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act.01

 

<はじめに>


 私は、確かに父親を愛していました。
 父の手が私の肌を磨きたてるように、そして時には柔らかい絹の布を撫でるように触れていくのを、いつの時もじっと見つめていました。
 父にされたことで、嫌なことは何ひとつなかった。何ひとつ。
 だって私は、生まれた時からそういう定めに育てられてきたのですから。
 父と私の性交に母は嫌悪の顔を見せたけれど、それは母の私に対する嫉妬からきていることを私はずっと知っていました。
 醜い女。
 だから私は、母をあの家から追い出してやりました。執着心の塊で、弱く、時に浅はかな女なんて、あの家にいらない。
 父はかえって喜んでくれました。
 父は裕福な人でしたから、母がいなくても家政婦を雇えば家のことで困ることはないし、何しろあの厭味たらしい惨めな瞳を見つづけなくても済むからです。
 ただ、唯一心残りになったのは、弟のこと。
 弟は、純粋で汚れなく、本当に私を慕ってくれました。まだ小学校の二年生で、とても優しかった。私が身体を差し出さなくても、弟は何も言わず私を愛してくれていました。
 あの女は、私が父親を奪った代わりに、弟を私から奪っていきました。それは私に対するあてつけだったのでしょう。
 あんな自分の欲望のためだけに弟を連れて行った女に、弟を幸せにすることなんてできない。かわいそうな弟。
 ああ、それにしても憎いのはあの女。
 女なんて、この世から消えてなくなればいいのに。

<第1章>



 櫻井正道(さくらい まさみち)の目には、被害者の少女の姿が確認できていた。
 オレンジ色のソファーの隣には、犯人と思われる中年男が座っている。
「被疑者の姿、確認しました。現在内偵していたアパートの近くのファミリーレストランにいます。位置は、入口より比較的近い位置。窓際です」
『了解。そのまま監視を続けろ。本庁の捜査員がそちらに到着するまで待機。・・・おい櫻井、動くなよ』
 最初は事務的に指示を伝えていた無線の声が、最後になると急に人間味のある口調にかわった。
「分かっています」と櫻井は無愛想に答えたが、その顔は僅かに笑っていた。
 無線の相手・・・高橋警部は、櫻井が席を置く潮ヶ丘警察署刑事課の課長である。いつも厳しいが、その中には温かさがあって、櫻井も絶対的な信頼をおいている。
 櫻井は、強行犯係の先輩刑事・吉岡徹郎(よしおか てつろう)よりは随分控えめな性格をしていたが、はたから見ればスタンドプレーと取れるような派手な捕り物劇を行うことが多々あった。それは、櫻井が時に常軌を逸するほど自分の身体を顧みず被害者救出にあたることがあるからで、そのお陰で本庁の刑事達からは少々煙たがられている節がある。本庁の刑事は、手柄を所轄の若い刑事に持っていかれることを特に嫌うのだ。
 櫻井は、ファミリーレストランの向かいにある駐車場のブロック塀に身体を預けながら、街路樹越しに再びファミレスの窓を見やった。
 少女は泣いている。気力の萎えた無表情な顔で、ただ涙だけを流している。
 彼女が親元から奪い去られて、6日。疲れきっている頃だろう。通常、幼児の誘拐は、一週間も過ぎ、犯人が少女に対して好意的だと逆に犯人に懐く傾向がある。
 今回の場合も、少女に対しては犯人もきちんとした扱いをしているようだ。現にこうして、ファミレスで少女のためにお子様ランチらしきものを注文し、デザートのパフェまで頼んでいる。
 しかし、櫻井が見る限りでは、少女の顔つきは異常だった。表情のない無機質な顔を子供が見せる時は、非常に危険である。櫻井はそのことに気づいていた。
 犯人は身代金を要求しているが、ターゲットになった家族と犯人の間には日頃からの接点はなく、犯人が少女を選んだ理由は、家が裕福であるという理由とは案外別のところにあるのかもしれなかった。
 櫻井は歯軋りをする。
 少女は、犯人から、想像を絶する酷い仕打ちを受けているかもしれない・・・。
 櫻井は、その想像の先に行き着く結果に、深い怒りを感じた。
「おい、様子はどうだ」
 電力会社の作業員の格好をした吉岡が、コンビニの袋を片手に下げながら帰ってきた。
「狙い通り、窓際の席に座っています」
「お前がファミレスの店長に掛け合った甲斐があったな」
 櫻井は控えめに頷き、再びファミレスを見やった。
「しかし本庁の奴ら、遅いな」
 吉岡がそう言うのを聞いて、櫻井は腕時計を見た。確かに遅い。
「もう食い終わるぞ・・・。押えるなら、アパートに帰る前までなんだがな」
 櫻井は、「今しかない」と思っていた。犯人を確保するのは、今しかないと。
 少女はもう限界にきている。次の機会を待っていたら、少女の人格が破壊される。
 もし万が一、本庁の奴らが来なかったら、俺が取り押さえる。
 見かけは大人しそうな櫻井だったが、その眼は獰猛そのものだった。そんな両の眼で、犯人を睨みつける。
 本庁のヤツらが何だというのだ。彼女を救い出すことの方が何より大切ではないのか。例え始末書を食らおうが、処分されようが、知ったことか。
 犯人を逮捕して少女を救出し、それで「処分」されるなんてべらぼうな話だが、実際日本の警察機構はそのような仕組みになっている。一連の警察不祥事から、「組織改革」などと言われているが、所詮根底は変ることはない。
「お、やっと到着だ」
 それらしき車が2台、ファミレスの駐車場に入っていく。
「おいおい、いきなり入ってっちゃうのかよ」
 吉岡がぼやいた。その声には少々不安さが滲み出ている。
 本庁の連中は、いかにも休日ファミレスにやってきた客というふうな格好で車から出てきたが、櫻井にしてみればいかにも不自然に見えた。何せ今日は平日なのだ。あんなに大勢の目つきの鋭い男達がぞろぞろ中に入ってきたら、格好がどうだろうと、犯人が警戒するに決まってる。
「バカか、あいつら」
 そのことに吉岡も気づいたのだろう。
 櫻井が動いた。
「おい」
 自分を呼び止める吉岡を振り返り、櫻井は不機嫌そうな顔で言った。
「店長から教えてもらった裏口がもう一箇所あります。やつら、裏口に回した人数が少ない。俺らはそこから回って店内に入りましょう」
「どうするつもりだ」
「本庁は、犯人を甘く見ています。確かに犯人のプロファイリングは、気弱で高圧的な権力に屈してきたタイプと分析していました。事実、それは正しいでしょう。だけど、手負いの小型肉食獣ほど逆ギレした時が怖いんだ。アイツ、あんな軟弱な顔をしているけれど、間違いなく肉食獣ですよ」
「肉食獣って、お前ね・・・」
「吉岡さん、考えてみてください。現在やつは武器を携帯してませんが、その気になれば凶器になるものはヤツの手に届くところに五万とある」
 櫻井にそう言われ、吉岡は「あ」と声を出した。
 確かにそうだ。そこにはナイフだのフォークだの、わんさか・・・。
「行きましょう」
 櫻井と吉岡は、犯人の死角になる角度からファミレスに近づき、小さな第二の裏口から店内に侵入した。


 櫻井と吉岡が店内に入ると、そこは既に最も悪い状態で膠着してしまっていた。
 店内は、一般客やウエイトレスの悲鳴が響き渡り、騒然としていた。
 櫻井は、自分の傍の客達に落ち着くように声をかけると、例の窓際の席に目をやる。
 犯人は窓ガラスに背を向け、少女の喉にフォークを突きつけていた。
 案の定、犯人に感づかれたのだ。
「あ~あ」
 櫻井の背後で吉岡が間の抜けた声を上げた。
  「なにやってんだ、本庁のヤツら」と先を繋げたいところなのだろうが、本人達がいる手前それは口に出さない。
 櫻井は少女の顔をうかがった。
 少女は恐怖のあまり目を見開き、泣くことさえできずにいる。櫻井の胸はズキリと痛んだ。
「それ以上近づいてみろ! この子、殺すからな!!」
 ひっくり返った声で犯人が叫ぶ。その犯人に「観念しろ」と声をかけることしかできない本庁の刑事達の様子を見て、櫻井は苛立った。
「まったく、テレビドラマじゃねぇんだからさ・・・」
 櫻井の横に身体を割り込ませ、吉岡が呟く。
「しかしやっこさん、ヤバそうな感じだな。どうする? 櫻井」
 吉岡にそう言われる前から、櫻井の心積もりは決まっていた。
 幸い、櫻井達のいる位置は本庁の連中より犯人に近く、しかも本庁の連中のことで頭がいっぱいになっている犯人は、作業着姿の櫻井の存在にまったく気づいていない。この距離なら、走って飛びつけば犯人を取り押さえられるかもしれない。仮に少女を男の身体から突き放したとしても、走った勢いで突けば分厚いソファーが少女を守ってくれるはずだ。
「くそ~! この子を刺して、俺も死ぬ!!」
 状況は益々逼迫している。
 男が、フォークを振りかざす。
「すみません、吉岡さん。先、行きます」
 櫻井はそう吉岡に断って、走った。
 それはまさに、永遠に近い一瞬。
 フォークが宙を舞い、少女がソファーに蹲り、テーブル上のコップやパフェが倒れる・・・・・・。
  次の瞬間。
  永遠に近い静寂をガラスの割れる音がけたたましく引き裂いた。
「櫻井!!」
 店内に、吉岡の叫び声が響いた・・・。


 消毒されたピンセットが、またひとつ、ガラスの破片を皮膚から抜き取る。
「・・・あっ! つぅ・・・」
 櫻井はそううめいた後、細く長く息を吐いた。額には、脂汗が浮かんでは流れ落ちている。
「まったく、アンタみたいな無茶ばかりする刑事をねぇ、ダメ刑事っていうのよぉ」
 ガラスを抜き取った後の櫻井の太ももに消毒液を染み込ませたガーゼを押し付け、その女医はふてぶてしくそう答えた。
 流石に今回は彼女も本気で怒っているようで、終始唇を突き出した表情のまま、黙々と櫻井の身体からガラスを抜き取っている。
 そんな顔してると、益々渡辺えり子に似てる・・・・
 櫻井はぼんやりとそう思ったが、それを言うと状況をより悪化させることは十二分に分かっていたのであえて口に出さなかった。
 あのファミレスでの逮捕劇で櫻井は、主に身体の左半身に数ヶ所ガラスが刺さり血みどろになったところを救急車で警察病院に搬送された。一方犯人の方は、落下時に櫻井が犯人の身体をかばった為に手のひらを少し切った程度で、道路に呆然と座り込んでいるところを本庁の人間に逮捕された。被害者である少女は、意外にも意識ははっきりしていて、ガラスまみれの道路から吉岡によって助け起こされる櫻井を、救急車に運び込まれるまでじっと見つめていた。吉岡の話によると、別の救急車で搬送される最中、少女は何度も「あのお兄ちゃんと一緒の病院に行く」と言っていたそうだ。
 それを聞くと、櫻井の心は平穏さをまた取り戻すことができる。
 吉岡に助け起こされる間、櫻井もまた少女の顔をずっと見つめていた。
 大きな瞳が再び生気を取り戻して自分を見つめていた。
 今でも櫻井は忘れられない。決して櫻井にまで届くことはなかったが、あの時少女が自分に向かって差し出した小さな手・・・。それは確かに、自分に向けられた感謝の気持ちだった。
 一瞬痛みを忘れた櫻井が少女に向かって笑顔を浮かべると、少女もまた美しい笑顔を見せてくれた。それはほんの一瞬、二人だけが分かる出来事だったが、少女の身体だけでなく心も救い出せたことを櫻井は知ることができたのだった・・・。
「・・・うぅ・・・・」
 左上腕部から一際大きい塊を抜かれて、櫻井はうめいた。
「あ~、ここは縫わなきゃダメだね。櫻井君、麻酔かけるから」
「・・・麻酔・・?」
 額に浮かんだ脂汗を拭いながら、櫻井は和泉女史を見上げた。切れ長の目が二、三回瞬きをする。その表情を見て、和泉は顔を顰めた。
「そんな顔したってダメよぉ。麻酔があるなら、始めからしろっていうんでしょぉ。向こう見ずなダメ刑事には、そんなこと言う資格なんてないんだからねぇ」
 櫻井は、和泉の視線を避けるように、少しとぼけた顔をした。いつも無口で無愛想だと言われているが、注意深く見ていると、櫻井は意外に表情が純粋で豊かである。ただそれが露骨に表に出ないだけだ。和泉はそれが分かっているからこそ、この刑事の無鉄砲さが余計に心配なのだった。
 和泉は診療台から離れて、薬品棚から麻酔薬の小ビンを取り出す。
「まったくぅ、あんた程この病院の常連客はいないわよ。何回通ったら気が済むの。ま、私としては、その度に櫻井のヌードが見れて嬉しいけどさぁ。もっと自分の身体大事にしなきゃダメよ。身体はひとつしかないんだから」
 注射針をビンに差し込みながら和泉女史は、診療台に座る櫻井の姿を見た。
 櫻井は、背が取り分け高い訳ではないが、脚は長い。柔道で鍛えているだけあって、実務的な筋肉がびっしりとついており着やせするタイプだが、こうして黒のトランクス一枚で、張りのある浅黒い素肌を晒しても、こざっぱりとした清潔なイメージがある。艶のある漆黒の髪は短く切りそろえられ、すらりと伸びた鼻梁や切れ長の瞳が余計にこの男の「誠実さ」を現しているようで、清々しい。 だが右目の目じりの下に黒子がひとつあり、唯一色気臭いところがあるとすれば、その黒子だった。警察病院の看護婦でも、色事とは到底縁遠い櫻井を捕まえて「あの黒子が可愛いのよ」と黄色い声を上げる娘は多い。
 櫻井は決して愛想のいい男ではない。したがって、彼を心底嫌う者、そして彼を心底好いている者とがはっきりと分かれる。前者は、櫻井の怖いぐらいに己に正直な彼の生き方が鼻につくといい、後者は、無口な中にも直向で純粋な櫻井の輝きに恋焦がれるのだ。
「ヌードというのは・・・大げさでしょう」
 櫻井の言い草に和泉が目線を上げると、額にガーゼやらバンソーコーが貼られ、頬にもかさぶたが出来ている酷い有様の櫻井が、無表情ながらも目じりを少し赤くしているのが見えた。いつも真面目な櫻井のそんな不器用な表情を見ると、オバサンは少々からかってやりたくなる。
「半年前、アンタが背中刺されてここの救急に運び込まれた時、救急処置室でアンタのパンツ切ったのアタシだからねぇ。櫻井、あんまり大柄じゃないけど、あそこは立派なモノついてんじゃないよ」
 今度こそ目に見えて櫻井の顔が赤くなった。
「はい、腕を出す!」
 和泉が肩を叩くと、櫻井は憮然とした表情で、だが素直に左腕を差し出した。
 和泉女史が慣れた手つきで注射針を刺しこみ、その後素早く傷を縫合する。
「多分コレで最後だと思う。麻酔が効いてる間、腕に力入んないと思うから無理しちゃダメよ。それから今夜、ひょっとしたら発熱するかもしれない。ま、自分の身体を労わらない罰として、解熱剤飲まずによく汗をかくこと。いいね」
「はい」
 櫻井が返事をした時、治療室のドアが開いて、吉岡が中に入ってきた。
「どうだ、傷の具合」
「もう大丈夫よ。動脈が切れてたから派手な色の血が出たの。それも塞がったし、血の量ほど傷は大したことない!」
 和泉の台詞を聞いて安心したらしい。心配げだった吉岡の表情が、途端に不敵な笑みに変った。
「櫻井~、お前ちょっとした有名人になったぞ」
 麻酔のかかった腕に閉口しながらも何とか自力でズボンを履く櫻井が、怪訝そうに吉岡を見る。
「夕方のニュースに今日の捕り物のことが流れたんだ。しかも映像つきで」
「どういうこと~?」
 和泉がポカンと口を開ける。
「マスコミとは報道協定を結んでいたが、その中の一社が逮捕の瞬間をスクープすべく本庁のやつらをマークしてたんだ。映像は小型のハンディーカムのものらしいけど、お前の血まみれカットはバッチリ。それがどういう訳か時間帯をずらして各局が同じ映像を何度も流し始めたんで、きっと国民の殆どがお前の勇姿を拝んだって訳さ。また時間帯もゴールデン・タイムだったから、効果は満点といったところさ。どの放送局もお前のことベタ誉めだったぞ~。でも反対に、署長はカンカン。もちろん本庁の奴らも。課長(オヤジ)は例のごとくだんまりを決め込んでいる。でもちょっと怒ってるかな、あれは」
 後半のことについては櫻井も想像していたので平気だったが、さすがに前半部分は櫻井も困ってしまった。
 なんだか、嫌な予感がする。
 櫻井が顔を顰めた時、追い討ちをかけるように和泉女史が呟いた。
「やだ。今のうち櫻井にサイン貰っといた方がいい?」


 櫻井は、まだ日の高いうちから帰宅を命じられ、傷だらけの身体を引きずって家に帰った。「家」といっても、署の敷地内にある待機所・・・つまり独身寮が住まいなのだからすぐだった。
 署の前にはマスコミが陣取り、誘拐事件解決のヒーローの姿をスクープしようとハイエナのようにうろついている。そんな調子だから、独身寮が署内にあるのは好都合だった。ここにいる限り、追い掛け回されることはない。
 案の定、その夜櫻井は発熱した。
 突然多量に出血するなど、身体への刺激が多かったからに違いない。
 和泉女史に言われた通り解熱剤は飲まず、汗をかく度にタオルで拭ってスウェットを着替えた。鏡に映った包帯だらけの自分の裸身を見る度に、「さすがに今回のは無茶だったかな・・・」と妙に客観的な目で考えたりもしたが、それが自分の性分なのだから仕方がないと思い直した。
 多分、自分がこうまでして被害者達を助けるのは、あの時大切だと信じていたものを結局守ることが出来なかったからなのだろう。ある意味俺は、贖罪を求めているのかもしれない。20年経った今でも。
 櫻井は、食堂のおばさんが櫻井のために特別に作ってくれたオジヤを食べた後、すぐに寝床に潜り込んだ。結局その日は一回もニュースを見なかった。


 弟は、私を守ってくれようとしたのだと思います。
 ああ。なんて優しい弟。
 弟はまだたった7歳なのに、私のために父の喉笛へ小さなナイフを突き刺しました。
 血が、たくさんたくさん出て、白いシーツがみるみる黒くなっていきました。
 小さな弟はぶるぶる震えていて、その様がとても可愛らしかった。
 大きな瞳がコポコポと赤い泡を吹く父の口元を凝視していました。
 でも残念なことに、私はそうなることを望んでいなかったのです。
 弟の、私を守ろうとしてくれた気持ちは嬉しかったけれど、私は父のあの感触が好きでした。触覚を研ぎ澄まさせ、皮膚の細胞ひとつひとつに耳を澄ましながら、私は父を味わい尽くしました。
 何度も何度も私の身体を撫でてくれたあの手。
 それを奪おうとしたのは、弟。
 ああ。この気持ちをどう表現すればいいのでしょう。
 弟が、こんなにも憎いのに。
 今やもう、私には弟しかいない。


 群青色の制服に身を包んだ若い警察官が、会議室の前で直立不動の姿勢で立っている。
 小脇に警帽を持ち、会議室のドア一点を見つめているその横顔は、静かで揺らぐことがない。
 警視庁最上階の長い廊下を偶然にも通っていた老刑事は、「今時珍しい若者だ」と心の中で思った。随分長い時間そこに立たされているだろうに、青年はぴくりとも動かない。ピンと伸びた背筋は、まるで男の性分を現しているようである。今時の若者というよりは、まるで戦時中の兵隊のような痛々しい直向さが感じられる。
 老刑事は、静かだが傷もつれの青年の横顔を見て、「ああ」と思い立った。 正装をしているから気がつかなかったが、男は、先日血まみれになりながらも少女を救った「あの」刑事だ。
  退職を間近に控えている老刑事だったが、先日テレビであの青年の様子を見ていたら、たまらない気持ちになった。 老いさらばえたこの身体と心にもグイグイと刺さってくる正義感。情熱。自分ももう少し若かったら・・・。年甲斐もなくそう思ったものだ。
  今も微動だにしない彼の静かな佇まいの中には、あの情熱が宿っているに違いない。青年を取り囲む空気が他とは違うように見えた。
  可哀想に・・・、どうせ査問を受けているのだろう。警視庁の堅物達も、酷な事をする・・・。
  そうする立場に立つのが嫌で出世をわざと避けてきたその老刑事は、青年に少し同情するような視線を向け、その場を立ち去ったのだった。


 「櫻井正道。27歳。三年間の交番勤務を経て、潮ヶ丘署刑事課強行犯係に配属。検挙歴は、巡査時代からあわせて三桁を越える。なかでも、凶悪犯検挙に関して、巡査時代から優れた成績を収めていることは異例中の異例である。剣道二段、柔道三段。護身術、逮捕術、自動車運転技術等に秀で、特に狙撃技術に関しては警察学校の歴史の中でも、最も優れた成績を残す。加え、櫻井が出た現場は、必ずといっていいほど被害者は無傷で救出されている。性格は清廉潔白で真面目。職務遂行に並々ならぬ情熱を注ぐ。ただし、過去に難あり・・・」
「まるで、SAT(機動隊所属特殊奇襲部隊)にでもいそうな人材だな。本庁の捜査一課に推薦されてもおかしくない成績じゃないか」
 刑事部長の言葉に、化粧っけのない会議室内になんとも言えぬ重い溜息が漏れた。
「この櫻井とやらは、それほど被害者救出に長けているのかね」
 今年の4月から新たに着任したばかりの刑事部長が質問をする。生粋のキャリア組である彼には、所轄の一刑事の行いなど、今まで気にも止めていなかったのだろう。
 たった今書類を読み上げた若い管理官を挟んで、警視庁捜査一課長の米澤と潮ヶ丘署刑事課長の高橋が目線を合わせた。
「ええ・・・。ただし、大抵が、今回のような本庁の指示を無視するような無謀な行為によって、という断り書きつきです。だから、今までに彼は警視総監賞に匹敵するような救出劇を行いながらも、結果的には処分されている。同期の警察官の中で、もっとも優れた働きをしながら、処分された数だけを見ると、最も落ち零れの刑事ということになります」
 捜査一課長・米澤は、淡々と事実を述べた。その発言に横から割って入ってくる男がいる。警察庁の広報部長・長内だ。
「しかし、今回の場合、マスコミが恰好の獲物として、櫻井をマークしている。民衆は、警察内部の事情はまったく理解しようとしません。傍目から見ると、櫻井は英雄ですよ。簡単に処分を決めてしまうと、またも警察批判の声が高まるやも知れない」
 長内は、いつも警察組織の体面を基準として、その手の発言を繰り返す。
「う~む。そうか。なかなか難しい・・・」
 刑事部長が頭を捻る。元々があまり苦労していない人だ。
「で、高橋、君はどう思うんだね」
 米澤が、再び高橋に目をやった。
 潮ヶ丘署の刑事課長の高橋といえば、警視庁捜査一課長の米澤でさえ一目おいている。ノンキャリア出身のたたき上げであるが、過去は警視庁捜査一課の敏腕刑事として数々の伝説を残してきた。ほぼ同期の米澤とは正に戦友であり、本来ならば、一介の所轄署の刑事課長なんて器に収まっている方が不思議な人間である。
 会議室内の視線が、一気に高橋に集まった。高橋はポーカーフェイスの表情のまま、煙草を一服吸って、重い口を開いた。
「私は・・・、処分すべきだと」
 会議室中がざわめく。米澤が、心底意外そうな顔をしてみせた。
 高橋は大きく息を吐き出しながら、短くなった煙草をガラス製の灰皿に押し付けた。
「命令違反には変わりないのですから、処罰は必要です。組織にいる以上、兵隊は組織のコマとして動かねばならない。それはあれにも十分判っているはずです。マスコミの顔色を伺ってばかりいては、根本的な組織のあり方というものが、根底から崩れていく。秩序は、必要です。特に、我々のような組織には」
 高橋はそう言って、会議室内の面々を一瞥したのだった。


 「櫻井正道巡査部長。入りたまえ」
 直立不動で立っていた櫻井は、制帽を小脇に抱えなおし、会議室に入った。
 大きな窓越し、都心のゴミゴミした風景が広がるパノラマを背景にして、警視庁の幹部連中がずらりと並んでいる。その席からは外れ、会議室の左隅に隠れるようにして、ぽつりと一人、高橋警部が座っていた。
 櫻井はまず警視庁のお偉い方に一礼をし、次に高橋に一礼をした。
 数々の鋭い目線、疲れた目線、興味本位の目線が櫻井に突き刺さった。
「潮ヶ丘署刑事課強行犯係所属、櫻井正道巡査部長。今回の命令違反および常軌を逸脱した行いは大いに反省せねばならぬ重大行為である。したがって、当査問委員会は、櫻井巡査部長に対して、本日より10日間の謹慎処分を命ず。以後、言動には十分に注意し、今一度警察機構のあり方を再確認すること。以上」
 櫻井が無言で頭を下げる。その間に、警視庁の幹部らは、ぞろぞろと会議室を出て行った。
 櫻井が顔を上げると、すぐ側に高橋課長が立っていた。その口には新たな煙草が咥えられている。
「・・・帰るか」
「はい」
 会議室を出ると、高橋が窮屈そうに制服の襟元を緩めた。その二歩後を、櫻井は付いて行く。
「櫻井」
「はい」
 エレベーターホールまでの長い廊下を歩きながら、高橋は言った。
「今回の処分、最後は俺が決定させた」
「・・・判っています」
 高橋はちらりと櫻井を返り見、「そうか」と呟いた。
 エレベーターホールまで歩き、高橋がボタンを押す。そして彼は、ホールに備えつけの灰皿の上で、煙草の尻を一回弾いた。
「櫻井」
「はい」
「いくら被害者が無事だとしても、お前が生きていないと何の意味もないんだぞ。そうでなくて、何が救助と言える。何が事件解決だ。お前はそのところの考えが、いつも抜け落ちている。十分に考慮せねばならん点だ」
「・・・はい」
 俯く櫻井を見て、高橋は吸いかけの煙草を灰皿に落とした。ジュッという音が響いて、柔らかな煙が立ち昇る。
「10日間、十分に身体を休めろ。寮にいる限り、ハイエナ共にも追いかけられんですむ。10日も過ぎれば騒ぎも落ち着くし、身体の傷も十分癒えている筈だ。お前は、傷の治りが早い。戦士にも休息は必要だ。特に痛手を負ってもなお戦おうとするような、始末の悪い自虐的な戦士には」
 櫻井ははっとして顔を上げた。エレベーターが到着する。
 先に高橋が乗り込む。棒立ちになったまま、自分を見つめる若い刑事に、高橋がおどけた笑みを浮かべた。
「乗らんのか?」
「す、すみません」
 櫻井は、慌ててエレベーターに乗り込む。
 口では人一倍厳しいことを言う高橋だが、その実櫻井の身を一番に案じているのもこの高橋だった。
  傷だらけの櫻井の心に、高橋の無骨な優しさが身に染みた・・・。

 

触覚 act.01 end.

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編集後記

20000打ヒットにかこつけて、ついに始めちゃいました、「触覚」。
毎週更新できるか、今から大変が10乗つくぐらい不安なんですけど(汗)、とにかく頑張ってみます。
なんか、これで今連載してるお話ふたつとも、事件が絡んだネタになってしまいました(大汗)。おもいっきりカブッテル感じがしますが、国外と国内ということで(?)、許してください。
初回からしばらくは、相手役も出てこねぇっていう恐ろしいことになりそうなんですが(また焦らしかよ~と頭を抱えている皆さんの姿が目に浮かびまする・・・)、飛び道具ネタも用意しておりますので(?!)、ヨロシクお付き合いくださいませませ~~~~~!

[国沢]

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