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act.14

 クラブの隠し部屋は、もはや以前の活気は全く無くなってしまっている。
 警察関係者の出入りが最近頻繁にあったせいで、隠し部屋に本来あったギャンブル関係の設備は他に移した。お陰で今では、ただっ広い倉庫のようになっていて(警察の調べにもそう答えた)、その片隅には如何にもここで昔から経理関係の仕事の処理を行っていたという風情の簡易オフィスが出来上がっていた。周囲は、衣装や食料品などのダンボール箱に囲まれ、その中に藤色のパーテーションがにょっきりと立ち上がっている。
 その向こうには、店長の部屋にあったPC端末がドカリと腰を据えていた。
 警察の目を誤魔化すために、そこを簡易オフィスにした方がいいと言ったのは、香倉のアイデアだった。雇われ店長も突然振って沸いた警察騒ぎに気が動転している様子で、冷静な顔つきの香倉の発言にすぐしたがった。
  ・・・もちろん、この発言の背景には、香倉なりの魂胆が隠されている。肝心要のPC端末を店長から引き離すことで、香倉が扱いやすい状況にした。そして表と裏の帳簿両方の整理をかけるという名目で、自分に関係するデータやレコードの痕跡を消す作業に没頭した。
 井手に宣言した通り、香倉がここで働く意義はもうなくなりつつある。直にこの店ももたなくなることは、明らかだった。
 香倉は、店が完全に潰れてしまう前に、今後有効と思われる情報は全て持ち出すつもりでいた。これまで独自で培った情報網をただで潰そうとは思っていない。
 もみ消すべき書類はもみ消して、後で警察の目に触れた方がよさそうな書類は、さりげなく残した。表向き、店長やオーナーには、香倉がうまく危なげな証拠書類を処分してくれたと映るだろうが、警察内部のしかるべき者が見れば、立件にまで持ち込めることができる要素のある細かな書類を適度に残すようにしている。
 自分の存在は綺麗に掃除して、店が行っていた違法行為の証拠は、店の当事者に意識させない程度に残す。・・・見事な手際だった。
 香倉は、最後の作業を終え、自分の今後の任務に役に立ちそうなデータをコンパクトフラッシュに落とし込むと、作業の記録を消した上でPC端末の電源を落とした。
 これで警察がいつ潰しに来ようとも万全だ。
 そういう手はずになる場合は、公安部の榊部長から「撤退せよ」との事前通達がある筈だ。唯一店内に香倉の痕跡として残る指紋については、榊部長の方から、各部署へ圧力がかかる為、香倉の身の安全は保障される筈である。
 香倉は、胸のポケットに小さなチップを仕舞い込みながら、隠し部屋のドアを開けた。


 香倉が奥の隠し部屋から出てくると、珍しい客がソファーに座っていた。
 櫻井だった。
 どうしてこんなところに・・・。
 香倉は顔を顰めた。
 湯江に積極的に迫られて、顔を青くしている。女に迫られることが生理的に受け付けられないはずの櫻井は、強い酒に逃げている。そんな男が、どうしてこんな店に来ているのか不思議で仕方がなかった。見れば、どうやら私服のようである。仕事ではなさそうだ。
 かわいそうな櫻井は、残念なことにこういう類のクラブではよくモテる人種である。若く瑞々しい肉体を持ち、素直で美しく濁りのない瞳をしている。男らしく実直で、無口。今時珍しく、汚れていない純潔種である。深夜の如何わしい飲み屋街では、ほとんど見られることのない珍獣だ。
 結果的に、当たり前と言うか、当然と言えば当然の成り行きで、湯江ばかりか年下の肉感的な女の子にも迫られ、いよいよ気を失いそうになったらしい。酒との相乗効果もあったかどうかは判らないが、店の片隅で様子を伺う香倉に気づくことなく、洗面所の方に走っていった。
 まったく、何を無茶なことをしているんだ。
 香倉は大きな溜息をつき、櫻井の後を追った。


  ネイビーブルーのタイルが美しく磨き上げられた上品な洗面所に、耳障りな呻き声が響いていた。
 案の定だ。吐いている。
 一番奥の個室。 香倉は、先客のお客に軽く会釈をして、ペーパータオルを二、三枚手にとり、奥の個室を覗いた。
「お客様、大丈夫ですか?」
 後ろの客の様子を伺いながら、香倉は櫻井の背中を摩った。櫻井の背中がビクリと震える。
「お加減が優れないようでしたら、奥のお部屋でお休みになられては・・・」
 背後で洗面所のドアが開く音がする。背中越し、後ろを見ると、先客のゲストが出て行くところだった。
「一体、何をしているんだ、こんなところで」
 香倉は身体を起こし、再度派手な溜息をついた。
 櫻井がトイレのコックを捻り、ゆるゆると振り返る。
「・・・吐いているんです」
 至極もっともな返事が返ってきて、思わず香倉は苦笑した。蹲っている櫻井に、ペーパータオルを渡す。櫻井は、「すみません」と言って、身体を起こすと、蓋を閉めた洋便器の上に座った。口を拭う。
「吐いているのは、酒のせいじゃないな」
 香倉がそう言うと、櫻井が弾かれたように顔を上げた。だが、すぐに事情を察したらしく、再び深く項垂れた。
「井手を恨むんじゃないぞ。俺が井手の首根っこを捻り上げてしゃべらせたんだ。第一、俺だってあの夜お前の面倒をみたんだ。聞く権利はあるだろう?」
 櫻井が、のろのろと顔を上げる。だが動きとは対照的な負けん気の強い瞳の色をしていた。
 まったく、これだからな、この男は・・・。
 内心香倉は、悪態をつかずにはおれない。
「本当に、どういうつもりで店に来たんだ。特捜を外されたお前がプライベートだからといってうろついていい所じゃぁないだろう」
 香倉の鋭くもっともな指摘に、櫻井は何も答えられない様子だ。黙って下唇を噛んでいる。
 香倉は再度溜息をつくと、「ちょっとこっちへ来い」と言って、櫻井に背を向けた。 洗面所の出入口のところでちらりと振り返る。
「来んのか?」
 櫻井がゆるゆると個室から出て来て後を付いてくる。
 香倉と櫻井は、揃って洗面所を後にした。
 香倉が櫻井を連れてきたのは、店の最奥にあるスタッフルームだった。
 奥の壁にロッカーが整然と並べられ、入口近くには、小さな洗面所と冷蔵庫。部屋の中ほどにある壁際には、古びた皮製のロングソファーが無造作に置かれてあった。底の方の皮が少し剥げている。店に置いていて古くなり使えなくなったものだろう。
 香倉は冷蔵庫からお茶のペットボトルを取り出し、戸口に立つ櫻井に投げた。
「とりあえず、それで口をさっぱりさせろよ」
「ありがとうございます」
 櫻井は素直に返事を返して、お茶を口に含むと、口の中をすすいで洗面台に流した。 後は、餓えたようにゴクリゴクリと一気に飲み干す。零れた雫が喉を伝い、Tシャツの襟元の先に滑り落ちていった。
 香倉はロッカーのひとつを開け、中から黒のTシャツを取り出すと、お茶を飲み終えてウインドブレーカーの袖口で口元を拭う櫻井に渡した。
「シャツが汚れている。これをやるから着替えろ」
「・・・でも・・・」
「俺のだ。ジム通いに使っている。安心しろ、洗いたてだからきれいだ。汗臭くないだろ」
 櫻井は、狐に摘まれたような顔をして、スンとシャツの匂いを嗅ぐ仕草を見せた。
「バカ。マジに臭いを嗅ぐなよ」
 懐から細巻の煙草を取り出し、口に咥えながら香倉がそう言うと、香倉の視界の隅で櫻井の顔が真っ赤になった。
 ・・・本当に天然記念物のような男だな、今時。
 香倉は古いソファーに腰掛けながら、煙草に火をつけた。まずはゆっくり一服する。
「何があったかは知らないが、お前らしくないな。態々自分が窮地に追いやられるようなところにのこのこ顔を出すなんて」
 櫻井は何も答えず、香倉に背を向け上着を脱ぎ、襟元の汚れたTシャツを脱いだ。
 滑らかな小麦色の肌と美しく陰りを見せる肩甲骨が見える。無駄な肉はひとつもなく、小気味よい筋肉に覆われた伸びやかな背筋だった。
 香倉が煙草の煙を吹かしながら、「お前は頭がいいんだろう?」と続けて言うと、上から被った黒いTシャツ越しにチラリと櫻井が振り返った。先ほどの名残なのか、目尻がかすかに赤い。
 やれやれ、まったくどういうつもりをしていやがるんだ・・・。
 なぜだか、自分自身でも分からない苛立ちを無性に感じながら、香倉は続けた。
「まさか、俺に会いに来たっていうんじゃないだろうな」
 ピタリと櫻井の動きが止まる。
 煙草を咥えたまま、香倉は呆れた顔をして、腕組みをした。
「本当に何考えてるんだ、お前」
 香倉は、溜息混じりに煙を吐き出し、手前のローテーブルに置いてある灰皿にゴロワーズを押し付けた。ふいに櫻井が口を開く。
「・・・自分でも、分かりません」
 櫻井は背を香倉に向けたままだったので、彼の表情は窺い知ることができなかったが、彼の言うことが本心であることは手にとるように判った。背中越しでも、その戸惑いは十分に伝わってくる。もっとも、来た理由が分かっていれば、恐らくこんな事態にはなっていないはずだ。
 櫻井が振り返る。俯いたまま、櫻井は呟いた。
「独りでいることが怖いことって・・・ないですか」
 囁くような声だった。「え?」と香倉が訊き返す。
「香倉さんは・・・。あんたは、独りで生きている意味を見失うことはないのか。独りでいることで傷つけられることはないのか。・・・どうしてそう、超然としていられるんだ?! どうして!」
 切れ長の瞳が、香倉を捉えた。
 深い悲しみを抱え込んだ瞳。
 香倉が写真で見た、幼少の頃の正道少年となんら変らない、傷ついた瞳・・・。
 ズキリと香倉の心が痛んだ。
 櫻井の悲しみは、時として自分自身の悲しみに共鳴することがある。
  ・・・危険だ。
 香倉は、我知らず奥歯を噛み締め、心の中で呟く。
 元々香倉は、孤独な人間として生きてきた。それは自他ともに認める事実だ。
 公安の特務員としての人生を選んだ時から、一切自分の過去と決別した。唯一自分に許された過去は、町医者をしている自分の実の兄と、学生時代の友人・井手だけである。
 それなりに修羅場を潜り抜けてきた。いつでも独りだった。
 この仕事を選んだことで、失ったものはいっぱいある。異国で愛した女性をも永遠に失ったことさえ。
 誰にも心を許さず、誰も信用しない。
 ある意味、そんな生き方は楽だったが、それによって知らなくてもいい孤独の傷を負ったことも確かだ。
 櫻井の瞳は、それを思い起こさせる。
 孤独というものが、酷く悲しく、そして辛いということを。
「あんたを見ていると、俺はどうしていいか判らなくなる。自分の弱さを見せつけられるような気がして、たまらなくなる。ここに来たのだって、どうしてなのか、自分でも本当に判らない。あなたは酷く、俺を感情的にさせる。・・・こんな筈じゃ、こんな筈じゃなかったのに俺は・・・・!」
 櫻井の言うことは支離滅裂で、正しく香倉はとばっちりを食らった形になった。
 だが、櫻井の戸惑いが香倉には自分に近いものに感じていた。
 櫻井が香倉という存在に出会って動揺しているのと同じように、香倉は櫻井の存在を「痛く」感じていた。今までどこか誤魔化してきた自分の中の傷を、掘り返されるような感覚に襲われていた。
「・・・慰めて、ほしいのか」
 香倉が口にした言葉は、ある意味、香倉自身にも向けられた言葉でもあった。
 それが判ったからこそ、悔しくてたまらなかった。腹が立った。
 香倉はソファーから立ち上がり、櫻井を睨む。そして一瞬怯んだ櫻井の腕を掴むと、荒っぽく櫻井の唇を塞いだ。
 当たり前のように、櫻井の身体が強張った。
 強引なキス。
 だが、そこには乱暴なだけでない何かがあった。
 決して交わることのなかった心の深い部分が触れ合った瞬間。
 ひどく乱暴で、でも切なげで。
 櫻井の両手が、香倉の身体から逃れようと香倉の胸に添えられたが、抗うほどの力を込められなかったのだろう。二、三回ドンドンと胸を叩いた後、櫻井の手は弱々しく香倉のシャツを掴むだけに終わった。
 唇に舌を這わせ、少し歯を立てる。ピクリと相手が反応した隙に舌を差し込むと、櫻井が緩く鼻を鳴らした。弱い抵抗を再び試みるが、香倉の強い力に封じられて、まったく意味がない。本気で抵抗したいのに、身体に力が入らないのか。
 櫻井の舌を捕らえて少しきつく吸うと、櫻井の身体が大きく震えた。
 香倉の太ももに触れている櫻井の身体が熱い。
 正直、香倉は驚いた。櫻井がそんな反応を示すとは思っていなかったからだ。胸の奥が、息苦しく疼いた。まるで針を突き刺されたような気分になった。
 香倉が唇を解放すると、苦しそうに顔を顰めたまま、櫻井は二、三回大きく口を喘がせた。

以下のシーンについては、URL請求。→編集後記



 「最後まで吐かなくて、よかったな」
 なぜか香倉の口から、そんなマヌケな言葉が零れ出る。いきなり労わりの言葉をかけてもらった櫻井も拍子抜けしたのだろう。下から香倉を見上げ、「面倒を、お掛けしました」と言葉を返した。香倉もハハハと声を出して笑う。
「色気がねぇな」
 櫻井はバツが悪そうに身体を起こすと、身なりを整えた。
 お互い、子供っぽく感情をぶつけ合った結果だということは、口に出さなくても理解しあっていた。だからこそ、お互いに顔をあわせることができなかった。・・・何となく。
 香倉はソファーから立ち上がり、若干乱れた自分の服を正すと、洗面台の上の小さな鏡を覗き込んで、乱れた前髪を整えた。一方櫻井は、大きく何度か深呼吸をする。
 香倉は鏡を覗き込んだまま、背後の櫻井に言葉をかけた。
「今日はもう真っ直ぐ家に帰るんだぞ。出て行き際、店のコに捕まらないようにな。お前の分の支払いは、俺が済ましておいてやるから」
「・・・え・・・、そんな、結構です」
「デカの安月給は知ってる。・・・お前の方は、この手の店の単価がいくらかってことは知らないだろう?」
 香倉が振り返る。その香倉に櫻井が「借りを作るのは嫌いです」と噛み付いた。もういつもの強い力を持つ瞳の櫻井だった。香倉が苦笑いする。
「これでも少しは悪いと思っているんだ。少しは俺の気持ちも察しろよ」
 先ほどのことを思い出したのか、櫻井が顔を少し赤らめる。
 香倉はそんな櫻井に取り合わず、スタッフルームのドアを開けようとする。
「あ!」
 櫻井が短く声を上げた。怪訝そうに香倉が振り返る。
「何だ」
「いや・・・あの・・・。そんなにすぐ出て行ったら、皆に変な顔をして見られるんじゃないかと思って・・・」
「・・・どこのどいつが、バーテンと刑事が店の奥でさっきみたいなことをやってると思うんだ? つまらないことを気にするやつだな。お前はどこもおかしくない。・・・先に出るぞ。自分のシャツは自分で持って帰れよ」
 がりがりと頭を掻く櫻井を残して、香倉はスタッフルームを後にした。

 

触覚 act.14 end.

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編集後記

なんか、最近頻繁にエロを書いている国沢です(笑)。
三十年間生きてきて、こんなことはまずないです(笑)。国沢としては、驚異的なスピードでエロを産出しています(笑)・・・・←ほんとは、この( )の中、「涙」 なんですけど。
苦手なんですよ~。エロ。読むのは好きなくせしてさ。書くのはどうも・・・。疲れてしまってねぇ・・・。
(老人だよ、これじゃぁ。最近ますます、老人力が加速進化中・・・)
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[国沢]

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