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nothing to lose title

act.33

 他人の欲望を操ることは簡単なこと。
 私は、小さい頃から、その術を知っていました。
 大人になってからも、何人もの男が私の身体の上を通り抜けていきました。
 その度に、私は欲しいものを全て手に入れてきた。手に入れられないものは、何もなかった。
 唯一、本物の愛情以外には。
 無条件の愛情を注いでくれた弟は、もう側にいない・・・。
 一生、会えないのだと思うと、私の心は痛みました。
 けれど、素晴らしい偶然が、私に希望を与えてくれたのです。
 テレビに映ったあの子の顔。
 随分大きくなっていたけど、私の思っていたような立派な青年になっていました。
 ああ、弟の身体を伝い流れる赤い血の美しかったこと。
 私は、昔と違って随分姿が変っていたから、あの時、きっとあの子には判らなかったでしょう。
 それでもいいのです。
 私は、あの子が今も生きていて、汚れのない瞳をしていることが判っただけで、十分だと思ったから。
 でも。
 あの子は今、汚されようとしている。
 私があの子に与えた心の呪縛の隙間を掻い潜って、あいつはあの子に近づいた。
 この世で、あの子に触れていいのは、この私だけだというのに。
 ああ、なんということなの。
 この世は、私達を引き裂こうと必死になっている。
 正道。
 ここにおいで。
 お前をおびき寄せることができるのだったら、私はなんだってするわ。
 お前は私が生きるための唯一の理由。唯一の希望。
 欲しいのはただ、本物の愛。


 櫻井は、川崎に向けて高速道路をひた走っていた。
 川崎という土地は、櫻井が姉の消息を調べた時以来、足を向けていない場所であった。
 ゴミゴミとした住宅地の風景とその向こうにぼんやりと霞んだ工場群が見える。
 思えば、この煤けた世界が幼少時代の櫻井の全てであった。
 実家の煤けた窓。柱。古いドアが閉まる音。たくさんの庭木が植えられた庭から見上げる空は、いつも曇っていた。庭に面した長い廊下は黒光りしていて、ハイカラなデザインのガラス戸には、緑がかった気泡入りの分厚いガラスがはめ込まれていた。
 姉と追いかけごっこをした日々。
 学校が休みの日に家中を走り回っていると、時折、片足が悪い白衣を着たお医者さんが家に現れた。月一回の定期的な往診で、彼は北原家の古くからの主治医だった。
 大きな黒い皮製の診療カバンを持っていて、皺が深く刻み込まれた目尻が優しげに見えた。
 だが正道は、そのお医者さんのことが嫌いだった。
 彼が来ると、決まって姉は奥の部屋へと連れて行かれ、「決して覗いてはいけないよ」と釘を刺されるためだった。父も母も一緒に部屋の中に入るのに、自分だけがのけ者にされるのが幼い正道には気にいらなかったのだ。
 部屋から時折、姉の泣き声が聞こえてきていた。助けに行こうとしたけれど、お手伝いさんの手に押さえつけられて、行くことは適わなかった。
 お医者さんが帰って、そっと姉のもとに行くと、姉は充血した瞳で正道を庭の片隅に連れ出した。そうして決まってこう言うのだ。「正ちゃんだけは、私の味方よね。正ちゃんは、守ってくれるよね」と。
 お医者さんが姉に何をしているのか、姉に訊ねても答えてはくれない。もちろん、他の家族の者に訊いても、それは同じだった。
 きっとそこに、何かが隠されていたんだ・・・。
 櫻井は確信していた。
 そこにどのような答えがあるかは分からなかったが、胸騒ぎが止らなかった。
 警察手帳を返上したくせに、やたらと働く刑事としての感が恨めしかった。
『お前みたいな男が刑事辞めて他何をするっていうんだ?』
 少し困ったような目で自分を見送った香倉。
 香倉は、これから自分の身に何が起ころうとも、変らず自分を見つめ返してくれるだろうか・・・。
 香倉と肌を合わせて、急に独占欲を感じ始めている自分に驚き、また自己嫌悪を感じる櫻井だった。


 櫻井が小日向の病院を出てしばらく、香倉の携帯電話が鳴った。
 朝ダウンロードしたデータをプリントアウトしながら次の思索を練っていた香倉は、その相手の番号を見て、少し驚いた。
「大石からだ」
「ええ?」
 香倉と同じように捜査資料に目を通していた井手は、眉を顰めながら顔を上げた。
 大石と言えば、今朝本庁に呼び出されて処分を受けているはずだった。
 香倉が電話に出ると、やはり大石だった。意外に落ち着いている。
「なんだ、お前。処分されたんじゃないのか?」
 唐突に香倉が言うと、少し沈黙があった。
『・・・なんでそのことを知ってるんだ』
「俺は地獄耳だからな」
 香倉がそう答えると、電話の向こうで大石が少し笑う声が聞こえた。
「それで? 処分はどうなった」
『訓告ですんだよ。今まで俺は上に逆らいもせず、いい子で過ごしてきたからな。執行猶予とでもいうことこだ』
 なるほどな、上官達の考えそうなことだ。恩を売っておいて、圧力をかける。虫唾が走りそうだった。
『それよりも、香倉。そんなことでお前に電話をかけた訳ではないんだ』
 大石の口調が変った。自分の処分の話をする時よりも緊迫した声に、香倉も思わず「どうした」と聞き入った。
『櫻井の母親、神津美登里の遺体が今朝自宅で発見された。自殺らしい』
 香倉は顔を顰める。
『その事件の処理に当たった刑事課長が去年の主婦殺人事件の特捜で知り合った老刑事でな。多分、お前も知っていると思う。榊警視正の先輩にあたる人で、河瀬と言うんだが』
「ああ・・・」
 その老刑事なら香倉もよく知っていた。元はと言えば、公安に席を置いていた人物である。昇進のチャンスを態々蹴って現場に戻ったという刑事で、榊の先輩にあたり、現在もなお榊とは繋がりがあるはずだ。
『河瀬さんは、例の事件で俺が神津美登里に粉をかけていたことを知っていたんだ。今回のことは好意で教えてくれたんだが・・・妙なものが現場で見つかってな』
「妙なもの?」
『とにかく、これ以上は電話では言えん。直接会って話がしたい。どうせ俺はお役ごめんの身だし、どこかで会えないか?』
「分かった・・・」
 妙に歯切れの悪い大石の口ぶりが気に掛かった。
 香倉は、約束の場所を大石に確認すると、電話を切った。
「何かあったの?」
 香倉と共にプリントアウトした捜査資料に目を通していた井手が、心配げな顔を香倉に向けた。
「どうやら、櫻井の母親が自殺したらしい」
「・・・!」
 さすがの井手も声を失った。香倉は大きく溜息をつく。
「ただの自殺ではなさそうだ。大石と会ってくる。・・・井手」
「何?」
「悪いが、このことは櫻井にまだ知らせないでくれ。事の次第が分かってから、俺から伝えるようにしたい」
 井手は目を伏せて、二、三回頷いた。
「そうね。その方がいいわ。・・・チクショウ!」
 井手はそう言って手元のペンを投げる。
「絶対にアイツのせいよ。そうに決まってる」
 事実、井手のその考えは正しかった。

 

触覚 act.33 end.

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編集後記

なはははは~~~。現在胃がよじれてま~す。痛いで~す。スランプもそうですが、こちらも久々、胃痛にやられてまぁ~す。別に先週末から続いているスランプのせいではないのですが。
仕事が忙しくて、ちょっと不規則な食事時間になってしまったらてき面これです。
嗚呼、胃の中で胃酸が大噴火!!ボルケーノ!(なんか響きがイタリア~ン)
現在、腹巻着用の上、カイロを挟んでます。もちろん胃薬も仕留めました。あとできることといったらなんだ。現実逃避するためのアイテムが何か必要です。
シッ、シティボーイズライブのDVDでも見るか・・・。
そ、それともラーメンズ・・・。
別珍(べっちん)トリオでもいいかな・・・・(←これ知ってる人いたら凄い) 。
笑いのパワーで自然治癒力をレベルアップ!!

[国沢]

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