act.19
<第11章>
ドアを開けると、男はカウンターの一番奥の席に座っていて、ズブロッカを啜っていた。
「いらっしゃいませ」
老バーテンの落ち着いた挨拶に軽く会釈しながら、井手は香倉の隣に腰掛けた。
大きな黒いカバンをスツールの下に置きながら、井手はふうと一息をつく。
「井手様、御鞄、よろしければロッカーに」
熱いおしぼりを井手に手渡しながら、老バーテンがそう言ってくれる。いつも井手がロッカーに荷物を預けないことを知っていても、細かく気遣ってくれるところが心地よい。
最近では若い女性客も増えて、何かと騒がしいこともあるのだが、このバーはついつい来たくなってしまう。男向きの無骨な店内の作りも気に入っているところだ。
「いいのよ、溝渕さん。ありがとう。それより、カンパリで何か作っていただけないかしら」
「カンパリですね。承知したしました」
礼儀正しく老バーテンが頭を下げ、カウンターの先に移動していく。
「珍しいな。カンパリなんて」
井手は、いつもブランデーかスロージン、カルバドスを好んで飲んでいて、軽い感じのカクテルはあまり飲まない。香倉はそのことを知っていて、そう言うのだ。
井手は溜息をひとつつくと、荷物をかけていた左肩をトントンと叩いた。
「胃の調子が悪いのよ」
「なるほど」
香倉はそう言って肩を竦めると、再びグラスの中のドロリとした液体を喉に流し込んだ。
「まさか、こんな時間帯の呼び出しに、あなたが応じてくれるとは思わなかったわ」
井手がそう言うと、香倉はちらりと井手を見た。
「そう思うなら、呼び出すなよ」
少し笑みを浮かべながらそう言う。
「店の方はいいの?」
「ああ、そのことだが・・・」
香倉がふいに口を噤む。老バーテンが井手の前にコースターを置き、オレンジピンク色の液体が満たされたグラスを置いた。
「お待たせしました。スプモー二です」
「ありがとう」
老バーテンは、その場の雰囲気を察して、二人から距離を置いて立った。
店内は平日の夜、しかも早い時間ともあって空き気味で、カウンターには井手と香倉の他誰もおらず、テーブル席に幾グループかがいるに過ぎなかった。これで井手と香倉の会話を邪魔するものはいない。
香倉が声を少し潜めて言う。
「本日づけで撤退命令が出た。今頃、榊のオヤジが手入れの準備を満面の笑みを浮かべて整えているところに違いない」
警察関係に深く関わりを持ち、昔から今に至る香倉の経緯を殆ど知っている井手には、香倉も少しばかり仕事の話をすることがあった。井手の身に危険が及ばず、機密にするほどのことでもないことは、香倉も不必要に隠すようなことはしない。もちろん、井手も香倉に対してはそのように接しており、二人の関係は、友情というよりは戦友と呼んだ方が無難である。
現に香倉の言っていることは正しいらしく、黒の皮製のジャケットに濃いネイビーブルーのヴィンテージジーンズ、リングつきのワーキングブーツという恰好の香倉は、とても仕事モードとは言いがたい。ズブロッカ片手に、国産の煙草をぷかりと吹かしている。その様子は、ディープブラウンの颯爽としたパンツスーツの井手とは対照的で、井手がここでシステム手帳でも出そうものなら、今日の仕事を終えたミュージシャンと敏腕女性マネージャーといった風情である。
「榊さんね・・・。元気? あのおじさん」
井手があの仁王のような顔つきの中年オヤジの顔を思い浮かべながらそう訊くと、「多分な」と答えが返ってきた。
「で、お前が俺を呼び出すなんて、どういうことなんだ?」
井手とは視線をあわせずに香倉が訊いてくる。井手は、目の前に出されたナッツを口に放り込みながら言った。
「今日会ったわ」
香倉が、やっと井手を見る。
「櫻井君に」
香倉は、そのことをある程度予想していたのだろうか。彼のポーカーフェイスは崩れることなく、「そう」という淡白な答えが返ってきた。その反応に、井手は確信する。やはり香倉は、自分が櫻井と会う前に、彼と会っていたのだ。恐らく、前の晩だろう。
香倉と櫻井の間に何かあったことは、何となくではあるが、井手は感じ取っていた。
今日の午後、井手に捕まった櫻井は、井手の「よく眠れた?」という質問に少し顔を赤らめて、「よく眠れた」と返事を返してきた。
櫻井の普段の顔色やあの発作の状態を見る限り、櫻井が日頃あまり熟睡できないことは、精神科医である井手にはたやすく予想できた。
櫻井は健康的な肌の色をしていたが、いつも目の下に僅かながらもクマがあり、慢性の寝不足に悩まされているような気配を伺わせていた。
井手に後ろめたそうな顔つきをして俯く櫻井を見た時、なぜか脳裏に香倉の顔が浮かんで、自分ながらにまたあの「直感」が働いたのだと思った。
頼りにしていない割によく働く「直感」を確かめてみようと、香倉に声をかけてみたのだ。
「・・・あなた、櫻井君に会ったわね。・・・というより、あなたと櫻井君の間になにがあったの? 昨日の晩とお聞きした方がよろしいかしら」
嫌味たっぷりにそう言う井手に、香倉が苦笑いしてみせた。
「まったく、嫌な聞き方をしてくるな、お前」
「お互い様でしょ」
井手がスプモー二を口に含む。二人の会話とは無縁の、爽やかな香りが口の中に広がった。
「奴は精神的に参ってた。俺はそのとばっちりを受けた。それだけさ」
「もっと詳しく言って」
ジロリと横目で香倉を睨む。香倉にそんな視線を送って無事でいられるのは、世界広しといえども、井手ぐらいのものだ。
「判っているのよ。たかが若手刑事にクダをまかれようが、絡まれようが、普通ならあなたは動じないし、相手にもしない。そうでしょ? でも、違うのよね? 今日の櫻井君はどこか様子がおかしかった」
香倉が再び井手を見る。井手がニヒルな笑みを浮かべた。
「気になるんでしょ? どうおかしかったか」
香倉が煙草を咥えて深く煙を吸い込む。
「あのこ、本当に危険だわ。幼い頃に犯した罪に苛まれて、そこから抜け出せないでいる。そんな状態でこの事件に自ら決着をつけようとしているの。でも、私に言わせれば、暗い渦の中に飲み込まれてしまって人格を破壊されるのがオチよ。相手は、ただの人間ではないもの」
「・・・知っているのか、あいつの子どもの頃の話」
「ええ。・・・櫻井君から聞いた。あのこの中では、まだあの事件は終わってない」
井手はそう言いながら、ピスタチオの殻を指でパチパチと弾いた。井手の心の中の苛立ちや痛ましさが神経質な指先から流れ出てきているようだった。
ふいに井手の手が止まる。井手はカウンターの上で転がるピスタチオを見つめながら言った。
「あなたがなぜ櫻井君にちょっかいを出すのかは判らないけど。あなたまで彼を責めないでやって。あなたが犯罪者を心底憎んでいることも知っているし、その正義感も素晴らしいと思う。だからこそ香倉は、汚れた仕事もずっとしてきた。・・・でも彼の犯した犯罪については、もう彼は償いを終えていると思うの。あんなに幼い子どもが、罪の意識を背負ったまま、親に捨てられて今まで独りで生きてきたのよ。彼には救いが必要なの。心の底から、彼を引き上げてくれるような神様がね」
しばらくの間、沈黙が流れた。ふいに香倉が口を開く。
「・・・俺は・・・。俺は別に、奴を傷つけたい訳では・・・。ただ・・・」
しかし、その後の言葉が続かなかった。井手が驚いた顔で香倉を見る。
「・・・・香倉、あなた・・・・。認識を間違っていたのは、私の方ね・・・・」
井手の見つめる香倉の横顔は、無表情だった。
「あなた、櫻井君が恋しいの?」
その台詞の後も、香倉は一度も井手を見なかった。一言、「馬鹿な」と呟いてカウンター上に金を投げ置くと、そのまま店を出て行った。
井手はしばらくカウンターの上を見つめた後、長い溜息をついた。
スプモー二を飲んで、小さくペロッと舌を出す。
「あ~あ。怒らせちゃった。・・・セラピストとしては、失格ね・・・」
口調は明るかったが、その井手の表情は、カンパリの味のように苦々しいものだった。
五階のボタンを押した後、吉岡はエレベーターの壁に背を凭れかけさせた。
身体は疲労していたが、精神は微妙に高揚していた。だがそれを、吉岡は身体の底に押し込め、外には出さなかった。
吉岡はずっと考えていた。今回の事件の意味を。
吉岡は溜息をついて、両手で顔を擦る。
吉岡の中で、刑事しての感情と人間としての感情が複雑に絡み合い、またぶつかった。
20年前、北原正顕をナイフで刺したのは、間違いなく同僚の櫻井正道に違いなかった。
彼の母親である筈の神津美登里のつけ黒子が、何度も頭に浮かんでは消えた。
己の子を捨てた筈なのに、己の子の影に捕らわれている母親。それは贖罪の意識からくるのか、ただ単に息子のことが恋しいのか。
いずれにしても、櫻井が犯罪を犯した人間であることは、ほぼ間違いがない。
櫻井と出会ってからのことが、様々浮かんでくる。
いつもどこか寂しげな表情で真っ直ぐ前を見ている若者。自分を多く語ることなく、ひたすら自分の身体をまるで責めるように鍛えていた青年。
櫻井は、一体どんな気持ちで父親の首を刺したのだろう・・・。
それを思うと胸が痛んだ。と同時に、犯罪者と共に仕事をしていたことに憤りを感じている自分もいた。
未成年の時に犯した犯罪のため、通常のように罪に問われることはないが、人を傷つけた(しかも自分の実の父親をだ)ことには変わりない。もうすぐ自分自身人の子の親になるはずの吉岡には、少々後味の悪い話である。
もし自分の子どもに殺められることになったのなら・・・。
北原の思いが一瞬自分のそれとシンクロしたような気分になって、吉岡は背筋が寒くなった。
この問題をどう捉えたらいいのか。正直、吉岡には判らなかった。
ただ現在、許されざる犯罪がここにあり、それを解決しなければならないことは確かだ。それについての迷いは一切ない。
そのことだけに集中しよう・・・今は。
吉岡は、顔をパンパンと叩いた。
ポーンという音がして、ゆっくりとエレベーターの扉が口を開けた。
触覚 act.19 end.
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編集後記
カンパリって、胃にいいんですよね。胃の弱い国沢は、「今日は胃の調子が悪いなぁ」という日に飲みに行く時は、大抵一発目にカンパリでなんか作ってもらいます。これが意外によかったりする。苦いけどね(ま、そこがうまみですかね)。多分、このリキュールは、薬膳酒のようなものなんでしょうね。
ま、それはいいとして。
話はどんどん事件の真中へと転がっていきます。
次週はいよいよ、『あの男』の登場です。
しかし・・・本当に脇キャラなのに、凄い活躍の吉岡氏。主役よりも早く、最重要人物と「こんにちは」です。といっても、まだ書いてないけどね。中身を。
・・・・・。
ま、それはいいとして。(いいのか、本当に??)
国沢、皆様からご心配をしていただいたにも関わらず、風邪を引いてしまいました。
本日は発熱しているのに気づかず、会社に出社。終業時間頃にやっと「おかしい」ことに気づき(なんせ、人より二枚も厚着をして、なおかつマフラーも一日中首に巻いてた)、体温計を取り出してみたら、立派に病人でした(笑)。ま、たいした数字ではありませんでしたが(微熱ってやつですよ)。
国沢、滅多に熱の出ない人間なので、妙にナチュラルハイでした。(つーか、今もそうか?)
でも、食欲は旺盛で、夕食をバカバカ食ったばかりか、最近はまっているウォッシュタイプのチーズ食って(最近の国沢の和みグッズ)、「チーズうめぇ~~~~~」って吼えながら『プロジェクトX』見て盛り上がっているという(汗)。おやじだよ、これじゃ。
こんな調子なので、心配はご無用。(すげぇいい加減なコメントだ・・・滝汗)
国沢、結構元気にやっています。(なんだか昔のドラマで出てきそうなコメントだ)
[国沢]
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