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nothing to lose title

act.40

 目前の灰銀色の瞳は、その瞬間も不気味なほど冷静で落ち着いていた。
 己の額の真ん中に銃口を突きつけられているというのに。
 むしろ怯えていたのは、銃口を『彼女』に向けている自分の方だった。
 銃口は小刻みに震えていた。
 鉛色の艶やかな銃身の先にある瞳は、凍り付いた氷河のような美しい。
 その瞳は銃口越し、真っ直ぐ俺の目を見つめていた。
 背後から次第に男達の怒号が近づいてくる。
 異国の言葉が香倉を追い立てる。
 自分の額に大粒の汗が浮かび、たらりと垂れていくのが分かる。
 我が身を押しつぶす感情の波が最高潮に達そうとしたその瞬間。
 彼女が言った。
 俺にしか聞こえない、ごく小さな声で。
「引き金を引きなさい、カズ」
 彼女の声は、命がかかった極限の状況でも落ち着き払っていた。
 いつもの命令を下す時と全く同じ声色。瞳の色。
 顔を歪めて小さく首を横に振る俺に、彼女は再度言う。
「任務を遂行するためには一人が生き残っていればいい。ここで二人が消える訳にはいかない」
 その言葉を聞いて、全身に鳥肌が立った。
 彼女が冷静であればあるほど、俺の中の恐怖は倍増していく。
 彼女に教えてもらったこと。そして彼女と分かち合ったこと。
 それら記憶の全てが、俺の指を雁字搦めにする。
 この引き金を引けば、この世から彼女という存在が失われる。明日のこの世から彼女がいなくなる。
 しかも、その最期の幕引きを他ならぬ自分がやろうとしているのだ。
 彼女は全てを教えてくれた。
 武器の扱い方、潜入捜査の極意、任務を全うする尊さ、意義。そして、人として人を想う愛情すらも。
 一人前のスパイとして『結城和重』という男を実際に育て上げたのは彼女だった。
 そして小日向秀尋という男を一人の男として磨き上げたのも彼女だった。
 ── そんな彼女に引き金を引くなんて、本当にできるのか? 本当に?
 俺はたまらず目をギュッと閉じた。
 この場から逃げてしまいたいと、心から願った。
「目を開けなさい、カズ。逃げるんじゃない」
 俺は目を開く。
 男達が益々迫り来る。
 アメリカの雌犬を早く殺せ、殺せと男達が叫ぶ。
「カズ、これがお前の任務なんだ」
 最期にそう、彼女が言う。


 香倉は、うっすらと目を開けた。
 まず感じたのは、すぐ側に寝転がる体温。そして女がいつもつける甘い香水の香り。
 心地よさそうな寝息をたてる女とは違って、香倉はびっしょりと寝汗をかいていた。
 ベッドの上で身体を起こし、深い溜息をつく。
 久しぶりに女を抱いたせいなんだろうか。
 『彼女』の夢を久方ぶりに見た。
 香倉にとって、堅く封印してきた記憶。
 口の中に浮かぶ唾液がふいに苦々しく感じて、香倉は深い虚脱感を感じた。身体が鉛のように重たかった。
 身体が疲れているのはもっともだった。
 夕べミンは、香倉をベッドに誘い込むと、何時間も彼を離さなかった。
 普段は複数の若者を寝室に呼びつけるミンだったが、夕べは香倉一人だけだった。
 お陰で休む暇もなくずっと奉仕させられ続けた訳だが、その辛さよりも女の肌が『彼女』のことを思い起こさせて、そちらの方が余計辛かった。
 いや、「辛かった」と簡単には表現できない傷だ。
 あの日、この世から彼女が消えたと同時に香倉の中の何かも『消えた』。
 そのことを思う度、この世から消えたいと何度考えたろう。
 その都度、『全ては尊い任務の為に命を賭すのだ』、『大儀の為なら時として我々は命の選択をせねばならない』と香倉に教え諭した彼女の灰銀色の瞳が脳裏に浮かんだ。その目に全く迷いはなかった。
 その彼女の言葉をよすがにして、生きてきたのだ。今まで。
 彼女は誰よりも強く、そして美しかった。
 姿形が単に美しいというだけではない。並の人間が想像もできないほどの魂の強さが醸し出す、壮絶な美しさだった。
 しかし、誰よりも強い魂を持っていたはずの彼女は、もうこの世にはいない。
 香倉は、自分の両手を見下ろした。
 一見すると何の変哲もない手のひら。
 しかしその手は、実際には血で汚れている。
 ── 自分は、愛する人を自ら死に追いやったことのある人間なのだ。
 それは香倉の人生に一生まといつく重い罪だった。
 任務を遂行する上で必要だったとCIA・日本の警察双方の報告書でそう記載されていることとはいえ、それだけでは割り切れる訳はなかった。
 しかし何年もの月日が流れ、香倉自身も経験を積み、彼女の言っていたことを心の底から理解できるようになってきた今に至るまでに、香倉なりに消化してきたつもりだった。
 表向き動揺を見せず、大儀のために尽くす人間としてやっていくために、なんとか自分の中で折り合いを付け、選んだ道だった。
 時として自分自身ゾッとするくらい冷徹に任務と向き合えたのも、この経験のお陰だった。
 自分は大丈夫。彼女の教えの通り、きちんとやって行けてる・・・。
 そう思っていた。
 あの夜、櫻井が目の前で泣き出すまでは。
 日本を発つ前、香倉と深く抱き合った櫻井が「これは香倉さんの涙だ」と言って泣いたのを見た時、胸の傷を暴かれたように感じた。
 自分が今だその傷に痛みを感じていることを思い起こさせられた。
 むろん、櫻井に『彼女』の存在を話したことはない。
 あえて話さなかったわけではない。話す勇気がなかったのだ。
 香倉は櫻井のことを思い、そのことを後悔した。
 櫻井を大切に思うなら、かけがえのない人だと思うのなら、やはり自分は告白すべきだったのだ。
 自分という人間を語る時に、絶対に欠かすことができない女(ひと)のことを・・・。
「う、ううん・・・」
 ふいにミンが寝返りを打つ。
 香倉の思考はそこで切り替わった。
 ── 例えこの任務の結末がどうであれ。
 自分の進む道には必ず意義がある。
 この世の中が少しでもより良きものとなるために。
 そのために自分は生かされてきたのだと。

 

接続 act.40 end.

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編集後記


ギリギリの更新になっております。
早くもピンチ、国沢です(汗)。

国沢がピンチなのと同時に、香倉の兄貴もそこはかとなくピンチ(汗汗)。
母と一心同体のよき息子です・・・。

ところで、更新が遅れたのは、先ほどNHK特集でやってたヤノマミ族の番組がかなりショッキングーな内容だったせいです。
自然の中で暮らす人達って、やっぱ現代人より肉体的にも精神的にもタフだって思うけど、よもや生まれたばかりの子供を人として育てるか、精霊としてまま森に返す(と書けばやや穏やかだけど、実際のところかなりヘビーな行為と想像できる)か選択する風習があるなんてことになってるとは、よもや想像もしていなかった。
しかも年間平均20人ぐらい生まれるうち、半分ぐらいしか人として育てられないって・・・。確率1/2じゃんか・・・・(脂汗)。
大自然の中で生きていく上で、なくてはならない掟とはいえ、ちょっと動揺してしまった。
世の中には、この世に生を受けても育つことのできない命がたくさんあるってことをまたもや思ってしまった。
というのも実は最近、その他にもここのところ今の自分の生活の奇跡さ(というか、恵まれている状況にある)というのを実感させられる情報に触れることが多い。

例えばとある雑誌に掲載されてた記事で、世界にはワクチン不足で日に5,000人の子どもが亡くなっているらしい。そのことを新聞記者に説明するのに大学の先生がたとえた例が「500人の子どもの客ばかりを乗せたジャンボジェット機が毎日10機墜落しているのと同じ状態」というのがあって、その生々しさにドキリとした。
他にも、豊かな(文明的な)生活をしている人間は、世界の総人口のうちのほんの10%に満たないという記事。
その他にも、先日の天皇陛下ご成婚50周年記念特集番組の中で陛下がおっしゃっていた「私が子どもの頃は日本はずっと戦争をし続けていて、平和な頃がなかった」という言葉を聞いて、改めて今のこの普通の生活が本当は「普通」ではない奇跡的な条件の上に成り立っているんだなぁと痛感したわけです。

・・・。

なんだか堅い話ばっかしてすみません・・・。
年のせいかな・・・。


[国沢]

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