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act.24

<第三章>


 広く高い天井に、国際線がまた一機搭乗準備を終えたことを告げるアナウンスが響き、櫻井は顔を上げた。
 電光掲示板には、中国に向けての便に搭乗開始の案内が瞬いていた。櫻井が乗るはずの香港行きの便は、あと約四十分後に出発の予定だった。
 櫻井は、夕べに阿部から手渡された自分のパスポートを確認した。
 むろん名前は『高橋秀尋』となっている。写真は、訓練中に撮影した写真を使用していた。
 ページをめくると、アメリカやフィリピンなどへ渡航した証となるスタンプが押されてあったが、むろん櫻井自身にはその経験はなかった。
 夕べ、くたびれたサラリーマンで賑わう居酒屋の片隅で阿部から自分の行き先を聞かされた時は、一瞬耳を疑った。
 なぜなら、行き先は香倉が行方を絶ったカンボジアではなく、香港だったからだ。
 これは櫻井自身予想していなく、正直戸惑った。
 動揺した櫻井だったが、大声を出す訳にはいかなかった。
 櫻井は危うく声を挙げそうになったところをグッと堪え、周囲を見回した。
 焼き鳥を焼く煙で薄く靄のかかったかのような店内では、誰も櫻井と阿部のことを気にするような人間はいなかった。おのおの、ジョッキの中の黄金の液体を喉に流し込みながら、誰しも大きな声で上司のグチを吐いている。
 櫻井はそれでも向かいの阿部に身体を寄せると、「なぜ香港なんです?」と訊いた。
 阿部は砂肝を頬張りながら「だってお前、カンボジア語、話せねぇだろ」と言われた。
 痛いところを突かれ、櫻井は口ごもった。
 確かにその通りだった。
 英語に関しては、一年間の訓練の間にみっちりと教育を受け、日常会話程度の語学力は身につけていた。しかし、その他の言語についてはからきしだった。もとより、これまで櫻井には海外に行った経験がない。無理もなかった。
「そもそもなぁ、語学力のねぇヤツはいくら外事課でも外にはやんねぇんだ。でもま、今回は特別だからよ」
 阿部はそう言いながら、歯に挟まった砂肝を楊枝で突いた。
 一見すると、阿部と櫻井のテーブルもまた、会社のグチを言う上司の言うことを聞かされ続けている部下のような風情だ。
「香港で協力者に会え。コード・ロータスという男だ」
 阿部は、ビアジョッキで口元を隠しながら言った。
「それ、本当の名前じゃないですよね」
 櫻井が訊き返すと、もちろんそうだと言わんばかりに、阿部は肩を竦める。
「本当の名前は俺でも分からん。むろん榊の親父ですら知らない。ヤツはCIAの諜報員だ。でも分かっているのはそこまで。どんな顔をしているのか、どんな背格好なのか、どこにいるのか、てんで分からん。話によると、米国当局も、ヤツがどこに潜り込んでいるのか時として把握するのが困難なことがあるらしい」
 それを聞いて、すぐに櫻井は不安になった。
「そんな人に、どうやって会えばいいんです?」
 櫻井が噛みつくと、阿部は「そう噛みつくな。まぁ飲んで落ち着け」と言って、櫻井の注文した瓶ビールを手に持つと、櫻井の空いたグラスにビールを満たした。櫻井は憮然とした表情でビールを口に含む。阿部はカウンターに向かって、「ししゃも、一つ!」と声を挙げた。「あいよ」と声が返ってくる。
 阿部は櫻井に向き合うと、こう言った。
「どうやらヤツと外界を橋渡ししているのが『リンファ』という女らしい。親父の言うことにゃ、まずそのリンファという女に会って、気に入られた者だけがコード・ロータスにお目もじできるらしい。せいぜい頑張ってリンファちゃんに気に入られるんだな」
 阿部がテーブルの上に手を滑らせる。その下から現れたのは、どこかのクラブのマッチだった。
「これは?」
 櫻井はそれを手前に引き寄せた。
 深紅の下地に黒のインクで東洋っぽいシノワ模様の入った美しいデザインで、中央に『華見歌壇』という文字が入っている。
「その店にリンファちゃんがいるんだと。写真までは渡されてないから、そこは自力で何とかしろ。ここをクリアしねぇとサラブレッドを助けるどころじゃないぜ。内務調査の奴らがあの兄さんを処分する前に何とか兄さんの無事を確認する必要がある。それをお前さんが実現するためには、コード・ロータスの助けが絶対に必要だ。心してかかれ」
 阿部は、先ほどとは違った凄みの走った顔つきをすると、テーブルの下から封筒を渡してきた。
 櫻井がそれを受け取ると、阿部は立ち上がった。
「おばちゃん、やっぱ、ししゃもいいや。おあいそして」
 どうやら阿部はどうやらこの店の常連らしい。カウンターの中のおばさんが「いいよ~、おあいそね~」と声を返してくる。
 櫻井が封筒を手早くビジネスバックに仕舞い、財布を取り出すと阿部が「ああ、いいわ。ここは俺が出してやるよ」と言った。
 櫻井は目を見開いて、阿部を見上げる。
 これまで阿部とは様々な店でテーブルを挟むことは幾度となくあったが、こんなことを言ったことはなかった。
 櫻井がマジマジと阿部を見ると、阿部は「そんなに俺が男前か」と言い返してきた。思わず櫻井が顔を綻ばせると、バンと強く背中を叩かれた。
 櫻井が席を立つと、くたびれた薄手のコートを羽織りつつ阿部は小さくこう呟いたのだった。
「お前らが帰ってきたら、今度はお前らが俺に奢るんだからな」
 櫻井は拳をグッと握りしめると、やはり小さな声で、それでも力強く「はい」と答えたのだった。
 
 
 ふいに隣で楽しそうな笑い声がわき起こった。
 櫻井はハッとしてそちらに目をやる。
 若い女性の五人組が華やかな旅行カバンを手に次々と待合い席に座った。
 誰もが「間にあったね~」と言いながら、黄色い声を挙げていた。
 どうやら、滑り込んできたらしい。その様子を見ると、同じ香港行きの便に乗りそうだ。
 その表情を見ると、海外旅行に向かう高揚した雰囲気が溢れ出ていて、堅苦しいスーツ姿のビジネスマンが多かった待合室がパッと明るくなった。
 その笑顔は、どれも楽しげだ。
 櫻井もまた、白のTシャツにジーンズ、黒のカジュアルなジャケットという彼女達のようなラフな恰好をしていたので、端から見れば彼女達と同じ観光目的の旅行のように見られているのかもしれない。
 しかし、現実はとてもじゃないが観光とはかけ離れた状況だった。
 手がかりは小さなマッチひとつ。
 しかも、櫻井にとって海外渡航は完全に未知なる世界だった。
 不安がないといえば嘘になる。
 けれどこれは、絶対に乗り越えねばならない壁だった。
 そうでなければ、自分はあまりにも大きなものを失ってしまう。
 愛するあの人を失ってしまう。
 櫻井は、その先を考えられなかった。
 脳髄がそれをすることを許さなかった。
 身体がブルリと震える。
 彼女達の歓声を横で聞きながら。
 櫻井は、手の中のパスポートをグッと握り込んだのだった。

 

接続 act.24 end.

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編集後記


あいかわらずのチビチビ更新でごめんなさいの国沢です。(←あまり反省の色が見られないのが玉に傷・・・・)。

いよいよオリピック、終わっちゃいますねぇ。
皆さん、堪能されましたか? オリンピック。
なにせ国沢は、テレビでのスポーツ観戦が大好きなもので、祭りが終わってからは毎日オリンピック一色。
仕事してても、いまいち身が入らないという困った状況(汗)。
でも、シナリオのないドラマがたまらないんですよね。スポーツって。
それに自分がスポーツ音痴なもんで、余計憧れるのかも。

皆さんにとってもオリンピック・ベスト1のシーンはどれでしたか?

国沢にとっては、『伊調千春選手の表彰シーン』がベストワン。
試合のシーンではなくて、あくまで表彰シーン。
国沢、あの表彰シーンを見て、本当に号泣しちゃいましたよ、お恥ずかしながら。
人間年取ると、ホント涙腺緩くなる・・・。
伊調千春選手のこれまでの苦労とか重圧とか、金メダル取れなかったこととかの気持ちを想像すると、表彰台の上のあの笑顔は本当に凄かったし、美しかった。健気にも見えた。
あの銀メダルは、彼女しか取りえなかった銀メダルだったし、金メダルをの価値を超えた銀メダルだったと思う。それに国沢的には、デザインの好みとして一番美しいなぁと思っていたのが銀メダルだし(←なんじゃそりゃ)。
なんか、心の底から「よかったねぇ。頑張ったねぇ。お疲れ様だったねぇ」と思ったら、もう号泣してた。
やっぱり、何事も『納得して、あるがまま受け入れ、感謝する』ことがいかに難しく、かつ素晴らしいことか。
他にも、様々なアスリートが様々な形でそれを見せてくれました。

あ~~~~~、明日で終わっちゃうのか~~~~。
寂しいなぁ。
こんなビッグなスポーツイベント、次は二年後の世界陸上までお預けか?
あ~~~、早く来い来い、織●裕二。


[国沢]

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