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act.39

 本当なら、井手の診察室を訪れる患者はもういない筈だった。
 時刻は午後五時。
 仕事終わりの会社員も相手にしているこのクリニックでは、午後八時まで患者の予約を入れられることになっていたが、その日は珍しくも五時の段階で仕事は終わるはずだった。
 だが最後の患者の面談経過を専用のノートに纏めている最中に、ドアをノックする音がした。
 井手はノックした相手が誰であるか先刻承知の様子でノートを手早く片付けると、「どうぞ」と声をかけた。
 ドアが開く。
 ドアの向こうに立っていた男に、井手はニヤニヤと笑いながら、
「今日はどういったご相談ですか? 大石教官」
 ごくありがちなシングルスーツに薄手のトレンチコートという出で立ちの男は、そう言われた瞬間、眼鏡の奥の瞳を派手に顰めた。
「俺は別に病気なんかじゃないよ。それに、もうすぐ教官でもなくなるしね」
 井手に促されて部屋に入ってきたのは、大石要だった。
 約一年前、ある事件で『上』の命令を無視した形の捜査を行い、その責任を負って現在現場から外されている元・警視庁捜査一課の管理官だ。今は警察大学校で教鞭を執っていると井手は香倉から聞かされていた。
「あら、教官でなくなるの?」
 脱いだコートを傍らに置きながらソファーに腰掛ける大石に井手がおとぼけ顔でそう言うと、大石は苦笑いする。
 井手がソファーに座る大石の前にコーヒーの入ったカップを置く。大石は軽く会釈してコーヒーを啜り、ほっと一息溜息をついた。
「ああ。来年度の人事で警備局に異動することになった」
 井手が、男がするみたいに口笛を吹く。
「またエリート街道に戻るのね」
「戻れるのだかどうだかね。── こんなことしてたら、いつまた左遷させられるとも限らない」
 大石はそう言って、懐から折りたたまれた茶封筒を取り出し、ボザッとテーブルの上に投げ置いた。
「もう手に入れてくれたの? 早いじゃない」
 大石の向かいに腰掛けた井手は、上機嫌で封筒の中身を探った。
 中からは、アルファベットと番号、そしてカタカナの名前が羅列された用紙が何十枚と束になって出てくる。
「それはごく一部だよ。残りも手に入り次第届ける。しかし、ある名前の・・・しかも複数人に渡る名前の渡航記録を取り寄せてどうしようというんだ? 世の中には同姓同名の人間なんてたくさんいる。ひとつの名前に関してだけでも、膨大なリストの数になる。それだけで個々の人物を特定しようだなんてかなり無理があるぞ。一体何を調べたいんだ」
 井手は早速リストに目を通しながら答えた。
「私の患者の渡航記録を調べたいのよ。本来は外国に行ける体調ではないのに、それを押してまで彼らが渡航した先の場所を突き止めたいの」
「それって、『ヤツ』の件に絡んでのことなのか?」
 リストをめくる井手の手が止まる。
 井手が顔を上げると、真剣な顔つきの大石が真っ直ぐ井手を見ていた。
 井手がどう言ってよいか言いあぐねていると、大石は井手を促すように言った。「細かいことは知らないが、香倉の身がどういう状況にあるかは知っている」と。
 逆に井手は訊いた。
「アイツは無事なの?」
 大石は頷く。
「無事かどうかは分からんがな。生きている。少なくともな」
「どういうこと?」
「数日前、米国の方から外交筋経由で警察庁に写真が届けられた。東南アジアマフィアと行動を共にするヤツの姿が写っている写真がな」
「まさか!」
 思わず井手は声を荒げた。しかし大石は怯むことなく続ける。
「俺もそう思いたいがな。しかし事実だ。どうやらCIAからもたらされた情報によると、マフィアの女ボスに気に入られて、様々な場所に出没しているらしい。かなりヤバイ状況だ」
「それは公安お得意の潜入捜査ってことなんじゃないの?」
 井手がそう訊き返すと、大石は首を横に振った。
「第一、そんな任務は本来命令されていないからな。違法薬物密輸調査で内偵中だった男を監視する目的でカンボジアに飛んだはずが、その男もろとも行方不明になって連絡を絶ち、挙げ句の果てはマフィアの女ボスと一緒のところを写真に撮られている。ヤツが内偵中の男を誘拐して現地組織に『売った』と内部調査の連中がみても不思議じゃない状況だ」
 ── 道理で榊の親父が香倉の無事を断言していたはずだ・・・
 井手は大石の声を聞きながら、そう思った。
 榊は大石が知るより早い段階で、この情報を知っていたのだろう。
 『何かなかった訳じゃないが。二人ともまだ生きとる』。
 そう言った榊の声色は、プラスとマイナスが入り交じったような、すっきりしない苦々しいものだった。
「で? その内部調査の連中とやらは、もう動き始めたの?」
「榊さんが頑張ってはいるが。もはや時間の問題だな」
 井手は、「そう・・・」と呟いて大石から視線を外した。
 宙を見つめ、異国にいる香倉と櫻井のことを思った。
「井手?」
 何も言わない井手の様子が不安になったのか、大石が少し身を乗り出してくる。
 井手は宙に視線をやったまま、言った。
「アイツは、悪に寝返るような人間じゃないわ」
 井手の視界の隅で、大石が静かに頷く。
「ああ、そうだな」
 またしばらくの間、沈黙が流れた。
 いずらくなった大石がコートを手に席を立とうとしたところ、ふいに井手が大石に視線を合わせた。
「ねぇ、ちょっと」
 大石が中腰の不自然な体勢で身体の動きを止める。
「あなた、この後予定があるの?」
「い、いや・・・。特には・・・」
「そう。嬉しいわ」
 井手の台詞に、大石がゴホンと咳払いをする。
 なぜか身なりを整える大石に対して、井手はこう言ったのだった。
「じゃ、リスト調べるの、手伝って」
 ぽかんとした顔つきの大石の目の前に、井手は蛍光ペンと調べてもらいたい患者達の名前を書き付けたメモを並べたのだった。

 

接続 act.39 end.

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編集後記


お久しぶりです(大汗)。
ただいま帰って参りました。国沢です。

年末年始の鬼のような忙しさは一応収まったんですが、一般会社員になってしまったので、フリーランスの頃より自由にできる時間は当たり前のように激減いたしました(滝汗)。
分かった上での再就職とはいえ、束縛されるのが大嫌いな性質の我は、些かウブッときています。
できれば引きこもり推奨でいきたいこんなオイラが、管理職やってます(笑)。
ワハハ。

久しぶりの更新でしたが、以前として少ししか書けませんでした。
でも取りあえずチョビチョビながらも書き続けていこうと思っているので、我こそはと思われる方は是非とも最後までお付き合いください m(_ _)m。


[国沢]

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