼ばれ、アジアの広い領域をカバーできるコネクションを持っており、彼の影響は東南アジアまで及んでいた。
 コード・ロータスは非常に気むずかしい男で、彼と話をするにはCIAの職員でさえも彼のご機嫌を伺う必要がある。その強気な態度は組織に属する人間としては極めて稀な存在だったが、CIAもその傍若無人さに目を瞑ってまでも彼を利用しているのだから、特異な存在だといえるだろう。
 そんな気分屋の工作員だから、まして海外の警察組織や諜報機関の人間が彼と接触することは極めて困難だった。
 そんな中でも香倉は彼に気に入られたのか、公安特務員としては唯一、コード・ロータスと話ができる人間だ。
 香倉は数年前の海外任務の際に彼と知り合った。あの時も、公安部はCIAと協力体勢にあり、その時香倉のパートナーとしてCIAが指定してきたのがコード・ロータスだった。
 香倉が日本に帰国してからは、香倉の代わりに海外任務となった特務員との橋渡しとして、コード・ロータスに連絡することはあったが、ここ数年は途絶えていた。
 内心、あの高飛車なコード・ロータスに借りを作るのはいい気分がしなかったが、元々香倉が今詰めているこの案件は、CIAも無関係な話ではない。
 コード・ロータスも、そこはCIA本部より指示を受けていたのだろう。彼はあっさりとカンボジアでのCIA協力者リストを教えてくれた。
 今回、香倉が潜入用の装備を調達したのも、そのリストの中にあった武器商のひとつでだ。
 残念なことだが、日本の警察組織は海外でCIAほどの活動領域を持ち得ていない。それは、世間一般では知られていない日本が抱える問題点でもある。
 
 
 香倉は、工場の周辺に張り巡らされた電気フェンスつきの塀を難なくやり過ごすと、敷地内の西隅にある資材置き場の陰に姿を隠した。
 工場の看板には『うまみ調味料製造工場』と明記してあっただけに、香倉が身を隠した場所には、乾燥した小エビの袋が山積みされていたが、その袋は全体的に薄汚れていた。長い間、そこに放置されていたような感じだ。
 ── 偽装工作か・・・
 香倉はそう思いながら、小型の双眼鏡で工場周辺の様子を伺った。
 その双眼鏡は、軍用の高性能なもので赤外線モードも備えられており、こうした闇夜でもはっきりと周囲の様子が見える。
 香倉から見える限りでは、いくつかある平屋の倉庫らしき建物のうち、西側の建物に見張りの男達が集中して立っているようだ。
 工場正面の入り口付近に二人、香倉の位置に面した西側面にも二人、あと周囲を巡回している者が一名いるようだ。
 表向き普通の工場を装っている手前、男達が大きなマシンガンを抱えている訳ではなかったが、おそらく何かしらの武装はしているだろう。だが、彼らに緊張感はない様子だ。おそらくこれまで、外敵に侵入されたことがないのだろう。
 ── それだけが明るい材料と言えるな・・・
 香倉は軽くため息をつく。
 これだけ建物があるのだから、利賀を探し出すのは難航するだろう。可能性で言えば、一番警備が手厚い西側の倉庫が一番怪しいのだが・・・。
 取りあえず香倉は、西側の倉庫に侵入することを決めた。
 利賀がいなくても、あれほど警戒している建物の中には、それなりのものが隠されているだろう。
 今夜はその証拠写真だけでも撮ることができれば、御の字といったところか。
 香倉自身、こんな本格的な潜入捜査も久しぶりのことなので、若干皮膚の感覚が敏感になり、沸き立つようなソワソワ感に襲われていた。
 香倉はそれを落ち着かせるために、一度大きく深呼吸をすると、裏側から迂回をして西側の倉庫に近づいた。
 幸い建物周辺はさほど明るくなく、香倉のように黒い扮装をしていると目立たない。
 倉庫の裏側には利賀を拉致した時の車とおぼしき車両が停められてあった。
 香倉は、その下に潜り込む。そして注意深く辺りの様子を伺った。
 裏側には出入り口らしきものはどこにもないため、立ちっぱなしの警備はいない。
 10分周期で巡回している見張りが通るのみだ。
 ── 入るなら、ここが一番目立たない場所だな・・・
 香倉は双眼鏡で更に念入りに倉庫裏手の壁を調べた。
 一見すると窓もない平面の壁だったが、五メートルほど先の地面の際に通気口が見えた。
 半円型の形をしており、細い鉄の棒三本でふさがれている。
 通気口は小さかったが、香倉は何とか行けそうだと判断した。
 肩の関節を一つ外せば、通れるだろう・・・。
 香倉は、見張りの男が通り過ぎるのを根気よく待って、行動に出た。
 香倉は大きな黒い合羽を腰のポーチから取り出して被り、自分と通気口をすっぽりと覆うと、小型のバーナーを取り出して、鉄の棒を焼き切った。この大きな合羽は、光を外に漏らさないような加工がしてあるので、バーナーの火は見えないはずだ。
 鉄棒を取り外し、香倉は腹ばいになる。
 やはり案の定、肩がひっかかる。
 香倉は左肩を故意に外すと、右手と両足を使って、中に滑り込んだ。
 すぐに、上部の空間が広くなる。
 香倉は周囲を見回しながら、身体を起こした。
 目の前には真新しい銀色の壁がそそり立っていた。
 丁度、外観の古びた倉庫の中に真新しい建物が入れ子状態になっているようだ。
 ── やはりただの工場じゃないということか。
 香倉はそう思いながら、ぶらんと垂れ下がった左腕を掴んだ。
 息を詰めて、関節をはめる。
 慣れた痛みだったが、額にはうっすらと脂汗が浮かんだ。
 これは以前の海外任務で覚えた術だった。
 それ相当の痛みは伴うが、それなりに香倉は傷みに強かった。
 香倉は立ち上がった。
 丁度香倉は、外の殻と中の身の間にある空間にいる状態である。
 空間は天井まで抜けていて高いが、幅は人一人分がギリギリ通れる程度しかない。
 香倉は、内壁に沿うように身体を移動させた。
 ふとひんやりした空気が上から流れてくる。
 香倉は上に目を向けた。
 大きなダクトがぽっかりと口を開けていた。
 明らかに内部で冷やされた空気が漏れてきている。
 香倉は長い手足をつっかえ棒のようにして、壁を登った。
 ダクトの縁に手を引っかけ、一気に身体を持ち上げる。
 香倉が息を吐くと、白く煙った。
 普通の冷房というには、いささか冷た過ぎる。
 明らかにダクトの下の部屋で何かを冷蔵した冷気が漏れてきているように思えた。
 香倉は急激に外皮が冷やされるのを感じながら、ダクトを進んだ。
 ダクトを進むにつれ、冷気は穏やかになっていく。
 どうやら、冷蔵しているのは倉庫の一部分だけらしい。
 ダクトの中は、比較的きれいだった。
 この建物がここ数年の間に新しく建てられたことを物語っていた。
 ところどころダクトの床から光が漏れている。
 香倉は、ひとつひとつ注意深くダクトに開けられた穴から、分厚い金網越し、下の様子を伺った。
 意外なほど、人影は少ない。
 最初の三つの部屋は、何かをストックしているのか、大きなロッカーのようなものが整然と並んでいた。
 倉庫の外見とはまるで違っているほど、清潔で真新しい設備である。
 四つ目の部屋で初めて人を見た。
 白衣を着た男が、薬品らしき瓶が詰まった半透明のポリウレタン製の箱を運んでいた。
 男は明らかに東南アジア系だ。
 男は箱をロッカーに仕舞うと、そのまま部屋を出て行った。
 香倉は、男がロッカーに箱を仕舞う一連の様子をデジタルカメラに抑えた。
 ロッカーには、男が持っていたような同じ箱がたくさん仕舞われてあった。
 香倉は、白衣の男の後を追った。
 音を忍ばせながら、ダクトの中を四つんばいで進む。
 白衣の男は、また新たな部屋に入った。
 今度の部屋は、今までの部屋より随分広い。そしてかなり様子が違った。
 香倉の眼下に広がっていたのは、明らかに何かの化学研究室のような部屋だった。
 フラスコやガラス管が複雑に組まれた装置が複数あり、数人の研究者がそれを覗き込んだり、ファイルに何かを書き込んだりしている。
 しかし香倉には、そんな風景に馴染みがあった。
 丁度菅原の研究室に、これとよく似た形のものがあったからだ。
 規模は菅原研究室にあるものの方がずっと小さかったが、基本構造は似ている。
 ── ということは、何かの植物からエキスを抽出しているということか・・・
 香倉は、カメラに下の様子を収めながら、そう思った。
 そして頭に浮かんだのは、『麻薬』の二文字だった。
 わざわざカモフラージュしてまで行っているのだから、むろん合法的なものではあるまい。
 まさかうまみ調味料なんかではないはずだ。
 ── ひょっとしたら、井手の言っていた患者のことと、何か関わりがあるのかもしれんな・・・・
 香倉はそう思いながら、少し唇を噛んだ。
 
 
 「随分と勇敢に戦われたようですね」
 井手は、赤く腫れた頬に冷却パックを押しつけられながら、そう言われた。
 井手は思わず苦笑いを浮かべだが、それだけでも顔中に痛みが走った。
「あまり無理をしないでください。あなたは一応、か弱い女性ですからね」
 目の前の医者は淡々とそう言いながら、井手の口の中を覗き込んだ。
「口の中も切れていますね」
「別に私は戦った訳じゃないわ。一歩的に襲われただけ」
 井手がそう言うと、細い銀縁メガネをかけたその医者は肩を少し竦めた。
「襲われるほどの理由を作ったほど、戦った訳でしょう?」
 ── ま、確かにそうだけど。
 井手は返す言葉がなくなり、グッと口をつぐんだ。
 井手の背後では、櫻井がため息をつきながら、「本当にほどほどにしておいてくださいよ」と言う。
 櫻井にまでそう言われ、益々井手は小さくなった。
「もう言わないで。反省はしてる。ちょっと突っ込み過ぎた」
 町医者は「ま、あなたらしいですけれど」と笑みを浮かべながら、井手の口の端の裂けた部分に消毒液を浸した脱脂綿を押しつけた。
「幸い、骨は折れてませんよ。鼻もね。ただし、しばらくは腫れますよ」
「ホント、あの人が言ったように美人が台無しね」
 井手は阿倍の姿を思い浮かべながら、鼻を鳴らして笑った。
 町医者は、テキパキと道具を片付けると椅子から立ち上がった。
「どうぞ、ソファーに座って。今、コーヒーでも煎れましょう」
 この古びた診察室には、部屋の傍らに重厚な応接セットがある。
 櫻井と井手は、指し示されたように、二人がけのソファーに並んで腰を下ろした。
 しばらくすると、ドリップコーヒーのいい香りが立ち上ってくる。
「お待たせしました。井手さんには、これね」
 井手の前に氷水の入ったグラスが置かれる。
 井手が向かいに座った町医者の顔を見ると、「こっちの方が、気持ちがいいと思いますよ」と言われた。
 確かに口に含むと、かっかとしている口の中の傷がひんやり冷えて、心地いい。
 町医者は、穏やかな微笑みを浮かべた。
 姿形は香倉によく似ていたが、雰囲気はまるで違う。
 血を分けた兄弟でも、目の前の町医者 ── 小日向は、随分物腰が柔らかい。
「それで? どうしてこんなことに? もし事情を聞いてもいいのなら、聞かせてもらえませんか」
 井手は櫻井を見た。
 櫻井も、「一体井手さんが、オゾッカで何をしてきたのか、自分も知りたいです」と言ってくる。
 櫻井と小日向双方から強い瞳で見つめられ、井手は仕方なく全てを白状した。
 事情を知らない小日向にも分かるように、一番最初の謎の患者達のことから話した。
 流石の小日向も、その不可解な患者達の症状に、表情を渋くする。
「小日向先生、この症状について、何か思いつくことってありますか?」 
「そうだねぇ・・・」
 小日向は顎に手を当てる。
「あなた達が考えたように、何かの薬物中毒のように思えるけれど。でもそれでは、日常生活にも何か異常をきたすだろうから、もっと別の・・・」
「オゾッカについては? 何か情報を持っていませんか?」
 櫻井がそう切り出した。
 小日向は、夜にだけ開く少し変わった病院だ。
 繁華街の近くにあり、ここを訪れる患者は夜の世界に生きる人達がほとんどである。したがってそれなりに裏の情報も集まってくることが多く、香倉も頻繁に小日向から闇の情報を仕入れているようだ。
「オゾッカ製薬については、うちもまったく取引がないからね・・・。それに暴力団がらみの情報にも、オゾッカの名前が出てきたことがないよ。となると、麻薬関連には関わりがないと考えた方がいいだろうね。この国で非合法の薬を流通させたいのなら、必ず暴力団の存在は避けて通れないはずだからね。ひょっとしたら、そんな筋が関係しない、もっと新手の流通ルートができているのかもしれないけれど・・・。そこまでの情報は分からない。お役に立てなくて、申し訳ないね」
 井手と櫻井は互いに顔を見合わせて、苦々しい表情を浮かべた。
「小日向先生にも分からないんじゃ、本気でお手上げね・・・」
 井手はため息をつく。
「香倉には『視点を変えろ』と言われたんだけど。正直、どういう風に視点を変えたらいいか、分からない」
「ふむ・・・・」
 小日向は、井手の話を聞きながらメモった八人の患者の病名を眺めている。
「確かに、井手さんが指摘したように、どの方も重い病ですねぇ・・・」
「ええ。でも、皆別々の病院に通っていましたし、共通点といえばオゾッカ製薬と繋がりがあることが分かっているだけで、それが何を意味しているか・・・」
 井手がそう言うと、小日向が視線を上げた。
「井手さん、今、なんと言いましたか?」
「え? ええと・・・オゾッカ製薬と繋がりがある・・・?」
「いえ、その前」
「別々の病院に通っていたってところですか?」
 櫻井が訊く。小日向は頷いた。
「通っていたとなると、今は通っていないんですか? この人達は」
「え、ええ。そうです。皆、病気を克服しているんです」
「それも立派な共通点でしょうね」
 小日向にそう言われ、井手はハッとした。
 そう言われればそうだ。
 確かに見方を変えれば、『皆、大病を克服している』というのも共通点だ。
 『病院に通っていること』が共通点ではなく、『病院に通わなくなった』というのが共通点なのだ。
 小日向が、メモをローテーブルの上に置いて、指し示す。
「拘束型心筋症、拡張型心筋症、多発性嚢胞腎、再生不良性貧血、多発ニューロパチー、特発性間質性肺炎、網膜色素変性症。いずれも大変重い病気です。どれも通常の治療では、症状を緩和することはできても完治は不可能でしょう。それなのに、患者さんは皆、病院に通わずともよいぐらい、症状がよくなっているわけですよね」
「ええ、そうです」
「それは十分に珍しい点だと言えますよ。この点に目を向けると、自ずと一つの治療方法が浮かび上がってきます」
「それは・・・それは一体なんですか?」
 櫻井が身を乗り出した。
 小日向は、大きく息を吐くと、おもむろに口を開いた。
「それは・・・」

 

接続 act.20 end.

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編集後記


前回に引き続き、またもや一週お休みをもらっての更新、ホンマ、すんません(大汗)。
今回は、ちょっと動きがあった回となりました。
アニキ、めちゃめちゃ007だし。というより、メタルギアって感じか(汗)。
そして日本では、香倉兄登場でございます。
一見、弁護士風の町医者っていう設定。ふふふ、うさんくさぁ~い。

ま、それはおいておいて。
ウィンブルドン、いよいよ決勝ですねぇ。
女子は姉妹対決。男子は、三年連続同じカード。
ウィンブルドンはいずれも深夜枠の放送なんで、本気で寝不足です。
半分夢うつつ状態で、見てます。
そこまでムキになって見んでも・・・って思うんですけど、スポーツ番組観戦、ホントやめられないんですよねぇ・・・。野球以外(脂汗)。


[国沢]

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