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act.18

 一人きりのベッドの上で、ショーンは毛布に身体を半分突っ込んだまま、膝を抱えて座っていた。
 空気は恐ろしいほど静かで、遠くでカタカタとエアコンが温風を送り出す音だけが暗闇に響いていた。
 羽柴は、寝室をショーンに譲って、リビングのソファーの上で眠っている。
 結局、羽柴が寝床を分けようと言った時も、ショーンは「嫌だ」と言えなかった。
 いろんな思いが交錯して、何と答えていいか判らなかったというのが正直なところだ。
 けれど・・・。
 きっと今夜は別々に眠って正解なんだと思う。
 ショーンは、膝の間に頭をがっくりと項垂れた。
 神経が高ぶって、眠るどころではなかった。
 自分がしてはならないことをしてしまったという後悔の念に今だ囚われていたこともあるが、何より衝撃を受けていたのは、羽柴の涙とあの告白だった。
 こうして思い出しても、じわりと涙が滲んでくる。
 ショーンに押し寄せてくる感情のどれをとってしても、ショーンの涙腺を揺さぶってくる。
 恋人を『死』という形で喪った羽柴の悲しみ。
 愛する人を残して逝かなくてはならなかった彼の恋人の運命。
 どっちもがショーンの心にシンクロしてきて、まるで自分が追い立てられるような気持ちになった。
 それに何より、目の前に突きつけられた、羽柴の恋人に対する絶対的な愛情・・・。
 あの羽柴が、あんな顔つきをして涙を流すなんて、ショーンは想像もできなかった。
 きっと、今でも、本当に本当に本当に好きなんだ・・・。
 そんなのって・・・切なすぎるよ。
 悲しいけれど、悔しいけれど、「その人がいてくれたから、今のコウがここにいるんだね」と言ったのは、正しくショーンの本心だった。
 以前ショーンは、育て親であるスコット・クーパーに本気で恋をした。
 羽柴にふざけ混じりに告白したのは、事実だった。
 結局その恋は実ることがなかったけれど、でもそれは素晴らしい経験となった。
 今のショーンがここにいるのは、恐らくスコットとの辛かったけれど価値のある恋愛をへてのことだと自分は思っていたし、スコットのお陰で相手を想うということの素晴らしさを教えてもらったようなものだ。
 だからきっと、羽柴がこれほど優しくて魅力的なのは、今は亡き彼の恋人との関係があったからこそなんだということがすぐに判った。
 あの彼が、たくさんの素晴らしい『ギフト』を羽柴に与え続けてきたに違いないのだ。
 あのアルバムの写真。
 間違いなく、あの美しい青年が『真一』なのだろう。
 写真を通じてでも、彼の瞳の優しさは、本当に吸い込まれるようだった。
 ああ、何てことだ・・・!!
 ショーンは嗚咽を堪えるように唇を噛みしめた。
 初めて羽柴の根底にある大切なものにやっと触れられたと思ったのに、そこにあったのは自分の手の届かないずっと遠くで、とても美しい宝石が汚れを知らない光を放っているという事実だった。
 こんなによくしてくれた羽柴の前では、聞き分けのいい人間でいたいのに、そうする自信が今の自分にはない。
 考えれば考えるほど落ち込んで、もうどうすればいいか判らなくなってくる。
 情けないことに涙はポロポロ後から後から落ちてきて、膝に抱えた毛布はもうすっかり色を変えてしまった。
 以前、スコットに想いを拒まれた時は、身体の中心で爆弾が爆発したみたいな気持ちになって、大泣きをした。それでも、その痛みは一気に吐き出されて、意外なほどの穏やかさがその後すぐにショーンを包んでくれた。
 けれど今は・・・。
 まるで真綿で静かに身体を締め付けられているようだ。
 ゆっくり、でも確実に痛みは深くなってくる感じ。
 これが大人へと成長している証拠なのだろうかとショーンは思う。
 でも、それならば・・・。
 こんなに大人の恋が苦しいものならば、いっそもう大人なんかにはなりたくないと思ってしまう。
 以前は、この恋が成就するなら、どんなリスクを背負ってでも早く大人になりたいだなんて思っていたのに。
 それが今ではこんな有様だ。
 本当は恥も外聞もなく暴れまくりたいのに、それすらできない。
 ── だって俺・・・、コウに好きだってことすら言えてない・・・。
 しかも、いくら自分が頑張ろうとしたって、この世の果てに行っても、ライバルはこの世にいない。いくら勝負しようったって、どう勝負していいかすら判らない。
「・・・フッ・・・ウウッ・・・」
 思わず嗚咽が零れて、ショーンは両手で口を覆った。
 せめてコウの幸せを祈ろうとしたって、結局このままじゃ彼が幸せになれることすらないなんて。
 心というものは頭の中で考えるだけのことで、心臓にはないというけれど。
 ショーンは本当に身体の中心がズキズキと痛むようで、益々身体を丸めた。
 人生って残酷だ。
 どうやって生きていけっていうのだろう。
 もし自分がコウと同じ目にあったら、生きていけてただろうか。
 それでも前を向いて生きているコウを前にして、自分に何ができるというのだろう。
 こんなにも脆くなった自分。
 コウの悲しみを支えて上げるどころか、逆に足を引っ張って、コウの中から深い傷を無理矢理引きずり出してしまった。
 最低だ、こんなの。最低過ぎる。
 いつまでたっても、涙が枯れることがなかった。
 
 恐ろしいほどの静寂だと、羽柴は思った。
 いつもなら心地良いはずの自分の部屋の静かな空気が、今は何だか自分を責めているように思えた。
 ロフトで眠るショーンのことを過度に気にする必要はない、と言い聞かせながらも、その実気付けばどこかで上の気配を気にして眠りにつけない自分が情けなかった。
 一体今、ショーンが何を考えているのか。何を思っているのか。
 風呂から出てきた彼は、努めて笑顔を浮かべていたが、それは羽柴に気を使ったものであることはすぐに判った。やはり羽柴にゲイであることをカミングアウトされたショックが隠しきれないといったところだろう。
 寝床を分けようと言った羽柴にも堅い表情ながら、それでも穏やかに「そうだね」と言ってくれたのは、せめてもの彼の気遣いだ。だがあの堅い表情を見る限り、やはり彼は何かに傷つき、それを堪えていた。
 今まで距離が近すぎる程近かったがために、裏切られたと思っているのかもしれない。
 きっと、自分を性的な欲望の対象として捉えられていたと誤解したのかも・・・。
 羽柴は、毛布を頭からすっぽりと被って、身を伏せた。
 ごく自然に振る舞えばいいはずなのに、なぜか頑なになっている自分が少し滑稽に感じた。
 自分の頑なな態度の原因が、泣き顔を見られたという照れくささなんていう単純な理由でないことも判っていた。
 あの純粋で真っ直ぐな瞳を前にして、自分がまだ過去の傷に引きずられ続けている事実を突きつけられているような気がしてならなかったからだ。
 前向きに生きている・・・だなんて。
 そんなの表面上だけのことだって、ずっと前から判っていたはずじゃないか。
 それを俺は、今まで見てこないようにしてきただけ。
 それだけのことだった。
 けれど・・・。
 ショーンを避けたことは、明らかに自分にとって『逃げ』だったが、けれどそれはショーンにとってもいいことじゃないかと羽柴は思った。
 くしくもこういう形になってしまったが、ショーンの気持ちが少しでも自分から離れやすくなるのであれば、これでもいいと。
 ショーンは、あのロケットを開けてしまったことで負い目を感じている。その負い目を錯覚して、自分に気持ちを残すことはよくないことだ。
 別れは確実に近づいている。
 今度の別れは、確実に長い別れになるはずだ。ともすれば、一生の別れになる可能性だってある。
 だからこれ以上感情的に踏み込むのは互いによくないし、第一ショーンだって、ゲイと分かった男と今までのように抱きしめ合ったりするのは気持ち悪いだけだろう。
 今夜、クラウン地区で柄の悪い男共に囲まれ、いやらしく身体をなで回されていた時の嫌悪感に満ちた顔を、羽柴は見てしまった。やはり普通は、同性に性的な意味で触れられるのは不快に違いない。
 いくら「君には、そういう魅力を感じないんだよ」と言っても、信じて貰えない筈だ。現に、自分はショーンの容姿や性格を『とても気に入っている』。例えそれが恋愛感情ではなくても、誤解を与えるには十分だ。
 自分がゲイだということで、これほどまで戸惑って涙まで流している彼をこれ以上混乱させたくないし、傷つけたくはない。
 できるならば、互いに笑顔で別れの時を迎えたい。
 これまで過ごした短い時間が何より心地よかったから、余計にそう思った。
 明日起きたら、いつも通りの挨拶をして、いつも通りの笑顔を見せる。
 できるだろうか・・・なんて不安はなかった。
 三十も半ばを過ぎるほど生きてくると、多少の困難なことも比較的落ちついて乗り越えられることができる。それは若い時代にはなかった『強さ』だ。羽柴も、それなりに大人になり年を重ねてきた。その点では、いくらショーンでも追いつかないだろう。
 俺は、強い。・・・強くなってしまった。こんなにも。
 人を失う苦しさは、もう最大級の痛みを既に経験してしまった。
 だからこそ、ショーンとの別れを感じても、こんなに冷静な自分がいる。
 羽柴は、そんな自分に少しだけ寂しさを感じたのだった。


 翌朝は、羽柴が決意したように、いつもと同じ朝だった。
 しいて違うと言えば、「おはよう」と言った羽柴の声に、「おはよう」とショーンが声で返してきたことだ。もう会話をするのにノートはいらない。
 やはり予想したように、羽柴は自然だったが、ショーンは不自然だった。
 彼だって努めて普通を装っていたが、昨日の会話が彼に大きな影響を与えているのは手に取るように分かった。羽柴に向けてくる笑顔が硬い。かわいそうなことに両目はすっかり充血して、腫れぼったくなっている。いくら彼が取り繕っても、そんなことが安易に見透かされてしまうのは、彼が若いからだろう。しかし羽柴は動じなかった。もとより予想していたことだ。
「明日、どうする?」
 トーストを囓りながら、羽柴はさり気なく訊いた。
「え?!」
 不必要に大きな声を上げてショーンが訊き返してくる。羽柴はそれを聞き流して、「クリスマスパーティーのこと」と言い直した。
「折角声が出るようになったんだし、実家に帰りたくなったんならキャンセルしておくよ。今日中なら、間に合うだろうし。免許持ってるんなら、車を貸してあげてもいいよ」
 羽柴がそう言うと、ショーンはしばらくの間、じっと羽柴を見つめてきた。
「ショーン?」
 羽柴が声を掛けると、ショーンはパチパチと瞬きを繰り返して、苦笑を浮かべ「ごめん」と言った。
「免許、NYに置いてきた。明日は、一緒に行くよ。ホームパーティーなんて今まで縁がなかったから、凄く楽しみなんだ」
「そうか」
 羽柴はニッコリ笑う。
「きっと、ロジャー夫婦も喜ぶよ。彼の子ども達もね。や、一番喜ぶのはロジャーの妹かな?」
 同僚の妹はロジャーの両親が再婚した時の連れ子で、まだ二十代半ばだった筈だ。バルーンという単語に一番敏感な世代だろう。
 ショーンも笑みを浮かべ、カップスープを啜った。
 しばらく沈黙が流れ、やがておずおずとショーンが口を開く。
「ねぇ・・・コウ」
「ん? 何だい?」
 羽柴が優しく訊くと、ショーンは声を少し大きくして言った。
「もしよければ・・・年明けまでいちゃだめかな? 病気治ったのに、迷惑だって分かってるんだけど。ニューイヤーズデーに里帰りしたいんだ。車で連れていってほしい・・・」
 ショーンの瞳が緊張で潤んでいるのが分かった。
 そんなに恐れる必要なないのに・・・。
 羽柴はそう思いながら、「何だ、そんなことか」と言った。
「お安いご用だよ。年明けまでいるといい」
 ショーンは、目に見えてホッとした表情を浮かべたが、同時に少し物寂しげな顔つきもして見せた。
 それが純粋に寂しさなのか、それとも気まずさなのか、羽柴にもよく分からなかった。


 2005年の今年、くしくもイブが土曜日と重なったので、街中が浮ついているように感じた。
 もちろん、羽柴の勤める会社でも当然そんな雰囲気で、皆明日のことに思いを馳せていて、誰もが浮き足だった表情を浮かべ、まるで仕事に身が入らない様子でいた。
 その点羽柴は気難しい表情を浮かべ、市場動向のグラフが映し出されているパソコンの画面と向き合っていたが、その実仕事に身が入らないのは羽柴も同じだった。
 やはり、ショーンのことが嫌でも気になってしまう。
 ふいにデスクの上の電話に手を伸ばしかけて、羽柴は苦笑いした。
 折角ショーンだって自分に気を使ってくれているのに、電話一本でそれを台無しにするつもりなのだろうか、俺は。
 ── 全く、自分は強いとか言っておいてこれじゃ、しょうがない・・・。
 羽柴は席を立つと、一息入れるために喫煙コーナーに向かった。
 一服して、そう言えば自分は随分と久しぶりに煙草を口にする・・・と思い立った。
 ショーンといる時は慌ただしくて、なぜか煙草を吸うということをしていなかった自分に気が付いた。
「・・・あ~、肺に染みる・・・」
 羽柴が日本語でポロリと零すところを、同僚のロジャー・コーエンに見付かった。
「おいおい、冴えない男がここにいるな」
 椅子にもたれ掛かった格好の羽柴の頭を背後から掴まれて、グイッと仰向けられる。
「何だってお前は、そんな顔つきしてるんだ。明日はイブだっていうのに」
「どんな顔してたって、いいだろう別に」
 羽柴がふてぶてしく答えると、ロジャーは派手に顔を顰めた。
「お前なぁ、相変わらず全然判ってないんだから。お前がそんな顔してると、フロア全体が沈むんだよ、3インチぐらい。判るか? フロア中の女共が、さっきからソワソワして、耕造はどうしたんだって一分刻みに俺の所に来るぞ。言っておくが、俺はお前のお守りじゃないんだからな」
「えぇ?」
 羽柴が怪訝そうに声を上げると、額を叩かれた。
「だからぁ。皆てっきりお前がイブ前にまた女をフッたかフラれたかで沈んでると思いこんでるんだよ。あわよくばその隙間に入り込もうって魂胆なんだろ? そのわりに既婚者まで俺の所にきてるっていうのは、あんまり考えたくない事実だがな。── なぁおい。本当にそうなのか? 明日、うちのパーティーには二人で来るって、ワイフが言っていたのを夕べ聞いたんだがな」
 ── ああ、そういうことか・・・。
 羽柴はやっと事情が飲み込めて、溜息をついた。
 ようするに。
 この世話好きな同僚は、このフロアの女性陣以上に羽柴のラブライフのことを気に掛けているということだ。
 ロジャー・コーエンは、羽柴が初めてこの地に来た時に、激しく対立しあった同僚だった。
 時には殴り合いのケンカもしたが、今となっては一番親しい友人となっている。不思議なものだ。
 年は羽柴より二つ年下で、二人の子持ち。典型的なマイホームパパで、羽柴にも早く結婚しろと言うのが口癖だった。
 アメリカに来ても依然としてモテる羽柴に女性の陰が消えることはなかったが、なぜか冬場のこの時期になると大抵羽柴はまたシングルに戻っていることが多かった。
 その結果、イブの日はロジャーの家のパーティーに参加することが多く、その度に「早く本気になれる人を見つけろ」と言われ続けてきたのだ。
「何を期待しているか知らないが、明日一緒に行くのは恋人なんかじゃないよ」
 羽柴が笑ってそう切り返すと、ロジャーは「本当にそうか、明日確かめてやる」と言い残して去って行った。
 きっと明日は、今日の会話なんか吹っ飛ぶくらい驚くことになるだろうな・・・なんて羽柴はまるで人ごとのようにそうぼんやりと思ったのだった。


 その頃、ショーンはダウンタウンに出かけていた。
 どうしても欲しいものがあったからだ。
 いつものようにニット帽にダウンジャケット、付け髭というスタイルで街に出た。
 数軒の文房具屋を回って、やっと五線紙を手に入れた後、以前羽柴がベーグルを買ってきたストアでサンドイッチを買った。その帰り際、ふいにショーンは足を止めた。
 ショーンの目線の先には、通りの向かいにあるタトゥーショップがあった。
 まるで誘われるように、ショーンはその店のドアを潜った。
 ブーンという電子針の野蛮げな音と男の呻き声が店内には響いていた。
 華々しい音楽業界にいる割に、ショーンは今まで刺青には縁がなかった。
 イアンや他のメンバーも腕に刺青を入れているが、なぜかショーンは今まで興味がなかったのだ。
 痛いのが苦手という訳でもなく、ただ何となくそんな気分ではなかったのだ。
 けれど今は違った。
 刺青のカタログといった具合に壁一面に張り出された絵柄を見ていて、その中に鷲の羽根があるのを見つけた。ドキドキと胸が高鳴った。
 するなら、今しかない。
 バカみたいに、本当にバカみたいなことができるのは、今しかない、と。
 実際のところ。 
 ショーンは心に決めていることがあった。
 ニューイヤーズデーまで。
 この日までは、思い切りコウに恋をしよう、と。
 余計なことは考えないようにして、ただただ、この恋に集中しよう。悔いがないように、躊躇うことなく、素直に自分の心に従おうと思った。
 我ながら何とも青臭いことを思いついたものだと思ったが、ショーンにはそうするしかなかった。
 ── だって、別れはすぐ側まで近づいているのだから。
 勢いとはいえ、ショーンは自分の中で芽生えた素晴らしいアイデアに浮き足だった。
 これは自分に対する最大のクリスマスプレゼントだ。
 羽柴の名前の意味のひとつである『wing』を身体に彫り込む。それも、普段簡単には見えない場所に。
 ああ、何て素敵なんだろう。
 そう考えただけで、ショーンはワクワクした。
 万が一他の人に見られたとしても、本当の意味なんて分かる訳がない。
 自分はロックギタリストだし、よく考えると刺青していない方が珍しいし。
 俺だけに判る秘密。
 俺だけに判る気持ち。
 俺が死ぬまで、永遠に残る証・・・。
「アンタ、どうするの?」
 カウンターの中にいる女性店員に声を掛けられた。
 振り返ると、真っ黒い髪を短く切ったジョーン・ジェットみたいな店員が、ガムを噛みながらショーンを見つめていた。
「見てるだけなら、そう言ってね。こっちも他に仕事があるからさ」
「いや・・・あの・・・。してもらいたいんだ」
 ショーンがそう言うと、彼女はぶっきらぼうな顔つきのまま言った。
「ごめんねぇ。さっき言ったこと気にしないで。よく冷やかしの客がいるのよ。彫る間際になって、やっぱり止めたっていうのも多くて。いっそのこと、見てるだけって言って貰った方が、こっちも気を使わなくていいからさ。こっちにきて座りなよ。私はローザ」
 言葉や顔つきは少々ぶつ切りな感じだが、悪い人じゃないらしい。
「俺は、ショーン」
「ショーンね。よろしく、ショーン。オーケイ、カタログ出してあげる。それとも、自分でデザイン持ってきたの?」
 ショーンはカウンターの前の椅子に腰掛けながら、「入れて貰いたいデザインはもう決まってる」と言って、壁を指さした。
 ローザは、壁をチラリと見て、再度ショーンを見た。
「どこに入れたいの?」
「ここに」
 ショーンは、彼女に背を向け、ダウンジャケットをはぐると、ジーンズを少し指で降ろして腰の付け根を指さした。
 そこ場所は、初めて羽柴の手がショーンの素肌に触れた特別な場所だった。
 余程の腰穿きジーンズでない限り、見えないはずだ。
「あんまり目立たないようにして貰いたいんだ。俺だけに判る秘密にしたいから。大事な大事な秘密なんだ」
 ショーンがそう言うと、ローザは「ふーん」と少し微笑みを浮かべた。彼女の印象が、少し柔らかくなった。
「そういうのは好きよ。最近は、意味もなく格好だけで彫る奴が多いから。本当は特別な意味を込めて彫るものが本物で、美しいものだと思うしね。で、どうして羽根なの?」
「好きな人の名前がそういう意味なんだ」
 ローザは益々笑みを深くした。
「何てロマンティックなんだろ! いいね、あんた。気に入ったよ。さては片想いなんだろ?」
「判るの?」
「判るさ。両想いなら、隠す必要はないからね。アタシも経験がある」
 彼女はそう言って、黒いレザーのタイトミニをはぐって、太股の内側にあるバラの花のタトゥーを見せてくれた。
「アタシの場合は、相手に妻もいれば子どももいたのさ。でも最高の恋愛だった」
 そう言ってローザは、夢見るようにハァと溜息をつく。思わずショーンも微笑んだ。
 彼女の話のお陰で、身体の緊張が解れた。
「本当にアレでいいの? あのイーグルの羽根だろ?」
 ローザが再度壁を指さす。
 ショーンは頷いた。
「あの壁の中のものでは、アレが一番らしいから・・・」
 ショーンがそう言うと、ローザはショーンの腕を軽く叩いた。
「なんて野暮なこと言ってんだろう、この子は。入れたら一生モンなんだから、もっと真剣に考えなくちゃ」
 ローザはそう言いながら、顔を顰める。
「あそこにあるのなんざ、目立ちたくて入れてるやつらのばかりさ。アタシがオリジナルで描いてあげるよ。あんたの為だけにさ」
 ローザはそう言ってウインクした。
 彼女は、カウンターの下からクロッキー帳を取り出すと、鉛筆でサラサラとデザイン画を書き始めた。
「あんたには、あんな野暮ったいやつは似合わないよ。もっと上品で繊細なものでなくっちゃぁ・・・」
 彼女はそう言って、見事な天使の羽根を描き上げた。ラファエロの描く天使が背負っているような愛らしくてけれど気品に満ちた羽根のようだ。
 ショーンも思わず見入ってしまう。
「どうだい? こっちの方が綺麗だろ?」
 ショーンは頷いた。
「・・・でも、ちょっとフェミニンじゃないかな。おかしくない? ほら刺青っていうのは、ドクロとか炎とか、ゴシックチックなものが多いじゃない」
 ショーンがそう言うと、ローザは人差し指でショーンの額を押した。
「だから言っただろ? 見せびらかしたい奴は、そういうのを態と入れるのさ。自分が男らしくて素敵だってことを証明するためにね。でもあんたは違う。こんなにスウィートで切ない瞳をした男に、そういうのは必要ない。あんたは黙っていても、十分素敵さ。その付け髭を取っちゃいたいぐらいにね」
 ショーンは思わず付け髭に手をやった。ハハハとローザが声を上げて笑う。
「いいかい? この天使の羽根を、あんたの腰に小さく入れるんだ。背骨を真ん中にして、左右対称にね。まるでそこで天使が羽根を休めてるみたいに・・・。最高にセクシーで美しいとアタシは思うよ」
 そう言われて、ショーンは微笑んだ。
「それでお願いするよ」
「任せておいて、絶対に失望はさせないから」
 ローザはそう言って、ピッタリと張り付いた長袖のTシャツを腕まくりした。
 丁度その時、前の客が終わり、呻きながら出てきた。
「おい、次の客はどいつだ?!」
 奥に掛けられてあるインド更紗のカーテンの向こうから、スキンヘッドの男が顔を覗かせる。その男に向かってローザが怒鳴った。
「ちょっと店番代わりなよ! この子はアタシが彫るんだから!」
 ローザがそう言うと、男は目をまあるく見開いた。
「へぇ?! あんたが彫るのなんて、半年ぶりじゃないか。こりゃ驚きだ」
 男はそう言って、マジマジとショーンを見つめてきた。
 特別な客にだけその芸術的な腕を披露するローザの、その特別な客を値踏みする視線だった。
「おいおい、そんな奇天烈な髭生やした男がいいのか?」
 男が顔を顰める。
「そうだよ! こんな奇天烈な髭を生やした男がいいんだ。さぁ、どきな」
 ローザはそう怒鳴った後、ショーンの方を振り返って笑った。
 男と入れ替わりに、二人は奥の部屋に入った。
 部屋といっても、カーテンで区切られた空間だ。
 そこには、バーバーショップにあるような黒い椅子が二つと、小さな机越しに向かい合って座れるようなコーナーがひとつあった。
「こっちに俯いて寝てくれる?」
 一番左端にある、肘掛けのないマッサージチェアーのような椅子を指さされた。
 顎や膝を乗せるステップもあって、俯きでも楽な姿勢が取れるようになっている。
 ローザは、ヒーターの温度を少し上げたようだ。
 温風がふわりと室内に吹き上がった。
「上を脱いで、ジーンズのボタンを外してもらえる?」
 ショーンはダウンジャケットと下のトレーナーを脱いで、ジーンズのボタンを外し、俯せで椅子に身体を預けた。
 後ろにつけた丸椅子にローザが座るのが判る。ジーンズを下着ごと少し降ろされて、腰が露わにされた。
「ああ、何てセクシーな腰だろう。細くしまってて、滑らかで。あんたの片思いの相手は、よっぽど目が節穴だ」
 ローザにそう言われ、ショーンは苦笑いする。
 次の瞬間、ヒヤリとした液体を腰に塗られた。
 恐らく消毒液だろう。
「小さな絵柄だから、すぐに済むよ。少しの我慢だ」
 そう言われ、ローザの手がショーンの腰に当てられた・・・。


 ローザの言った通り、二時間ほどで彼女は素敵な刺青を彫ってくれた。
 その間の痛みは途方もなく凄かったが、呻き声は一切上げなかった。意外にタフだとローザに感心されたぐらいだ。
 帰りには、今後のケアについての注意書きと軟膏を手渡された。間違っても今日は風呂に入っちゃいけないよと釘を注され、二時間以内に腰に貼ってある保護フィルムを外して滲み出ている体液なんかをシャワーで流すことと言われた。皮膚に傷をつけている状態だから、気を付けないと化膿してしまうこともあるらしい。
「判らないことがあったら、その注意書きの紙に電話番号が書いてあるから、気軽にかけてくるんだよ」
 最後はそう言われながら見送られた。
 鈍い痛みを堪えつつ羽柴のアパートメントに帰ると、すぐにシャワーで刺青部分を洗い流した。その上から軟膏を薄く塗りつけ、バスルームにある鏡に映して見た。
 まだ血が滲んでいる箇所もあって、肌に定着している感じが薄かったが、それでも十分に美しいできだった。
 ローザは満足そうにしていたのだから、納得の作品となったのだろう。
 ショーンはてっきり彼女が記録の写真を撮りたがるだろうと思ったが、彼女は「そんな野暮な真似はしない。これはあんただけの大事な秘密なんだから」と言ってくれた。彼女は本当に生粋のタトゥー職人なんだと感心した。
 腰はいまだにジンジンと疼くように痛んでいたが、ショーンに取ってそれは甘い痛みだった。
 まるで羽柴の大きな手がそこに添えられているような気分になる。
 きっとスコットやクリスが知ったら、卒倒するだろう。いや、案外卒倒するのはクリスだけかな。この俺が、こんなセンチメンタルな真似をするなんて、クリスには信じられないだろうから・・・。
 今朝までの暗い気分が明るくなった。
 身体はヒリヒリして痛むのに、フフフと笑いが止まらない自分が、少し不気味だ。
俺だけの秘密。
 俺だけの特別な証・・・。

 

please say that act.18 end.

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編集後記

本日はいよいよショーンの刺青エピソードの登場となりました。
皆さん薄々感じられていたかと思いますが、取り敢えず羽柴の『羽』ということで。
う~~~~ん、乙女ねぇ~~~~~~。
本当にロッカーかよ、ショーン・クーパー(笑)。
しかも折角羽柴がゲイ経験ありという有力情報を得たにも関わらず、すっかり後ろ向きになってしまって・・・。これがあの己のパパに無理矢理迫った男でしょうか。かなり弱ってる・・・本当に。彼が受けたダメージさ加減をなぜか妙にリアルに感じた展開です(国沢にとって)。今度大人しくこの恋心がストップすることは間違いなくないですが(笑)。

ところで、テレビ業界では新しいドラマが続々と始まっておりますが、今回のクールは本当にいいドラマが粒ぞろいですね。先のクールのドラマは何も見なかったのにな(笑)。うちのHDつきDVDがフル稼働です。
まずは『離婚弁護士』。
ハンサム・ウーマンだなんてちょっと何だか格好悪いというかこっぱずかしいと思ってしまうキャッチコピーがついてるからどうかな・・・と思っていたんですが、間宮貴子は間宮貴子でした!!!いやぁ~~~、帰ってきたね~~~~~。なんせ自分と下の名前が同じ名前・漢字なんで本当に親近感わくんですよ。ホント。オイラもなんせ男80%みたいだし(脂汗)。でもちょっと戸田さんがショムニちっく・・・。ま、楽しいんですが。
そして次は『瑠璃の島』。
竹野内くんが出るんで見ようかなと思ってみたんですが、その考えが甘かったっす。
他に出ている役者さんが美味しすぎて、マジびびりました。
緒形拳、賠償美津子、塩見三省、平泉成、小日向文世、市毛良枝のベテラン中のベテラン陣!そして若手も小西真奈美に井川遥(彼女がちょい役の脇役っていうのがいい)、金子賢(しかも一回目はただの死体(汗))。そして小学生とはとても思えない成海瑠子ちゃん。平成五年生まれってあんた・・・。末恐ろしい・・・。
そして!そして最後は・・・・岸辺一徳!!!!!!
うわ~~~~~~~~、ありえねぇ~~~~~~!!おいしすぎ~~~~~~~!!!
あのピチピチスーツ、たまらんっす。おしゃれっす。さすがです。
彼の登場で、このドラマはやんごとなきドラマだって思いました(笑)。
ラストに『anego』
林真理子氏原作っすか?さすがに痛いっすよ(笑)。まさに身につまされるドラマっす。主人公に浴びせかけられる余りに厳しい台詞の数々に、マジ泣きました(笑)。今世間で一番影響力があるんだろうねぇ、この未婚で30代で子どもなしっていうキャリア組が。だから最近さいさん『負け犬』が題材に取り上げられてますが・・・。ブリジットの日記とはちがって、コメディに徹しきっていないので、痛いシーンはマジ痛い。ところで、ドラマみた方は判ると思いますが、あの主役を「アネゴ」と慕う新入社員の若者は、社長の息子かなんかなんですかね?なんか、そんな気配(汗)。結局は、「勝ち組」ドラマってことか。

なんだかドラマ談義になってしまいましたが、上のドラマは頑張って最後まで見ようと思います。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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