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act.17

 家に帰り着くと、ショーンの足は玄関先から急に重くなった。
 どうした?と羽柴が玄関の階段の上からショーンを振り返ると、ショーンはまた失声症に逆戻りしたかのように黙りこくって羽柴を見上げてくる。
 どうやら、リビングルームに入るのが怖いらしい。
 テーブル周辺の様子を見るのが怖いのだ。
 羽柴は軽い溜息をついて微笑みを浮かべると、小首を傾げてショーンを見た。
「大丈夫だよ。全てちゃんとロケットに入れたから。もうカーペットにも落ちてない。それとも、また抱き上げないとそこから動かないつもりかい?」
 ショーンは大きな瞳を瞬かせる。
 急に口を尖らせると、横抱きされてはたまらない、といった表情で乱暴に階段を駆け上がった。そして羽柴を追い越して先にリビングに入ると、ハッと息を詰めて立ち止まった。
 羽柴が横からショーンの様子を伺うと、ショーンはギュッと目を瞑っている。
 羽柴は、フッと少し鼻で笑った。
 目を瞑ったままのショーンの手を引いて、ローテーブルの場所まで行く。
 後ろからショーンの両肩を掴み、羽柴は耳元で優しく囁いた。
「目を開けてごらん。もう何もないから」
 ショーンが、ゆっくりと目を開ける。
 そこは、羽柴が言った通り、何事もなかったかのように元通りになっていた。
「・・・カーペットの上のは・・・どうしたの?」
「ん? ちゃんと拾ったよ。一粒残らずね」
「そんなの、できたの?」
「ああ。一旦別の紙に移しておいて、ロケットに戻した。お陰で、君を追いかけることが遅れてしまった。そのせいで随分と怖い思いをさせてしまったな・・・。あのまま間に合っていなかったらと思うと、正直生きた心地がしない」
 羽柴は、大きく息を吐き出してその場に跪く。
 ショーンは驚いたように振り返って、羽柴の前に跪いた。
「全然怖くなかった。あいつらのことなんか。コウに嫌われたと思う方がよっぽど怖くて・・・」
 その時の感情がぶり返してきたのか、ショーンの声が微妙に震える。
 羽柴は、親指の腹でショーンの目尻をグイッと拭うと、「嫌いになる訳ないじゃないか。そんな風に見える?」と微笑む。ショーンは首を横に振った。
「でもとにかく、声が出るようになってよかった。多少荒治療になってしまったけれど」
 羽柴がバツが悪そうにそう言うと、ショーンはクスクスと笑い始める。
 やっとポツポツ出て来始めたあの笑顔に、心底羽柴はホッとした。
 羽柴もつられて笑顔を浮かべながら、「何がそんなにおかしいんだ」と不平を言う。ショーンは、ゴホンと咳払いをすると「小さい頃、声を失った時にダッドの前で初めてしゃべった台詞、なんだと思う?」と言った。
「えぇ?」
 到底想像できなくて羽柴が顔を顰めると、ショーンはこう言った。
「ピーマン、嫌い」
「あぁ?」
 羽柴が顔を歪める。
 ついに我慢できなくなったのか、ショーンがケタケタと笑い始めた。
「あんまりダッドが無理矢理ピーマンを食べさせようとするから、藻掻きに藻掻いて一言そう言ったんだ。ダッドも今のコウみたいに目を剥いてたよ」
 それを聞いて、やっと本当の意味で羽柴の肩から力が抜けたような気がした。
 二人で一頻り笑いあって、やがて安堵の溜息のような息を漏らした。
 さっきの出来事によって生じた否定できない強ばりが、それでも大分和らいだようだった。
「さ、冷えた身体を温めよう」
 羽柴はショーンをバスルームに押し込めた。
 最低十分は湯船に浸かることと言い渡してドアを閉めたが、ショーンはあっという間に出てきてしまう。
「全然温まってないじゃないか!」
 キッチンで冷凍庫にあったキャベツのスープをレンジで温めていた羽柴は、入口でただの濡れ鼠になったような有様のショーンを見て、呆れ返った声を上げた。
「それじゃ逆効果だよ。風邪を引いてしまう」
 羽柴は、裸にバスローブを羽織っただけのショーンの腕を掴み、再びバスルームにショーンを連れていった。
 お湯の温度を確かめて、またお風呂に浸かるように言う。
「・・・でも、だって・・・」
 口ごもるショーンのバスローブを、羽柴は無理矢理剥ぎにかかる。
「どうしたっていうんだ? 風呂は嫌いじゃないだろう?」
 ショーンは羽柴の手を逃れようと身体を捻りながら、「やっ・・・! だから! アンタの姿が見えなくなるのが怖いんだよ!」と叫んだ。
 羽柴はピタリと手を止める。
 ショーンは勢いに任せて言ってしまった本音を恥ずかしく思ったのか、頬を一気に上気させた。俯いて、ぼそぼそと呟く。
「子どもじみてるのは分かってるよ・・・。けど、自分でも分からないけど・・・、イヤなんだ。純粋に・・・」
 やはりまだ精神状態は安定していないのかもしれない。
 羽柴は、フゥと吐き出す。ショーンが怯えたように羽柴を見上げてきた。
「風呂には入って貰うぞ。冷えた身体を温めるのはそれが一番なんだから」
「別にいいよ、お風呂なんて。寝てれば温かくなるって・・・」
 羽柴が掴んでいるショーンの腕は、寝ればすぐに温まるとは言えないほど冷えていて。
 羽柴は眉間に皺を寄せる。
「説得力ゼロだな、ショーン。こうなったら意地でも風呂に入ってもらう。ようは、俺がここにいればいいんだろ? 生憎と一緒に風呂は入れないが、いることはできる」
 それを聞いて、ショーンの顔がさらに赤く染まった。
「ヤダよ! それって・・・それって・・・! 俺だけここで裸になるってこと?! そんなの、酷い!」
「入浴剤入れれば、君の裸は見えないよ。それに男同士、別に恥ずかしがる必要はないんだ。君だって、俺の裸は既に見てるんだから、おあいこだろ?」
「それは態とじゃないよ、もう!!」
 ショーンは眉間に皺を寄せて、益々不機嫌そうに口を尖らせる。
 羽柴はショーンの腕を掴んだまま、片手で器用に棚の上の入浴剤を手に取ると、キャップを開けて湯船に落とした。すぐにお湯が白濁する。
 バタバタと手をバタつかせるショーンの抵抗を阻みながら、羽柴はあっさりとショーンからバスローブを取り去ると、ショーンが悲鳴を上げる前に湯船にザブンとショーンの身体を湯につけた。
「ほら。大丈夫だろ? あっという間だったから、君の裸なんか全く見えなかった。ホントだよ」
 羽柴がそう言うと、ショーンは、バスタブの中で両膝を立てて、その上に顎を乗せた。その顔は当然のようにふくれっ面だ。
「・・・なんだよ、バカ力」
「お褒めに与って光栄です」
 羽柴はクスクスと笑いながら、一旦バスルームを出ようとする。
 入口を出たところで中を覗き見ると、またショーンが湯船から出ようとしていたので、「あ、あ!」と警戒音のような声を立てた。ショーンの身体がぴたりと止まる。そして彼は、ソロソロと羽柴の顔色を伺うように上目使いで見上げてくる。
「すぐ戻るから、そこで大人しく座ってろ」
 ショーンはまた口を尖らせながら、大人しく湯船に浸かる。
 羽柴は、内心そんなショーンの顔つきを可愛く思いながら、キッチンから木製の踏み台とマグカップに入れたスープ、読みかけのハードカバーを持ってバスルームに戻った。
 バスタブの反対側の壁際に踏み台を置いて腰掛けると、スリッパと靴下を脱いだ素足を伸ばして、バスタブの端に踵をひっかけた。
 スープを啜りながら本のページを開く。
 その姿を見て、ショーンはようやく落ちついたのか、ほぅと息を漏らした。
 湯が揺れる音がして、羽柴が少しだけ視線を本から外すと、ショーンがバスタブの中で体勢を変えて額を羽柴の足にコツンとぶつけてきた。気持ちよさそうに目を閉じている。
 離れた位置からもはっきりと分かるぐらい長い睫が湯気に濡れて、濃いブラウンの陰を作っている。
 羽柴は、そんなショーンの横顔を純粋に美しいと思った。
 日本人から見れば、白人の顔はどれも大抵よく見えるものだが、やはりショーンは特別だと思う。
 瞳の深いカーブも、スッと伸びた高い鼻筋も、男らしく真っ直ぐな眉も、ちょっとアヒルっぽいキュートな唇も、全てが完璧に見える。
 首から肩に掛けてはまだ細いぐらいだが、お湯に半分隠れている胸板は十分厚く、腕も意外に逞しい。
 まだ若いのでついつい可愛く見えてしまいがちだが、既に男としての充実した身体つきを彼はしていた。
 きっとこれから年齢を重ねるごとにどんどん魅力的になっていくに違いない。
 なぜなら彼は、その容姿以上に美しい魂を持っている。
 とても透明で、真っ直ぐな、濁りのない魂。
 いろんな人間が、そんなショーンを放っておかないだろう。
 そのうち、きっと今のこの一時も忘却の彼方に消え去っていく筈だ。
 それならいっそこのまま、ここに閉じこめてしまいたい・・・。
 ふと羽柴はそんな衝動に駆られた。
 その感情がどこからくるか羽柴自身よく分からなかったが、もし許されるなら元の茨だらけの世界に彼を返すことなく、彼の魂を濁らせないまま、ずっとこうしていたいと思った。
 しかしそれは、単なる俺の我が儘だ。
 いずれにしても、彼の声は元通りに戻った。
 それが自分とショーンがこうしておれる期限だと、羽柴はずっと前から決めていた。
 その期限を守らなければ、ショーンのためにも自分のためにもならない・・・そう羽柴は考えていた。
 ずっとここに閉じこめていたって、それは単に彼を甘やかすだけで本当の優しさとは違う。
 ショーンの人生はショーンのもので、決して自分のものではないのだ。
 これからどんなことがあっても、彼は彼自身の力で向き合っていかねばならなくなる。その全てに力を貸すことなどできないし、それが分かっているのなら、甘やかすべきではない。寧ろそれに対抗する強さが必要なことに気付かせてあげるべきだ。
 それは痛いほど分かっていた。
 隼人に対しては、その思いをすんなりと受け入れることができて、彼には厳しい言葉の一つも電話口で言ったことがあるのに。
 ── けれど、ショーンを前にすると・・・。
 途端に羽柴は弱気になった。
 俺にそれができるだろうかと思った。
 実のところ。
 羽柴は、ショーンと過ごした数週間の間、決して自分で見ようとしなかった感情を、今自覚し始めていた。
 ショーンを癒すつもりで、本当のところ癒されていたのは自分の方ではないかという事実。
 深く傷ついたショーンが、安心したような朗らかな表情を浮かべる度、自分の心に深く刻み込まれた『傷』が少しずつ浅くなっていくように感じたのは、幻覚でも何でもない。
 口に出して言うのはとても怖くて言えたものではないが、やはり自分は、五年前の衝撃から未だ立ち直れずにいるのだ。
 どんな美しい女性と付き合っても、どんな優しさを分け与えてもらっても、魂が安らぐということは決してなかった。そしてそのことに逆に罪悪感を感じて、双方共が深く傷つく前に安易な別れを選んできた。
 だが、今こうして身近にショーンの気配を感じているだけで・・・。
 これは理屈なんかではないのだと思う。
 最初の出会いが劇的だったために、ろくにそんなこと考えたこともなかったが、ショーンといる時間は、心地よかった。
 数時間前、ショーンがロケットの中身を開けてしまったその瞬間。
 きっと相手がショーンでなかったら、自分はもっと取り乱していただろう。
 最初は、反射的に鋭い言葉が口をついて出たが、ショーンの心底後悔している顔つきを見た時、自分の感情を何とか抑えることができた。自分でも驚くぐらいだ。
 真一には悪いと思うが、真一の遺灰を床の上のものまでムキになって拾い上げた理由には、真一の遺灰を大事に思うと同時に、ショーンが帰ってきた時に、彼を傷つけることなく迎え入れるための意味も込められていた。
 あの行為は、真一のためでもあり、ショーンのためでもあり、そして自分のためでもあった。
 後は無我夢中でショーンを追いかけた。
 最初は道路にポツポツと落ちている涙の跡を追いかけて、すれ違う人を捕まえる度に、裸足で走って行った青年の行き先を訪ねて走った。
 そして周囲の様子が明らかにクラウン地区に変わっていくと、一気に血の気が引いた。
 クラウン地区に入ってからは、当然善良な通行人も全くおらず、闇雲に走るしかなかった。
 それでも羽柴が迷うことなく道を選んで行けたのは、妙に奇跡がかった力が漲っていたように思う。
 ショーンが暴漢に絡まれている様子を見つけた瞬間、一気に逆上した。
 人を殴るなんて事随分と久しぶりのことだったが、考えるよりもまず手が出た。恐ろしいことにその一瞬は、これが後々どんな騒ぎになるかなんてことも考えてはいなかったし、相手が凶器を持っていることにも恐怖を感じなかった。
 ショーンを再び腕に抱いた時、そしてショーンの涙に濡れた「ごめんなさい」という声を聞いた時、堪らなくなった。
 ショーンが無事だったことを、羽柴は真一に感謝した。
 不思議な感覚だったが、真一が守ってくれていたように感じたからだ。
 それは単なる思い込みには違いなかったが、そう思った方が安心できた。 
「── どんな人だったの?」
「ん? ごめん・・・、何だ?」
 羽柴はハッとしてもう一度訊いた。
 ショーンが顔を上げて、やっと血色が良くなってきた顔を羽柴に向けた。
「そのロケットの中の人。どんな人だったんだろうって思って。コウの恋人だった人でしょ? 日本での」
 ショーンの視線の先に、シャツ越しに薄く透けているロケットがある。
 羽柴は自分の胸元を見下ろして、「ああ、そうだよ」と答えた。
「綺麗な・・・人だった?」
 再びそう訊かれ、羽柴は大きく息を吸い込んで天井を見上げた。「ああ、そうだよ。姿形だけじゃなくて、心の中も凄く、凄く綺麗で・・・」と答えながら、思いを馳せた。
 柔らかい陽の光のような、穏やかで美しい顔・・・。
 目を閉じれば、いまだにすんなりと彼の姿を思い起こすことができる。
 五年の歳月はまだ、彼の顔を思い出とするには不十分だった。
 今でも、日本に帰ればあの笑顔が出迎えてくれるような気がする。
 真一の母に分骨をお願いしたのは、そんな思いに逃げようとする自分を戒めるためだったのかもしれない。
 頭で理解した真一の死を、今度は身体に言い聞かせなければならなかった。
 真一がもういないという現実を、辛くても身体に教える必要が羽柴にはあった。
 そうしないといつまでも自分は五年前のまま、時間に取り残されてしまう。
 だが、真一は、羽柴がそうなることを望んでいなかった。
 真一は羽柴に生きていってくれることを切望していた。
 真一が亡くなった直後、自分も後を追うのが自然だと感じていた羽柴にもう一度人生を与えたのは、やはり真一だった。
 人は、悲しみだけじゃ死ぬことはない。
 けれど大切な人を喪って、それでもちゃんと生きていくには、それなりの楔が必要だった。この世に生気を繋ぎ止める何かが。
 真一はそれを十分判っていて、羽柴に魂の欠片を置いていった。
 真一・・・、君があの手紙に残していったことは全て正しいことだったけど、でも・・・
 心に残る真一の面影は今でもこんなに鮮明なのに、今の自分の肌に彼の存在を感じることはもうない。
 それが少しずつ薄らいで、掴み戻せない自分が辛くもある。
 けれどその方が自然だし、いいことなんだと言い聞かせる自分もいて、正直なところ羽柴はいまだに少し混乱することがあった。
 会社でホッと一息をつく瞬間だったり、自宅のテラスでぼんやりと小鳥が草の実を啄む姿を眺めている時だったり。酷い時には、つきあい始めた恋人と一夜を共にしている時でさえもその思いに囚われることがあった。
 いずれも孤独をふいに強く感じる時に限って、心を締め付ける風が羽柴の身体の芯を捉えた。
 今、羽柴の心を捉えていた悲しみは、ゆっくりと形を変えつつある。
 恥ずかしいことだが、羽柴はその変化にうまくついて行けずにいる自分を感じていた。
 だがそれを周囲の人間に振りまくのはよくないことだと思って、表面上は辛い過去を微塵も感じさせないほどタフに振る舞った。そして身体の芯にある痛みは容易く表に出てこないように押し殺して来られたのだが。
「・・・コウ・・・」
 ふいにショーンが少し驚いたような声を上げた。
 羽柴はハッとして顔を上げた。 
 その拍子に、ポロリと涙が頬を伝うのを感じた。
 自分でもビックリして、羽柴は手で顔を擦った。
 真一が亡くなった後一年ぐらいはよく泣いていたが、ここ数年は辛い思いが込み上げてきても涙が出ることはなかった。しかも、他の人がいる前で、こんなにスルリと泣いたことなど、あまり記憶にないことだ。
 しかも随分長い間沈黙したまま、泣いていたらしい。
 羽柴は急に恥ずかしくなって笑って誤魔化そうとしたが、ふいにその先を捉えられて、ショーンがこう囁いた。
「── きっとその人がいてくれたから、今のコウがここにいるんだね・・・」
 羽柴は惹き付けられるようにショーンを見た。
 真一のことをまだ少ししか話していないのに、妙に確信をついたことを、少年の面影すら残す青年に言われるとは正直意外だった。
 しかしショーンは、自分の言ったことが羽柴をそれほど揺るがせているとは気付いていないらしい。ショーンは子どもっぽい微笑みを浮かべながら、でもその目には涙をいっぱいに浮かべていた。
「へへへ、何だか伝染しちゃった」
 ショーンは羽柴の代わりに照れくさそうな表情を浮かべ、バシャバシャと顔にお湯をかけた。それでもその瞳は真っ赤に充血していた。
 ショーンは、鼻を擦りながら、「恋人の名前は?」と訊いてきた。
「真一。須賀真一」
「シンイチ・・・。彼女、病気で亡くなったの? 事故?」
 そう訊かれ、羽柴はああ、と思った。
 日本語が分からないショーンは、真一の名前を聞いても性別すら分からないのだ。当然普通の人間ならば異性が恋愛対象であるし、現にショーンの頭にもそういう考えしかないのだろう。
 こんなことを言い出すとショーンは驚いて『ひいて』しまうかもしれないが、羽柴のポリシーとして自分の過去を隠すようなことはしたくなかった。
 だから羽柴は、はっきりと答えた。
「『彼』は、病気で亡くなったんだ。エイズで。五年前のことだ」
 羽柴を見るショーンのガラス玉のような瞳は、次第に大きく見開かれていった。
「『彼』? 今、『彼』って言った?」
「ああ、そうだ。男性だったんだよ、俺の恋人は」
 ショーンは、本気で言葉を失ったらしい。
 パクパクと口を戦慄かせたが、声は出てこなかった。
「心配しなくてもいい。俺はHIVウィルス検査では陰性だから」
 ショーンが首を激しく横に振る。
「そ、そんなこと、端から心配なんてしてない!」
 ショーンが怒鳴る。
「コウって、ゲイなの?」
 眉間に深い皺を寄せてそう訊くショーンを痛々しく感じながらも、自分という人間を語る上で大事なことだったから、上辺を取り繕うようなことはしたくなかった。
「自分でもよく分からない。未だに。男性と付き合ったのは、彼が最初で最後だし、こっちに来てからも男性に性的魅力を感じたことはないからね。でも、彼とは本当の意味で恋人同士だった。もちろん、プラットニックじゃなかったよ。その意味では、ゲイかな」
 それを聞いてショーンは、再び口を戦慄かせた。落ち着かない様子で視線を左右にちらつかせた。その表情は戸惑っているようにも、またショックを受けて落胆しているようにも見えた。いずれにしても、ショーンが精神的ダメージを受けていることは明白で。
 やはり今、言い出すべきことじゃなかったのかもしれん。
 羽柴は内心舌打ちをしながら、努めて平静を装った。ここでこれ以上自分が取り乱すと、ショーンが更に混乱してしまうと思ったからだ。
「すまん、ショーン。こんな状態の君にすべき話じゃなかったかもしれない。でも嘘をつく話でもないし、俺はそのことを人に恥じることではないと思っているから、正直に話してしまった」
 ショーンが動揺した顔つきのまま、首を横に振る。
「俺が始めた話だもの。正直に話してくれた方がいいに決まってる・・・」
 ショーンはそういうものの、やっとそれだけの台詞を言えた、という感じだった。その様が益々痛々しく思えて、羽柴はこう切り出した。
「出て行った方がいいかな? 君だって、ゲイの男とバスルームにいるのは心地よくないだろうからね」
 そう言われて、ショーンの顔が目に見えて赤面する。
 羽柴は苦笑を浮かべた。
「もう一人でいたくないだなんてダダは捏ねるなよ。自分の身は自分で守る! それくらいの気構えでいなくちゃ。・・・ただでさえ君は特別な存在なんだから」
 羽柴はコミカルな口調でそう言うと、ヨッと掛け声をかけて立ち上がり、踏み台と本を持ってバスルームを出て行った。
 羽柴の置き忘れていった赤いマグカップが、タイル貼りの床にポツンと取り残されている。

 

please say that act.17 end.

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編集後記

今週国沢もようやく仕事の忙しさの危機を乗り越えようとしています・・・。
とはいっても、今の仕事が終わると、今度は時間の心配はなくなるものの、今度は生活費の心配をしないといけなくなってくるという・・・(脂汗)。フリーランスの悲しい性です。
さて今週は、ショーンにとって衝撃的な羽柴の告白とあいなりました。
羽柴君、ついに泣いちゃった(汗)。
彼の強さの中には、ある種『やせ我慢』的なものもあったという・・・。
でもオイラ、実は内面ではこんなに苦悩している羽柴さん、好きです(←鬼)。

さて、話題は変わって。
ようやく30万ヒッツの大感謝祭プレゼント告知が用意できました!
ああ、お待たせしてすみません。一週間も・・・。
例のプレゼントは例の如く先着10名様なんですが、今回は他の方にも気軽にお持ち帰りできる献上品(や、ただの壁紙ですけど・・・)をご用意いたしておりますので、是非ともご利用ください。
これからも、山あり谷ありなこのサイトですが、末永くよろしくお願いいたします!

[国沢]

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