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nothing to lose title

act.35

 遠くで車のクラクションが鳴らされる音がする。
 しかしそんな音が耳に入ってきても、櫻井はまるで現実の世界に自分が生きているようにはとても思えなかった。
 ザァッと頭から血が下がっていくような感覚に襲われ、益々手の震えが止められなかった。
 クライドは目ざとくそんな櫻井の様子を見逃さない。
 クライドはしばらく櫻井の様子を観察し、言った。
「お前さん、えらく色気づいた顔をするじゃないか。その写真、そんなにショックか?」
 櫻井はそう言われて、思わずハッとする。
 ── ダメだ。こんなんじゃ、全然ダメだ。特務員として、本当に失格だ・・・
 櫻井はクライドに視線をあわせ、首を横に振った。
「ち、違います。そんなんじゃ、ありません・・・」
 クライドは、はっと軽い笑い声を発した。
 彼は椅子を立ち上がり、部屋の中をゆっくり歩き回ながら、じっくりと櫻井を観察するように見回った。
 櫻井はバツが悪そうに、そんなクライドを見返した。
 内心、生きた心地がしなかった。
 クライドから信頼を失えばただちに手を切られるかもしれないという不安、写真を見た衝撃、今も酷く動揺している自分に対する自己嫌悪・・・あまりに湧き上がった感情が複雑過ぎて、その場から逃げ出したくなる衝動にかられていた。
 ── けれど自分は、逃げることなんてできない。
 自分がここですべてを放り出すことは、愛する人の命を放り出すに等しい。
 櫻井は痛いほどそのことを思った。
 そう思うことで、ようやく落ち着きを取り戻す。
 櫻井は再度、今度はしっかりとクライドを見た。
 クライドは櫻井の向かいの壁にもたれ掛かって櫻井を観察していたが、ふいに表情を緩ませた。
「お前さん、本当におもしろいヤツだな」
 クライドはポツリとそう言う。
 櫻井は「どういう意味ですか?」と訊き返した。
 クライドは再び櫻井の向かいの椅子に腰掛けると、また肩肘をついた。
「お前さんはなかなか無口な男だが、その目はかなり雄弁だと思ってな。そんなヤツが諜報活動の要員として抜擢されているのがおもしろいと思ったんだよ。こんな不器用な男を日本の警察はなぜ公安特務員として抜擢したのか。そして、今回のような難しい任務にひとりで当たらせているのか。俺にとっては、大いなる謎、ばかりだ」
 櫻井は、指で鼻の下を擦った。
「自分が頼りないことは十分分かっています。自分が、こういう職種に向いてない性格だということも。けれど、それでも、自分はやらねばならないんです。絶対に、任務を成功させます」
「 ── 例え自分の生命を落とすようなことになっても・・・ということか」
 しばしの間。
 しかし櫻井は、しっかりと頷いたのだった。
「任務のためなら命を差し出す、か。まったく・・・日本はハラキリ文化の国だからな・・・」
 クライドはそう言って宙を見つめ溜息をつき、また席を立ったのだった。
 その後、クライドはハイテク部屋を抜け出すと、簡易キッチンの戸棚からウイスキーのボトルを取り出し、それを安っぽい花柄のグラスに注いだ。
 後について部屋を出てきた櫻井に、「お前も飲むか?」と聞いてきたので、櫻井は首を横に振った。
 クライドは薄汚れたえんじ色のシングルソファーにどっかりと腰を下ろすと、顎で向かいのロングソファーを指し示した。
「今日はもう遅い。泊まっていけよ」
「あの・・・、あの女の人のことは・・・」
 櫻井がそう訊くと、クライドは仇っぽい笑みを浮かべた。
「気になるか? どういう意味で?」
 一瞬櫻井はドキリとする。
 まさか自分の香倉に対する気持ちがクライドには既に見通されているのか、と不安になった。
「どういう意味でって・・・。大きな手がかりだからです」
「 ── だよな」
 クライドは肩を竦めて、ウイスキーを少し口に含んだ。
「我々は世界各国で我々にとって危険分子だと目したグループを常に発見・調査、そして監視をしている。女はそんな数あるグループの中のほんの一つの組織の幹部だ。グループの名前は『コムラン・ナーガ』。クメール語で『ジャシンの力』という意味を持つ」
「ジャシンの力?」
 櫻井は、クライドの向かいのソファーに腰掛けた。
 クライドは酒を飲みながら、さも楽しそうに笑った。
「蛇だよ。蛇。蛇の神様だ。東南アジアでは、毒蛇コブラを神聖視する。そこから名前を取ったんだろうな。まったくお笑いぐさだ。ただ奴等はジャングルの奥地で根城を転々と変え、まさしく蛇のように我々にはしっぽを掴ませない。── お前さん、ゴールデン・トライアングルのことは知ってるな?」
 櫻井は頷いた。
「タイとミャンマー、ラオスにまたがる世界一の麻薬生産地帯ですよね」
「そう。そこは中国国民党の軍人でタイ・ミャンマー国境の少数民族シャン族の独立を目指した開放組織モン・タイ軍の指導者・クン・サが事実上支配者として君臨していた。この麻薬王のお陰で、違法なケシ栽培がシャン地域一帯に広まり、そこで生成された麻薬が米国にも多量に入り込んできた。そのため我々はクン・サを国際指名手配して、彼らを追いつめ、結果1996年に彼らはミャンマー軍事政権に本拠を明け渡した。その後も、その地域では違法なケシ栽培は続けられたが、タイ政府の厳しい取り締まりの成果もあって、以前ほどの生産量は確保できなくなった。それまで、クン・サに取り入っておこぼれをもらってきた小さなグループ達は、その後どうしたと思う?」
「クン・サに変わって、その地域を支配した?」
「ま、中にはそういう奴等もいるわな。けれど、絶対的な生産量は減ってるんだ。そういう奴等は、他の新天地を探さなけりゃならない。その時、実に都合がいい出来事が同時期に近隣国で起こっていたんだ」
「1996年に起こった出来事・・・?」
「世界史で教わらなかったか? カンボジア、クメール・ルージュの崩壊だ。実際にはポル・ポトから後を引き継いだリーダー、キュー・サムファンが投降したのは1998年のことだが、実際は1996年にナンバー2だったイエン・サリら主力兵士の多量離脱があって、その勢力は極端に落ち込んだ。その頃のカンボジアやベトナム、タイの国境地帯はクメール・ルージュの悪名高き大量殺戮のせいで、たくさんの荒廃した農地が捨てられてあった。・・・いやこの場合、捨てられていたのとは違う。持ち主の村人が軒並み殺されていたか、または難民として避難していたからだ。奴等は、そこにつけこんだ。そんなグループの中にコムラン・ナーガもいたわけだ。コムラン・ナーガのリーダーは、タイ国境地帯出身のチェンリという男だったが、最近はその姿を見せていない。その代わり、現在盛んに動いているのがその写真の中の女だ。名前は、ミン。年齢は30代半ばとみている。彼女の素性は謎が多いが、これほどの容姿だ。おそらく、どこかの村でチェンリに拾われた愛人だろう。見ての通り、彼女は白人と東南アジア人とのハーフだ。彼女の父親は、ベトナム戦争で駐屯した我々の同志に違いない。だが、我々にとって彼らはそれほど重要視されている組織ではない。極東アジアにおいて、やはり最も気にとめておかないといけないのは、いまだにゴールデン・トライアングルを手中に収めている連中なんだ」
 クライドはそこで、何とも苦々しい表情をしてみせた。
 アメリカにとってベトナム戦争はアメリカの歴史上最も酷い汚点として認識されている。
 しかもアメリカは、ナチスドイツに次ぐ大量虐殺を行った悪名高きクメール・ルージュに資金提供していた背景もある。
 少なくとも、櫻井の目にはクライドが母国の歪んだ歴史を悔いているか恥ずかしく思っているかのような表情に見えた。
 クライドは一気にそこまで語って残りのウイスキーを飲み干すと、「今日は些か疲れたよ。今夜はもうこれまでだ。続きは、また明日」と言って、ベッドがある衝立の向こうに姿を消したのだった。

 

接続 act.35 end.

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編集後記


今年最後の更新です!
うわぁ・・・今年もなんとかサイト続けることができた・・・。
かなりヘボヘボのサイト運営ですけど(青)。

どうも近頃、モチベーション失速気味で、なんだかんだとお休みすることが多かった一年ですが、こんなボヘボヘサイトにお越しくださり、本当にありがとうございました。
行き当たりばったりで連載を始めちゃったこの『接続』も、ちっとも終わる気配もなく(滝汗)はやもう35話。本当に恐ろしいです(脂汗)。いつか、終わるんだろうか、この話。終わるよな、いつかは。でないとオイラが死んじゃう・・・(青)。

なるだけ、アメグレみたいに三年間に渡って連載・・・だなんてことにはならないように努めたいとは思うんですが。

・・・・。

ははははは・・・。

神のみぞ知る・・・。(←作者自身ですら分からないってことです(汗))


[国沢]

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