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act.18

 「すみません、ここら辺で落っことしてもらえますか」
 突如吉岡がそんな声を上げたので、タクシーの運転手と三井が同時に「え?」と声を上げた。
 北原の元妻、神津美登里の自宅からの帰り道。日はもう西に傾き、後は署に帰るだけだった。
 街は帰りのラッシュが始まりつつあり、タクシーは依然時速30キロの速度で進んだり止まったりを繰り返している。
「落っことすって、お前・・・」
 後部座席、吉岡の隣に座っている三井は、明らかに気分を害した表情を浮かべた。吉岡は人懐っこい笑みを浮かべ、両手を併せると三井に頭を下げた。
「いや、ホントすみません。本当なら、三井さんと報告に戻らないといけないことは、十分判ってるんですけどね」
「じゃ、どうして」
「実は・・・」
 吉岡は、バツが悪そうに顔を顰めた。
「かみさんの病院に薬を取りに行かなけりゃいけないのをすっかり忘れてたんで。丁度この近くなんですよ」
 ええ?と三井も同様に顔を顰める。
「お前の女房、具合悪いのか」
「いや、これでして」
 吉岡は、自分の腹の前で腕を丸く振った。三井の顔がにやりと砕ける。
「なんだ、子供か」
「そうなんですよ。初めての子でね。風邪ぐらいだったら、自分で取りに行けって怒鳴りつけるところなんですけど、あの腹見ちゃったらね。いや、面目ない」
「しょうがねぇなぁ」
「すみません、ホント。もうすぐ病院閉まっちまうんで・・・」
「判ったよ。報告は、俺からしておくから、行け」
「すんません」
 タクシーが再び停車したのを見計らって、吉岡はタクシーを降りた。
 ゆっくりと走り去るタクシーを見送る吉岡の顔つきが、みるみると厳しくなっていった。


 櫻井が署に帰ると、特捜のメンバーの幾人かが署に帰ってきていた。
 今、一体どんな状況なのだろう・・・。
 面と向かって訊けない手前、どうにかして捜査状況を探る必要があった。
 井手にさえ、事件に関わることを止められた。事実、その方が、自分のためであることは、十分に理解できていた。
 だけど・・・・。
 自分には引くに引けない事情がある。
 この犯罪に父親が関わっており、しかも、事件自体を掌握しているのが父親かもしれないという事実。 その奥にある父の感情を思い浮かべると、さすがに胸が締め付けられる。
 櫻井は、たまらず刑事部屋近くのトイレに入り、個室のドアを閉めた。また涙が浮かんできそうだった。そんな顔、署内の誰にも見せたくない。特に、高橋には。
 櫻井は、洋便器の蓋を閉め、その上に座った。今頃になって、どっと疲れを感じた。
 自分の人生は、一体なんだったんだ、と思う。
 自分の犯した深い罪の償いの為に、これでも懸命に生きてきた。警官になったことも、刑事を目指したことも、すべてはその思いに繋がっていた。それが、こんな裏目に出てしまうなんて・・・。
 父親は、間違いなく自分に対する復讐を企てているのだ。
 どういう状況が、自分を一番苦しめ、陥れることができるかを彼は熟知している。 だからこそ、彼は、『罪のない』人間を殺人犯に仕立て上げ、『罪のない』人間を殺させたばかりか、その犯人の人生さえも破壊しようとしている。それは、自分も『罪のない』人間だったということを現すメッセージなのか? お前のしたことは、こういうことだったのだと知らしめるための手段なのか?
 櫻井は唇を噛み締め、固く目を閉じ、髪を掻き毟った。
 父が、復讐のためにそうしているのであれば、もう十分にその目的は達成されている。
 今にも、心臓が張り裂けそうだ。
 自分のせいでこんなことになっていると思うと、気が狂いそうになる。 今すぐにこの世から消えてなくなりたい・・・・。 だが、そんなことはできない。 父が今なお、自分に対する復讐心に燃えているのならば、それに終止符をうつことができるのは、間違いなく自分だけだ。
 父の前に自分が立ち、彼の望みを適えさえすれば、こんな悪夢は終わる。そうに決まっている。 だから、父に会わなければ。何としても。
 櫻井は、ゆっくりと目を開いた。


 もちろん、吉岡が三井に言ったことは、どれもが口実だった。
 この周辺に小夜子が通っている産婦人科なんてないし、第一小夜子は薬なんか飲んでいない。
 吉岡は、家路に急ぐ人々の間を縫って歩いていた。
 風が少しきつく、空気は湿っている。まるで、台風が近づいてきているような雰囲気だった。梅雨も到来していないこの時期には珍しい天気だ。
 青い葉が生い茂った街路樹が、ガサガサと不穏な音を立てた。
 吉岡が目指す場所は、この三ブロック先を右折するとすぐだ。 少し前まで、幾度となく通った場所。 そう、『カガミナオミ』が住んでいたとされるマンションである。
 吉岡は、北原の元妻・美登里が言っていた言葉が引っかかっていた。
『むしろあの人は、支配される立場だった』
 支配。
 一体誰に支配されていたというのか。
 吉岡の身体の中に渦巻く疑問は、やがてひとつの流れとなってまとまりつつあった。
 吉岡とて、検挙率の高い非常に優秀な刑事である。吉岡の洞察力の鋭さは、時に櫻井や高橋をも凌ぐことがある。 吉岡の頭の中に、様々な声がこだまする。
『20年前に自分の息子に喉を刺され・・・』
『事件の凶器は、吉岡の指摘通り、果物ナイフだ』
『おそらくあの人は今も娘と一緒にいるはずよ』
『この娘が加賀見真実である可能性は高い』
『息子の消息は確認済みだ』
『おい、櫻井。大丈夫か、お前。顔、真っ青だぞ』
 神津美登里の細く白い手。赤いマニキュアが塗られた指が細長い筆を取り、ゆっくりとつけ黒子を長い睫に彩られた目尻へと・・・。
 吉岡は立ち止まった。
 その顔にもう迷いはなかった。
 吉岡の目の前には、薄暗く雲が垂れ込めてきた空に黒く聳え立つマンションの影が聳えていた。

 

触覚 act.18 end.

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編集後記

ついにというか、やっぱりというか(汗)。触覚の方のストックもなくなっちゃったよ・・・(大汗)。
このところ、休みがなかったからな・・・(←休みの日に書きためていることがバレバレ)。
なんだかアメグレも触覚も大詰めの大事なところに差し掛かって参りました。恐ろしいことに、ふたつとも事件のクライマックスを同時期に迎えてしまいそうな気配・・・(ざぼ~ん)。どうするんでしょう、国沢。まるで人事のように書いてますが、またもやガケップチ決定です。
ここで、現実逃避の話をひとつ。
櫻井くんの苗字は、なぜ「櫻井」になったのか。
お恥ずかしながら、ミスチルの桜井さんから頂きました(汗)。今じゃルックスも性格も程遠いですが、櫻井君に黒子をつけたのも彼の影響。(桜井さんは泣き黒子じゃないけどね)
久々にイノセントワールドのミュージック・ビデオ見てたら、この人、淡白な色気があっていいなぁ~とつい思ってしまって(汗)。安直ですね~。
あんまし現実逃避にならなかったかな?(滝汗)

[国沢]

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