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nothing to lose title

act.14

 白い人達は、何だか困っているようだった。
 それもこれも、僕らの仲間の落ち着きがなくなってきたせいだ。
 中には突然暴れ出す子もいて、そういう子達は黒いバンドをした人達がすぐにやってきて、あっという間に連れて行った。
 毎日の注射は、一回につき二本に数が増やされた。
 おおむね仲間達は、それを歓迎した。
 古くからいる人ほどすぐに落ち着きを取り戻して、今までのような日々が戻ってきた。
 ── 僕はと言えば・・・。
 ホントいうと、まだドキドキは収まらないんだ。
 でもそんなことを口に出すと、僕もあの子らみたいに黒い人達に連れて行かれてしまう。
 けれど、僕の中で浮かんだ『疑問』はちっとも消えやしない。
 例え注射が二本になったって、消えてないんだ。
 ── 僕らはどこからきて、何のためにここにいるのか。
 小さい子らは「家に帰りたい」と泣いては黒い人達に連れて行かれたけれど、僕は家のことすら、というか『家』が何かすら忘れている。
 そう、『忘れて』いるんだ。
 きっと僕は、ここに来るまで『家』のことを知っていたんだ。
 でもそれが、どうしても思い出せない。
 僕のドキドキは募る。
 僕らが、ここにいる意味はなんだ。
 僕らが、こんな風に生かされている意味はなんだ。

 
 カタンカタンと電車が揺れる。
 窓からは、無数に輝く街のネオンサインが瞬いて見える。
 その毒々しい光がやがてオレンジ色の住宅の明かりに代わり、櫻井はドアに身体を預けてながら「ほう」とため息をついた。
 仕事が終われば、櫻井はこうして普通の人と変わりなく電車に乗って、高橋秀尋として住んでいるマンションへと帰る。
 何だかふいに普通じゃない立場の自分と何も変わらない世の中の日常にギャップを感じて、時折櫻井は自分が奇異なモンスターであるような気になることが多々あった。
 自分は、戸籍上死んでいる人間である。
 自分のしている仕事は、国を守るためとはいえ誰にも言えず、まして自分が愛している人のことを公言できる立場でもない。
 今はこうして普通に民間人と何ら変わらない様子で同じ電車に乗っているというのに、皆と同じことをするのは許されていないのだ。
 だがそれも、自分が選んだ道。
 きっと公安の特務員になった人間は、いつもこの手のジレンマと闘っている。多分、香倉も。
 もし香倉も櫻井も『普通』の『民間人』だったとして、男同士の恋愛を公言するなんて難しいことかもしれない。社会的動議というやつだ。
 ── けれどもし、自分が『普通』の立場の人間だったとしたら・・
 櫻井は躊躇いなく「香倉を愛している」と、本当に信頼している人達には告白しただろうと思う。
 井手にも高橋部長にも吉岡にも吉岡の妻である小夜子にも、きっと胸をはってそう言っただろう。
 ── だって、生まれて初めて心の底から好きになった人だから。
 今だって、香倉のことを思い浮かべただけで、こんなにも動悸が苦しくなる。
 つい、逢いたくてたまらなくなる。
 同じものを見て、同じ空気を吸っていたいと思う。
 世の中では、恋に夢中になって世の中がバラ色・・・だなんてドラマや漫画が蔓延しているが、少なくとも櫻井の心を襲っているのは自分でもどうしようもない『切なさ』だった。
 今でも、香倉のことを考えただけで僅かだが涙腺が緩んでしまう。
 あまりに刹那的すぎて。
 ── 本当に、どうかしてる。
 香倉に出会ってからコントロールできない感情が多すぎて、本当にどうしていいか分からない。
 香倉に出会うまでは、どんなに深い悲しみもどんなに苦しい寂しさも自分なりに乗り越えてきたというのに。
 櫻井は目尻を指で乱暴にこすって周囲を見回した。
 斜め向かいの座席に座る若い女性とふいに目があった。
 向こうは櫻井と視線がかちあって、慌てて視線を外す。その表情は気まずそうなものだった。
 指には涙の感触はなかったが、いかにも泣き出しそうな顔つきでもしていたのだろう。
 黒ずくめのスーツを着て、ビジネスバッグも持たず沈んだ顔つきで電車に乗っている男を「変な人」だとでも思ったのか。
 女性は再度確認するように櫻井を見てきた。今度は、櫻井の方がバツが悪くなって視線を外した。
 櫻井は腕時計を見た。
 香倉はもう日本を発っているだろう。
 昨日もらったメールは発つ時間まで書いていなかったが、おそらく昼間には飛行機に乗っているに違いない。
 香倉が日本にいない。
 たったそれだけの事実で、櫻井は酷く不安になってしまう。
 何だかまた独りぼっちになってしまったような気がして。
 こんなことを思う度、こんなんじゃ駄目だと櫻井は自分を責めるのだった。
 櫻井が駅から出て、携帯の電源を入れたなりにメールが入ってきた。
 思わずドキリとする。
 一瞬香倉からかと浮ついた気分になったが、次の瞬間にはそんなことあり得ないと思い直した。
 案の定、メールの相手は阿部だった。
 阿部はああ見えて、はやりの電子機器には強い。
 簡単な連絡・指示についてはこうしてメールを送ってくる。
『昨日報告をもらった件、内偵を始める』
 メールにはそう書かれてあった。
 昨日の件とは、櫻井が公安部に報告を上げてあったフリーライターの件だ。
 実際には些細なことで捜査の筋とは関係のないことだとしても、一応きちんと報告を上げることにしてあった。
 公安の特務員は、最低でも三日に一度定期連絡を本部に入れる規則になっている。
 その規則が守られなかった場合は公安部離脱と見なされ、公安部独自の内務調査係が動き出すことになっていた。うっかり連絡のし忘れということであれば厳重注意や訓告で終わるが、本気の離脱行為であればそれなりの『処分』が待っている。
 特務員の間ではそれを『粛正』と呼んでいるが、本来の意味である「厳しく取り締まって不正を正すこと」の指す意味は極めて残酷だ。言ってしまえば、過去公安にとって最大の敵だった赤軍派が行っていた粛正と結末は同じと言えないが、極めて近い内容である。
 特務員が相手側に寝返るということは、国家の危機に直接結びつく。
 それが警察当局の考えだった。
 だからこそ、離叛者が出ればそれなりの対応を取らざるを得ないということだ。
 過去にどれぐらいの離叛者が出ているのかは明らかにされていないが、少なくとも行く末がどうなるかは一年間の特務員講習でみっちりと頭の中にたたき込まれている。
 法治国家であるはずの日本の中でも、このような厳しい立場に立たされながら任務についている警察官が存在することを、誰が想像するだろう。
 櫻井は公安部内偵調査係の人間にお目にかかったことはなかったが、阿部に言わせると「あんな奴らのことを口にするのさえ縁起が悪い」と首を竦ませるのだった。
 櫻井は、家までの道のりを歩きながら、『了解』とメールを打ち返した。
 内偵が始まったとすると、そのうちあのフリーライターがどういう目的で河田に近づいてきたのか、明らかにされるだろう。その結果如何では、社長室に盗聴器を仕掛けることもありうる。そうなれば、仕掛ける人間は他でもない自分になるだろう、と櫻井はそう考えていた。
 公安部の捜査で盗聴器はよく使われる手段だが、違法な使い方をすると証拠として採用されず、合法的に行うとすれば確実に犯罪性があるという確信がないと行えない。それは公安でも同じことだった。そういうところは律儀にルールが守られている。
 もしこのフリーライターの件からオゾッカ製薬の違法性が明らかになれば、盗聴器を使用してもっと確かな証拠を掴むことも可能だ。
 そうすれば、この件は予想以上に早くクローズするかもしれない。そうなれば、香倉の海外派遣にも素早い撤退命令が出るかもしれない。
 ── 早くそうなればいい・・・。
 漠然とした不安を好転させる光が見えたような気がして、櫻井は携帯を胸に仕舞いながら少し微笑んだのだった。
 翌日、櫻井は河田に社長室まで来るように呼び出された。
 櫻井ばかりか、陣野まで呼び出されたところをみると今日も大幅な予定変更だろうか。
 陣野と顔を見合わせながら社長室に向かうと、河田は二人の顔を見るなりこう言い放った。
「今日から、海外出張に出る」
 櫻井と陣野は再び顔を見合わせた。
 それはまったくもって突然の申し出だった。
 しかし今回の予定変更は、オゾッカ製薬側としては予定調和のことだったらしい。
 今回ばかりは、社長の横に立つ秘書も動揺していない。
「ということは、河田さん・・・」
 陣野が呟くと、秘書が「陣野さん達には、空港までの警護をお願いします」と言いながら大きな手帳を開く。
「帰国はいつになるか分かりませんので、予定が決定次第、そちらの本社までご連絡させていただきます」
 そう言われては、陣野もハイと頭を下げるしかない。所詮は民間の雇われ警備会社だ。
 これまでも河田が海外に出る場合は、その土地土地でオゾッカ本社が手配した要人警護会社が河田を守ることになっていた。沖がついていた時でさえ、沖が海外までついて行くことはなかった。
 河田の出発は早かった。
 荷造りは既に済んでおり、すぐに空港へ向かうことになった。
 おかげで先着隊が大慌てで先に空港へ向かうことになったのだが、陣野の表情にはどこかほっとした表情さえ浮かんでいた。陣野もこれまでの河田の異常な多忙さの意味がこれでわかり、しっくりきたようだ。
 しかし櫻井の内心は穏やかでなかった。
 河田のこの動きは、自分の身辺が櫻井によって嗅ぎ回られていることに気がついたせいではないか、と一瞬考えた。だがそれもそうではないと思い直す。
 そうであれば、櫻井だけを切ればいい話だった。いやそうでなければセイフティ・ユニゾンごと切ればいい。
 秘書の口ぶりでは別にそういうことはないようなので、やはりこれは一連の動きのひとつなのだろう。
 そう考えると・・・。
 いよいよ活発に動き始めたということだ。
 ここにきて、香倉が内偵を進めていた大学の研究員が海外に出たことと同調した動きが出てきたということになる。
 しかしそうなると別の不安が生まれる。
 利賀には香倉がついているが、河田には誰もつけられない状態である。
 河田の宣言があまりにも急だったために、必然的に公安もそれに対する準備がたてられていない状況となってしまった。
 ── それは俺の失態だ・・・。
 空港で河田の乗った飛行機が飛び立つのを見つめながら、櫻井は唇を噛みしめた。
 河田のここ最近の動きから、海外出張への流れが詠みきれなかった。
 ── とにかく、報告をしなければ・・・
 櫻井は逸る気持ちを抑えつつ、一旦車を会社に戻すため、陣野達とオゾッカ製薬に戻ることになった。
 何事もなく会社に戻った一行は半地下の駐車場に車を止め、先着隊も含め、いつものように社内に入った。
「高橋、オゾッカに残す日報の記入を頼むぞ」
「はい、分かりました」
 陣野は『高橋』と会話を交わしつつロビーに出て、エレベーターホールに向かう。
 陣野の背後では、「やれやれ、これでまとまった休暇でも取れるかなぁ」と山田が先着隊の同僚と軽口を叩いていた。そんな気の抜けた様子を陣野は眉間にシワを寄せて眺めた。
 山田は腕はいいが、精神的にこうした要人警護に向いていない気質がある。
 ── やれやれ、沖さんにまた報告しなけりゃならない・・・。
 まるで同僚・・・というか部下の悪口を告げ口するような気分になって、陣野は気が重くなった。
 少なくとも、この高橋のようにきちっとしてくれれば、山田だってチーフぐらいにはなれるだろうに・・・と思う。
 陣野は横に立つ高橋に目をやった。
 今も前を真っ直ぐ見ているその横顔は、揺らぎなくしっかりしている。
 性格は真面目一辺倒で、武術の腕も確か。人と馴染みにくい性格をしているのが難点だが、要人警護の人材としては、それぐらいが丁度いい。
 陣野は高橋と山田を見比べながら、少しため息をついた。
 と、その時だ。
 エレベーターのドアが開いた。
 そしてその中に、ベージュのパンツスーツを身にまとった背の高い女性がいた。
 真っ黒く長い髪をきっちり後ろで纏め上げ、細い身体のくせにやけに大きな黒いカバンを肩から提げている。
 滅多に見られない美人の登場に、山田が反射的に口笛を鳴らす。
 さすがに陣野も山田の緩み具合が我慢ならなくなった。
「おい、山田。いい加減にしろ。失礼だろ。── すみませんでした」
 陣野が女性に謝る。
 しかし女性は、そんな陣野の声などまるで耳に入っていなかったようだ。
 彼女は、その美しい容姿には似つかわしくない、あんぐりと口を開けた表情で、真っ直ぐ高橋の顔を見上げていた。
 当の高橋はというと、こちらも目を見開いたまま、完全に硬直してしまっている。
 瞬きするのを忘れているようなその様子は、これまで陣野が見たことのない彼の姿だった。
 陣野が二人を代わる代わる見ているうちに、エレベーターのドアが閉まりかける。すると、中からおそらく『開』ボタンを激しく連打する音が聞こえてきた。
 ドアが開くと、今度は凄い勢いで女性が箱から出てきた。
「ちょっと! あなた! さっ・・・・」
 女性はそこまで口走ると、ようやく陣野達の存在に気がついたようだ。
 彼女は慌てて口をつぐむと、
「と、とにかく、話がある、あなたには。いっぱい話があるのよ!」
 と言い放つ。当の高橋は、完全に逃げ腰の様子で「あの・・・ええと・・・その・・・」としどろもどろになっている。そんな彼を見るのも初めてだったので、陣野も山田でさえも驚いていた。
 どこからどう見ても、ヘビに睨まれたカエルといった様子だった。
「ちょっと来なさい」
 こともあろうか有段者の高橋の胸ぐらを掴んだその美女は、そのまま高橋を連れて行こうとする。
 そこでようやく、高橋が「すみません、あの、自分はまだ仕事中で・・・」と断りを入れる。
「仕事?」
 美女がキッと陣野をにらみつける。
「彼、休憩とか取れないんですかね」
 これまた美しい容姿に似合わない猛々しい言い方だった。
「いや・・・それは・・・」
 美女の迫力に陣野が言いよどんでいると、山田がぐいっと前に出てきた。
「いいんですよ。ええ。連れてっちゃってください。どうせもう仕事終わるところですから。引き継ぎもいらないし。ね」
 山田が陣野を振り返る。
 陣野は口をパクパクさせた。
 ── 確かにそりゃそうだけど、それって許されるのか?
 陣野がそう思っている内に山田にエレベーターに押し込められた。
 ドアが閉められる。
 陣野がドア越しに見た最後の風景は、もはや美女に殴られんばかりの勢いで噛みつかれている櫻井のかわいそうな姿だった。
「山田、お前なぁ」
 箱が動き出す重力を感じつつ、陣野は横目で山田を見た。
 山田はいやに神妙な顔をしてこう言う。
「陣野さん、痴話げんかは犬も食わないっていうでしょ。ありゃ、よっぽど酷い捨て方しちゃったんだろうなぁ、高橋のやつ。それとも、逃げてきちゃったのか、ですね。多分、この後もの凄いことになるから、高橋はマジ明日有給で休むってことにしといてやった方がいいですよ」
 今流行りのDV女ですわ、くわばらくわばらと念仏を唱える山田の姿に流石の陣野も背筋が寒くなった。

 

接続 act.14 end.

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編集後記


お久しぶりでございます・・・。すみません。自転車操業の小説更新でございます。
本日はいかがだったでしょうか。
いきなりの井手女史と櫻井君の再会。

次週、血の雨が降らなきゃいいが・・・(力汗)。

今流行りのDV女ですわ(山田談)。←ねえさん、酷い言われようだ(笑)。

忙しさにかまけて、ブログも更新しておりませんが、またぼちぼちとくだらない話を書き始めたいと思います。
まぁ、ホント日々のくだらん話なんで、箸にも棒にもひっかかりゃしませんが・・・。

あ、そうそう。また5月に友人達と天瀬の温泉に行くことになりました。
前回の温泉宿と同じところです。
そうです。
はっきり言って、

リベンジ旅行です(力汗)。


事情をご存じじゃない方にとっては、「温泉宿にリベンジ?」だなんてお思いの方もいらっしゃると思いますが、それはそれなりの事情がございます。
このリベンジ旅行については、またブログの方ででもご報告したいと思っておりますので、皆さん応援してください!


[国沢]

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