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nothing to lose title

act.01

 背後を振り返れば、追っ手がすぐ側まで迫っているのが分かる。
 ハァハァと、バカみたいに上がった自分の呼吸が聞こえる。
 まったく、冗談じゃない。
 一般客が泊まるホテルの廊下の往来なんかで、あんなハイエナのような連中に捕まって、フラッシュの餌食になるだなんてこと。
 俺の親父が、ちょっと売れてたロックスターだったからって、何がそんなに物珍しいっていうんだ。俺が選んであの人の息子に生まれてきた訳じゃないのに・・・。
 ああ、チクショウ。このままじゃ捕まっちまう。
 どうしよう。どうすればいい?


 男の朝は、とても穏やかだった。
 彼がニューヨークに仕事で訪れる度に滞在しているこの部屋は、彼にとってもはや『第二の家』と言っても過言ではない。
 程良くノリのかかった清潔なシーツ。都会の喧噪を嘘のようにシャットアウトしてくれる二重の窓ガラス。質素だが馴染みのいい家具達。メイド達は慎み深いが十分に親しみやすく、サービスも過度すぎす不足することもない。
 男がアメリカを住処として約五年弱。地位もギャランティーもアメリカに来た頃より随分と優遇される身分となっていたが、それでも男は質素な生活を好んでいた。だが、仕事でニューヨークに滞在する時は、唯一会社に我が儘を言わせてもらい、このホテルの他の部屋より少し広いシングルルームに長期滞在させてもらうことにしている。
 男は、パジャマ姿のままで寝室を抜け出し、入口のドアへと向かった。
 ドアの隙間に新聞が差し込まれているのが見えたが、男は通常五紙ほどの新聞を届けて貰うようにしていたので、全ての新聞を手にするには一度ドアを開けなければならなかった。
 男がいつものようにドアを開け、廊下に置いてある新聞を手にしようとしたその瞬間。
「・・・神様!!」
 若い男の叫び声と共に、男の身体はタックルを受けて室内に向かって押し倒された。
 男が背中を打ち付けた痛みをも忘れてギョッとしている間に、目の前で男の部屋のドアが、勝手にガシャリと締まる。
 その向こうで、バタバタと慌ただしい複数の人間の足音と「どっちへ行った?!」というような怒鳴り声が聞こえたが、やがて静かになった。
 男は、その段階になっても自分の身に何が起こったのか理解できなかった。
 床に仰向けに倒れたまま目線を下げると、自分の胸元にあったのは燃えるように赤い色をした髪の毛。
 自分の胸に乗っかっている赤毛がゼイゼイと呼吸する音を聞いて、男はやっと正気に戻った。
「・・・すまないが、どいてくれないか」
 せっかくの穏やかな朝を台無しにしてくれた目の前の赤毛に対して怒鳴りつけたい気持ちは山々だったが、ここで相手に興奮されても問題なので、男は努めて冷静にそう言った。
 男の胸にしがみついていた赤毛がビクリと身体を震わせる。
 男は、相手を怯えさせないような落ちついた声色で続けた。
「新聞が、読めないんだが」
 男は自分でそう言っておいて、やはり自分は冷静ではないな・・・と心の中で溜息をついた。
 なぜなら、この場面でもっと他に言うべきことは五万とあるからだ。
 けれど、この台詞は相手の心を動かすのに十分効果があったらしい。
 男の胸元で蹲っていた赤毛が、ゆっくりと顔を上げる。
 まずは濡れたような光を放つ茜色の印象深い瞳が現れた。そしてやがて、少年から青年に脱皮する途中の、危うげな魅力に溢れた男の顔になった。
 青年のパジャマを掴む手の力が一瞬緩んだのを見計らって、男は青年の身体を自分の上からどかせた。今更になって、さっき派手に打ち付けた背中と腰がズキズキと痛み始める。
「まったく、一体どうなってんだ・・・」
 男が思わず日本語で悪態をつくと、壁際に背を凭れさせたまま座り込んでいる青年が不安げな目で男を見つめた。青年の瞳が潤んで見えたのは、この不安のせいなのかもしれない。
 男が腰に手をやりつつ立ち上がった時、再びドアの向こうで荒っぽい男達の声と足音が聞こえてきた。そして次の瞬間、けたたましくドアベルが鳴らされる。
 男が眉間に皺を寄せて覗き窓から覗くと、大きなカメラ片手にガムを噛む髭面の男が見えた。
 背後で小さく、赤毛の青年が「開けないで」と囁く。「どうか、開けないで」と。
 男はちらりと青年に目をやると、溜息をついてドアを薄く開けた。
 青年の姿は丁度ドアの陰に隠れて外の人間には見えないはずだったが、青年の顔は極度の恐怖と、男に願いが聞き入れられなかったショックではっきりと歪んでいた。
 男は視界の隅にまるで捨てられた子犬のような青年の姿を捉えたまま、ドアの外にいる男に向き合った。
「── 何か」
 髭面のカメラマンは、ドアから覗いた顔が意外なほど長身の東洋人であったことに少し驚いた顔を見せながら、「赤毛の若い男がこのフロアに来たのを知りませんか?」と訊いてきた。
「赤毛の若い男?」
 カメラマンは男が流暢な発音で英語を話すことに少し驚いた顔を見せた後、薄ら笑いを浮かべる。少しバカにした表情だったが、男にとってこの表情は見慣れたものだった。
「ええ。この辺りで丁度姿を消したものでね。ひょっとご存じじゃないかと思いまして。この男なんですが」
 カメラマンは、何かの雑誌に載っている青年の写真を男の前に差し出した。
 その写真も突然了承もなく撮影されたものなのだろう。赤毛の青年が驚いた顔つきをして写っている。
「へへへ。実はこの写真も俺が撮ったんですよ。よく撮れてるでしょう。今一番ホットな彼ですからね。── まさか、この部屋に隠れてる、だなんてことはないですよね?」
 ドアの陰で赤毛の青年が身体を震わせるのが見える。
 カメラマンがドアノブを掴んでもっと中を覗こうと引っ張るのを感じて、男はグイッとドアを自分の方に引き戻した。元来腕力には自信がある。例え相手が白人でも力で負ける気はしなかった。
「その青年がどれぐらい有名かなんて知りません。それに、わざわざ面倒に巻き込まれるだなんて真似、する訳がない。やっと休暇が取れて日本からやってきたというのに。穏やかな朝を邪魔しないでもらおう」
 男はそう言いながらドアを閉めた。その向こうで、『ジャップじゃな』といったようなジェスチャーをしたカメラマンが諦め顔で消えていく。
 完全にドアが閉まると、男の足下で赤毛の青年が目に見えて安堵の溜息をついた。
 男はそんな青年を無視して通路に散らばる新聞を拾い、リビングルームに取って返す。
 すぐに慌てた歩調で、青年がついてきた。
 リビングにある濃いココア色の革張りソファーに腰掛け経済新聞を広げる男に、青年がおずおずと話しかけてくる。
「あ、あの・・・」
 男はなおも返事をせず、新聞のページを捲った。
「あの、ちょっと!」
 更に青年が男に近づき、話しかけてくる。
 ようやく男は、新聞をずらして青年を見上げた。
 背は男より幾分低いが長身でスラリとしている。随分走ってきたのか、赤毛の跳ねた前髪に彩られた額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
 青年は、白のTシャツと紺色のタイトなトレーナーを重ね着しており、ボトムはカーキ色のワークパンツを履いている。上半身はタイトなシルエットだが、下半身はルーズなシルエットだ。軽く腕まくりした左手首には黒くて幅の広い革製のリストバンドが填められていて、如何にも今時の若者といった服装だった。
「匿ってくれて・・・ありがとう」
 小さな声で青年が言う。その後に、グルグルと青年の胃袋が派手に鳴いた。青年の顔が、見る見る赤くなっていく。
 男は、溜息をつくと新聞をソファーに置き、立ち上がった。
「穏やかな朝を邪魔している点では、君も同罪なんだぞ」
 と男が言うと、途端に青年は不安そうな顔つきに逆戻りをした。
 男はそんな青年の顔を見ながら、チェストの上に置いてある電話を手に取る。受話器の向こうから、『フロントです』と声が漏れてくる。
 青年がゴクリと唾を飲み込んだ。その額に、うっすらと汗が浮かんでいる。
 男は視線を青年にやったまま、受話器に向かってこう言った。
「今日の朝食はルームサービスでお願いします。しっかりと食べられるメニューがいいな。内容はシェフにお任せしますので」
 青年が目を見開いた。
 男は受話器を置いて再びソファーに座った。また新聞を広げる。
 青年はその場に突っ立ったまま、驚きの表情で男を見つめていた。
 男は再度溜息をつく。
「そこでそうしていられたら、こっちも落ち着かないよ。朝食が来るまで、そこに座っていたら」
 男は目で向かいのシングルソファーを指した。青年が「あ」と小さく声を上げて大人しく椅子に座る。
「・・・あの・・・」
 また青年が声をかけてくる。男はついに新聞を読むことを諦めて「何だ?」と青年に訊いた。
 新聞を畳む男の様子に青年はまた萎縮した様子を見せ、「いいの?」と訊いてくる。
「何が?」
「飯・・・ごちそうになっても」
 男は、頭をポリポリと掻いた。
「今外に出たら、あのヒゲモジャに捕まるだろう? どうせこの部屋で時間を潰さないといけないなら、時間を有効に使ったら」
 男の前向きな── というよりは合理的な── 言葉がおかしかったのか、男の使った『ヒゲモジャ』の表現がおかしかったのか。
 青年がやっと笑顔を見せる。
 その笑顔は、どんな人間が見ても魅力的だと感じられるような、それはもうキュートな笑顔で。
 魅惑的な茜色の瞳の目尻がとろけた甘さを帯びながら下がり、瑞々しい唇の口角がキュートにクイッと上がる。
 例えるならホイップをのせたホットチョコレートのような。それでも女性の華やかな笑顔とは決定的に違う、ビタースウィートな香りで。
 全く計算されていない様子の笑顔でこれほどのものなら、彼が『その気』の笑顔を浮かべた時はどうなることだろう。
 パパラッチが彼を追いかけ回したくなる気持ちも分からないではない・・・。
 三十半ばを越えたこの男でさえも素直にそう感じられる笑顔だった。
「カリスマロックバンドの花形ギタリストというよりは、人気絶頂の若き映画スターって言った方がしっくり来るな」
 男がそう呟いたのも、青年の人を惹き付ける絶対的な魅力に感心しての言葉だった。
 だがその台詞は、青年を怯えさせるに十分の威力を持っていた。
 青年の顔が一瞬で強ばる。
「知ってたの・・・。俺が・・・」
「ショーン・クーパーだってこと?」
 青年 ── ショーン・クーパーが思わず口を噤む。
 だが、ショーンがその先のことを不安がる必要はまったくなかった。
 男はゆっくりと立ち上がると、ショーンに向かって肩を竦めた。
「安心しろ。俺が知ってるっていっても、君の名前ぐらいだ。申し訳ないが、俺は君の所属してるバンドの曲も聴いたことがないし、君がどういう事情で追いかけ回されているかなんて知りもしない。興味ないんでね」
 男はそう言いながら、バスルームに向かっていこうとする。そしてバスルームに消える手前でハタと気が付き、「もし俺がシャワーを浴びている最中にルームサービスが来たら、間違っても出るんじゃないぞ。絶対に俺を呼びに来ること。いいな」とショーンに言い聞かせる。ショーンも素直に頷いて、「あ!」と声を上げた。
「ねぇ」
「何だ」
「アンタの名前は?」
 男は、そう言えば言ってなかったなと惚けた表情を浮かべ、こう答えた。「コウゾウ ハシバ」と。


 自分より身体の大きな日本人なんて、初めて会った。
 ショーンは、寝室のサイドボードの上に、経済雑誌と一緒に無造作に置かれてあるパスポートを取り上げて、感嘆の溜息をついた。
 別に家捜しするつもりはなかったが、部外者が部屋にいるにも関わらず、暢気にシャワーを浴びている男のことが気にならない方がおかしいってものだ。
 日本人は平和呆けしてるってのは、ホントなんだな・・・。
 ショーンは妙に感心しながら、男のプロフィールのページを眺める。
 コウゾウ ハシバ。
 彼のサインが書いてある場所には『羽柴耕造』と書かれてある。
 これが彼の国での名前だ。
 この形にどんな意味があるんだろう・・・。
 そう思ってはみたものの、ショーンには全く分からない。
 1969年生まれってーと、ウッドストックの年かぁ・・・。じゃ、ダッドより二つ年下で、今2005年だから・・・ええと、つまり、36歳。
 うわ~・・・そんな風には見えない。確かに大人の男の人って感じだけど、見かけは凄く若く見える。まだ30そこそこかと思ってたけど。日本人が童顔っていうのも本当だな。
 ショーンはそう思いながら、パスポートを元の位置に返した。
 視線をずらすと、ベッド脇の小さなテーブルの上には、財布まで置きっぱなしにされている。
 ショーンは益々呆れてしまった。 
 確かに、自分の身元は分かり過ぎるほどバレているのだから、滅多なことはできない。相手もそのことを見越してのことだろうが、それにしても気を許し過ぎなんじゃなかろうか。
 ショーンは、先程の男の目を思い起こしていた。
 新聞越し、少々不機嫌な目で自分を見つめていた彼。
 如何にも大人の男、といった瞳は、ショーンが今まで出会ったことがないくらいに真っ黒で、艶のある絶対的な『黒』だった。
 日本人は、小さくてセコセコしていて、カメラをぶら下げたネズミみたい・・・ってなことを書いていたのは、どこの雑誌だったっけ。
 少なくとも、ショーンの危機を助けてくれた、羽柴耕造という日本人は、その印象とは真逆の男性だった。
 ソファーで新聞を読む仕草や、ゆったりとした足取りで歩く姿は、どこか平原に凛として君臨する王者ライオンのようである。それも若く獰猛なイメージとは違う、成熟して落ち着き払った賢者のような佇まいで。
 声も低くて、少し硬質な英語の発音をする。
 ショーンもテレビ等で日本人が英語を話す場面を見たことがあるが、彼らの訛りとは明らかに違う、イギリス英語のような、限りなくネイティブに近い訛りだ。
 顔つきは流石にアジア人らしくさっぱりとしていたが、鼻梁はすっとしていて高い。アーモンド型の目も深い二重で、決して鋭く尖っていない。アジア人は凹凸のないのっぺりとした顔つきで、細い目がつり上がり、冷酷な民族だという意見はまったくもって間違いだと、ショーンは身をもって感じた。
 羽柴の顔は、白人のショーンから見ても、物凄くハンサムだ。とても男らしくて、ショーンの身の回りには自分も含め、目鼻立ちの大きい『濃い』顔つきが多かったから、余計に精悍に見える。
 それだけではない。ただでさえ、ショーンの中にある日本人に対する観念がひっくり返りつつあるのに、更に彼の体躯に一番驚かされた。
 部屋の入口の廊下で奇しくも抱き合う形になってしまった彼の身体はとても大きくて、その胸板は充実した筋肉で覆われていた。信じられないことだが、彼がその気を起こしてショーンの身体を抱きすくめようとしたら、きっとすっぽりと腕の中に収まってしまうだろう。ショーンも決して身体が小さい方ではないから、それは珍しいことだ。ショーンの父親であるスコット・クーパーも彼の恋人であるクリス・カーターもショーンよりは小さくて、抱きしめられても『すっぽり』という感覚はない。
 身長は、2インチ程度の違いだろうが、絶対的な質量が違う。
 それでもアクションスターみたいな過度なマッチョさがなくてこれだけのスケール感があるのだから、更に驚かされる。物質的なものだけでない、懐の深さみたいなものがあるのだろうか。
 彼がショーンの身体を押しのけた時、迂闊にも物足りないような、寂しいような不思議な感覚に襲われてしまったのは、ここのところ自分が人の温もりに飢えていた為か。
 あの逞しい腕に文字通りすっぽりと収まってみたい、と思ってしまっただなんて、今の自分は結構精神的に『参って』いるのかもしれない。
 思えば、もう随分里帰りしてないしな・・・。
 田舎を出て約二年。
 余りにも凄い早さで突っ走り過ぎた為に、一度も里帰りができなかった。
 だから、無条件の深い愛情でハグされる機会など、この二年全くなかったのだ。
 まさかこんなことになるなんて、ショーン自身も思ってもみなかったことだった。


 二年前のあの日。ブロードウェイきっての敏腕演出家、ジョン・シーモアのコネでニューヨークに出てきたショーンは、早速あるバンドのオーディションを受けることになった。
 オーディションを受けるその瞬間まで、バンドのプロフィールすら知らされないままのショーンだったが、数十分後には、腰を抜かぬほど驚かされることになった。
 ひとまず、オーディション会場である小さなスタジオの中に入って、中年の剥げた男に何でもいいから弾いてみてくれと言われた。そして、もし歌も歌えるなら、歌ってもいいとも。どうやらギターだけでなくコーラスもできるかどうか、見極めたかったのだろう。
 ショーンは、レッド・ツェッペリンとブラック・サバスの曲を数曲披露した。時間はそれで一杯の筈だったが、ヘッドフォンを耳に当てて、ミキサー室とやり取りをしていた中年の男に「もう一曲」と言われ、ジミー・ヘンドリクスの曲を弾いた。
 『リトル・ウィング』だ。
 この曲は、クリスと初めて顔をあわせた日に弾いた曲で、自分の運命を変えた曲だったが故に、ショーンにとってもげんがいい曲だった。
 比較的リラックスした状態で演奏が終わり、ギターをケースに片づけていたところで、スタジオの入口から口笛を吹きながら入ってくる男がいた。
 ショーンは、その顔を見てギョッとした。
 ロックミュージック界でもう十年もの間、トップを走り続けてきた大物バンドのヴォーカル、イアン・バカランだったからだ。
 イアンの属していたバンドは三ヶ月ほど前にギタリストを突如首にしており、水面下で新生『イアン・バカラン・バンド』に相応しい腕の立つギタリスト獲得の為に動き回っている、という噂は音楽雑誌で目にしていたものの、実際に自分がそのバンドのオーディションを受けることになろうとは思ってもみなかった。
 どちらかといえば、60年代から70年代のロックアーティストファンであるショーンでさえも、イアンの『伝説』ぶりは知っているのだから、やはり現代ロック界の最後の『大物』と言っても過言ではないだろう。
 イアン・バカランの周囲を取り囲むスキャンダルやゴシップの数々は、華々しいものばかりだった。
 まさしく、ロック・スター以外の何者でもない存在感だった。
 実際に会ったイアンも想像通りの男で、肩より長いライトブラウンの髪を無造作に掻き上げながら、独特の甘い笑みを浮かべるその様は、スターのオーラが滲み出ていた。
「若いのに、なかなかフックのある演奏を聴かせてもらったぜ」
 そう言って手を握られた。
 ギター蛸のあるショーンと比べると、とてもきれいな手だった。
 どうやらイアンは、ステージ下でもギターを握ることは余りないようだ。
 『フック』と言われ、ショーンは何のことかよく分からなかったが、その夜食事に誘ってくれたジョン・シーモアに訊いたところ、音楽業界では、キラリと光る才能があることを『フック』というらしい。人の心に引っかかることができる魅力とでもいう意味なのだろうか。
 イアンのバンドのギタリストに採用されたという返事がきたのは、三日後のことだった。
 ニューヨークに出てきた時は、一年間ぐらい修行するつもりでいたのだが、出てきて一週間の内に、あっさりとプロデビューすることが決まってしまった。
 ラッキーと言えばラッキーだったが、あまりにトントン拍子に話が進み過ぎて、些か怖くなった。
 あまりの不安から、ニューヨークでの最初の住処である驚くほど狭いアパートメント・・・キッチンにバス、トイレ、そして寝室しかないという恐ろしい狭さ・・・のベッドの上で電気もつけずに思わずクリス・カーターに電話したら、「やれるだけやってみたらいい。駄目で元々。失敗すればやり直せばいいんだから。簡単だろ」と軽い口調で言われた。
 何ともクリスらしい突き放した言い草だったが、それで完全に開き直ることができて、覚悟が決まった。
 いつ首になるか分からないのなら、毎日一生懸命頑張ればいい。悔いのないように。
 そう思って挑んだバンドデビューだったが、現在まで首にならず続いている。
 いや、実際には首になるどころか、巷では密にイヤン以上の人気を博していることは、ファンの間ではもう常識になっている。
 他のバンドメンバーが三十代である中で、一人十代であることでもいい加減目立つのだが、その十代とは思えない完璧なまでのギターテクニックと男女問わず『キュート』と思わせてしまう容姿のお陰で、益々注目を浴びた。ショーン自身は努めて目立たなく、イアンの引き立て役に徹しているのだが、周りが放っておかないと言ったところである。
 バンドメンバーに入る際に、イアンがショーンに突きつけた条件、「決して人前で歌わないこと」は、ある程度こうなることをイアンが予見していたからだろうか。
 恐らくこれでショーンが歌声を披露すると、自分の人気が脅かされると、本能で感じ取っていたに違いない。
 だからショーンは、今だかつてレコーディングでもライブでも、コーラスすらやったことがない。
 ショーンとしては、ギターが弾ければそれで満足だったし、イアンの機嫌を損なわせるようなことはしたくなかったので・・・なぜなら、イアンが機嫌を損ねるとショーンばかりでなく周りのスタッフまでも迷惑がかかるからだ・・・歌えなくてもストレスを感じることはなかった。
 唯一ストレスを感じるとすれば、それは曲を書かせてもらえないことと『バルーン』という些か冴えないバンド名だったが、いずれにしてもイアンが決めていたことだったし、今や多大なネームバリューのある名前ので、それを口に出したことはなかった。
 ちなみに、『バルーン』の名の由来は、イアンをドラッグから立ち直るきっかけを作ってくれたという一人息子の初めて描いた絵が風船だったからだそうだ。
 ちなみにその一人息子は、別れた二番目の元妻のところで暮らしていて、年に一回会うだけだという。


 ああ、今頃、イアン、メチャメチャ不機嫌なんだろうな・・・。
 ショーンは急に脱力感を感じてベッドに座り込んだ。
 今朝の大騒動を思い出すと、また頭が痛くなってくる。
 先日からレコーディング中であったショーンは、今朝もいつものようにスタッフと朝食を取るためにスタジオを出た。
 通常、レコーディングはヴォーカルもベースもギターも別々に済ませるので、些か気が楽だ。
 録音スタッフもプロジューサーのカート・ヒルも、まるで末っ子のようにショーンを可愛がってくれていて、バルーンの他のメンバーより一番和やかにレコーディングが行われるのが常だった。
 それがそういう訳にもいかなくなったのは、ショーン達が通りを隔てた向かいにあるベーグルショップに顔を出した時だ。
 注文し終わって、後は温かいコーヒーを啜るのみ・・・という段になって、マネージャーのロバートの携帯が鳴った。
 いつも温厚なロバートの顔が目に見えて強ばったのを見て、他のスタッフと思わず顔を見合わせた。
「・・・ショーン・・・。お前の本当の父親って、ビル・タウンゼントなのか?」
 電話を切ったロバートにそう言われ、ショーンはギクリとした。
 別に今まで隠してきたつもりはないが、積極的に口にしたこともない。
 自分のキャリアには関係のないことだったし、自分の父親は間違いなくスコット・クーパーだと思っているので、さほどその点を気にしたことはなかった。戸籍のないアメリカで、血の繋がりなど大したことはない、と思っていたが。実際はそうもいかないようだ。
 周囲の人間からも、マジマジと追求の視線で見つめられ、嘘をつく訳にもいかず、ショーンは仕方なく小さく頷いた。
「マジかよ!」
 周囲のスタッフ達から、感嘆とも感動とも呆れたとも取れる奇声が上がる。
「別にそんなこと、小さな時に亡くなってるし、あんまり覚えてないんだよ」
 とは言ってみたものの、血相を変えたロバートの耳には余り入っていなかったようだ。
「どうやら『ピープル』にすっぱ抜かれたらしい。こりゃえらいことになるぞ・・・」
 ほぼ一発屋だったとは言え、曲がりなりにもビル・タウンゼントは時代を象徴するロック・スターだった。ただでさえ、余計な注目を集めないようにと出る情報を制限してきたショーンの実の父親が、ビル・タウンゼントだったなんて世間に知られたら、間違いなく・・・。
「うわ! 早速だ」
 向かいのレコーディングスタジオの前に、スタジオには不似合いな男達がわらわらと集まって来ている。皆一様にでっかいカメラをぶら下げて、スタジオの中の様子を探ろうと躍起になっている様子だ。
「・・・やばいぞ・・・。どうする?」
「クソ! 誰かキャップかなにか持ってないのか!!」
 ショーンの周りの大人達は、ショーンを何とか隠そうと四苦八苦している。
 ロバートは、「大変だ・・・。ショーンを隠すことはもちろんだが、俺にとってはイアンが怖い・・・」と頭を抱えて呟いている。
 それを見てショーンは、自分がとても悪いことをしているような気分になった。
 自分が、ビル・タウンゼントの子どもだったことで、こんなにも皆に迷惑をかけるだなんて。
「ごめん・・・」
 思わずしょげるショーンに、スタッフの一人、ミキシングの作業を中心的に行っているルイ・ガルシア・サントロが「謝ることはないじゃないか」と慰めの言葉を掛けてくれた。彼はキューバ出身の優しい男で、その容姿も甘く優しげだ。スタジオスタッフの中では一番ショーンのことを可愛がってくれている。幼い時に亡くした弟のような感じがすると以前彼はポロリと零していたっけ。
 ロバートさえ、ショーンの肩に手を置いて「お前が気にすることはない」と言ってくれたが、明らかに彼は今後巻き起こる騒ぎが起こす結果を想像して、苦悩しているようだ。
「とにかく、そこら辺の事情は今度詳しく聞かせてくれ。対処の仕方を考えないといけないから。でも今は取り敢えずアイツらに気付かれる前に、ここを移動した方がいい・・・」
 ベーグルショップの通りに面している壁はすべてガラス張りだ。
 赤毛のショーンは目立つから、ここにいるのがバレるのも時間の問題である。
「分かった。俺、どうにかして裏口から出してもらうようにする。皆はここにいて。その方が、巻き込まれずにすむと思う」
 ショーンはルイの身体を盾にしながら、小さな声で囁いた。
「けれど大丈夫か、ショーン。一人で逃げて、もし捕まったら・・・」
 ロバートが心配そうにショーンを見つめる。ショーンは肩を竦めた。
「アンタはイアンの面倒を見にいった方がいいと思うんだけど」
「そうだな。その方がいいよ、ロバート」
 ルイが毅然とした声で言う。
「ミスター・ヒルにも僕の方から事情を話しておく。今日のレコーディングはひとまず休止した方がいいね」
「そうだな。こっちも、ショーンが再びレコーディングに戻れるような体勢が整ったら知らせるよ。迷惑をかけるが・・・」
 ショーンもいたたまれない気持ちになって、唇を噛みしめる。
 スタッフ達は、代わる代わるショーンの肩を叩いて「頑張れ!」と言ってくれた。ルイが最後に「待ってるぞ」とショーンの瞳を見つめて勇気づけてくれる。
「うん」
 ショーンも持ち前のキュートな笑顔を浮かべた。周囲の人々を明るくする極上の笑顔だ。
 皆もつられて笑顔を浮かべる。
「ロバート、取り敢えず俺、どこに行ったらいい?」
「アパートメントはまずい。事務所の方がまだ潰しが聞く。事務所には俺から連絡しておくから、匿ってもらえ。ここから大分離れているが、大丈夫か?」
「何とか行ってみる」
 ショーンは、ひとつ咳払いをして席を立った。
 さり気なく足を進めて、カウンターの向こうのカーネル・サンダースのような店主に声をかけた。
 レコーディングの最中、毎朝この店に通っていただけに、店主は快くショーンの申し出を聞いてくれた。裏口まで案内してくれる。
 人通りの少ない道を選んで逃げたが、裏口を出てすぐに見覚えのあるパパラッチが自分の後を着いてくることに気が付いた。
 しかもその男の扇動で、他のパパラッチも追いかけてくる。
 仕方なくショーンは、人通りの多い通りに走り出た。
 ニューヨーカーは芸能人が通っても気にしないというのが常だったが、それでもショーンの赤毛は目立つのか、すれ違う人々の殆どが振り返る。
 そんな中を縫うように走って、途中タクシーを捕まえようとしたが、こんな時に限って空席のタクシーにお目にかかれない。それに加え、自分が一文無しであることにも気が付いた。
 気付けばショーンは空腹を抱えたまま全力疾走を余儀なくされ、夕べから徹夜でギターを弾いていたから目眩すら感じた。
 連中との距離は益々狭まり、ショーンは訳も分からず大きく開いている扉の中に駆け込んだ。
 すぐにホテルだと気が付いた。
 大規模なホテルではないが、品がいい。
 そんな中を、ショーンは無我夢中で走った。
 背後では、男達の怒鳴り声が響いてくる。
 純粋に怖いと感じた。
 けれど、このままでは直、袋小路に填ってしまう。
 どうすればいい?
 そう思った矢先、まるでモーゼの十戒で海が割れたかのように客室のドアが開いた。
 後先も考えずに飛び込んだ先にあったのは、心底ホッとできる大きな胸板だった。

 

please say that act.01 end.

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編集後記

メリーメリーメリークリスマァ~ス!!!
さぁ!テンション上げていきますよぉ~!上げて上げてぇ~~~~!!!
え?余計下がりまくりやがりますか(青)。すみません。いよいよ新作のアップでございます。
前回は、「話すな!」っていうタイトルで、今回は「言えよ!」っていうタイトル(笑)。一体何なんだって感じでしょ?ふはは。
そしてそして、悩めるショーンボーイの運命の相手は、「コウゾウ ハシバ」。
前作の流れを見て、敏感な方は察しておられたでしょうが、「ドンスピ」も「カムアゲ」も、つまりはこの「please say that」の前哨戦だった訳です。つまりは、本作こそが「nothing to lose」の真の続編と言えるのではないかなぁと思っています。
思えば、何を隠そう、ショーンボーイは羽柴の恋人として最初から生み出され、育てられたキャラでおました。正直なところ、ドンスピのラストで、「前振り」と言っていたのは、 羽柴の新しい恋人のバックボーンをしっかりと作り上げた上で 本編を書きたかったという、正に「助走」だった訳なんです。
オマエ、一体どれくらいの時間かけてやってんだって感じですよね・・・(汗)。でも、そうしないと自分自身納得できなくて、どうしても必要な作業でした。
自分の中でも、やはり須賀真一というキャラクターの存在はとても大きくて、羽柴が果たして次の人生をきちんと歩んで行けるかどうかがずっと不安でした。もちろん架空の人間の話なんですけれど、どうしても割り切ることができなくて、羽柴には、ぜひとも次のステップに行ってほしかったんです。
ということで、本作は、ショーン主人公のドンスピ続編!とか言っておきながら、実は羽柴の新しい恋愛話でもあるのです。
もちろん、COME againのラストの謎解きも絡んできますよ。
夜の繁華街で羽柴が見ていた(聞いていた)ものはなんだったか。
渋谷に行った先に何があったのか。
空港でショーンが見上げた先にあったのは何だったのか。
きちんと答えを書くつもりです。
その他にもいろんなゲストを交えながら(笑)新作を書いていく予定。
だから、本作は、本サイトにアップされている小説のある意味集大成だといえます。いろんな話にリンクしていきますよ~~~。そっちの面でも楽しんでいただけたらと思います!!!

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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