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nothing to lose title

act.35

<side-CHIHARU>

 僕は、咄嗟に前を向いた。
 どうしたらいいか、わからなかった。
 溝渕さんが、心配そうに僕の顔をチラリと見たのが、視界の隅に見えた。
 空気の動きで、吹越さんが僕の席の二つ先の椅子に座ったのを感じた。
「マスター、前にここでいただいていたものを貰えますか? ええと、生憎、名前を忘れてしまって・・・」
「カルバドスでしたよね、確か。リンゴが瓶に丸ごと入っている・・・」
「あ、そうそう。それです」
「まぁ、リンゴのお酒なの? おいしそう。私もほしいわ」
「カルバドスは、キツいお酒だから、甘い味じゃないんだよ。カクテルを作ってもらいなさい」
「あら、そうなの。甘い訳じゃないの?」
 僕はギクリとして、思わず横を見てしまった。
 吹越さんは、女の人を連れてきていた。
 忘れもしない。
 空港でチラリと見ただけだけど、絶対に忘れない女の顔。
 あれは、吹越さんが出世のために結婚した女だ。
 僕があまりにもキツイ眼差しで見ていたせいだろうか。吹越さんが、ふいにこちらを見た。
 吹越さんも、心底驚いた顔で、僕を見た。
「 ── ち・・・成澤、くん」
 吹越さん、『千春』と呼びかけて、わざわざ名字で呼び直した。
 僕は、吹越さんから視線を外した。
  ── ああ、このままここから消えてなくなりたい・・・。
「あら? お知り合い?」
 吹越さんの奥さんの声がこっちに向かってするのが聞こえ、僕は目を瞑り、右の眉の下をカリカリと掻いた。
「あ、ああ・・・。日本にいた頃、教えていた学生さんだ」
 僕は大きく息を吸って、吐き出す。
 確かに、吹越さんの言ってる事は間違ってない。
 僕は、吹越さんにたくさん勉強を教えてもらっていた訳だから。でも、それ以外に教わった事の方が多かった。とても。
「ねぇ、ちゃんと紹介してくださらない?」
 奥さんは興味津々の口調でそう言った。
 よもや彼女も、その『学生さん』である僕が、亭主の『前の男』だってこと、想像もつかないだろう。
「成澤千春くんだ」
 僕は、腹をくくった。
「澤です。今は、澤清順と名乗ってます。初めまして」
 僕は立ち上がって、彼らに近づいた。
「そ、そうだったね。今は、作家さんだって?」
 吹越さんがそう訊いてくる。
 吹越さん、僕が作家デビューしたの、知ってるんだ。
「ええ。愚作を書いてますよ」
 僕が肩を竦めると、「いやいや、よく売れてるんですよ、彼の作品は」と溝渕さんが言ってくれた。
「まぁ! プロの小説家なの?! 凄いわ!」
 奥さんが、僕の全身を舐めるように見た。
「こんなにカッコいい青年が、小説家なんて」
 いかにも箱入り娘のお嬢様育ちといった風情のメイクに服。
 本当に、僕とは正反対の人種。
 僕はそのまま、金を払って店を出ようと、ジャケットの懐を探った。
「あら、あなた! 引き止めて。いろいろお話聞きたいわ。ねぇ、今度決まった新居にご招待したら? ほら、麻香がいい人いたら、紹介してほしいって言ってたでしょう? 丁度いいわ!」
「おい! 初対面なのに、失礼だろ・・・」
「いいじゃないの。実はこれまでシンガポールにいたんですけど、今度、私達、日本に帰ってくる事になって。今日新しいお家が決まったところなんですよ。私達に子どもはいないんですけど、子ども同然に可愛がってる姪がおりましてね。麻香って言って、お茶の水女子大の二年生ですの。ミスキャンパスにも選ばれたぐらいの美人で・・・」
「おい、やめなさい」
 いろいろ早口にまくしたてる甲高い声を聞いていたら、何が何だかわからなくなってきて。
 自分が怒っているんだか、悲しんでいるんだか、惨めなんだか、辛いんだか、本当に何もわからなくなって。
「失礼ですが。僕は、男が好きなんですよ」
 気付けば、勝手に口が動いていた。
「毎晩、とっかえひっかえ、行きずりの男を捕まえてはホテルに連れ込んでいるんです」
 さすがのおしゃべり奥方様も、僕の言い草に口をポカンと開けたまま、何もしゃべならくなった。
「吹越さんも久しぶりにどうです? そろそろ女相手のセックスにも飽きたところでしょ? あの頃より、随分うまくなったんですよ、僕」
 奥さんがぎょっとして、吹越さんを見る。
 吹越さんは、顔を顰めて頭を抱えた。
  頭の上は、白髪で真っ白になっていた。 
  ── 僕があんなに愛した人は、こんなにみすぼらしい人だったっけ?
「あ、そうそう。吹越さんの教えてくれた得意料理。パエリアでしたっけ? あれ、いまだに僕の十八番なんですよ。僕の彼氏達も皆、よろこんで食べてくれます。吹越さんに料理を教わっといて、よかったですよ。奥様も、吹越さんに習ったんですか? 料理」
 僕がそう話しかけると、奥さんは僕と吹越さんを交互に何度も見比べて、「ちょっと、あなた。どういうことなの?」と低い声で吹越さんにそう訊いた。
 僕は今度こそ本当に、懐から一万円札を取り出すと、カウンターの上に投げ置いた。
「あ、成澤くん、おつり・・・」
 溝渕さんがそう言ったが、僕は「迷惑料ですよ」と言って、そのまま店を出た。
 バタンと重いドアを閉めて、しばらく僕はそこに立ち尽くした。
 そして両手で顔を覆う。
  ── 決してあんなこと、言うつもりじゃなかったのに。
 そのまま、何事もなく、ただの知り合いだったように挨拶をして、店を出るつもりだったのに。
 吹越さんと別れたのはもう何年も前の事だし、もう他人なんだから、わざわざ吹越さんの『今』をかき回す事なんて、する必要はなかった。
 吹越さんに前触れもなく会った事のショックと、奥さんに言われた言葉と、自分への激しい自己嫌悪の感情が綯い交ぜになって、僕は酷く混乱していた。
 ゴホゴホと咳き込んで、あげく道ばたに吐いてしまった。
  ── 最悪・・・、最悪だ、こんなの。
 近くの自動販売機でミネラルウォーターを買って、口の中を濯ぐ。
 酒を飲んで吐いた事なんて、これまで一回もないのに。
 運良くタクシーが通りかかったんで、僕は必死になってタクシーを止めた。
「 ── お客さん、大丈夫かい? 顔、真っ青だよ?」
 運転手が、ミラー越し、本気で心配そうな顔つきをしてそう言った。
 僕は二、三回頷くと、「月島まで行ってください」と伝えたのだった。

<side-SHINO>
   
 エレベーターのドアが開いて、見慣れた廊下に出ると、俺はホっと溜め息をついた。
「帰ってきた・・・」
 思わずそんな言葉が口に出る。
 俺は、自分の部屋に至る前の303号室の前で、ふと足を止めた。
  ── 千春、もう寝てるかな。
 廊下側に面した窓は真っ暗だ。
 俺はドアをふと見遣って、ギョッとした。
 ドアが、少し開いてる。
 どうしたんだろう。
 俺は、なんだか胸がざわついて、部屋の中に入った。
「 ── 千春?」
 部屋の中はどこもかしこも真っ暗で、俺は益々不安になった。
 まさか、泥棒が入ってるだなんてこと、ないよな?
 俺は身構えつつ、ダイニングのドアを開けた。
「千春?」
 もう一度名前を呼んでも、返事はなかった。
 壁を探って、照明のスイッチを入れる。
 千春は、いた。
 ソファーに踞るようにして座っていた。
「どうしたんだ?」
 俺が声をかけると、今気がついたというように、ゆっくりと俺の顔を見た。
 酷い顔色だった。
「大丈夫か? 具合、悪い?」
「何でも、ありません」
 千春はそう言って、俺から顔を背けた。
「何でもないはないだろう? 泣いてたの?」
 俺がそう言った事が、千春の何かのスイッチを押してしまったらしい。
「泣いてなんか、いません!!」
 千春が、俺を見て怒鳴った。
「泣いてなんか、ない!!」
 二回も同じ事を怒鳴る。
 どうしたんだ、千春。一体、何があった?
「でも、泣きたそうじゃないか」
 俺は、千春の顔を見て言う。
 本当に、今にも泣き出しそうな顔をしていたから。
 千春は唇を噛み締めた。
「何をバカな・・・。泣き方なんか、わかりゃしないのに・・・。泣ける訳、ないでしょ」
 力なくそう言う。
「泣けよ。悲しいことがあったら、苦しいことがあったら、泣けばいいじゃないか」
「泣きません」
「泣けよ」
「泣きません」
「やせ我慢するな!」
 俺が言った言葉に、カチンときたらしい。
 千春は凄い勢いで立ち上がると、「やせ我慢なんか、してない!!」と怒鳴った。
 俺はしばらく、黙って千春を見つめた。
 千春の心が動き出すまで、じっと待つ事にした。
 絶対に動いてくれるって、俺には変な確信があったから。
 そうしていたら、俺を睨んでいた千春の瞳に、みるみる涙が浮かんできて、やがてぽろりぽろりと零れ落ちた。
 なんかそれを見たら、俺、やたらとほっとして。
 俺は千春に近づくと、ぐいっと彼の腕を引き寄せて、抱きしめた。
 子どもがぐずるのをあやすように、背中をポンポンと何度も叩いて、そっと撫でた。
「・・・なんで・・・」
 涙声の千春が、俺の肩口で呟く。
 俺は何も答えずに、ただ腕の力を強めた。
 俺はただ、何かに酷く傷つけられた彼を、その何かから守ってあげたかったんだ。
 ただ、それだけだったんだ。
 千春は俺の背中にしがみつくと、小さく声をあげて泣いた。
 本当に、まるで幼い少年が泣いているようで、俺も鼻の奥がツンとなった。
 泣きたいだけ、泣けばいい。
 今まで泣けなかった分、思いっきり。
 それが済むまで、俺は傍にいるよ、千春。
 それが今の俺にできる、千春への恩返し。
 俺が傍にいて、千春が素直に泣けるのなら、それが俺の役割。
 俺ばっかり千春の世話になりっぱなしで、千春にはひとつもいい事なんてなかったはずだから、これが神様に与えられた『俺が千春と出会った意味』だと思った。
 俺は、ずっと千春の背中を撫で続けた。
 千春の泣き声が収まるまで。
  ── やっと落ち着いてきたかな、と思った頃。 
 その時だ。
 ふいにガバリと千春が顔を起こしたのは。
 気付けば、すぐ間近に涙に濡れる千春の鳶色の瞳が見えたのだった。

 

all need is love act.35 end.

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編集後記

いかがでしたでしょうか? 千春、最大のピンチ。
シノさんのおかげで、ついに普通に泣く事ができた千春ですが、波乱模様は次週も続く・・・・。
いくら「平気です」って本人は思っていても、昔傷つけられた人に再び再会することは、やっぱ辛いですよね。
なんか、引き合わせてるのは他ならぬ国沢自身なんですけど、つくづくシノさんがこういう時期に千春の傍にいてくれてホントよかったと思っちゃいました。
もう完全に葵さん目線(笑)。
もしシノさんと出会っていなくて、それで吹越夫婦に遭遇していたら、きっと千春は永遠に殻に閉じこもったまま一生孤独に過ごしていたところだった・・・というような感じがします。
ゆるゆる展開のオルラブですが、今回のシーンは千春の人生においては少なくともターニングポイントとなる大事件だったに違いない。
ま、一番の事件は、シノさんと出会ったことだろうけど(笑)。

で、今回のお手本写真は、やはりトンペンの間では有名なこのシーン↓



ちょっと解像度荒いけど(汗)。
滅多に泣かないドS王子が公の場で号泣したワンシーン。
この時の涙は嬉し涙だったですけどね。
長い間苦労をした末に一番いい賞が取れたので、ほっとしたこともあったし、これまでの辛かった事とかをいろいろ思い出しちゃったんだと思うけど、この時のユノヒョンの包容力といったら!!
ステージを降りた後もずっと泣いてた茶様の手をずっと握っていて、まるで小さな男の子を慰めるみたいに傍に寄り添ってた。
その動画を見たとき、「ああ。さすがリーダーだな」って思ったもんです。
いい男だよな~、ヒョン・・・。

ユノヒョンは「公の場で泣く事はしない」と亡くなったおじいちゃんに誓っているので、泣いたりはしないけど(ちょっとうるうるきてるのはいくつかあるけど)、プライベートでは絶対に涙もろいと思う(笑)。
泣ける映画とか見てボロボロ泣いてると思う(笑)。そんで、そこを茶様に見つけられて激しくからかわれているような気がする(笑笑)。

フランダースの犬を見ながら号泣してるヒョンを指差して笑うドS王子の図。

めちゃめちゃ想像が容易(ワラ)。

あくまで、妄想ですけどね、ええ。

国沢は、殿方が泣いているシーンは結構好きなので、国沢のお話に出てくる子達もよく泣かします(笑)。

ということで、千春の涙のお手本写真を更に追加。





これは『Before You Go』のPVでのワンシーンでの茶様の泣き顔。
このPVはドラマ仕立てになって、このシーンは信じていた同僚の裏切りを知って相手の罪を問いつめる場面での涙です。このPVの茶様は美しかったよね、かなり。
こうして茶様の写真をアップしてっと、自分が本当にヒョンペンなのか訳がわからなくなってくる(苦笑)。

ということで、ちょっとシリアスな感じが続いたので、息抜きに、このごちそう↓



にんv


誰が何といおうと、国沢にとっては最高のごちそうです。

ええ。

間違いないです。

[国沢]

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