＜小泉芳の常識辞典＞

　なんだよアレ、なんだよアレ、なんなんだよアレ～～～～～～～！！
　芳少年は、怒っていた。
　せっかく好きな人のキュート（？）なお尻を拝めたというのに、怒り狂っていた。
　あいつ、あいつ、あいつ、俺が好きなこと、全然分かってない！　分かってない！！
　芳少年の中の『常識辞典』には、その気もないのに、恋愛感情のある相手に対していきなりオールヌードを披露しても良いという文章はない。『そ』の項目にも、『れ』の項目にも、ましてや『オールヌード』の項目にもだ！
　ちなみに、芳少年の『常識辞典』、『オールヌード』の項目には、こう記されている。
１． 修学旅行などの集団活動において、どうしても必要がある場合は、披露して構わない。
２． お互いに恋愛感情を持った二人が、同意の上で性交渉を行う場合は、披露して構わない。
　今日のあの場の状況では、芹沢真司のあのオールヌードは絶対に許されないものなのである。
　あの場合、いくら自分の部屋だという状況であっても、客人である芳に対しての一定の配慮は必要なのだ。例えば、クローゼットの扉の陰に隠れるとか、「これから着替えるから、ちょっと雑誌でも読んでいてくれ」とか、方法なら幾らでもある。幾らでもあるのだ！！
　そんな方法を全てすっ飛ばして、真司に明らかに好意を寄せている自分の前で、いきなり予告もなく、マッパになるなんて。素晴らしく美味しそうな、艶のいい小麦色の肌を晒すなんて～～～！！（←ここら辺に小泉少年の男としての本能が窺い知れる）
　無神経すぎる、無神経すぎる！！！　つーか、俺、なめられてる～～～～～～～～！！！
　結局小泉少年は、肝心の『親父投げ飛ばし問題』のことはすっかり忘れ、のこのこと自分の家に帰り、緊張した顔で自分の様子を窺う家族の様子など全く気が付かず、そのまま自分の部屋に入り、興奮した怒りの矛先を情熱の腹筋運動にぶつけた。その晩は、案の定、一睡もできなかった。


＜美少年として、ありえないっすけど＞

　はぁっ、はぁっ、ぜいぜい・・・
　形のいい唇の脇を、ポタポタと大粒の汗が流れ落ちる。
　グレイのTシャツには汗が滲み、濃い色へと変えていた。だが彼は、首にかけたタオルで汗を拭いもせず、一心不乱に身体を動かしている。
　その目の前には、肩肘ついてそんな少年の様子を見つめる日本人形のような少女の顔があった。
「あんまり無理しない方がいいよぉ、芳君」
　ルームランナーの機械が立てるノイズに混じって、浅田万喜子の暢気な声がジム内に響き渡る。
　遙か向こうのガラス張りのスタジオからは、『夏のお嬢さん（※1）』の爽やかな音楽に混じっておばさん達の溌剌としたワンツー掛け声が聞こえてくる。
「過度の運動は筋肉によくないって、インストラクターさん言ってたじゃない」
　万喜子にそう言われ、芳はようやくマシンを止めた。
　肩で大きく息をしながら、タオルで汗を拭う。拭っても拭っても、汗は滝のように流れ落ちた。万喜子の座るベンチの隣に腰掛ける。
「ほんっとに芳君って、負けず嫌いだよねぇ～」
　芳にスポーツ飲料の入った缶を渡しながら万喜子が言うと、芳は「なにが」と返す。
「だってさぁ、そんなに夢中になって身体鍛えてさぁ。確かにここ紹介したの、私だけど、あれから毎日通ってたなんて私からしてみたら驚異的。どうしちゃったのって感じ」
　確かに万喜子が言う通り、夏休み前にバンドコンテストがあって、その後例の事件をへて夏休みに突入したのだが、あろうことが優等生・小泉芳は学習塾にも行かず、ひたすらスポーツジムに通い、水泳やマシントレーニングに日々を費やし、腕の太さが倍になるぐらいの筋肉改造を遂行したのである。お陰で成長が止まったとばかり思っていた身長が３センチも伸び、体重も増え、ただの『顔だけがいい男』を返上する勢いである。と言っても、筋肉番付一番！というほどではない。もともとがガリ男だったし、インストラクターの素晴らしいアドバイスのもと、バランスの良い体型となっている。もはや、スポーツジムに通うマダムの分厚い（そう、いろんな意味で分厚い！）視線のアイドルと化しているのだが、本人は目下別のことに気を取られっぱなしなので、全然気がつかない。王子様の保護者と自負している万喜子としては、そんな芳に少しばかりの危険を感じてしまうのである・・・。
「そこまで夢中にならなくってもいいんじゃない」
　ロッカールームで腕力『だけ』は強いマダム達に押し倒されるのではないかと気が気ではない万喜子がそう進言しても、芳は聞く耳を持たない。
「そういう訳にはいかない！　姫も知ってるだろ？！　俺、なめられてんだぜ？！」
　万喜子にそう言って噛みつく芳君。
「俺が軟弱だからああいう態度になるんだよ！　そうなんだよ！！」
　芳は自分でそう言っている間にまた闘志が沸いてきたらしい。「燃えてきた～」と呟くと、今度はベンチプレスに突進していった。それを見ながら万喜子は、ため息をつく。自分がけしかけたこととはいえ・・・。少し罪悪感にかられるお姫さまである。
　── 好きな人のヌードが見られておいしかったと思うのなら、素直に喜べばいいのに・・・。ああ、芳君って頭がいいのか悪いのか、分かんない。複雑～～～～～～。
　芳の恋心を唯一知る人間として、芳の恋愛相談にのってきた万喜子だから、当然例の『ヌード事件』のことも聞いていた。
　恋する男・小泉芳は、なんだかんだいいながらナイーブなのである。
　芹沢真司のヌードは、メガトン級の破壊力を持って、小泉少年の精神構造を完全に破壊した。
　真司の前ですっかり弱気になるほど気にしていた『親父投げ飛ばし問題』など、まるでなかったことというくらいに、もう完璧に、だ。
　もはや家でも『内心が読めない不思議くん』キャラのレッテルを貼られ、家族から不気味がられているのに、そんなことにも気が付かない。
　・・・まったく、真司くんも真司くんで罪な男なんだから。
　自覚がない人間が一番罪深いというけれど、芹沢真司という男は、まるでその固まりのような男だ。
　芳に余計な刺激を与えることになるので万喜子は敢えて黙っているが、これまで真司に思いを寄せて玉砕している人間が山のようにいることを万喜子は知っていた。それもこれも、芹沢真司の『自覚のなさ』からくる無神経で誰も彼もが討ち死にしていったのだ。だから真司自体は、自分は恋愛話と無縁の人間であると思っている。鈍感もここまでくると罪だ。
　そのことを考えると、芳は結構善戦している。彼が見かけとは違って意外に骨のある負けず嫌いが功を奏しているのかも知れない。
　けれどそんな芳だからこそ、万喜子は彼の気持ちを大切にしてあげようと思った。芳も芳で信じられないほど不器用だったが、それでもそのひたむきさは憧れる。そんな芳が少しうらやましくも感じるのだ。ちょっと格好悪かったとしても。
　しかしその結果、吹奏楽部時代の、儚い色白美少年は、今や確実にいなくなった。
　夏休みが終われば、以前からの芳のファンは、バッタバッタと気を失うだろう。
　浅黒く日焼けし、まるでスポーツ選手並の身体付きをした芳は、美少年というには少しばかり逞しくなりすぎた。
　これまでは品のいいピンク色の薔薇なんかがお似合いだったが、今万喜子の目の前にいる芳は、どちからといえばキュウリ丸かじりかスイカを志村ケン食い（※2）してもおかしくはないのだ。
　・・・マジ、ありえないっすけど。
　万喜子は、猛然と筋トレする芳を見つめながら、不抜けた溜息をついた。


＜何が恐いって・・・＞

　「う～ん・・・。それはなかなか難しい恋愛事になっているね」
　いつだって冷静な（・・・いや、真司がいる時だけは別だけど）バンドキャプテンは、よく冷えたアールグレイのアイスティーをゴクリと飲みながら言った。
「もうさぁ、見てるだけで辛くなってくるわけ」
　万喜子は、街で『高くて上手い』と評判のミルフィーユを頬張りながら、ほとほと疲れた顔をして見せた。
　ここは、バントキャプテン田中氏のご邸宅である。そう、まさに『ご邸宅』と呼んで相応しいほどのご邸宅だ。
　代々街の開業医として受け継がれてきたこの家は、由緒正しい赤煉瓦の塀のある大正ロマンたっぷりな豪邸で、それでも中を入れば、現代的にリフォームされていて、夏休みにぐうたらするにはもってこいの環境が整っていた。何せ、半地下には、シアタールームまである。さすが、100万円などヘのカッパなご家庭だ。
　結局芳の暴走を止める手だてがなくなった万喜子は、困り果てた末、彰に相談を持ち込んだのである。
　バンドのメンバーの中で健史と雄大は口が軽いが、彰はそこのところ信頼ができる。しかも、殿と王子様の恋愛話を聞いて、冷静に判断ができる人間も彰しかいない。
「意地はったって、恋愛的にはなぁんも進まないわけじゃない？」
　ローテーブルにもたれ掛かりながらカーペットの上に直接座る万喜子が彰を見上げると、ソファーに座って腕組みをしている彰は、う～んと唸って顎を撫でた。
「確かにね。今更小泉が真司の筋肉に対抗しようったって、それは無理な話だな。それに、筋肉争いしたって、意味ないし」
「そう！　そこなのよ。意味ないのに、何で気が付かないんだろ。彼、頭いいのに」
　万喜子が彰を指さしながら身を乗り出すと、彰は薄く笑みを浮かべた。
「そう言っても、万喜子。恋する男は、誰もがマヌケなんだよ。そこに偏差値は関係ない」
「え？　それって、彰君もそうなの？」
　彰は、「う～ん、そうだねぇ・・・」と言いながら背伸びをする。
「僕の場合も、ある意味そうかな。幾ら若さと金と約束された将来があっても、紙切れ一枚に勝てない恋っていうのもあるからね」
「わ。何か、その先訊くの恐そうだからやめとくわ」
　万喜子はゲーと舌を出す。
　しかし本当に恐いのは、この田中彰という男が生意気にも「若さと金と約束された将来があっても」と言い切っていて、しかも本気でそうであるという事実の方が恐ろしい。
「とにかく、万喜子は、小泉がただの筋肉バカに陥るのを阻止して、きちんと彼の恋愛が成就することを願ってるっていうんだな？」
「そう」
「でも相手は、あの芹沢真司だぞ。僕もアイツとはつき合い長いけど、恋愛モードの真司なんか、見たことがない。僕も真司がどうなるかなんて、想像できないよ・・・」
「もうちょっと芳ちゃんが、まともな欲望を真司君の方に向けていったら、大分違ってくると思うんだけど・・・」
「そうだよなぁ。あの勢いじゃ、方向さえそっちへ行けば、筋肉のハンデなんて乗り越えて、押し倒すことぐらい雑作もないことだろうになぁ・・・」
「セックスしちゃえば、あの究極鈍感男だって、愛されてることぐらい分かると思うのよね」
「そうだよな。やっちゃえばなぁ」
　とにかく末恐ろしい高校二年生（本作時代推奨：昭和６３年）二人である。
　結果、万喜子と彰が弾き出した答えは、『適切な恋敵を登場させること』であった。
　要するにつまり、芳が早く真司に本気アタックしないと持って行かれちゃうぞ、と思えるような仮想ライバルを芳の前に登場させ、筋肉ばっか鍛えてる場合じゃないんだぞと理解させる方法だ。
　だがこの場合、その人選が難しい。
　ごく普通の、どこにでも転がってるような可愛い女の子では到底小泉芳の美貌には叶わないし（痩せても枯れても・・・いや、この場合、筋肉バカでも芳の容姿は並の女の子より美しい）、かといって恋愛音痴の真司が恋をしそうな相手となったら、益々条件は限られてくる。
　更に、時間的にもさほど猶予はなかった。
　なぜなら、早くしないと、芳がただの筋肉マン（※3）になってしまう。万喜子も彰も、小泉芳の額に燦然と輝く『肉』の文字など見たくなかった（笑）。
　ということは、既に真司がある程度の好意を寄せていて、かつ芳が「こいつは手強い」と感じさせる人物で、なおかつ協力的な人物となったら・・・。
「そうだ」
　万喜子も彰も、同時にまったく同じ人物を思い浮かべたのだった。


［注釈説明］

※1　夏のお嬢さん：1999年発売の、榊原郁●が世に叩き出した大ヒット曲。今のアイドルには到底醸し出せない肉体美と親しみやすさを遺憾なく発揮できる名曲で、おばさま世代にとっては非常にテンションの上がる秀逸作である。

※2　スイカの志村ケン食い：スイカマニアなら一度はしたことがあるほどのカリスマ的スイカの食べ方。半月型に切ったスイカを、端から端まで一気に食うという非常に熟練を要す技。今はなき伝説のバラエティ番組「８時だよ！全員集合」でよく披露されていた。無類のスイカ好きである誰かさん（p-talk参照）ももちろんトライしたことがあるのは言うに及ばずである。

※3　筋肉マン：人気少年漫画誌に連載されていた大人気コミック。テレビアニメ化され、益々人気に火がついた。個性派のキャラクターが目白押しのプロレス漫画で、巷の子ども達はこぞってキャラクターの真似をした。ちなみに額に肉のマークは、主人公のトレードマーク。国沢の周辺では、むしろ何かのペナルティの一貫として、よく「肉」って書かれたりしてました。（だって、主人公より他のキャラの方が格好良かったりしたもんなぁ・・・）

　

公務員ゴブガリアン老舗 act.03 end.

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