クライドと櫻井が乗った車はいつしか、高級住宅街を走っていた。
　雑多な熱気に包まれた繁華街とは違って、山の手は静かで落ち着いた雰囲気だ。
　しかしこの界隈で通り過ぎる車は黒塗りの高級車が多く、クライドの車は酷く浮いて見えた。
　だがクライドは迷うことなく、ある高級マンションの前の路肩に車を停めた。
　そして彼は主室に車のトランクから大きなカゴに入った掃除道具一式を取り出し、それを櫻井に押しつける。一方クライドは使い込まれたモップを取り出し、二重になった自動ドアをくぐった。
　クライドは壁に備え付けられたインターフォンのナンバーを押す。
　「１００１」と表示される。
　しばらくして、スピーカーから声がした。
『誰だ？』
　広東語で男の声がそう訊いてくる。
　クライドは「ジョン」と一言答えた。すぐに目の前の自動ドアのロックが解除される。
　櫻井はクライドの後について、エレベーターに乗り込んだ。
　10階はペントハウスになっていた。
　エレベーターが開くと、そこは既に部屋の入り口エントランスになっていた。
　クライドの恰好とあまりにそぐわない雰囲気である。
　内心櫻井は冷や冷やしながら、クライドの後に続いた。
　メインのドアの前には、男が二人椅子に座っていた。
　男達はクライドと櫻井の姿を目にすると、すっと立ち上がる。
　男達は、クライドの背後についてきた櫻井の顔を見て、苦々しい表情を浮かべた。
　櫻井にも男達の顔に見覚えがあった。蓮花のボディーガードだ。
　数日前、櫻井を懲らしめるつもりが返り討ちにあった記憶が、まだ鮮やかであるらしい。
　彼らがここにいるということは、ここは蓮花の家か。
　男の一人が部屋の入り口のチャイムを押した。
　スピーカーごし男が「ジョンです」と言うと、すぐに「入れて」と年老いた女性の声で返事が返ってきた。
　ドアのロックが開く音がして、クライドと櫻井は部屋に入った。
　これぞ高級マンションといった具合の広い玄関ホールだ。
　一面大理石張りで、趣味のいい観葉植物が数多く置かれてある。
　玄関ホールの先には一段フロアが下がって、リビングになっている。その向こうは大きなはめ殺しの窓から、見晴らしのいい街の風景が広がっていた。
「おい、本当に掃除しにきたんじゃないからな。そんなものとっとと置いて、ついてこい」
　部屋に入った途端、モップを放り出したクライドが早口の英語でそう捲し立てて、右側の廊下へ消えていった。
　櫻井は慌てて掃除道具を床に置くと、クライドの後を追った。
　広くて開放的なリビングに比べ、右側の廊下の先は比較的狭い構造となっていた。
　途中、大きなアイランド式のキッチンがドア越しに見えたが、更にクライドは奥へ進んでいく。
　そして廊下の突き当たりのドアを開けると、こぢんまりとしたもう一つのリビングが現れた。
　ひとつの家に、また新たなリビングが登場したことに少し櫻井が面食らっていると、ベージュの優しげな色合いのソファーから、人影が立ち上がった。
「あ・・・」
　思わず櫻井は畏まって立ちすくんだ。
　蓮花だ。
　いや、彼女はホンモノの蓮花ではなく、クライドの双子の妹・クリスティ。
　薄化粧の彼女は、穏やかでとても美しかった。
　華見歌壇の裏口で見た彼女と違って、とても清楚に見える。あの時の彼女の雰囲気とクライドの雰囲気はよく似ていたが、今ここで薄手のニットに身を包んだ彼女は飾っていない分、純粋に美しく見えた。　
「何、ぼーっとしてる」
　クライドに横っ腹を肘で小突かれて、櫻井は思わず赤面した。
「惚れたのか？」
　そう言われ、櫻井は大きく首を横に振った。
　── そういうんじゃない。そうじゃないけど、その・・・
　クスクスと笑うクリスティを横目に見ながら、櫻井は咳払いした。
　櫻井がクリスティに見取れてしまったのは、むろん恋愛感情的なものではなかったが、彼女からは今まで出会った女性達とはまったく違う、母性のような純粋な美しさを感じたのだ。
　こんなことはこれまで感じたことのない経験だったので、櫻井も自分自身驚いてしまった。そこをクライドに誤解されたのだ。
「ちょいと俺は奥で用事を済ませてくる。それまでそこで待ってな。おい、妹に手を出すなよ」
　クライドに指までさされて釘を刺された。
「だから、違いますって」
　焦って日本語で返したら、ポンと頭を軽く叩かれた。
　クライドが奥の部屋に姿を消した後、クリスティが視線でソファーを指し示したので、櫻井は頭を下げて座った。
　この小さいリビングには小さなキッチンと繋がっていて、品のいい老婦人がお茶を櫻井に出してくれた。
　小さな菊の花がたくさん入ったお茶だ。
　そのまま器に口を付けようとする櫻井の手を、クリスティが慌てて押さえた。
　櫻井がビクリと身体を震わせながら彼女を見ると、クリスティは自分の器を取り上げて小さなフタをかぶせ、お茶の飲み方をジェスチャーで示してくれた。その腕の隙間から見える彼女の喉には、傷が見える。
　その視線にクリスティが気がついた。
　急に申し訳なくなって、「すみません、ジロジロ見てしまって」と櫻井が頭を下げると、クリスティは傍らに立つ老婦人と顔を見合わせた後、にっこりと微笑んだ。
「蓮花様は、本当に声がお出にならないんです」
　老婦人がそう言った。
　どうやらクリスティの身の回りの世話をしているのが彼女らしい。
　彼女はクリスティのことを『蓮花』と呼んでいるようだ。
「幼い頃受けた傷で声帯が潰れてしまって」
「そうなんですか・・・」
　櫻井は、彼女の喉の傷はクライドが蓮花である時の喉仏を隠すために、わざと装っていたものとばかり思いこんでいたので、彼女の傷が本物だったことに少なからず衝撃を受けた。
　表情が曇る櫻井に、クリスティが紙に何やら書き付けて櫻井の方に差し出した。
　そこには英語でこう書かれてあった。
『でも、おかげでお客様に無理なお世辞を言わずに済んで助かっているんです』
　それを読んで、櫻井の心が少し軽くなった。
　櫻井が表情をやわらげて顔を上げると、クリスティは優しげに微笑んだのだった。
　ふと、奥のドアが開く。
　反射的に櫻井がそちらに視線をやると、もう一人の蓮花がそこに立っていた。
　ただし、櫻井の傍らに座るナチュラルな美しさの彼女とは違い、まるでヴォーグの表紙を飾りそうな妖艶な化粧を施した、『ファム・ファタル』がそこにいた。
　深紅のタイトなドレスに身を包む、その圧倒的な存在感に、思わず櫻井が呆気にとられていると、もう一人の蓮花はニタリと笑ってこう言った。
「俺に見惚れるってんなら、それは正解だ」

　

接続 act.43 end.

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