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act.09

 井手は、受話器の向こうから寄越される返事に、ある程度予測がついていた。
 これが八件目、最後のケースともなれば、これまでの七件が同様の結果だっただけに八件目も同じであるだろうと思っていた。
 実際、同じ内容の返事をされ、井手はやはりね・・・と思いつつ受話器を置いた。
 井手は、デスクの上に並ぶ八ケースのカルテを眺めながら、溜息をついた。
 井手は香倉に言われた通り、例の患者の病歴を調べているのだった。
 拘束型心筋症、拡張型心筋症、多発性嚢胞腎、再生不良性貧血、多発ニューロパチー、特発性間質性肺炎、網膜色素変性症。
 どれも重い病気ばかりだったが、関わっている臓器はバラバラだった(唯一心筋症患者が二人いたが、病気の性質は違っている)。しかも、最近では患者ぞれぞれ体調がいいのか、ここしばらくは入院はおろか通院することもほぼなくなっているということで、むしろ医療行為が盛んに行われている様子は見受けられなかった。
 井手が電話を掛ける度、「その方は最近病院に来られていませんよ」と返事をされた。
 井手が転院したのかと確かめると、どの病院も他の医療機関にその患者のカルテを回したことがない、という返事が返ってきたのだった。
 これでは、幻覚症状が出るような薬剤をここ数ヶ月の間に患者投与されることはない。
 井手は、デスクの上に突っ伏した。
「病院に行ってないんじゃぁ、同じ薬剤を投与されるはずがないじゃない・・・」
 これで、病気に関する薬剤投与で起こされる幻覚の可能性はなくなった訳だ。
「じゃなに? あとは食いものとか? ── 毒きのこ?」
 井手はそう呟いておいて、自分の言ったことの馬鹿馬鹿しさに頭を抱えた。
「視点を変えろって、何をどう変えろっていうのよ・・・」
 井手は身体を起こすと、一度ふーっと息を吐き出して「病院をひとつずつ潰して回るか・・・」と呟いた。
 ひょっとしたら、患者が病院に通っている間に何か共通することが行われていた結果かもしれない。
 井手はそう考えると、大学ノートに八人が通っていた病院の名を書き連ねたのだった。
 
 
 櫻井の目の前には、丸の内の高層ビルから見える都会の景色が、一面に広がっていた。
 ここはセイフティ・ユニゾンのオフィスだったが、大体いつも昼間はクライアントのもとにいることが多いので、この風景を眺めるのはまだ数えるほどしかなかった。
 だがそれでも、櫻井の目には映っているこの景色は、彼の脳までは届いていなかった。彼は窓際の椅子に腰掛けながら、まったく別のことを考えていた。だから同僚の山田がいくら声をかけても、櫻井はまるで反応しなかった。
「── おい!」
 しびれを切らした山田が、とうとう櫻井の肩を乱暴に叩く。
 櫻井は、ハッとして振り返った。
 そんな櫻井を、山田は物珍しそうに上から眺めた。 
「お前でも、ぼんやりすることがあるんだな。何考えてたんだよ」
 山田にそう言われ、櫻井は急に顔を赤くした。山田も普段見慣れない同僚の表情に、思わず動揺したらしい。
 へんにうわずった声で「な、なんだよ! お前も普通の男だな。エッチなこと考えてたな」と言いながら、バカ笑いする。
「あの~、あれだ。沖さんが呼んでたぞ。社長室に来いってさ」
「えっ! あ、分かりました」
 慌てて櫻井は席を立つ。部屋を出て行こうとする櫻井に、山田がまた声をかけた。
「その真っ赤な顔、冷ましてから行った方がいいぞ!」
 結局櫻井は、山田のアドバイス通り、トイレで顔を洗ってから社長室に行くことにした。
 洗面台に水を溜めて、ザバザバと顔を洗う。
 ハンカチで水滴を拭いながら、鏡の中の自分に目をやると、頬の赤みは大分収まってきていた。
 内心、こんなことではいけないと、反省する。
 今は任務中なのだ。
 余計なことを考えている暇はない。
 事実、山田の指摘は半分当たっていた。
 櫻井は、朝オフィスに出てきた時から、ずっと昨日までの休暇の時のことを考えていたのだ。
 最初の夜は、香倉の宣言通り、朝まで香倉と肌を併せた。
 そして翌日は、双方気怠さも手伝ってか昼まで寝て、後は結局あの地下室から一歩も出ることなく、香倉の手料理を食べたり、誰かが置きっぱなしにしてあったDVD映画を観たりした。
 最初に抱き合った時、あまりに香倉が櫻井の弱いところを責め続けたせいで、櫻井自身感情のコントロールのたがが外れてしまって、思わぬことが起こってしまった。
 それは櫻井自身も今までに経験したことがない・・・いや、唯一あるとすれば姉・真実と対峙した時に感じた感覚に似たものを感じてしまった。
 それは脳みそがダイレクトに鷲づかみされる感覚だった。
 あの瞬間、香倉の感じている感情や過去の想いがどっと頭の中に押し寄せてくるように感じたのだ。
 それは香倉の方も同じだったようで、彼もまた戸惑った様子だった。
 しかも自分は、その後恥も外聞のなく泣き出してしまって、自分でも本当に驚いた。
 香倉の全身に包まれるようなたまらない幸福感を感じつつも、その奥にある彼が抱えている哀しみも一緒に知ってしまったように感じたのだ。
 その哀しみが一体なんなのか分からなかったが、どうしようもなく哀しくなって、涙があふれ出るのを止められなくなった。
 香倉は何かを察してくれて、「お前を泣かせたのは、俺のせいだ」と慰めてくれたが、本当は自分が香倉を慰めたかったし、またそうすべきだった。
 しかしどう慰めていいか分からず、人間的に未熟な自分は身体を投げ出すことしかできなかったが、結局最後は香倉に気を遣わせてしまった形になって、己の情けなさを痛感してしまった。
 けれど、香倉が心の中に自分が知らない苦しみや哀しみを宿している人間なのだということははっきりと理解できた。それは言葉で説明できない非科学的な出来事だったが、櫻井の中には確信があった。
 翌日、目が覚めてから、櫻井には香倉の過去に何があったかを訊くチャンスはいくらでもあった。実際、訊けば香倉は答えてくれるはずだった。香倉は櫻井に対してあれこれ隠し事をするような性格ではない。それは櫻井も分かってはいたが、結局それを訊く勇気を櫻井は持てなかった。それを訊くのは、とても怖く感じた。そのことを聞いて、自分が平静でいられるか自信がなかったし、自分が案外嫉妬深い人間であることも最近自覚している。それを聞いて、香倉の哀しみを受け止めるどころか逆に醜く嫉妬してしまうのではないかと思うと、怖くてたまらなかった。
 そのことを考えているうち、漠然と香倉を失ってしまうのではないかという不安に突然襲われて、DVDを観ながらもほとんど内容は頭の中に入ってこなかった。
 もし、自分の目の前から彼がいなくなってしまったら・・・。
 それは櫻井にとって、また別の恐怖だった。
 今まで、自分には縁がないと思っていた感情。
 一度得た幸せを失うことに、人間はこうも弱いのだということを、櫻井は身をもって理解したのだった。
 昨日の自分は、ちょっとおかしかったのだと櫻井は思う。
 自分みたいな男には不似合いだと思ったが、香倉に触れていないと彼が消えてしまうような気がして、彼に甘えるように身体を預けた。今まで、そういう甘え方をしたことがなくて緊張したが、鋭い香倉は身体に力が籠もったまま不器用に甘えてくる櫻井を理解してくれたようで、優しく後ろから抱き込むようにしてくれた。そうされることで、幾分落ち着いた櫻井だったが、ついに櫻井は香倉の過去を訊けずじまいで終わったのだった。
 ── どうしたらいいんだろう・・・俺。
 実のところまだ少し尾を引いているこの不安をどう整理していいのか、櫻井はちっとも分からずにいた。それをあっさりと整理できるほど、櫻井は恋愛の偏差値が高い訳ではない。
 香倉との関係は、今まで自分が経験したこともない、想像すらできないことばかり引き起こす。しかも自分が知らなかったもう一人の自分が次から次と現れてきて、その度に自分自身戸惑ってしまうという少しやっかいな現象も起こしている。
 しかもそのことを考え始めると、他のことが手につかなくなるのだ。
 それに気になっていることは、他にもある。
 一昨日の晩、香倉が優しく抱きしめくれた時に言った言葉。
『もし、任務上で自分を守るためにどうしても必要ならば、誰とでも寝るんだ』
 抱きしめられた時は、その優しげな仕草から、てっきり愛の言葉を囁いてくれるものだとばかり思っていたが、実際にはそんなことを言われ、少なからず櫻井はその瞬間傷ついたのだった。
 香倉の中で自分は、他人と寝てもいい程度の存在でしかないんだと思った。
 けれど、香倉の真摯な瞳に見つめられ、自分の考えが浅すぎたことをすぐに悟った。
 香倉は何より、自分の命を心配しているのだった。だからこそ、命の危険が迫ることに比べれば、櫻井が他人と寝ることになっても自分は耐えられると言ってくれたのだった。
 普通の恋人同士ではあり得ない会話。
 けれど、それが香倉の愛情の示し方だった。
 ── そんなことを想定しないといけない立場だっていうのが、少し悲しいけど・・・。
 またズキリと櫻井の胸が痛んだ。
 自分の中ではまだ、香倉にそう言われたことを完全に飲み込めていない。
 頭では分かっているけれど、身体がついて行ってない感じ。
 三十を目前にして、今更そんなことで傷つくなんて、他の人が知ったらきっと笑われる。
 櫻井は、鏡の中の自分をもう一度見た。
 ── 情けない顔してる・・・。
 櫻井は、顔に残った水滴を振るい落とすと、顔を二回パンパンと叩いた。
 ── 仕事中は、このことを考えないようにしなくては・・・
 自分は国家の安全に関わる仕事をしているのだ。
 仕事上でミスは許されない。
「しっかりしろ」
 鏡の中の自分にそう言い聞かせると、櫻井は社長室に向かったのだった。
 社長室をノックして「高橋です」と声をかけると、「入れ」と沖の声が返ってきた。
 社長室で知らされたのは、沖に変わって直接河田の身辺を守るようにとの辞令だった。
「しかし、自分は・・・」
 沖を横目で見ながら櫻井は戸惑う。
 なんと言っても自分は、ここではまだまだ新人のはずだった。
 しかし社長は、不安など何もないと言ったような口調で、「河田さんたっての希望だ」と言った。
 その言葉を受けて、沖は櫻井の肩を叩いた。
「俺も正直ほっとしているんだ。後を任せられる人間がやっと出てきてな。本当いうと、身辺警護に一番大切なのは緊張感なんだ。長い間、同じクライアントにつくとその緊張感が次第になくなっていく。その『慣れ』が、身辺警護で最も怖い落とし穴だと言える。俺はもう十分長い間、彼につきすぎた」
 櫻井の肩を掴む沖の手に力が篭もる。
 それは彼の期待、そのものだと言えた。
 櫻井は再び社長を見つめた。
 社長は、櫻井の不安を払拭するように、こう続ける。
「確かに高橋君は、我が社に入ってまだ間もないから、チームで動くことについてはまだ不慣れだろう。沖に変わって、陣野にチームリーダーとして入ってもらうから、君は河田氏の側に張り付いて河田氏を守ることだけに集中してくれればいい」
 そういうことなら・・・と櫻井は答えた。
 これは櫻井にとって最も都合がいい展開だった。
 陣野もまた、沖のように優秀な職員だった。彼も総合的な警備計画を管理できる力を持っている。手間のかかる警護計画はチームリーダーの陣野が行ってくれ、河田の周辺警護だけを考えていればいいのなら、余計なことを考えず公安本来の仕事に集中できる。
 私生活では新たな悩みを抱えてしまった櫻井だったが、それだけに仕事がすんなりとうまい方向に向かっていることが何だか滑稽に思えた。
 新たな辞令を受け取った櫻井は、陣野・山田と連れだって河田の自宅に向かった。
 運転は河田の自宅に着くまでは櫻井が行ったが、向こうに着けば山田がその役を担わされることになる。要するに軽く降格されたようなものだ。
 助手席に座る山田は、特別櫻井に恨みの視線を寄越してくることはなかったが、彼が醸し出す『空気』は明らかに憎悪の感情が入り混じったものだった。後部座席の陣野は、今日の河田のスケジュールが記された書類を見つつ、今週から増員された先着係の者に携帯電話で指示を細かく送っていたので、山田の様子に気づくことはなさそうだった。だが、他人の醸し出す『空気』を敏感に感じ取ることができる櫻井には、運転しながらも山田の思っていることが手に取るように分かった。
 最近では自分でも、目に見えない『第六の感覚』というものが他人よりかなり優れていることの自覚が芽生えてきた。
 以前はそんなことを気にもかけていなかったが、実際には制服の警官時代から他の者より犯罪を嗅ぎつける勘が鋭かったし、そのせいで検挙率も同期の者の中で群を抜いていた。でもまさかそれが、自分の根本的資質に関わっているなんて夢にも思っていなかった。
 だが今では・・・。
 一年経った今でも、あの雨の夜のことは脳裏から離れたことはない。
 櫻井が、危うく死にかけるほどの傷を負ったあの夜のことだ。
 ああいう形で再会することとなった姉 ── とはいっても、両性具有者であったので兄でもある訳だが ── から、自分達姉弟の背負った業を知らされた。そしてその業が、『他人の脳味噌の中身が否が応でも見えてしまう』という負の才能をもたらしていたことも。
 不幸なことに姉は一際その能力に秀でていて、人間の汚い部分を長年見続けた結果、終いにはその世界から逃れられなくなっていた。むしろ望んでその世界にどっぷり浸かる心地よさを求めるようになっていった。やがて彼女はそれを利用する技を覚え、数々の人間の人生を破壊していくことに喜びを見出すようになった。
 そして、その集大成があの雨の夜にやってきたのだった。
 姉も櫻井も、櫻井自身に程度は違うにしろ同じ能力があることなど思ってもいなかった。
 けれどあの夜、姉も櫻井もそれを知ることとなった。
 そしてそれが決してまぐれでないことは、偶然にも一昨日の夜に実証された。程度は違うにしろ櫻井自身極限まで追い込まれると姉が持っていた能力に近い力を発揮するらしい。確かにあの夜、漠然とはしていたが自分は確かい香倉の心にシンクロしたのだ。
 それを思うと、櫻井の心中は益々複雑な思いに駆られた。
 ほんの少し、随分と未熟だがそれでも、相手の心に触れることで今これほど悩みを抱えてしまったのだ。
 自分よりもっと確かな能力をもっていた姉が、どれほどこの力に悩まされ、そして飲まれていったかを想像すると本当に心が痛んだし、背筋がゾッともした。
 その姉を、自分は完全に否定したのだ。
 いくら愛する人を救うためとはいえ、自分は完全に姉を壊してしまった。
 姉は現在、離れ小島にある精神疾患者専門の医療施設で他の患者から隔離されて生活をしているという。
 生活といっても、何も映し出すことのないどんよりと淀んだ瞳のまま、日がな一日ぼうっとしている毎日らしい。身体には特に疾患はなかったが、食事から排泄処理まで全てにおいて介助の必要がある状態と聞かされていた。
 傷が癒え、こうして動けるようになった今でも、櫻井は姉に会いには行っていない。
 自分は『死んだ』人間であることはもとより、面会に行く勇気はまだ持ってはいなかった。一度完全に訣別し、尚かつ自分が彼女の心を完全に破壊してしまった今となっては、どのような顔をして姉に会えばいいか、櫻井にはまだ分からなかった。そしてそんな日が本当に来るのかすら全く分からなかった。
 この問題に正面から向き合うには、一年という歳月は短すぎる・・・。
 内心櫻井はそう思いながら、表向きは極めて冷静に車を運転し続けたのだった。

 

接続 act.09 end.

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編集後記


二週、地下室のみので更新でお届けしていた「接続」ですが、今週から通常更新に戻ります。
さて、国沢はといえば・・・

仕事、終わらねぇ(力汗)。

ちまたは三連休だというのに、その間ずっと国沢は仕事です(涙)。
しかも、仕事をふられた相手に超絶いい加減に仕事をふられたので、イライラして胃袋痛い・・・(脂汗)。納得できないまま、時間に追われて仕事をしかければならないのって、もの凄くストレス(汗)。
「説明する時間ないんで、適当にやってくれたらいいから。国沢さんならできるでしょ」っていうの、本当に嫌です(汗)。
説明する(打ち合わせする)時間も仕事のうちじゃないのかなぁ?
そんなこと思うの、国沢だけなんだろうか。国沢、小難し過ぎるのかしら。

グチる相手がいないんで、思わずここでグチっちゃいました(汗)。

すみません・・・。


[国沢]

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