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act.19


<素晴らしき○○> 
 
 ゼエゼエという自分の呼吸音がバカみたいに大きく聞こえた。
 月明かりに照らされた青白い風景が、縦に横にと激しく揺らいだ。
 周囲には、竹刀が激しくぶつかり合う音が響き渡り・・・。
 
 ── え? え? なんで竹刀の音???
 小泉芳は、ふいに立ち止まって耳を澄ませた。
 聞こえる。やっぱり聞こえる。
 なんと激しい竹刀の音。
 一旦は坂道を下っていったはずの芳だったが、今逃げ出してもいずれはそれなりの結果を知ることになるのだからと途中で思い直したのだった。
 それに、せっかく真司が勇気を出して果たし状 ── いや手紙をくれたのに、それを無にするなんてことはダメだと感じたのだ。
 どうせフラれるのなら、「いまわの際で逃げ出した卑怯な奴」と思われるより、「潔く向きあった男前」という思い出を持ってもらった方がいいに決まってる。とはいっても、約束の時間を過ぎてしまったので、印象よく思われるかどうかは今の時点で既に大いなる謎だが。
 自転車で、緩やかな上り坂をゴンゴン上がってきた芳だったが、道場の広い敷地に入った途端、竹刀が激しくぶつかりあう音が聞こえてきて、芳は一瞬ぽかんとしたのだった。
 稽古の時間は既に終わっているはずだ。現に道場の敷地に弟子達の気配を感じることはまったくなかったし、辺りはひんやりと静まりかえっていた。ただ、道場からは、一対一で竹刀を打ち合う音が聞こえてくる。
 ── え? なんで竹刀の音がしてるんだろ。
 芳はてっきり、話し合いのために道場まで呼び出されたと思いこんでいたからだ。
 ── 俺・・・なんだか勘違いしてる?
 芳はハッとして、傍らに自転車を捨て置くと、道場までひた走った。
 まるで転がり込むように道場の出入口まで着くと、バンッと道場の上がり口に両手をついて突っ伏した。一生懸命走りすぎて、心臓が痛い。
 ゼイゼイと肩で息をしながら顔を上げると、薄暗がりの中、二人の剣士が激しく打ち合っていた。
 それは、素人の芳が見ても物凄い、ギリギリの打ち合いだった。
 芳には、その剣士が一体誰か、すぐに分かった。
 片や長身で濃紺の胴着に包まれた男、片や白い胴着に身を包んだ男。
 明らかに、真司と霧島に相違なかった。
「── え? なんで?」
 荒い呼吸の合間から、芳はそう小さく呟いた。と、同時に芳の傍らで、「え? なんで?」と呟くもうひとつの声。
 芳は咄嗟に声のした方向に顔を上げた。声の主とまともに視線がかち合う。
 芳も相手も、目を皿のようにして互いのことをしばし見つめた。
 よく日焼けした顔に、カーキ色のズタ袋のような服を着た男。
 ── えっと・・・どちら様?
 芳が思ったことは、相手も思っていることだろう。
「・・・こんばんは」
 優等生・芳が思わず挨拶して頭を下げると、相手も「どうも」と言って少し頭を下げた。
 それでも互いに鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしている。
 気まずい雰囲気だが、どうやら悪い人じゃないらしい。
「び、美人系ね・・・」
 と相手が呟く。
「は?」
 芳が首を傾げると、相手は「いやいや、こっちの話だ」と慌てた様子で両手を振った。男は腕組みすると、「まったく、えれぇことになってきやがった」と呟き、再び道場を覗き込む。芳も誘われるように道場に目をやった。
 謎だらけの展開だが、今はそんなこと構ってる暇はない。
 とにかく、今ここで重要なのは、真司が霧島さんと真剣勝負を行っているらしいということだ。
 二人が動く度に飛び散る汗の粒を見ると、随分長い間、この真剣勝負は続いているらしい。
 その戦いは、実に二人の特徴をよく表していた。
 霧島の剣は、真司の力強い剣とは違いしなやかで、『柔よく剛を制す』といった感じだ。
 一方真司は、まさに情熱の剣。
 真っ直ぐにただひたすらに相手に向かっていく。
 勝負はやはり、やや真司が劣性だった。
 体格は真司の方が圧倒的に優位だったが、テクニックは霧島の方が明らかに上だった。
 ぶつかってくる真司の大きな体を霧島は竹刀が振り払い、あしらっているように見える。
 けれどそれでも、必死な真司の剣に芳の心は熱くなった。
 これまでうじうじしていた自分の、なんと恥ずかしいことか。
 ── 自分はあんなにも真司の目線に追いつこうと頑張っていたのに、いつの間にか追いつくどころか大切な何かを忘れてた・・・
 真剣勝負の真司の姿を見て、自分の悩んでいたことが本当にちっぽけなことであるかを実感した。
 いいじゃないか。
 真司が、霧島さんを好きでも。
 大切なのは、自分が真司をどれだけ好きかってことなんだし。
 ただひたすら真っ直ぐな真司を、ただひたすら真っ直ぐに想えばよかったんだ。
 そう思うと、何だか芳の心がじんわりして、ふいに目頭が熱くなった。
 打ち負けても、何度も果敢に霧島さんに挑んでいく真司の姿が眩しかった。
 この人を好きになれて、本当によかったとつくづく思う。
 芳は、目尻に溜まった涙を腕でぐいっと拭った。
 
 
 それは、随分長い打ち合いだった。
 力の加減を知らない真司は消耗も激しく、見るからにゼイゼイと息を乱し始めていた。
 それを霧島が見逃すはずがない。
「── ヤァア!!」
 霧島の懇親の一手は、全く手加減のない鋭い突きだった。
 真司は両目をカッと見開く。
 真司は竹刀の切っ先で、霧島の突きをすんでのところでうち払った。しかし、そのままバランスを失い、片膝をついてしまう。 
 と、その時、真司の視界に芳の姿が目に入った。
 彼も必死の形相で道場の上がり口の板の間にしがみついていた。
 ── なんだ・・・。来てくれてたのか・・・。
 約束の時間を過ぎても姿を現さない芳に、てっきり真司はもう芳がここに来ないものだと思いこんでいた。
 きっと芳は優しいから、真司に変な期待を抱かせないようにと思ったに違いない、と。
 それならせめて、霧島と純粋に勝負をするのも悪くない。
 自分の初めての恋は失敗したようだが、それを悪い思い出にはしたくなかった。
 それで始めた勝負だった。
 いつもなら、あっという間に負けていた。
 霧島の剣は隙がなく、一方大振りで懐が空き気味の真司はいつもそこを突かれていた。
 それが今日は自分自身変に冷静で、霧島の剣が『よく見えた』。
 長く打ち合いする内に、ランナーズハイというか、何だか楽しくて仕方がない気分になった。
 何度何度打ち負けても、また挑んでいける。
 一本取られない限り、これは永遠に続いていく。
 勝負は、真司の方が劣性だった。
 霧島の攻撃を阻むことができても、以前防御の面でいえば、霧島の方が腕は上だった。
 嬉しがって挑んでいく内、あっという間に体力を消耗した。
 思えば、嬉しすぎて力の加減をしていなかった。
 さすがの真司も、全力疾走で走り続けることはできない。
 気が緩んだ一瞬を霧島に突かれた。
 何とか一本取られるのは避けたが、バランスを大きく崩してしまった。
 もうダメだ。
 そう思った時、芳の姿が見えた。
 一瞬時が止まった。
 芳は大きな瞳に涙を浮かべて、歯を食いしばって自分を見つめていた。
 ── ああ、そんな顔も何だかいいなぁ・・・
 そんなことを思って、真司は自分が如何に恋に溺れているかを痛感した。
 今までは、人様がどんな顔してようと、興味もなかったのに。
「真司!」
 ぼんやりとしていた真司の頭が、芳の叫び声でハッとした。
 芳の目が、真司に迫り来る霧島の次の一手を一瞬見た。
 真司は、芳の視線で霧島の剣がどこからくるのか察知し、振り返り様頭を右側に寄せた。
 ブゥンと竹刀の切っ先が真司の面をかすっていく。
 真司は体勢を立て直し、目の前の胴に向かって竹刀を振った。
 ── パァン!
 鋭い音が道場に響いた。
 そしてその場が、凍り付いた。
 しばらくの静寂が続いた後、竹刀がガシャリと床に落ちる音がした。
 床に振り落とされたのは、真司の竹刀だった。
 きょとんとした目で真司が自分の左手を見ると、霧島に打たれた左手首がブルブルと震えていた。
「・・・惜しい!」
 戸口に立っていた久重が、喉の奥から絞り出すような声で言った。そしてその声で、真司は自分の敗北を知った。
 真司が、霧島を見上げる。
 霧島は、今まで真司が見たことがないぐらいに息を乱し、彼もまたゼイゼイと肩で息をしながら、自分の胴の腹の部分を見下ろしていた。そこには、竹刀で擦れた跡がついてた。これまで真っ新だった霧島の胴具についた初めての傷跡だった。
 真司と霧島の視線が合う。
「見事な、一手だった」
 面の向こうで滝のような汗を流しながら、頬を紅くしている霧島がそう言った。
 重々しい一言だった。
 真司はその場で正座をして姿勢を正す。
「参りました」
 真司は、深々と頭を下げた。
 真司にとってそれは、なんとも清々しい、『素晴らしき敗北』だった。
 
 
 「まさか、あいつの想い人が男の子だったとはな」
 道場の中の真司に向かってバスタオルを投げ入れた後、道場にあがることを躊躇っていた真司の想い人であるらしき少年をとっとと道場内に追いやり、戸を締めて閉じこめてしまった久重は、道場を去る霧島の背中を追って言った。
 久重がタオルを手渡すと、「ありがたい」と霧島は受け取って顔に流れる汗を拭った。
「── お前、知ってたんだろう。真司の相手があの子だってことを」
 久重が霧島の脇腹を肘で突くと、霧島が顔を歪めた。
「おい、気を付けろ」
 軽い呻き声を上げて、霧島が言う。
「どうした?」
 さすがの久重も、霧島の苦悶の表情にビックリした。
 何だか今日は、予想外のことが多過ぎて驚き通しだ。
 霧島は、久重の顔を軽く睨み付けると、胴着の胸元を掴んで両側に割開いた。
 小気味よい筋肉に覆われた白く滑らかな霧島の身体の脇腹の部分が、紅く変色していた。
 それは紛れもなく、先程真司の最後の一手を受けた場所であった。
「胴で覆われていたにも関わらず、この様だ。あいつのバカ力を、身をもって思い知らされたよ」
 霧島の有様に、久重もほほうと感心する。
「僕が一瞬早く籠手をお見舞いしていなかったら、もっと酷いことになっていただろうな。── いやはや・・・来年ぐらいは、負けるかもな」
 霧島はそう言って、にやりと笑う。
 今度は代わりに久重が顔を顰めた。
「でもお前、この真剣勝負に勝っちゃってさぁ。折角想い人も来てくれたって~のに、これじゃアイツも告白できなくなっちまったじゃねぇか」
 そういう久重に対して、霧島はあくまでしれっとしている。
「言っただろう。決して手は抜かないって。わざと負ける方が真司に対して失礼だよ」
 胴着をまた着直しながら霧島は言う。「だってよ~、ただでさえ奥手なのによ~」とぶーたれる久重を見て、霧島は笑った。
「僕等が心配せずとも、大丈夫だよ。彼らならうまくやるさ」
 久重は、まだ半信半疑の目を霧島に向けている。
 霧島はそんな久重の脇腹を、さっき久重がしたように肘で突いた。
「おい、それよりお前ん家の風呂を貸せ。こんな有様で家には帰れん」
 こんなに汗だくになった試合は久しぶりだと霧島は言う。
「へいへい、何でも言うことをききますよ、若旦那・・・」
 久重は、まるで自分が霧島の召使いにでもなったかのような口振りで答えたのだった。

 

公務員ゴブガリアン老舗 act.19 end.

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編集後記

わ~い、わ~い、負けちゃった、負けちゃった!
や、喜んでる場合じゃないですな(青)。
すみません、薄情な作者で(汗)。
でも、惜敗ですからね。限りなく勝利に近いですから。・・・とかなんとかいっても後の祭りか・・・。
でも何だか、書いてるうちに負けちゃったんだもん・・・。
霧島氏、そんなに負けるのが嫌か(青)。
でもとにかく、物語はやっと大詰め。
ちんたらちんたらやっておりましたが、やっとここまで辿り着きました(大汗)。
来週は、ペ・ヨンジュン氏と共に34の誕生日を迎えます。なので、33での更新は今日がラスト(涙)。
段々、ケーキの上のろうそくの数が恨めしくなってくるお年頃です。
(や、そのうち、ろうそくが多すぎてケーキの上に刺さりきらない年頃になるから・・・必ず・・・(遠い目))

[国沢]

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