act.36
部屋の電気を消されても、櫻井はしばらく眠りにつけなかった。
さっきまで盛んに聞こえてきていた車のクラクションや大型船の汽笛の音も今はすっかり静まりかえり、磨りガラスの外の明かりも随分暗くなってはいたが、およそ睡魔は訪れてくれなかった。
例の写真が瞼の裏に焼き付いているようで、目を閉じてもあの写真の光景が浮かんでくる。それと同時に、何とも言えない暗い気持ちが、身体の芯から湧き上がってきた。
元々 ── そう、彼がまだ普通に櫻井正道として生きていた時分は、醜い嫉妬心とは無縁に生きてきた。
ずっと一人きり、孤独の中に暮らしていたので、嫉妬する必要がなかったからだ。
たまに夫婦仲のいい先輩刑事達の家庭に呼ばれ、そんな暮らしを少し羨ましく思うこともあったが、自分が孤独の中で生きなければならないことは自分の犯した罪の清算だと思っていたので、羨ましいと思う心も彼自身が戒めた。
だが、香倉という存在を知ってからというもの・・・。
櫻井は自分が意外に嫉妬深い人間であることを痛感させられた。
むろん元来無口で内向的な性格をしているので、嫉妬心をおおっぴらに表現することはなかったが、自分の中に沸き立つ心地悪い感情を感じる度に、櫻井は自己嫌悪に陥った。
嫉妬心は愛情の裏返しというが、恋愛経験が未熟な櫻井にとっては、純粋に自分の中で酷く持て余してしまう感情に他ならなかった。嫉妬心が大きく膨らみすぎると自分の足下が掬われてしまうようで、やたら怖かった。
── きっとあれは仕事だ。ああしないと、身に危険が及んだから、香倉さんはそうしたんだ・・・
櫻井は無理に目を瞑ったまま、何度も何度も心の中でそう繰り返した。
香倉が日本を発つ前、最後に会った時、香倉が言ったことを思い出す。
『例えお前が誰と寝ようと、俺のお前に対する気持ちは絶対に変わらない。そしてもし、俺が誰と寝ようと、お前に対する気持ちは絶対に変わらない』
── きっと香倉さんは、まだ俺を好きでいてくれている。きっとそうに決まってる・・・。
繰り返しそう自分で言い聞かせているうちに、ようやく睡魔が訪れてきた。
やがて櫻井は、スースーと規則正しい寝息を立て始めたのだった。
井手靜の携帯がけたたましく鳴り始めたのは、丁度患者を自分の診療室から送り出した時のことだった。
井手は、絆創膏だらけの顔を激しく歪めた。
最近・・・香倉と櫻井が日本を発ってからというもの、どうも心ここにあらずという感じで、日々集中力が途切れてがちだあった。今のさっきまで診療中だったというのに携帯電話の電源を切るのを忘れていたことに気がついたからだ。
「よかった・・・。診察が終わってからで・・・」
そんなことを呟きながら携帯をカバンから取り出し、手に取る。
ハッとした。
携帯電話に番号は登録していなかったが、それは見覚えのある番号だった。
警視庁公安部からだった。
井手は怪訝そうに眉を顰める。
警察関係者なら、井手の身辺護衛として警視庁の警備部の人間が二人、今もこの部屋の外にいるはずだからだ。
それなのに直接井手の携帯を鳴らすとはよっぽどのことか。
井手は一瞬、香倉と櫻井の顔が脳裏に浮かんで、背筋に悪寒が走った。
ひょっとしたら、彼らのうちのどちらかの身によくないことが起こったのかもしれない・・・。
井手は心臓がぎゅっと押しつぶされるような息苦しさを感じながらも、取りあえず出入口のドアに鍵をかけ、都会の風景が眼下に広がる大きく開けた窓にもブラインドを下ろした。それから電話に出る。
「もしもし・・・」
低い声で井手が出ると、案の定、あのダミ声が『先生、死にそうな声だな』と返してきた。
むろん井手は榊の冗談に付き合う気はない。
「どうしたんですか? 部長自らわざわざご連絡くださるなんて。・・・まさか、香倉か櫻井君の身に何か・・・」
『何かなかった訳じゃないが。二人ともまだ生きとる』
井手はホッと胸をなで下ろす。
「じゃ、本当にどうしたんです?」
あの二人が無事であることはいいことだが、榊がこうして井手に連絡を取ってくる時は、およそいい知らせではないはずだ。
井手のその予想は当たった。
『先生を護衛する人数を今日から四人に増やすことになった』
井手は更に顔を顰めた。
「なんですって?」
『今、増員分のSPがそちらに向かっている』
「どういうことですか?」
── 何かあったに違いない・・・・。
井手の中にまたもや不安が浮かんだ。
珍しく榊の声の歯切れが悪くなる。
『実は、お前さんを襲った奴らだがな』
「ええ。数日前から釈放して泳がせてたんでしょう?」
『そうだ。それが・・・』
「まさか、逃げられたっていうんじゃないでしょうね?」
井手がそう詰め寄ると、榊は『それならまだマシだったんだが』と返してきた。
「なんですって?」
逃げられるより酷いことがあるのかしら・・・と井手が口を尖らせると、榊から衝撃的な台詞が零れ出てきた。
『死んだよ。二人ともな。今朝、仲良く東京湾から車ごと引き上げられた』
井手は一瞬言葉を失った。
榊も井手の沈黙を無駄にはしなかった。
井手が落ち着くのを待つように、あの饒舌な榊がじっと黙って井手の次の言葉を待った。
井手は、耳から携帯電話を外すと、自分を落ち着かせるためにその場を行ったり来たりと歩き回った。
大きく深呼吸をする。
そうして井手は、再び携帯を顔に押しつけると、「それ、本当ですか?」と聞き返した。
でも内心はそれが真実であると、彼女も理解していた。
『こんな恥ずかしい嘘、わざわざつきはしない。我々は完全に相手に先手を打たれた訳だからな』
そういう榊の声も十分苦々しかった。
「二人を殺した相手の目星はついているんですか?」
井手がそう訊くと、『いいや』と榊が言った。
『奴等が母体に接触する前に殺されたんだ。・・・いや、殺されたのか自分で死んだのかすら、どっちつかずだな』
「どうして?」
『港からブレーキもかけずに車が海に飛び込んだのを見た人間がいる。車種も一致していて、状況が指し示すに自殺の線が濃厚だ』
「自殺・・・」
『むろん、我々はそう思っていないがな。十中八九、奴等は消された。警察にしっぽを掴まれたんだからな。この対応の素早さからすると、敵は相当危険で、なおかつ統率されている輩だ。だから念のため、先生の身辺警護を強化する必要がある』
「それで・・・。どうするんですか? 手がかりを失ってしまった訳でしょう?」
『引き続き、オゾッカ製薬を見張るしかないだろうな。支社長の監視を増やすつもりだ』
それを聞いて、井手は少し考え込んだ。
脳裏に、蛇のような目をした男の顔がふと浮かぶ。
── 確か、あの男・・・・・
「もう一人、マークして欲しい人物がいるわ」
井手は続けた。
「鵜飼という男。確か、オゾッカ製薬日本支社の営業本部長だったはず。私が襲われた日、オゾッカで対応したのが鵜飼だった」
『鵜飼? 営業本部長については以前調べたところ、何も出てこなかった筈だがな』
「それは、鵜飼に調べられていることを感づかれていたからじゃないですか? あの男は随分周到な人間に見えました。あの眼も、ただのサラリーマンには見えなかったわ・・・」
井手は、強い口調で言った。
今更ながら、不安を的中させる井手の勘が鵜飼に赤信号を点していた。
「彼は近いうちに私に連絡をくれると言ったきり、そのままにしている。私が襲われて怪我をしたことを知っているに違いないわ。そして精神的にも痛めつけられて、怯えていると思っているに違いない。だから彼は連絡をよこしてこないのよ」
『もしそれが本当なら、鵜飼も随分お嬢さんを見くびったものだな』
今日初めて榊らしい笑い声が受話器から漏れ出てきた。
『現に襲った相手は、精神的ダメージを受けているどころか、顔に絆創膏を貼ったままもう仕事に復帰してる訳だわけだからな』
「あの日、私は、彼がその後私に絶対連絡を取らなければならないほどのブラフを仕掛けてきた。冷静に考えると、それについてのアクションがないのは、不自然過ぎる。私が襲われたことについての情報は、もちろん公にされていな訳よね」
『むろんだ』
「だからこそ断言できるわ。鵜飼は私が死にはせずとも、それなりの大けがをしたと思っている。それ自体が、私を襲った連中と鵜飼が繋がっている証拠ではなくて? ひょっとしたら、あの会社自体を実際に動かしているのはあの男かも知れない」
『 ── 分かった。鵜飼にマークをつけよう』
井手は一際携帯を握る手の力を強めた。
「お願いします。絶対に尻尾を捕まえて。それが香倉や櫻井君を救う手だてになるのかもしれない」
今度は、榊の方から沈黙がもたらされた。それは随分と重い沈黙だった。
『そうだな・・・。香倉の件といい、今回の件といい、公安は失態続きだ。これ以上ヘマを繰り返すと、俺自身首をくくらにゃならん』
それを最後に、電話は切れた。
井手はしばらく、暗い部屋で携帯の明かりを見つめる。
そしてぽつりと呟いた。
「公安の鬼軍曹ともあろうアンタが弱音なんて・・・らしくないわよ」
接続 act.36 end.
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編集後記
新年から二回も休んじゃってすみません(汗)。
うちのお猫様が逝って、はや一週間と少し。ようやく落ち着いて来ました。
でもやはり、今まで普通にいてくれた存在がいなくなるって、寂しいというかストレスなのか、最近無駄金をよく使っています・・・(大汗)。
二月に年に一度の自己解放デー(=及●光博ワンマンショー)が近づきつつあるので、それもあるのですが、金がないといいながら、アクセサリーパーツやネイル素材をネットで買いまくったり、今年行く予定にしていなかったバーゲンセールにふいに行ったりして、自分でも今まで自制してきた日々はなんだったの?というほどの無茶買いに走ってます(脂汗)。
ああ・・・己に弱き人間よ・・・(涙)。
三十路半ばだというのに、まったく大人になれません、国沢。
大人といえば、夕べ見たハリー・ポッターというか、ラドクリフ君の大人になりっぷりにしこたまびっくりしました。
第一作、二作目まではきちんとみていた国沢、しかしその後、うろ覚え程度にしか見ていなかったので、あんなにデカくなってるとは知りませんでした。
だって、すね毛あるし、ちょっと胸毛もあるし(笑)。
なにげないお風呂シーンがもはや全世界のお姉様らに対するサービスショットのようにしか思えんかった(笑)。
さすが外人。14歳とて、身体の成長は日本人より随分早いように思います。
第一作目の時なんて、お人形さんのようにちびっちゃかったのに~~~~!
いやはや、若者の成長はあっという間ですな。
最近ブログも更新していないんで、無駄金ついやした末にできたお手製アクセサリーなんぞをアップでもしようかしら・・・。
[国沢]
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