act.39
人間なんて・・・。
人間の人格なんて、微弱な電気信号で形成される薄っぺらい経験記憶により作り出されるに過ぎないもの。
その脆さを熟知し、アクセスする方法さえ確立すれば、その人格を意のままに書き換えることも可能。
そうやって、そうやっていつも、いろんな人間を惑わせてきたんだな、お前は。
中谷由起夫や橘邦夫、吉岡刑事、そしてお前の父親でさえ、お前のその化け物じみた魔術に操られ、犯さずともよい罪を重ねたのではないのか。そうじゃないのか。
私はその秘密を知っていただけ。
お前達が言うような化け物や呪術者なんて陳腐なレッテルとは無縁のもの。
私はより崇高な導きをお前達に与えるもの。
私は、お前達の悩める魂の欲望を解放し、世俗の柵を解いて己の欲望のまま行動をするための手助けをしてやっているに過ぎない。
崇高な導きだと。ふざけるな。
これがそうだというのか。
この溢れ出てくる感情がそうだと?
俺はこんな悲しみに出会ったことがない。
今にも胸が押しつぶされそうだ。
人は罪を重ねる。
そしてそれは、雪のように降り積もり、個々の心に覆い被さっていく。
だが、それを解放するために他人を傷つけろというのか。
己の弱い心を誤魔化すために、お前の父親や母親がしたように、自分の身近な人間を傷つけろと?
お前は悪魔だ。
人の悲しみを利用して、己の欲望を満たす悪魔に違いない。
お前などの手に、櫻井は落ちたりしない。
お前の私に対する批判はお門違いというものだ。
お前という血は、私や正道とは交わることができない。
正道と私の間の、決して消えることのない絆は、何者も犯すことができないのだ。
私達の意識の奥底には、父の遺伝子から受け取った、選ばれし者の絶対記憶が存在する。
我らはそれを幼い頃から現実の体験記憶と共に確実なものとしてきたのだ。
その価値がお前には判るまい。
あの感触。あの刺激。
お前の汚れた手で正道の肌に触れたとしても、お前には何も判らないのだ。
お前こそ、何もわかってやしない。
櫻井の悲しみ、痛み、それの欠片でもお前は感じたことがあるというのか。
どんな気持ちでこれまで生きてきたのか。
どんな気持ちでお前の誘発した数々の『罪』と向き合ってきたか。
お前には分からない。
分かるはずがない・・・。
愚かな者よ。
分かるとは、そういうことではない。
それは最も根本的な場所にあるもの。
皮膚の下に流れる血。全身に張り巡らされた感覚。細胞の、そのもっと先の、遺伝子をも越えた分子の段階から、私達は引き合っている。
お前には分かるまい。
人の手がその肌に触れて感じるように、私達は研ぎ澄まされた脳髄で人の心に触れるのだ。そして深いところで混じり合う。
この特別な『触覚』が分かるか。
脳細胞の一つ一つが直に歓喜する感覚。
選ばれた者でしか味わえない電子信号を越える神の領域。
お前にわかるはずがないのだ。
私は正道の心をこの脳髄で鷲掴みする。
そしてあの純粋な心をまといつかせるのだ。
永遠に汚れない愛情。真実の心。
私をこの泥まみれの奈落から救い出してくれるのは、あの子の純粋な血の役目。
それを阻むことは、誰にもできない。
お前がいくら抵抗し、あの子のことを想っても、私の感覚に比べれば、取るにたらないちっぽけな信号なのだ。
お前達のような人間は、私の世界から無くなるべきである。
特にその汚らわしい手であの子に触れたようなお前は。
お前のような人間が『愛情』を語るというのか。
決して拭うことの出来ない罪に汚れきったお前のような人間が。
お前のような奴は許せない。
お前は木戸の隙間を這い寄ってくるような害虫。
お前なんか、悲しみに潰されてしまうがいい。
櫻井は、注意深くスピーカーから洩れてくる男の息づかいまでも聞き取るように神経を研ぎ澄ました。
『櫻井正道だな』
有無を言わさない声。
「はい。そうですが、そういうあなたは誰なんです?」
沈黙が流れた。
櫻井は瞳を閉じる。
喉にからみつくような呼吸音。微かに聞こえる蛍光灯の音。
何の確証もなかったが。 ふいに櫻井の脳裏に閃いたものがある。
つい先ほどまで分からなかった謎が、一気に明るく照らし出されたような感覚。
いまだ、刑事の感とやらが生きているのか。
耳を通して、まだ会ったことがない男の感情が、脳の奥に浮かび上がる。
「榊警視正ですね」
スピーカーの向こうでは何も物音や声はしなかったが、それでも微かな動揺が感じ取れた。
「香倉さんを拉致したのはあなただ。・・・香倉さんが、次の標的になったんですね。そうなんですね。だからあなたは・・・」
『随分と察しのいい奴だ。この先を話には、お前の携帯だとちとマズい。お前のはあの男のもののようにプロテクトが掛かっていない。これから言う場所に向かえ。そしてその場所で男に会ってもらう。お前には訊きたいことが山のようにあるんでな』
だみ声の男は、手早く近くの工場地帯の一角を指定すると、櫻井が次に何かを言い出す前にぷっつりと電話を切ったのだった。
櫻井は車を走らせた。
地図を見なくとも、その場所は容易に分かった。
大規模な工場地帯。大きな建造物に向かって車を走らせればすむことだった。
たくさんの企業の工場が隣接している工場地帯の入口につくと、閉ざされた門越しに指定された工場街の案内看板が見えた。
櫻井は車から降り立ち、周囲を見回す。
もう深夜に差し掛かる時間帯だったので、人気はなかった。よくよく目を凝らすと、各社の工場の入口ごとに守衛が居るようで、工場地帯の入口であるここには警備員はいないようである。
櫻井は、再び車に乗り込み、フェンス越しに例の工場街への看板を目で追いながら、工場地帯のフェンス越しに車を進めた。
やがて看板の矢印が目の届かない方向を指し示すのを確認すると、目立たないところに車を置き、二メーター以上もあるフェンスをあっという間に乗り越えた。
乗り越えた先は雑草の生えた藪になっていて、櫻井は周囲に人気がないかどうか念のためしばらくそこで様子を伺った。だが、虫の鳴く音や風が草を揺らす音以外聞こえてこない。
櫻井は、看板の指し示す方向に向かって注意深く足を進めた。その足元から、重々しく長い影が伸びる。
空気が重く湿っている。
空を見上げると、富樫家を出た時よりも更に暗雲がたれ込めているような気がする。
不穏な風が、ざわざわと木立を揺らした。
道の両脇に所々点けられた街灯の青白い光が、アスファルトを不気味に照らし出している。
予定なら、既にここは指定された工場街であった。
聞いたことがないような会社の持ち物である。櫻井が立っているすぐ先、約50メートルには別の会社名前が書かれた工場の壁が見えていた。
背後で唐突に人の気配を感じて、櫻井は建物の陰に素早く身を隠した。
「お前、俺の気配が分かったのか」
道路上に遠慮のない男の声が響いた。
櫻井は眉間に皺を寄せ、建物の影から顔を出す。
コツリコツリと足音を立てながら歩いてくる男を見て、更に櫻井は顔をしかめた。
どこかで見たことのある顔だ、と思った。
年の頃は四十代始め。くたびれた背広に無償髭の生えた顔。中肉中背で伺いしれないような飄々とした表情を浮かべている。
「あなたは・・・」
櫻井も、目の前の中年男が榊警視の指定した男であることを察し、男に向き合った。
「警視庁公安部の安部だ。お前には悪いが、お前と香倉裕人の動きをずっと追わせて貰っていた」
櫻井は、記憶の糸をたどった。次の瞬間、「あ」と声が出る。
思えば、度々櫻井の視界の隅に登場してきた男だった。例えば、香倉のマンションの駐車場で。吉岡が運ばれた病院の廊下で。櫻井が空き巣を逮捕した時の野次馬の中にもその顔があった。どれもあまりにさりげなくて気にも止めないような希薄な存在感。
だが、目の前の男は臓物がギュッと萎縮しそうなほどの圧力感を持って、櫻井の目の前に立ちはだかっていた。
「俺の気配が分かっただけでも大したものだ。うちのサラブレッドが心酔するのも分かるような気がする」
サラブレッド・・・? ああ、香倉さんのことか、と櫻井は思った。
安部の少し嫌みとも取れる口調を聞いて、今更ながらに香倉がキャリア出身の変わり種であることを実感した。
「いつから・・・いつ頃から自分達を・・・」
櫻井が訊くと、安部は懐からタバコを取り出し口に銜えながら肩を竦める。
「香倉が警視庁でお前さんの過去のレコードを検索してからだ。うちの親父は、あのお兄さんのことになると余裕が無くなる。過保護に育ててるからな。じゃじゃ馬息子が何かしら自分で勝手に動いているのが心配でたまらないのさ。だが、本格的にヤバイと思い始めたのは、ここ数日前のことだぜ。例の事件を起こしている相手・・・お前のネェチャンとやらがあそこまでのことをやらかすとは正直思っても見なかった」
「一体何が・・・」
安部はタバコの煙を荒っぽく吐き出すと、タバコを挟んだ手で無精ひげが生えた顎をボリボリと掻いた。
「香倉裕人がお前のネェチャンの次の標的にされたんで、安全な場所に奴を隔離した。だが、安全だと思いこんでいたそこに何者かが現れ・・・といってもお前のネェチャンだろうが・・・、うちの工作員を二人ばかりキャベツにして、香倉を連れ去った」
あまりのことに、櫻井は言葉を失った。
香倉は今、『本当に』行方が分からなくなっているのだ。
櫻井は、安部を睨み付けた。
公安が力づくで介入したお陰で、失われなくともいいはずの命が二つも失われ、あろうことか標的にされている香倉でさえも守ることが出来なかったのだ。
安部は、櫻井の凄まじい光を放つ瞳を真っ向から受け、自嘲気味に顔の筋肉を緩めた。
「まぁ、そんな目で見るな。お前さんの言いたいことは分かるさ。・・・はっきり言って、今回のことは公安の失態だ。いや、親父の失態と言っていいだろう。相手を甘く見すぎていたんだな。・・・もっとも、警察の幹部連中は、元々自分達が蓋を閉めた手前、親父を責めたりはできないだろうが、親父は少なくとも自分でそう思っている」
櫻井は苛立った。
今こうしている間にも、あの人は危険に晒されているのだ・・・。
「どうして・・・。あなた達は一体何をしているんだ?! あなたが、今ここで自分に会っていることに何の意味があるんです?!」
歯がゆかった。
櫻井は容赦なく安部に噛み付いた。
安部は、淡々とした表情で櫻井を見る。
「香倉が連れ去られた後に残された唯一の手がかり。その意味を知る者が、恐らくお前一人だからだ」
櫻井は、ぴたりと口を閉ざした。
安部が懐から出してきた『手がかり』。
本来なら、今も北原家の廃墟の床下で眠っていなければならないもの。
櫻井の目の前に翳されたものは、幼い頃父と一緒に作って遊んだ、戦闘機のプラモデルだった。
触覚 act.39 end.
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編集後記
この間の日曜日に、この『触覚』をすべて書き終えました!(まだ微調整は残ってますが)
本当に長かったです(汗)。(←もう一編はもっと節操なく長いことになってますが(大汗))
でも何とか、収拾つきました。『神様~』を書き終えた時は、空中をクルクル回って着地した!って感じなんですけど、この話は何だかじんわりしちゃいましたねぇ・・・・。主人公の性格を反映しているのかどうか。
更新作業は、もうちょっと続きます。皆さん、残り後わずか!
よろしくお付き合いくださいね。
[国沢]
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