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act.10

 

<第7章>


 とうさん・・・、とうさん。
 今も、ボクをうらんでるよね?
 ボクは、とうさんをさした。
 いっぱい、血が出た。
 とうさん、いたかったよね。
 こわい目をして、ボクを見てた。
 でも、とうさん。
 とうさんは、わるい人だ。
 おねぇちゃんにいやらしい手でさわった。
 かあさんをなかした。
 ボクは、なかなかったけど、とうさん。
 ほんとは、いっぱいないてたよ。
 人のいないところで、たくさんないた。
 とうさん、なんであんなことしたの?
 ボクのまえでのとうさんは、けいたくんちのとうさんと同じだった。
 なのに、おねぇちゃんのまえでは、どうしてあんな目になるの?
 とうさん。
 ボクはね、おねぇちゃんをたすけたかった。
 それだけだったんだ。
 でも、とうさん。
 とうさんは、ボクをゆるしてはくれないよね。
 いまもまだ、おこっているよね。
 てんごくには、行けてないんだね。
 ボクのせいなんだね。
 ごめんなさい、とうさん。
 ボクが、とうさんをころした。


 櫻井は、ゆっくりと目を覚ました。
 久しぶりに良く眠れた。熟睡したせいで、昨日のことをよく思い出せなかった。
 櫻井は、鼻を鳴らす。少し鼻が詰まっていた。だが、じきに自分の部屋の匂いと違うことに気がついた。はっとして身体を起こす。
 寝心地のいいベッドのスプリングがぎしりと揺れた。
 薄暗さに目が慣れなくて、二、三度瞬きをした。ベージュ色に統一された清潔な部屋。水辺の花のような香りがした。
 一頻り部屋を見回す。右手に窓があって、アイボリー色のカーテンが引かれてあり、外は薄明るい。左手にクローゼットがあって、その側に一人がけのソファーが置いてある。そこには、白いジャケットとスラックスがかけられてあった。
 ここは・・・、どこなんだろう・・・。
 櫻井は、肌触りのいいシーツを掴み、ベッドを降りようとした。シーツがずれて、自分の隣にもう一人眠っている人間がいることが判った。
 シルクのスリップドレスを着て横たわっている滑らかな背中。
 櫻井はぎょっとした。
 自分の恰好を見る。
 下着はつけていたものの、上半身は裸だった。
 みるみる櫻井の顔が青ざめる。
 思い出せなくて、頭を掻き毟った。
 隣で眠っていた人物が、目を覚ます。寝ぼけ眼で櫻井を見た。
 井手だった。
「あら、目が覚めたの・・・。気分はどう?」
 俯いた状態から身体を起こした時、小ぶりだが美しい形の乳房が少し見えた。
 櫻井は、視線のやり場に困って顔を窓辺に向けた。
「・・・まだ四時じゃないの・・・」
 明らかに低血圧の人間と思わせる口ぶりだった。
「あ、あの・・・どうして井手さんは・・・」
「だって、ここ私のベッドだもの」
 ぼさぼさの頭を男らしい仕草でかき上げながら井手は言った。
 櫻井は、この状況に益々顔を赤らめる。
「そ、それは、判ります。自分が言いたいのは、なんで自分がここにいるかで・・・」
「うん」
 井手はまだ完全に起きていないらしい。ぼんやりとした顔で櫻井を見つめている。
「あっ、あの・・・自分は、夕べ、まさか、井手さんに失礼なことをしてしまったのでは・・・」
「え?」
「だから・・・その・・・」
「ああ、セックスのこと?」
 櫻井の顔が、耳まで赤くなる。
「それもそうですが・・・その・・・途中で吐いたりとか、ジンマシンが出たりとか、そんなことで迷惑を・・・」
 その言葉に、井手はあんぐりとした。
「あなた、セックスする時、吐いたりとかするの?」
「え・・・・ええと・・・」
 まるで日頃の櫻井のようでない歯切れの悪さに、井手は思わず「ちゃんと答えなさい」と言ってしまった。もはや、患者と接する医者の顔になっていた。
「セックスすると、気分が悪くなるの?」
 櫻井は、井手の顔を見たきり、何も答えられなくなった。だが、それが答えのようなものだった。
 おそらく、これも幼い時に受けた心の傷のせい。
 井手はそう直感した。
「それで、ちゃんと最後までセックスできるの? 射精はできる?」
 櫻井は顔を赤くしたまま、俯いた。
「どうしても・・・体がいうことをきいてくれなくて・・・」
 小さな声でそう呟く。
「勃起はする?」
「最初は・・・。でも吐き始めると・・・」
 井手は、なんとも言えない気持ちになった。
 この櫻井という青年は、余程辛い目にあってきたに違いない。
 まともに人と愛を交わすことすらできないなんて。
「安心なさい。夕べは何もなかったわ。あなたがてんかんのような症状を起こして倒れたの。それで香倉があなたの汗を拭いてベッドに寝かしつけた。私のベッドにしたのは、あなたが倒れた位置からここの方が近かったから。それと、あっちのベッドより、ここの方がよっぽど安全だから。・・・・・ねぇ、あなた、一度クリニックにきた方がいいわ。女医に話しにくいと思ったら、同僚だって紹介するし。あなたは、心の病を抱えてる。自分でも分かっているでしょう?」
 櫻井が顔を上げた。彼は唇を噛み締めた。
「・・・いいんです。これが、自分に課せられた償いですから・・・」
 櫻井は、一言そう呟くと井手が呼び止める前に、サイドボードに置かれた自分の服を取って部屋を出て行った。


 「本日から、こちらの特別捜査本部に配属になりました、戸塚です。よろしく」
 意気揚揚とした声が、狭い会議室内に響いた。
 朝の特別捜査本部。満足顔の戸塚の代わりに、櫻井の姿は見えない。
 大石は立ち上がりながら、傍らで腕組みをして目をつぶっている高橋を見下ろした。高橋は狸寝入りを決め込んでいる。
「今日は、クラブオーナー土居の線から、加賀見の足取りを掴むようにしてもらいたい。オーナーの居所は、昨日クラブで従業員の指紋を採取した際に間城店長に居所を確認してもらっている。そちらの方は、引き続き間城と三井で当ってくれ。高柳と吉岡は、加賀見が以前住んでいたマンション周辺の聞き込み。戸塚は、昨日採取した指紋の検査結果が出るはずだから、鑑識課に回ってくれ。私の方は、本日出される簡易精神鑑定の結果を受けて、今後の方針を検察庁と詰めたいと思う」
 大石は、そこで言葉を切った。吉岡に目をやる。
「・・・異論はないか」
 憮然とした顔の吉岡が、顔を上げた。大石を見てから、その隣で目を閉じたままの高橋を見る。いや、睨みつけたといった方が正しいだろう。
「異論というか・・・・」
 吉岡が喉に引っかかった声を上げる。
「説明がほしいんです。なぜ、櫻井が外されねばならなかったのか。夕べ出たという、容疑者の新証言については、どうするつもりなのか。・・・俺たちは、その新証言の中身すら知らないんですよ」
 その意見には、本庁の捜査員も同意した。
「確かに・・・。櫻井のことはどうでもいいですが、新証言についての説明がまったくされないのでは、こちらも捜査のしようがないってもんです。どこに的を絞っていいか判らない」
 間城が饒舌に言う。それに高柳も続いた。
「両被疑者起訴の可能性も出てきている今、確かな確証なしには次に進めません。その新証言とやらの裏とつけておかないと、裁判で勝てませんよ」
「裁判は、検察庁の仕事で我々の仕事ではない」
 大石が、一喝した。
「新証言については、信憑性があるかどうかの判断をつけねばならん。それまで、そのことを君達が知る必要はない。かえって捜査に迷いが出ても困る。この件については、私が責任を持って処理をする。対応については追って指示を出すから、それまでは、黙って捜査に当れ。以上」
 捜査員が、互いに顔を見合わせる。
「以上!」
 大石が再度言った。皆、渋々席を立って部屋を出て行く。
 そして部屋には、大石と高橋が残った。
 テーブルの中央で、消し忘れの煙草の煙がゆらりと昇っていく。
 大石は立ったまま、捜査員が出て行ったドアを見つめ言った。
「・・・よもや、捜査主任であるこの私も、その新証言について知らなくてもいいとおっしゃられるのではないでしょうね」
 高橋が、ゆっくりと目を開く。
「私自身、櫻井が特捜を外されたことを納得している訳ではないのですよ。・・・だが、私は吉岡とは違う。あなたのことは尊敬しているし、あなたの判断の裏には、確証があるということも理解しています。・・・だが、私には、訊く権利があると思うのですが」
 大石が、高橋を見下ろした。高橋は、腕組みをしたまま、テーブルの上の一点を見つめている。
「はっきり申し上げましょう。本来ならば、捜査の指揮権は私にある。あなたの命令を取り消すこともできます。櫻井を、最前線に送ることも可能なのです」
 高橋が、ニヤリと笑った。
「・・・脅しか。なかなか、面白いところを突いてくる」
 大石が、高橋の向かいに回り込み、椅子に腰掛けた。身を乗り出してくる。
「教えてください、警部。北原正顕という名には、どんな意味が」
 高橋が、大石を見た。大石の燃えるような瞳が高橋を捉えていた。
「・・・俺だって、あなたに食らいつこうと必死なんだ。判ってください」
 高橋が二、三回頷く。やがて、大石を飛び越えて、遠くを見るような目つきをした。
「櫻井にとって、北原正顕とは呪いの呪文のようなものだ・・・」

 

触覚 act.10 end.

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編集後記

アメリカ同時多発テロが起こっている最中の更新です(汗)。
なんか、いいのかしら・・・。こんな更新してて・・・って思うような内容の今回、いかがだったでしょうか?(でも皆読んでる暇ないんじゃないかな・・・おいおい)
ちょっと今回のテロは酷すぎですね。こんなことをして、人生心豊かに暮らせるというのだろうか。
一体、いくつの罪なき人たちが巻き込まれてしまったのでしょう。人の命を軽んじる宗教って、一体・・・って思いますが、そういう人はごく一部の人たちであってほしいと思います。(でも、パレスチナの街角の人たちは大喜びしてましたね。とほほだよ)

[国沢]

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