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act.34

 大石が指定してきた約束の場所は、東京都の監察医務院であった。所謂モルグである。
 河瀬の計らいで『例の物証』も今だ監察医務院に留め置かれてあった。その物証を第三者が見るためには、医務院で見るしかチャンスは残されていない。
 香倉が警察機関に近づくのは立場上些か危険ではあったが、監察医務院は警察機関でありながら出入りする人間が極めて少ないことがせめてもの救いになった。
 大石が気を利かせて死体搬入口を開けてくれるよう取り計らってくれたので、人目にはまずつかない。ここに安置されている遺体の遺族ともまったく接触しなくてもいい通路を通り、冷蔵室で大石に会った。
 香倉の姿を見ると、開口一番大石はこう言った。
「用意がいいな」
 少し冗談交じりの口調である。香倉は、ピカピカに磨き上げられた冷蔵庫のドアに映る喪服姿の自分をチラリと見た。
「そっちこそ、珍しく不精髭なんてワイルドにきめているじゃないか」
 香倉がからかうと、大石は苦笑を浮かべた。その表情には疲れが伺える。
 香倉はその大石を前にして訊いた。
「ところで、本当自殺だったのか?」
「自殺ですよ。完璧に」
 ふと背後のドアが開く音がして、抑揚のない冷静な声が響いた。 その声に聞き覚えのあった香倉は、思わず二ヤリと笑みを浮かべた。
 颯爽とした足取りで入ってきたのは、監察医務院の医師の中で中堅どころとして活躍中の田中医師だった。実は彼は、公安の息がかかっている。公安部が絡んだ案件を適切に処理しているのがこの田中医師だった。香倉も、遺体の身元を抹消してもらいたいという無理な頼みを押し通した記憶がある。
 田中医師は香倉と同世代の若い医師だったが、そんな汚れ仕事も冷静にやってのける精神力を兼ね備えていた。学生の頃から、度胸が据わっていたのだろう。いかにも榊の好みそうな男だった。
「見ますか?」
 顔つきは優男であるが、表情はふてぶてしい。香倉と大石は、顔を見合わせた後、同時に頷いた。
 田中は、全部で三段、五列づつある扉の一番下中央の扉を開き、手馴れた手つきでスライド式のベッドを引き出す。そして半透明の死体袋のチャックを引き下ろした。
「局部を果物ナイフで数十回と切りつけていました。死因は出血多量死。裂傷は局部のみで、他にはありません。発見された時はブランド物のスーツを着用していましたが、下半身には下着を着用していませんでした」
 血の気が引いて、紙のように真っ白な肌に早くも青い血管の筋が浮かび上がっていた。背中には死斑が所々浮かび、彼女が死を迎えてから長く時間が経過していることが伺えた。
 薄く閉じられた目には当然のごとく光はなく、その目尻には黒子がついてた。
 香倉は、その顔を見てテレビで見たことのある顔だということに気がついた。生前の彼女の姿を思い起こして、ああ・・・と呟く。
 今は顔の筋力もなくなり、よく分からないが、テレビに出ていた神津美登里は、カガミナオミにも似ていたし櫻井にも似ていた。やはり、彼女が母親なのだ。
「黒子でしょう」
 田中は、香倉が黒子に目を止めたと思ったのだろう。彼はピンセットと小さなシャーレをポケットから取り出すと、遺体の目尻から黒子を取り、シャーレに移した。
「今時珍しいつけ黒子ですよ。これが彼女のトレードマークだったらしいですね」
 それを聞いた香倉は、少し物悲しい気持ちになった。
 彼女は、一方的に息子を捨てた女として、それなりに辛い人生を歩んできていたのだろう。息子と同じ場所に黒子をつけ、息子の面影にしがみ付く哀れな母親のなれの果てだった。
「自殺であるとする根拠は?」
 香倉が遺体の顔を見つめたままそう訊くと、大石が答えてきた。
「完全な密室だったんだ。遺体は、神津美登里の自宅の寝室で発見されたんだが、彼女の家のハウスキーパーが来るまで、鍵のかかった寝室が開けられた痕跡はなかった。 神津美登里の家にはテレビ関係の人間が出入りすることが多く、神津美登里は、他人が出入りすると困る部屋には片っ端から鍵を取り付けていた。その鍵束はこの世に二つ存在するが、ひとつはそのハウスキーパーが。もうひとつは、鍵のかかっていた神津美登里の寝室にあった。その後の調べで、神津美登里の自宅に第三者が侵入した形跡は一切なく、もちろん鍵のかかった寝室に誰かが入った様子も見られない。ハウスキーパーの鍵を盗んで合鍵を作ろうにも、その隙は皆無だった。室内に乱れた様子は一切なく、金品や宝石類もそのまま。そしてご丁寧に遺書も発見された」
 大石が傍らのステンレス製の机に置いてあったジッパー付の袋を持ち上げて見せた。
 中には、真っ白い便箋に『私は愚かな女』とだけ書いてある。
「筆跡は神津美登里本人のものだ」
 香倉が腕組みをする。
 大石に続き、田中も『根拠』を語った。
「この刺し傷を見てください。傷の深さや角度、形からして本人が刺したことに間違いないと言えます。左手には、ナイフの柄が当たってできた痣も確認できました。これです」
 遺体の左手を裏返して田中が指差す。確かに手のひらの根元の方に、小さな楕円形の痣が色素沈着を起しているようにくっきりと残っていた。香倉は思わず櫻井の手を思い起こした。彼の手にも、うっすらとでがあるが、同型の痣があった。
「なるだけ深く刺そうと、右手の上から左手を沿えて、ぐっと押し込んだ跡ですね。かなりの力で。最初は、数回軽く刺して、次第に力を込めていったのでしょう。最後の刺し傷にはナイフが刺さったままで、抜くのに苦労しました。今まで様々な自殺遺体を検案してきましたが、ここまで凄まじいのは久しぶりです。よっぽどの覚悟があったんでしょう」
 田中がナイフを振り下ろす素振りをして見せたのに目をやり、香倉は背筋がぞっとするのを感じた。井手が吉岡の頭の中で「見て」きたこと話を思い出したからだ。
 己の股間を、何度も何度も繰り返し刺す女。やがて女は、自らの腹を割り開き、そこから幼い少年が零れ出てきた・・・。
 頭の中で井手を落としいれようとした女そのものが、実体化して現れたとしか言いようがなかった。彼女もまた、仲貝議員の時のように「操られた」結果に違いない・・・。
 これがまたもや櫻井の姉の仕業だとしたら。
 櫻井が絶対的な「善」を象徴する存在だとしたら、彼の姉は絶対的な「悪」であると言える。
 そのような行いに出るきっかけがなんであったにしろ、そこには邪悪な臭いが充満していた。人はどうして、ここまで残酷になれるのだろう・・・。
「大石・・・、これは・・・」
 香倉が顔を上げると、大石は頷いた。
「分かっている。俺も井手が吉岡を連れ戻した現場に立ち会っていた。井手から、『あの男』が人間の精神をコントロールして死に追いやっているという可能性があることも聞いている。だが、今の俺では、手出しができん。いや・・・、例え仮に捕まえたとしても、そんな現実離れした話で公判が維持できるとは到底思えない。これは、完全犯罪なんだよ。自分の手を汚すことなく、人の憎しみや悲しみを利用して死に追いやる。信じられないし、信じたくもないが、それがこの事件の結末なんだ。完敗だよ」
 香倉は、表情を険しくする。
「それが言いたくて、俺をここに呼んだのか」
 苛立ちがつい声に出てしまった。大石の表情が硬くなる。
「いや。そうじゃない。そうじゃないんだ。今の俺には、『あの男』に対してどうすることもできないが、警告を発することはできる」
「警告?」
「現場で見つかった奇妙な物証というのがこれだ」
 大石が、二つ目のビニール袋を香倉の方に差し出す。
 写真だった。
 その見覚えのある場面を見て、さすがの香倉も顔を強張らせた。
 あの日。
 櫻井と共に例の部屋を見つけ、マンションの駐車場の車の中で櫻井を抱きしめている場面。
 その香倉の顔は、神津美登里の血と思えるどす黒い液体で塗りつぶされていた。  
「・・・望むところじゃないか」
 香倉は写真を見つめたまま、そう呟いた。
 大石がぎょっとする。
「お前、本気で言っているのか?! アイツは、お前を次の標的に選んだんだ! アイツは、櫻井に近づこうとする人間を片っ端から潰しに掛かろうとしている。吉岡の身に起こった出来事を思い出してみろ! 今度は、お前の番なんだぞ!!」
「じゃなにか? 俺に逃げ隠れしろとでも?」
 香倉が顔を上げた。
 燃えるように獰猛な瞳だった。
 一瞬大石は言葉を失う。
「上等じゃないか。アイツからご指名を受けるということは、こっちが黙っていても態々向こうから登場してくれるという訳だろう。願ってもないチャンスさ」
「香倉!!」
「俺を誰だと思ってるんだ?」
 香倉はぴしゃりと言い放った。
「お前達表の人間にできなくても、裏で生きてきた俺にならできることはある・・・。指咥えて見物してろ」
 香倉は饒舌に捨て台詞を吐くと、冷蔵室を出て行った。

 

<第17章>



 高速を降りると、櫻井はすぐに実家のあった場所を尋ねた。
 坂道の多い町で、細い路地がいくつもあった。開発される前の古い街並みが残っている地域だ。そのせいだろうか、意外なことに櫻井の実家はまだ「そこ」にあった。
 既に廃墟と化した家。
 元々が頑丈な造りの建物だったので、外観はほぼ昔と変らない。だが、あんなに几帳面に手入れされていた庭は荒れ果て、縁側の窓ガラスのいくつかは割れていた。
 昔不吉なことがあったせいなのだろうか。門へ回ると、古びて真っ茶色に汚れた『売り家』の看板が鎖で門に結わえられている。
 櫻井は、その門の前に立ち、瞳を閉じた。深く息を吸い込む。
 思えば、この門の前で涙に暮れる姉と別れたのだ。
 必死に探して、それでも見つからないと諦めたその時、姉にはもう二度と逢えないのだと思った。それが、こんな形で姉の存在を身近に感じることになろうとは。
 櫻井は目の奥が充血する感覚を覚えた。
 香倉と知り合ってから、自分は随分と涙もろくなったと思う。
 正直、自分が弱くなったのか、強くなったのかが分からない。
 櫻井は再び大きく深呼吸をすると、身軽な身のこなしで門を登って、向こう側に飛び降りた。
 玄関には鍵がかかっていた。庭に周り、ガラスの割れた窓から入ろうとしたが無理そうだった。
 ふと、記憶の漣が櫻井の中で沸き起こる。
 櫻井は勝手口に回った。財布から銀行のカードを取り出すと、ドアの間に挟んで上下に動かした。直にカチャリとドアが開く音がする。
 子供の頃、両親や家政婦が家にいない時に限って鍵を忘れて、よくここからこうして家の中に入っていた。いざと言う時のために、プラスチック製の洗面器を足で割って、破片を周囲に撒き散らしていた。その破片を使ってドアを開けるのは実に簡単で、櫻井はそれを姉によく自慢していたものだ。二十年経った今でも、身体に染み付いている。
 懐かしいやら物悲しいやらで、櫻井は一瞬少し混乱した。
 勝手口から中に入る。
 家の中はがらんとしていて、床は砂埃が覆っていた。一歩歩く度にじゃりじゃりと音がする。ところどころに割れた電球の破片やら倒れた家具がそのままになっていた。落書きも見える。
 どうやらここは近所の子供たちの遊び場になっているらしい。縁側のガラスが割れていたのは、子供たちの仕業ということか。
 部屋を覗いていく度、昔の生活が蘇ってくる。
 僅か七年間しか過ごさなかった家なのに、こんなにも鮮明に記憶が蘇ってくるなんて。
 母がいつも疲れたように座ってぼんやりとしていた台所のテーブルと椅子。
 時折くる家政婦が磨いていた黒い板張りの廊下。
 姉がよく眺めていた鏡。
(・・・その鏡は割れている・・・。)
 子供部屋の押入を開け、隅の床板を触ると、コトリと傾いた。床板を外す。そこには、アルミ製の大きな缶が置かれてあった。あの日のままだ。
 缶を取り出し、蓋を開ける。幼い頃の櫻井がここへ隠した、思い出の宝物だった。ビー玉、水鉄砲、パチンコ・・・。
 櫻井は、缶の中を探りながら、あれっと小首を傾げた。
 一番お気に入りだったプラモデルがない。父と一緒に作った戦闘機・・・。あれは、壊れたんだっけ・・・?
 定かでない曖昧な記憶もそのままに、櫻井は缶に蓋をすると部屋を出た。
 廊下に出る。
 櫻井は、ゆっくりゆっくりと足を進めた。
 長い廊下の先にある部屋。
 櫻井はドアの前に立ち、ゴクリと唾を飲み込んだ。ドアに触れた手がブルブルと震えている。
 今でも、重厚なこの気の感触は変わりない。
 父の部屋。
 全ての始まりとなった舞台だった。
「しっかりしろ・・・・」
 櫻井は自分に言い聞かせて、ドアを開けた。
 軋む音がして、あの忌まわしい部屋が櫻井の前に現れる。
 中は意外に明るい。
 窓を覆っていた大きな本棚達がなくなっていたからだ。
 ここの本達は貴重なものも多く、ほとんどが大学や図書館に寄付されたと聞き及んでいた。
 だが、その中の数冊は、あのマンションの隠し部屋に収められてあった。
 櫻井は、ゆっくりと一歩部屋の中に入った。
 今は骨組みだけになった木製のベッド。父の部屋は特に洋式のインテリアで統一されていた。
 板張りの床には、所々黒い染みがある。
 拭っても拭いきれない血の跡だろうと思った。
 櫻井は両手で顔を被う。
 姉に覆い被さっていた父。まだ成熟していない身体を開いて、父を受け入れていた姉。
 姉や家政婦の悲鳴と父の断末魔の唸り声が蘇ってくる。
 心が痛い。
 そもそも人間の心など、どこに存在するかも分からないのに、鷲づかみにされているようだ。
 いろんな人の手が、櫻井の腕を掴んだ。
 秘密の呪文を教えてあげると庭で咲いているカキツバタの茂みの裏に招き入れた姉の手。
 刺された直後、ナイフを持っていた手を力強く掴んだ父の手。
 父を刺した時、後ろから自分を羽交い絞めにした家政婦の手。
 家を出て行く時の母の強引な手。
 母が親権を放棄し、都会の孤児院から自分を連れにきた施設職員の手。
 その他にも、様々な手が櫻井に触れ、彼を傷つけていった。
 悲しみや苦しみが溢れて、どうしようもなくなる。
 次々と記憶が流れて止らなくなる。
 これでは駄目だ。これでは・・・・・。
 櫻井がそう思った矢先、温かい手が震える櫻井の腕をそっと握ってくれた感覚を覚えた。
 櫻井は、じっと閉じた瞼の奥で、「見て」いた。  
『・・・もうそんなに、ひとりで頑張るな』
 あの時。
 吉岡の入院した病院の帰り、車を止めて初めて優しく抱いてくれた香倉の手。
 そうだ。俺は独りで戦っているんじゃない。
 櫻井は瞼を開いた。
 今までと変らない空間が広がっていたが、厳密に言うとさっきまでとは違って見えた。
 自分は、戦うためにここにきた。
 生きるためにここに来たんだと思った。

 

触覚 act.34 end.

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編集後記

仕事が忙しいとかなんとか言いながら、現在ポツポツと「映画好きへの100の質問」の質問コマを埋めていっている国沢です。
国沢、映画ネタになると、途端に熱中しちゃうんで取り組み始めるのも非常に早いです(汗)。
答え終わったら、メトロにでもアップしますんで、お暇なら読んでやってください。
(なんだかアレ、100問読むのも辛そうです。休み休み読むことをお薦めします)
それはそうと、いよいよ香倉が櫻井(姉)の次の標的になって参りました。いよいよこの「触覚」も終盤戦突入です。今まで撒いてきた伏線、いくつか取りこぼしてそうな気がするんですけど(汗)、これから終わりに向けて追い込んでいきますよ~。(いけるかな?)

[国沢]

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