act.16
<第10章>
「すまんな、櫻井」
川口にそう言われ、ふい櫻井は正気に戻った。
「いえ。仕事ですから」
櫻井は自分にもそう言い聞かせるつもりで、そう答えた。
つい、ぼんやりとしてしまう。こんなことではいけない。
櫻井は、ブロック塀の影から、雀荘の入口を睨みつけた。
川口は、額にかいた汗をハンカチで拭い、何気ない溜息をついた。
「奴は俺が八年越しに追っている空き巣でな。最近になってまたこの街に舞い戻ってきやがったらしい。すばしっこい奴で、これまで何度も逃げられてきた。これまで潮ヶ丘に着任してくる若い刑事をつれて取り物をしてきたが、すべて逃げられてきた。奴はとにかく、逃げ足が速い。奴もそれを判っていて、俺たちをバカにしていやがる」
潮ヶ丘署の老刑事はそう言いながら、幾分自分より小柄な若い刑事の横顔を見つめた。
四捨五入すれば三十に手が届く年齢であるにも関わらず、どこか少年のあどけなさが顔に残っている。
昨日までは、特捜を外されたことでかなり落ち込んでいる様子だったが、今日は気持ちの整理がやっとついたのか、勤勉で実直な普段の櫻井に戻っていた。朝の稽古もきちんとしていたようだ。
高橋は当初もっと深刻に落ち込むことを予想して、ベテランの川口に相談を持ちかけていた。どうやらそれも、高橋の取り越し苦労だったに違いない。櫻井は、高橋が思っているほど弱くはなかったということか。
きっと、こいつは今にもっといい刑事になる。
川口は思った。
例え他の刑事より問題行動が多かったとしても、この若者は人の苦しみや痛みを素直に感じることができる心を持っている。そして傷ついた者たちに次のステップに進むだけの勇気を、等身大で教えてくれる。人間は、しっかり前を向いてさえいれば、おのずと正しい道に進むことができる、直向な努力は必ず報われるということを。
「・・・川口さん・・・」
櫻井が呟いた。
雀荘の入口から長身だが痩せている男が出てくる。川口は目を凝らした。
「奴だ。間違いない」
川口がそう呟いた時、偶然にも男が買い物袋を下げたおばさんとぶつかった。荷物が道路に散乱する。おばさんの怒鳴り声に男が振り返った。
川口がしまったと思った時はもう遅い。
男は川口の姿を確認した瞬間にもう走り出していた。
「くそ!」
川口がそう叫ぶが先かどうか。既に櫻井が後を追って走った。川口も付いて行こうとしたが、すぐにあきらめる。空き巣の男も櫻井も、もう道の先に姿を消していた。そこにあるのは、中年女のヒステリックな叫び声だった。
住宅地に逃げ込んだ空き巣男を追って、櫻井は路地に入った。
空き巣男は、確かに逃げ足が速い。だが、日頃ストイックに身体を鍛えきっている櫻井には所詮適わない。おまけにここらへんの地域がどのような構造になっているかを櫻井は熟知していた。ありとあらゆる路地がどこへどんな風に通じているのかもすべて把握している。
櫻井は、真っ直ぐ走って行く男の背を見ながら、横道に入った。
身体のギアをチェンジして、坂道を上がる。
ここらへんは一部高台になっていて、坂道を上がりきると、男の逃げている道の先で上下に交わる小さな交差路に出る。
櫻井はフェンス越し男の頭を見ながら、男を追い越し、交差路を目指した。額から流れ落ちる汗が、風に飛ばされていく。
櫻井は交差路の角に立つ交通標識のポールを掴んで無理やり身体の方向を変えると、交差路の真ん中で足を止めた。しきりと後ろを伺いながら、走る空き巣男の姿が見える。
櫻井ははっと短く息を吐くと、身体の反動をつけて一気にフェンスを飛び越した。
空き巣男が「あ!」と声を出した時はもう遅かった。
気づけば男は、突如空から目の前に降って来た若い刑事に左腕を取られたかと思うと、次の瞬間には自分の足が空をバックに流れていく光景をスローモーションのように見ていた。
「水野幸男だな。窃盗の容疑で逮捕状が執行されている」
腕を捕まれたまま、真上から淡々とそう言われ、初めて男は自分が道路に寝っころがっていることに気がついた。ああ、自分は投げられたんだなと思った。
こんな刑事相手なら、捕まっても仕方がないや。
男は、今しがた若い刑事が飛び降りてきた道を見上げながら、そう思った。
携帯電話で川口に自分がいる場所を教え、櫻井は路肩に腰掛けた。
もちろん、捕まえた犯人は自分のネクタイで自分の手首としっかり結わえ付けてある。少々無茶な感じだったが、手錠はぜひとも川口にかけさせてやりたかった。なにせ八年も追ってきたホシである。隣に腰掛けた犯人も、櫻井のその行動を不審がっていた。
そんな犯人を傍らに置き、櫻井は少しぼんやりとしてしまう。
いやでも夕べのことが思い浮かんだ。
思わず心臓がドクリと脈打つ。
そのことを考えると、どうしても指の先端が痺れてくる感覚を覚えた。
櫻井が自分自身解決しなければならない疑問はたくさんあるのに、更にそれが増えてしまった。
どうして、大丈夫だったのだろう。
今考えても少し頬が熱くなる。
本当なら、あんなことをすれば、途中で気分が悪くなって逃げ出しているはずだった。なのに、むしろ夕べは気分が悪くなるどころか・・・。
その先はどうしても考えられなかった。とても恥かしくて。
夕べのことは、早く忘れてしまいたい。
自分の我儘な感情をあの人に押し付けて、おまけに性欲の処理までさせて。
強引に櫻井を拘束したのは香倉の方だったが、その原因を作ったのは自分にも責任がある、と櫻井は思っていた。自分には隙があった。いやむしろ、誰かに慰めてもらいたかったんだ。吉岡や小夜子らとは違った方法で。
こっぴどく傷つけられ、引き裂かれ、痛めつけられたかった。そして殺してもらいたかった。精神的に。
自分の醜い欲望をさらけ出されたような気がして、胸が痛くなった。
まさか、自分にこんな欲望があるなんて。
櫻井は背筋が寒くなる思いがした。
きっと朝稽古を怠っていたせいだ。そうに違いない。
そう思って今朝から更に稽古を厳しくした。
汗をびっしりかいて、自分を浄化したかった。
こんな自分がいることを、誰にも悟られたくない・・・。
いけない。
自分に与えられた職務に集中しなければ。
櫻井の隙をついて逃げ出そうとしていた犯人を、再びねじり押え、櫻井は自分を戒めた。
触覚 act.16 end.
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編集後記
家のウィンドウズがついにストライキを起こし、ネットに接続できなくなってしまいました(汗)。急場しのぎでMACにスイッチしたため、当然HP作成ソフトにもお世話になれず、ついにタグ打ちでページを更新しなければならない状況に・・・。(自慢じゃないが、過去一度もタグ打ちでページを作成したためしがない)
国沢、まじに泣きが入りました(どげ~ん)。これじゃ、お引っ越しどうこうの話じゃござんせん。基本中の基本、TCP/IPからいってみよ!の世界です(滝汗)。もち、いつも使っているFTPも使えません。うわ~ん、なんだよぉ。この試練は、一体何を指し示しているの? 車で疫落ちはしたと思っていたが、甘かったか。
次週、お待ちかね、井手ネェサン登場です。
[国沢]
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