act.37
優しげな手が、髪に触れた。
そっと何度も、櫻井のこめかみを撫でつける。
まるで子猫を撫でるような手つきに、櫻井はうっすらと目を開けた。
大きな手が、睫を掠めながら頬を被う。
温かい手。
僅かだが、少し汗ばんでいる。
櫻井は二、三回瞬きして、手の先に視線をやった。
香倉の美しく黒い瞳が櫻井の姿を映していた。
「・・・香倉さん・・・」
櫻井の囁き声は、少し喉に絡まって掠れた。
まるで早くも自分が興奮を覚えているように思えて、櫻井が少しテレ隠しの微笑みを浮かべると、香倉もゆっくりとだが微笑みを返してきた。その顔を見て、櫻井はひどく安心する。
左頬を被う手のひらにたまらず顔を押しつけると、親指が優しく櫻井の頬を撫でた。
その柔らかいタッチが心地いい。
何だか、目頭が熱くなってくる。
こうして香倉に触れられてると、それだけで絶対的な安心感に包まれる。
自分がまだこの世に生きるべき意味があるという実感が、まるで熱い血液のように巡っていくのだ。
── もっと触れて欲しい・・・。
心からそう思う。
香倉の顔が近づいてきたかと思うと、額にキスをされた。そして右の目尻にも。
そうされることに何だか慣れないが、たまらなく幸せな気分になって、くすくすと櫻井は笑った。
こんな風に笑うのは、随分久しぶりのことのような気がする。
「くすぐったい・・・」
櫻井がそう言うと、顔の側で空気が揺れるのを感じた。
きっと香倉も笑ったせいだ。
櫻井は、香倉の背中に手を回した。
温かい。
もう一度額にキスをされて、そして小鼻の先にキスをされて。
いよいよ唇を塞がれた段階になって、櫻井は突如、「ん?」と身体を強ばらせた。
あわせた唇の感触が、何だかいつもと違うように感じたからだ。
櫻井は、パチッと目を開けた。
目の中に、明るいトーンの肌のドアップが見えた。
違う。
いくら暗いとはいえ、香倉の肌はこんな色ではない。
── 誰だ?!
反射的に櫻井は、相手の身体を押し離した。
力を込めたつもりだが、まだ寝ぼけているのかうまくいかなかった。
「なぁんだ、目ぇ覚ましちまったのか」
ニヤニヤとクライドが笑っていた。
「 ── 何やってるんですか」
声色は低く静かなものだったが、十分敵意を込めた声で櫻井は訊く。
「おいしそうだったんで、つい」
クライドは、ペロリと舌を出す。
中性的な顔つきをしているので、こういう仕草をしても違和感がない。
当初櫻井が持っていた『蓮花』は非常にストイックな印象があったが、その中身は意外にも自由奔放なようだ。
華見歌壇に蓮花目的で通い詰めてくる客達がこの事実を知ったら、卒倒するかもしれない。
「おいしそうだったって・・・。そういう趣味があるんですか?」
華見歌壇で初めて蓮花 ── 彼にお目にかかった時、頬にキスされたことを思い出す。
彼のこの華やかな美貌なら、女性ばかりか男性にも性的な対象として見られる・・・あり得そうな話だと思った。だが、櫻井はあえてそう訊いた。単なる興味からではない。この先共に仕事をするなら必要な情報だと思ったからだ。
だが逆にこう訊き返される。
「お前さんにも、そういう趣味があるんだろう?」
美しいがトゲのある笑みだった。
「ミスター・カクラのことを話しているお前さんのツラは、まるで恋に恋する女の子だ。そこらへん歩いてる女よりチャーミングだよ」
そう言われ、櫻井は顔を顰めた。
「そんなばかな」
「喜べよ。これでも褒めてるつもりだぜ」
「そんな褒め方されても、嬉しくありません」
英語と日本語がごちゃまぜになりながら言い合うなんとも不思議な状況だったが、クライドは随分楽しそうに見えた。
まだ二人の距離は頬に息がかかるほどだ。
クライドの手が、服の上から櫻井の股間に触れる。
「なかなかいい反応だ」
そう言われて、やっと櫻井は自分の身体が少し興奮し始めていることに気がついた。
だがそれは、夢の中で香倉に触れられていると思ったせいだ。
櫻井は何とも冷静な声でこう言う。
「それ以上はやめておいた方が賢明かと思いますが」
「ケンメイ? ああ、賢いという意味か?」
クライドは恍けた表情を浮かべつつ、顔を寄せてくる。
耳元に息を吹きかけられ、櫻井は顔を再び顰めながら顔を避けた。
「だから、やめておいた方がいいというんです」
櫻井は、自分の背中がざわざわと泡立つような感覚を感じながら、そう繰り返した。
「身体は反応してるんだ。やせ我慢しない方がいい」
「それは寝ぼけていたせいですよ。これ以上続けると、大変なことになりますよ」
「脅しか? 言っておくが、俺にjyudo技は効かないぞ。こっちもそれなりにマーシャルアーツで鍛えてある」
「そういうことを言ってるんじゃありません。腕で押さえつけられるより、悲惨なことになると言っているんです・・・」
櫻井がそう続けても、クライドは取り合うつもりはないらしい。
── 本当に大変なことになるのに・・・。
まるでもう一人の自分が客観的に眺めるような不確かな感覚を覚えると同時に、内蔵が嫌な痙攣を繰り返す生々しい感覚も湧き上がってくる。随分久しぶりの感覚。
── ああ、やっぱり。
そう思った瞬間、櫻井はゲボッと胃の中のモノを吐き出した。
幸い晩飯はずっと前の時間に終えていたため、液体だけが二人の間にぶちまけられた。
「だから言ったのに」
吐いた割に冷静な態度でそう言う櫻井と対照的だったのは、クライドの方だった。
予想もしていなかった展開に、吐いたモノをまともにぶっかけられたクライドは、櫻井にのしかかった体勢のまま完全に硬直していた。よっぽど驚いたのか、瞬きもしない。
だが次の瞬間、櫻井の身体にブワッと赤いじんましんが浮かび上がってきて、クライドは「うわっ」と櫻井の身体から飛び退いた。
櫻井は溜息をつきながら、身体を起こす。
「お前さん、大丈夫か?」
さすがのクライドも、余裕のない真剣な顔つきでじんましんで赤くなった櫻井の首元を覗き込む。
「大丈夫です。じんましんはすぐに引きます。あなたが俺に手出しさえしなければ」
櫻井は傍らのローテーブルの上に無造作に置かれてあったトイレットペーパーを手に取ると、汚れた箇所を手早く拭いた。櫻井がクライドにトイレットペーパーを差し出すと、彼も同じように自分の身体についた汚れを拭く。
二人で後始末をしている間に、櫻井が言った通りじんましんがスゥッと引いていく。
「あ、本当だ」
クライドが櫻井の手を見て言う。櫻井は自分の手のひらを見た後、少し肩を竦めた。
「お前さん、身体、どっか悪いんじゃないのか?」
テーブルの上にうず高く積まれたトイレットペーパーの屑を抱えてゴミ箱に入れる櫻井の後ろ姿に、クライドが声をかけてきた。
櫻井は屑を残らずゴミ箱に突っ込みながら、「これは精神的なものなんで」と答えた。
「精神的なもの?」
櫻井が振り返ると、クライドは眉間にシワを寄せている。
櫻井は汚れたTシャツを脱ぎながら「俺の意に沿わない形でそう迫られると、自然とこうなるんです」と言う。
クライドが櫻井の鍛え抜かれた上半身を見て、口笛を吹く。
櫻井はTシャツを丸めて床に置きながら、何とも淡泊な声色で「何度でも吐けますよ」と言った。
クライドは大げさに両手を挙げて、降参のポーズを取る。
「またぶっかけられちゃ、適わない」
「ならおとなしくしてください」
「てっきりお前さんも男が好きだと思ったんだがな」
「見当違いです」
── 俺は「男」が好きなんじゃなくて、「香倉さん」が好きなんだ。
櫻井は心の中でそう言い足した。
櫻井はむき出しの簡易キッチンに行くと、グラスを手にとってクライドの方へ向き直り、「May I ?」とグラスを翳す。クライドもソファーから立ち上がり、「どうぞ」と日本語で言った。
櫻井はグラスに水を汲み、数回うがいをした。やっと口の中の違和感が収まる。
これほど本格的に拒否反応を示したのは、久しぶりのことだ。
約一年前、生死を彷徨うほどの傷を受けて入院した時、この精神的ブロックを取り除く治療も行われた。
当時 ── いや今でもそうだが ── 櫻井が生きていることを伏せている状況だったので、井手とは違う精神科医が治療に当たった。治療は、身体の傷が癒えた後も引き続いて受け、一応は治ったということになっている。
だが櫻井は、それが簡単に治ったとは思っていなかった。
子どもの頃から、心ばかりか魂にまで、櫻井の『姉』が刻みつけてきた枷である。そんなに簡単になくなるものではない・・・。
いや、考え方を変えれば、それは間違いなのかもしれない。
櫻井が香倉を受け入れたその瞬間姉の呪縛は解け、そこから先は「自分が選択していた」のかもしれない。
いずれにせよ、この身体は香倉以外の人間を受けいることはない。
これからも、この先ずっと。
「こんな有様じゃ寝られやしねぇ。お前もシャワー使うか?」
櫻井の横をクライドがすり抜けて行く。
「使わせてもらっていいんですか?」
櫻井が聞き返すと、部屋の片隅にポツンとある灰色のロッカーのドアがバカンと開く音がして、ドアの向こうから清潔なバスタオルが放り投げられた。
櫻井が慌ててそれをキャッチすると、ロッカーのドアの向こうからクライドの顔が覗き、「特別だぞ」と言いながら、彼は大げさに口を尖らせて見せた。
接続 act.37 end.
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編集後記
イレギュラーですが、水曜更新でございます。
これがホントのイレギュラー・エーオー(笑)。
1月はほとんどお休みっていう状態だったので、これではイカンと更新してみました。
ああ、書きかけのブログの続きも書かにゃならん・・・。
でも、週末の決戦(笑)にむけて、ツケ爪も作らきゃならんし、髪型もどうするか決めなきゃ・・・・。ああ、それに友人の結婚披露パーティーの準備も手伝ってやらなくっちゃぁ(汗)。
先週、暇な時間をMMUリサーチに全て費やしてしまったが為に、仕事が忙しい今週は宿題が山積という状態になっております。
こんなことなら、先週のうちに何か片付けておくんだった。(友人の結婚はいきなり決まったんで、先週じゃどうしようもなかったけど)
年と共に、ますます自制がきかなくなるって、どうよ、これ(青)。
国沢、老後が心配になってきました・・・。
[国沢]
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