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act.21

 

<第12章>


 まず許せなかったのは、あの男の手。
 あの薄汚れた手で、男は正道の身体を馴れ馴れしく触っていました。
 私のかわいい正道は、決して汚されてはならないというのに、なぜ皆であの子を汚そうとするの?
 私だけが、あの子の本当の存在価値を判っている。
 そうよ、正道。
 あなたは私を助けるために、この世に存在しているのだから。
 男があの部屋を探り当てたことは意外だったけれど、かえってよかったわね、父さん。
 私があなたに与えた罰のように、この男にも罪を償ってもらわなくちゃならないと前から思っていたの。
 さぁ、どうしましょうか。
 薄汚れた男の手。
 本当の使い方を、私が教えてあげる。


 櫻井は、ずっと気になっていた。
 実は夕べから、吉岡と連絡が取れない。
 昨日の帰り、吉岡は署に帰ってこなかった。一緒に行動していたはずの本庁の捜査員・三井から話を聞くと、奥さんの薬を取りに病院に寄ってから帰ると途中で車を降りたのだそうだ。
 その唐突な話に、最初は納得した櫻井だったが、妙に後味が悪かった。
 確かに吉岡は大雑把なところがあるが、公私混同は決してしない根っからの刑事である。そのことは、櫻井が一番よく知っていた。はっきり言って、三井から聞いた吉岡の行動は、「らしくなかった」。
 夕べ何度か携帯電話にかけたのだが、最初に繋がった時は無言のうちに切れ、その後は電源が入っていませんというコールが続いた。
 自宅にも帰っていない吉岡のことが心配になり、夕べは吉岡の行きつけの飲み屋や友人宅、捜査先をいくつも当たって探したが、結局は判らなかった。
 夢中で探しているうちに夜が明け、気づくと出勤時間を大幅に越していることに気がついた。
 櫻井は、慌てて署に取って返すと刑事部屋の入口で特捜の大石管理官とぶつかった。
「すみません」
 昨日と同じスーツに無精髭、寝不足で充血した瞳の櫻井の様子に、大石は眉を顰める。
「なんだ、お前まで遅刻か」
「・・・どういう意味ですか?」
「吉岡だ。吉岡もまだ来ていないんだ。家に電話をかけても誰も出ない。ひょっとしたら、奥さんの具合でも悪いのかもしれんが、連絡はない。しょうがないから、さっき戸塚を家の方にやった。ところで、お前のその有様はなんだ。夕べ家に帰らなかったのか?」
「実は、自分も吉岡さんを探していて・・・」
 櫻井と大石は話をしながら刑事部屋に入った。その時、近くのデスクの上にある電話が鳴る。反射的に櫻井が電話を取った。
『誰か、誰か来てくれ・・・!来てくれ、早く!!』
 悲鳴に近い戸塚の声だった。
「戸塚さん?! どうしました?! もしもし! もしもし!」
 櫻井の緊張した声に、大石が側の電話のハンズフリーボタンを押した。戸塚のヒステリックな声が、刑事部屋中に響き渡った。
『こんなの・・・こんなの酷い・・・。惨すぎる・・・・・』
「しっかりしろ、戸塚! 今どこだ! 何があった!!」
 大石が声を荒げる。あんなに騒がしかった刑事部屋が、しんと静まり返り、緊迫した空気に包まれていた。
「戸塚!」
 最早、スピーカーから聞こえてくる男の声は、嗚咽交じりで言葉すら発していない。
 櫻井は、次の瞬間弾かれるように部屋を飛び出して行った。
「櫻井!」
 大石が叫ぶ。その横を、高橋が無言で走り交わす。刑事部屋にいた他の刑事が高橋に続くように刑事部屋を走り出ていった。
 大石も壁にかけてあるコートを手に取り、振り向きざま本庁の捜査員に「お前らはここに残れ」と指示を与え、潮が丘署の刑事達の後を追った。


 櫻井が吉岡の家の玄関を潜ると、まずは濃厚な血の臭いが鼻をついた。
 まだ新しい、熱のこもった臭い。一度嗅いだら、忘れられなくなるような。
 幼い頃の記憶がふいに蘇り、櫻井の顔はみるみる青ざめた。彼は土足のまま家に上がりこむ。
 一階には誰もいない。乱れた様子もない。
「戸塚さん! ・・・吉岡さん!!」
 櫻井が叫ぶと、上の階で戸塚の声が聞こえた。 「ここだ・・・」と弱々しい声が続いた。
 櫻井が狭い階段を一気に駆け上がる。
 襖はもう、開いていた。
 戸口に蹲り、怯えた表情で涙と鼻水を垂らす戸塚が、震える手に携帯電話も握り締めて、そこにいた。
「どうしたんです、一体何が・・・?!」
 櫻井がそう言いながら、吉岡家の寝室に目をやると。
 その惨劇に、一瞬呼吸が止まった。
 な、なんて・・・、なんてことだ、これは。
 血の海とは、正しくこのことを言う。
 さすがの櫻井も、一瞬足が竦んで動けなかった。
 部屋の中央に、昨日着ていたスーツ姿のままの吉岡がぽつりと座り込んでいる。
 彼の両腕はどす黒い血で覆われ、瞳は宙を見つめたまま、意思の力を持っていなかった。
 その傍らには、小夜子が横たわっている。彼女の下半身は、真っ赤な血に染まっていた。その鮮やかな血溜まりの面積が僅かながらも大きく広がっていっているような気がする。今現在も新しい血が、彼女の身体から流れ出ているのか。
  しかし、凶器と見えるものは何もない。何も・・・。
 一体、何が起きたというのか。
 血まみれの二人の間に、赤い小さな物体が見えた。
 ゴムボールのようなその物体が何か判った時。
 櫻井の心臓が、脳天に響き上がるほど、ドクリと跳ね上がった。
 吉岡の手に握られていたのは、母親の腹から引きずり出したへその緒。
 彼らの間に蹲っているのは、誕生間近だったはずの赤子・・・・。
「吉岡さん! 吉岡さん!」
 櫻井は、悲鳴じみた大声を上げて、自分も血塗れになりながら吉岡の身体に取りすがった。そして力任せに彼の身体を揺さぶる。それでも吉岡は宙を見つめたまま、ようやくただ一言こう呟いたのだった。「あの、男が・・・」と。
 櫻井は目を見開いた。
 この惨事が、決して突発的なことでないことを知る瞬間だった。
 そんな・・・・、バカな。そんな・・・・、そんな・・・・。
「うわぁー!!」
 吉岡の血塗れの手を掴んで、櫻井は自分の額にその冷たい手を擦りつけた。
「くそっ、くそぉ!!」
 櫻井がひきつけのように息を吸い込む度に、甘い血の香りが鼻の奥にこびりつく。
 一瞬これが現実なのかどうなのか、櫻井の頭は混乱した。
「・・・酷い・・・なんてことだ・・・」
 現場に踏み込んだ大石や、他の刑事も、その状況に誰もが息を呑んだ。皆が一様に顔を顰め、鼻を覆った。中には、その場で吐き出す者もいた。
「くそ!! なんでっ! なんでぇっ!!」
 室内には、櫻井の悲鳴のような声が響いている。誰もが、現場の様子に恐れ戦いている中、高橋だけが、冷静に対処した。
 真っ青な顔で倒れている小夜子に近づき、その口元に顔を寄せる。
「生きてるぞ。おい! 救急車を呼べ!!」
 高橋はそう怒鳴りつけながら、側の箪笥を引っ掻き回し、厚手のタオルを探し出すと、小夜子の寝巻きのスカートの裾からそれを奥へと押し込み、押さえつけた。少しでも失血を防ぐ必要があると思ったのだろう。今まで署内の誰もが見たことのない、必死な顔つきの高橋が再度怒鳴る。「ばかもん! すぐ動かんか!!」と。その声に、大石が動いた。胸元の携帯電話を取り出すと、救急車の要請をした。その間も、高橋が小夜子の頬を叩きながら声をかける。
「小夜子さん! 小夜子さん! しっかりするんだ! しっかり・・・・!!」
 櫻井は、高橋の叫び声を聞きながらも呆然とした表情で、吉岡の傍らに転がる、失われたばかりの小さな命を手に抱いた。
 まだ少しだけ温かかった。とても柔らかくて、櫻井が抱き上げると、だらりと頭が垂れた。へその緒がついたままのその子は、男の子だった。
「う~~~~~~~・・・・・」
 櫻井は、その子を胸元に掻き抱くと、嗚咽を噛み殺しながら泣いた。顔中血もつれになりながら、人目も憚らず泣き続けた。

 

触覚 act.21 end.

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編集後記

今週もまたヘビーな内容です(汗)。ある意味、先週より、ヘビー。いや、全編通して、この回が一番ヘビーかもしれません。
ついに身内から犠牲者が出てしまいました。
ホントこれから、どうなるんでしょう??? 国沢、どう責任を取るつもりでしょうか・・・。
櫻井君、前にもちょっと泣きを見せましたが、今回は本気で大泣きです。
今週から来週にかけて、本当に彼はどん底(滝汗)。不幸体質の本領発揮です(汗汗)。
でも、どんの底っちゅーことは、あとは上がるのみ!ですから。あがっていくのよ!どんどん!
誰か上げてやって!(←お前が上げろ)
最低、再来週まで、どうかついて来てください。

[国沢]

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