act.15
僕は白い人達の目を盗んで、キョロキョロと周囲を見回したんだ。
最近では、それが作業する部屋に移った時の日課になっている。
一時の騒ぎは何とか収まったようにも見えたけれど、今と昔では決定的に空気の色が違っている。
僕ら全体を押し包む不安は、今や誰も拭えないように思えるんだ。
告白すると僕は、ほんの少し前から・・・正確には一昨日の朝からあの注射を腕に打つのをやめた。
白い人達の目を盗んで中の薬をタオルに染み込ませ、空になった注射器をあの人達に何食わぬ顔をして返すようにしている。
そりゃぁ、この薬は皆から『幸福の薬』と呼ばれているけれど。
あの騒ぎが起こっていた数日の間に、僕は気づいてしまったんだ。
ひょっとしたらこの薬が、僕を・・・いや僕達を惑わせているんじゃないかって。
思えば、ずっと以前からここにいる人間ほど、注射器が二本になってから次第に落ち着きを取り戻すのが早かった。
余計に騒いで黒い人達に連れて行かれた人ほど、新しくここにきた人達だった。
だから僕は、薬を打つのをやめてみたんだ。
益々不安感が募るのは怖かったけれど、やめてみて分かってきたこともある。
襲ってくる不安感をなんとか我慢すれば、返って頭がすっきりしていろいろなことを考えられるようになるってことに。
そう。だって僕に、日付の感覚が戻ってきたのがいい例だ。
今までの僕は、今日や昨日、一昨日、ましてや明日だなんて概念はこれっぽっちも浮かんでこなかったのだから。
僕の頭は、どんどん『ものを考えられるように』なってきている。
そして、今のこの生活が、どこか普通じゃないってことがだんだんと理解できるようになってきた。
僕の中でわき起こってきた漠然とした不安や謎は、今や自分の置かれた状況に対する危機感へと繋がってきている。
今に僕はきっと、もの凄く大切なことを思い出すに違いない。
僕が一体、誰であるか、を。
結局、櫻井は井手に胸ぐらを捕まれたまま、オゾッカ製薬の駐車場まで引きずり出された。
井手はそこで櫻井の身体を離し、もの凄い勢いで振り返ると、上から下まで櫻井の姿を眺めてきた。
櫻井は、着衣の乱れを直しながらも、おっかなびっくりで井手を見返す。
井手は片眉をクイッと引き上げると、「両足がついてるところを見ると、化けて出たわけじゃなさそうね」と悪態をついた。
一年ぶりに聞く井手の悪態が不意に凄く懐かしく思え、迂闊にも櫻井はふふっと笑ってしまった。
「笑ってる場合じゃないでしょ。この状況を説明してくれないかしら、櫻・・・」
櫻井の名を言いそうになった井手の口を櫻井は慌てて手で塞いだ。
櫻井は念のため周囲を見回し、空いた方の手で口の前で指を立て、「しー」っとジェスチャーする。
井手も口を櫻井の手で覆われたまま、櫻井がしたようにキョロキョロと周囲を見回した。
「万が一、人に訊かれたら困りますから。それにここには、カメラもありますし」
櫻井が小声で囁くと、井手もおとなしく「分かった」と頷いた。
「じゃぁ、私の車に移動しましょう。要するに、安全なところじゃないと、腹割って話せないってことでしょ。── 家に来なさい」
幸いなことに、山田の機転で今日はお役ご免となった訳だし、櫻井は素直に井手に従った。
「で、一体どういう訳? 幽霊さん」
白いセダンでオゾッカの地下駐車場から出たと同時に、井手はそう口を開いた。
「一年前、確かに私はあなたの葬儀に出席したと思うんだけど、それはボケてきた証拠かしら」
「── いや、井手さんはボケけてません。すみません・・・」
櫻井は助手席で小さくなりながら答えた。
井手の機嫌が悪いのは当然だろう・・・と櫻井は思う。
死んだと思っていた人間・・・しかも自分が葬式にまで行った人間が生きて目の前に現れたとなれば、騙されたと思って当然だ。
櫻井はちらりと横目で井手を横顔を盗み見る。
井手は毅然とした横顔のまま車を走らせていたが、信号が赤で停止すると、途端に櫻井に向き直った。
また怒鳴られるかもしれない・・と櫻井が首を竦めた瞬間、温かい手で両頬を包まれた。
「ちょっとよく顔を見せて」
櫻井もおとなしく井手を見つめ返す。
井手はじっと櫻井の顔を見ながら柔らかく頬を撫でると、「本当に無事で、ちゃんと生きてるのね」と呟いた。「はい」と櫻井が返したところで前の車が進み始めたので、井手は再び前へ向き直った。
「よかったわ・・・。── よかった」
井手は自分で確かめるように二度、そう言った。
そんな彼女の横顔は、涙を滲ませていた。
櫻井もつられて鼻の奥がツンとなる。
井手に自分が生きていることを「よかった」と言ってもらえて、純粋に嬉しかった。
「それで、あなたが生きていることを知っているのは、どれくらいいるの? 吉岡君は知らないわよね」
「── はい・・・。俺が生きていることを知っているのは、ほんの僅かです。高橋部長と公安部の人達ぐらいしか」
「ちょっと待って」
そう言って井手がギュウッと急ブレーキをかける。幸い信号は赤でかなり急にとまった割に後ろから追突もされなかった。しかし派手にクラクションは鳴らされたが。
しかし井手はそんなことお構いなしで、櫻井を見る。
「高橋警部は分かるとして・・・、なんでそこに公安が出てくるのよ。・・・え? じゃなに・・・? あ、段々分かってきたわよ・・・」
察しのいい井手のことだ。頭の中で浮かんでいるのは、いつもダミ声でオヤジ臭く笑っている公安部のシブ珍の姿に相違ない。
「黒幕は榊の親父ね。そうでしょ」
櫻井の思惑通り、ズバリ井手にそう言い当てられ、櫻井は頷いた。
井手が派手にため息をつく。
「やっぱり! あのジジイ、ろくなこと考えないんだから!」
わ、香倉さん以外にも榊部長をジジイ呼ばわりする人がもう一人いた・・・と櫻井は少し感動してしまう。
「あなたを死んだことにしたのは、あのジジイの考えね。そうすれば公安で使うのに都合がいいから。そうでしょ」
櫻井は頷くことしかできない。
井手は再び車を走らせながら、「チクショウ、完璧にあのジジイに騙された。あの時の香典、絶対請求してやる」と悪態をついている。
笑っている場合じゃないとまたどやされるかもしれないと思いつつも、櫻井は笑いが込み上げてくるのを止められなかった。一年経っても、井手が変わらずにいてくれることが無償に嬉しく思えた。
その後、井手が住むマンションまで到着した二人は、念のため二人一緒にマンションに入ることはせず、時間差をつけて部屋まで向かった。
井手が住む新しいマンションはセキュリティが十分確保されたマンションで、当然ながら複数の監視カメラが設置されている。一緒のところを記録に残されると後々何かあった場合に困るので、櫻井はマンションに着く手前で車を降り、一般セールスマンを装って井手の家を訪ねることにした。
井手の部屋にはいると、以前彼女が住んでいた・・・というよりは間借りしていた香倉も部屋とは随分印象が違っていて、ベージュ系を基調とした優しげな雰囲気の部屋になっていた。
部屋は広いリビングダイニングの他に寝室と書斎の二間があって、一人で住むには丁度いい大きさと言えるだろう。家具は、北欧系のシンプルだが形そのものが美しい家具がきちんと選ばれてレイアウトされてあった。そのテイストからあまり女性の匂いがしないのは、やはり井手の気質からくるのだろうか。いずれにしても、居心地のそさそうな部屋だ。高層階のため、見晴らしもいい。
「ここなら大丈夫。絶対に盗聴器はないから」
井手がリビングのローテーブルの上にカバンをおろしながら言う。
「ま、座って。今、コーヒー煎れる。それとも、お酒の方がいい?」
そう井手に訊かれ、櫻井は「コーヒーでいいです。俺はまだ、勤務中ですから」と答えた。
井手が怪訝そうに首を傾げる。
「さっき会社の人はもういいって・・・」
「そっちはもう終業なんですけど。本業の方は。今日の報告がまだ残ってるんです」
「あ。そっちの方ね」
井手は「何だか、ややこしいわね」と呟いた後、「アタシには酒がいるわ」とキッチンへ向かった。
少し時間がかかったが、ちゃんとしたドリップコーヒーが出てくる。井手は大降りのショートグラスにモルト系のお酒をロックで・・・という調子だった。
白い革製のソファーに向かい合わせで座り、互いに一口啜る。
「・・・うまいです」
櫻井がそう言うと、グラスの向こうに見える井手の目が嬉しそうに微笑んだ。
「それで? この一年間ずっと公安関係の仕事をしてるの?」
「はい。一年間特務員の訓練をこなして、最近本格的な任務につきました。ついて早々、井手さんに見つかるだなんて、特務員としては失格かもしれません」
櫻井は苦笑いする。しかし井手は、そんな櫻井の様子にほっとしたようだ。
「でも本当によかったわ。以前と比べてあなた、笑う回数が多いもの。順調にやってる証拠ね。・・・ということは、香倉も知ってるのね。あなたが生きていること」
櫻井は頷く。井手は一瞬口を尖らせて、「アイツ、この前、完全にしらきってたわ。今度会った時はどやしつけてやる」と言った後、自分でもおかしそうにくすくすと笑った。
「今はなんて名前なの? 特務員なら、名前、偽名を使ってるんでしょ。香倉みたいに」
「ええ。高橋秀尋と名乗っています」
「── 秀尋。・・・ふぅん・・・」
井手は香倉の本当の名を知る人物だ。
目を細める井手の鋭い眼光が、自分と香倉との関係を全て見通しているようで、櫻井は顔を赤くした。
しかし井手はそこを深くつっこんで来ずに、別のことに話題転換をした。
「で、あなたがオゾッカ製薬にいたっていうことは、公安部がマークしている外資系の製薬会社ってオゾッカのことね」
井手は、グラスの中の大きな氷を器用にくるくると回しながら訊いてくる。
その物言いに、櫻井はピンときた。
「知っていたんですか? 公安が外資系の製薬会社をマークしていることを」
「まぁね。それは香倉から。といってもそこまでよ。具体的にどこの製薬会社なのかは一切分からなかったわ。でも今日あなたに出くわしたことで、それがどこかが判明した訳だけど」
「井手さんは、どうしてオゾッカに?」
「私の話は全然別口よ。そっちは生物化学兵器に関する捜査でしょ。こっちはうちの患者がかかっているヘンテコ病の病因にオゾッカの薬が影響を及ぼしてるんじゃないかって話」
「ヘンテコ病?」
櫻井が訊き返すと、井手から一連の同じ夢を共有するまったく関係のない人々の話を聞かされた。
「── それは確かに不思議な話ですね」
「そうなの。はっきりいってお手上げよ。病気の原因が分からないと根本的な治療はできない・・・。それは身体の医学でも心の医学でも一緒なの。だから今は、その原因を何とか突き止めようとしているところ。その原因が本当にオゾッカにあるかどうかは分からないんだけどね。うちの患者が関係してる製薬会社は、何もオゾッカだけじゃないんだし。今日は、オゾッカの広報部でいろいろ聞いてきたけど、投薬リストの内容を説明してもらうことに終始したわ。でも対応は悪くなかった。客観的に見て、投薬リスト自身にも疚しいところはなかったしね。まぁもう少し掘り下げてみるつもりだけど」
櫻井はふぅんと答えながら、顎を撫でる。そしてハタと思いついて、櫻井は言った。
「でも井手さん、気をつけてくださいよ。公安がついてるということは、それなりに危険性がある会社だということです。俺もはっきりとは言えませんが、もしものことがあってからでは遅いですから」
井手はグラスを一気に空けると立ち上がった。
「分かってる。そこら辺はほどほどにしておくわ。でも大丈夫よ。調べると言っても、私の立場じゃ一般医学業界で知り得る情報程度しか、引き出せないから。そこの情報に違法性は絡んでこないんだから、相手もそうは警戒しないでしょ。さ、この話はもう終わり。報告って、警視庁かどこかに戻ってするものなの?」
「いえ。携帯です。公安特務員専用の回線を使います」
「そう。じゃ、書斎を使って。その間に夕食、何か作る。一緒に食べましょう。久しぶりだもの。それぐらいの我が儘、きいてもらってもいいわよね」
「もちろん」
櫻井は笑顔を浮かべた。
井手もウンと頷く。
「いい笑顔よ。ホント、いい笑顔。いろんな人に食べられないように、注意しなさい」
井手は笑いながらそう言い残し、再びキッチンへと向かったのだった。
接続 act.15 end.
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編集後記
一週お休みをいただいての更新、おまんたせいたしました(ほんのり織●裕●風味)。
風邪も残るは鼻水退治のみ、ということでズコズコ鼻を鳴らしております。
人間気が緩むとダメっすね(汗)。
ダメといえば、先日寝込んだ国沢のために、友人がただ寝てるのはつまらんだろうと新たなゲームをプレゼントしてくれたのはいいんだけど、オモシロすぎてこれは養生になるのか・・・と(笑)。や、笑ってるばやいじゃないですね(汗)。小説書かないといけないのにね(青)。
でも、友人には国沢がモーホースキー小説を書いてて、しかも週一でネット更新してるだなんて知りもしないんで責めるわけにもいかんのですがね(汗)。
でもホント、はまるんだもん、このゲーム(青)。
その名も「モンスターハンター」。
有名なゲームなんで。「そんなにすでにはまっているわよ、アタシ」って言う方もいらっしゃるのでは。
国沢は、肉焼きゲームって読んでます。
ハンターものなので、ワイルドに野外で獣の肉を丸焼きってシーンも出てくるのがオチャメナトコロ。ってか一番楽しいかも。
いかんなぁ・・・。
廃人になるなぁ、これ・・・・。
[国沢]
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