楽園
さっぱりとした潮風が吹いている。
空気は驚くほど暖かかったが、風は限りなく爽やかだ。
新鮮な潮の香りが、密やかに淡く、ふんわりと漂う。
都会の汚れた海(うみ)から臭ってくる磯臭さとは無縁の、『生きた』海(うみ)の香り。
この島に降り立った者を最初に歓迎してくれるのが、この香りだ。
その青年は堤防の先端に腰掛け、ディープブルーへと変化していく沿岸の海(うみ)をじっと見つめていた。
その横顔は、さながら海(うみ)から生まれ出て来た天使のように美しいものだったが、その表情はどこか不機嫌そうで声をかけがたい。
海(うみ)の上に下ろした裸足の足をブラブラとさせている様子は何処か無邪気で、小麦色に焼けた素肌は大人の男の色香が十分にあったが、その雰囲気はどこか子供を連想させる。
「こんなところにいたわ」
麻のサマーニットにベージュのタイトスカート。シャープでエレガントなサングラス。まさしく都会の洗練された女性と思しき人物が、桟橋の入口から青年の姿を見つけた。
「まったく、撮影さぼってどこに行ったかと思えば・・・・」
彼女・・・伊藤理沙は、フリーの敏腕モデルエージェントである。
今回、ファッションフォト業界では20年以上も頂点の地位をキープしているブルース・アンダーゾンとのフォトセッションをコーディネートするためにここにやってきた。
今日はその三日目だが、何だかうまくことが運ばない。理沙は少し苛ついていた。
理沙は世界を股にかけるエージェントとして、パリやミラノでも実力を認められている。十代の頃は自分もモデルをしていた経験があり、裏の事情にも詳しかった。その実力もあってか、今はヴォーグ誌と並んでメキメキと発行部数を伸ばしてきているファッション誌「エニグマ」専属のコーディネーターとして仕事をしている。
理沙のパソコンには、世界中のモデル事務所のデータが詰め込まれており、エニグマの編集長、エレナ・ラクロワが希望するイメージのモデルを探し出し、適任のカメラマンやモデル事務所、撮影場所の交渉から契約、スケジュール調整まですべて彼女がこなしていた。エニグマ編集部には、理沙のようなコーディネーターが数人いるが、どの人間もセンセーショナルなページ作りのために尽力しているし、互いがよきライバルとして競い合っている。
今回のセッションは、発刊10周年記念の巻頭を飾る予定の重要な撮影だ。
今もニューヨークでは、このフォトセッションの生フィルムが早く届かないかと凄腕のエディター達が首を長くして待っているはずだった。
予定なら、明日一日が限界。
なのに今回の主役は、完全にヘソをまげて、いい写真を撮らせてくれない・・・。
「まったく、何てことなの」
理沙は辺りを憚らず愚痴を零した。
その愚痴には、様々な意味が込められている。
百戦錬磨、鬼のコーディネーターとして名高い彼女が、たかがモデルデビューして2年やそこらしか経っていないモデルの扱いに、こうも手を焼いているだなんて。
そしてこのモデルも、人気モデルとしては年齢も高く、本来なら撮影場所やスケジュールなどをえり好みする立場ではないはずなのに、どうしてこんなことになっているのか・・・。
だって、あのブルース・アンダーゾンよ?! 彼が態々ご指名してくれたのよ!! それなのに、なに?! 今日までの撮影の有様は・・・。
理沙はこの3日間の悪夢を思い起こす。
世界中のモデルが、他人を殺してでも彼のレンズに納まりたいと熱望しているカメラマンが折角レンズを向けているというのに、彼は気のない顔をして、すぐに集中力を途切れさせる。気づけば淋しそうに、いつも海を眺めている・・・。
「ここままじゃ、私の面子どころか、誌面に穴を開けちゃうわ」
理沙が腕まくりをしていざ出陣しようとした時、その腕を後ろから掴まれた。
振り返ると、顔半分白い髭に覆われた筋肉質の男が立っていた。
「ミスター・アンダーソン!!」
36ミリのライカカメラを片手に、目を細めて海を見つめる天才カメラマンは、理沙と違って意外に落ち着いていた。
「本当にすみません、ミスター・アンダーソン。私の責任です。本当に、なんとお詫びを申していいのか・・・」
流暢な英語で最上級の謝罪の言葉を口にする理沙を見て、ブルースはフフフと笑った。
「君はヒロと一緒に仕事をするのは初めてなんだろう。君は彼という人間のことが本当に分かっていないのさ。彼の本当の魅力がね」
ブルースにそう言われ、理沙は顔を赤くした。
確かに、今回のモデル・辻村尋がファッションフォト業界に名を成したきっかけは、ブルース・アンダーソンの写真が最初だった。当時はモデル事務所にも所属しない無名の新人がどこまでやれるのかと誰もが面白半分に動向を見ていたのだが、彼の人気はうなぎ昇りに上がっていき、どこもかしこも引く手あまた。だが、本人はどこ吹く風で、未だにモデル事務所に所属していない。
したがって、彼に仕事を持っていく時は、どのような身分の者でも、彼の住むこの島に来て、彼の『恋人』にお伺いを立てなければならない。実質、この恋人が彼の仕事のマネージメントをしていたが、この恋人も自分自身が世間から注目されるイラストレーターともあって、なかなか彼らは捕まらない。
今も、その恋人は本土の方に仕事で出ていて、4日間留守にしている。確か本当なら昨日帰ってくるはずだったが、本土の天候のせいで遅れ、今日の午後の船で帰ってくるという連絡を受けている。
しかし、モデル事務所にも所属しないで世界を股にかけているモデルって・・・。
理沙は信じられない心境で、堤防の先に小さく蹲る『彼』を見つめた。
「うーん・・・。これはこれで、いい絵になるんだがな・・・」
カメラを青年の方に向け、レンズを覗き込んだままブルースが言う。だが彼はシャッターを切らず、カメラを下ろした。
「撮らないんですか?」
理沙がそう訊くと、ブルースは肩を竦めた。
「さすがにあの表情を撮るのは気が引けるよ。私は彼の笑顔に会いにここに来たのだからね。・・・ところで、彼のパートナーは今日帰ってくるのかい?」
「ええ。そのように聞いています。今日の午後の便で帰ってくる予定だと」
「そうか」
ブルースは安心したような表情を浮かべた。
「ま、急いてばかりいてもいいものは作り出せないさ。ゆっくり待ってみよう」
ブルースはそう言うと、桟橋を後にする。
「え、あ! ミスター・アンダーソン!」
ブルースの後を追う理沙と入れ替わりに、地元の若い青年が潜水道具の入ったコンテナを抱えながら、桟橋を歩いていく。
真っ黒に日焼けした肌。無骨な指。漁師特有のその佇まいは、南の島の熱い太陽にも負けない溌剌とした生命力に溢れている。
青年は、頭に巻いたタオルを取って汗を拭うと、堤防に座り込む青年のすぐ後ろにコンテナを下ろした。
「なにぃ、尋ちゃん。またベソかいてんのかい」
南の島特有の訛りが混じった陽気な声が、青年の背中をノックする。それでも青年は、振り返らない。
「海クンなら、もうすぐ帰ってくるし。そんな悲しい顔せんと」
「・・・今、何時?」
少し長めの前髪の奥から、くごもった声が訊いて来る。
「1時さね。いつまでもそんなことで座っとると、日にのぼせてまた倒れるよ。そしたら、俺が海クンに怒られるんやけぇ。駄々こねんと。たまには、この駿作の言うことも聞いてくれやぁ」
道具の手入れをしながら、須磨駿作は言った。
彼は、妹のみぞれと共に海と尋の家の世話をしている者だった。家の世話といっても、召使というわけではない。海が仕事で家を空ける時や、仕事で忙しい時等、簡単に家の手伝いをする程度だ。
別に金を貰ってしていることではなかったし、特別頼まれたことでもない。だが、駿作もみぞれも、暇を見つけては、進んで彼らの世話を焼いていた。そういう土地柄である。
最初のきっかけは、都会から越してきた若者二人にただ単に興味を引かれて声をかけたまでだ。だが結局は海や尋の人柄に惚れ込んでしまい、今に至っている。
駿作の両親や祖父、祖母も例外ではなく、海が留守の時は代わる代わる青年・・・辻村尋の様子を伺っているのだ。
須磨一家は、この美しい青年の持つ障害やその障害を持つに至った経緯も、既に大よその内容は知っていた。もちろん、小笠原海と辻村尋の関係も。
驚かないといえば嘘になったが、それを払拭するには余りあるほど、二人は魅力的だった。
片や、裏表のないさっぱりとした気のいい笑顔を浮かべ、この島の自然を次々と素晴らしい作品にしていくイラストレーター。片や、信じられないほどに美しい笑顔を浮かべ、無邪気に浜を走り回る世界的モデル。
肩書きはどうであれ、彼らは、人口300人足らずのこの小さな島が拾った『宝物』だった。
海の描くイラストによって島の素晴らしさを世界に知らしめることができ、尋の笑顔が島の老人達の心を和ませてくれた。
実際に、何のとりえもなかったこの島が、海のイラストのお陰で観光客もポツポツ訪れるようになり、街に出て行っていた若者が帰って来たということもある。島で唯一の民宿を営んでいる須磨家は、彼ら二人がこの島にもたらした『潤い』を最も肌で感じている者達だった。
「そうや、尋ちゃん。みぞれが水羊羹作っとるよ。大好きやろう? 水羊羹」
駿作は槍を磨きながら、尋の顔を覗き込む。
「いらんか? 水羊羹」
「・・・いる」
「ほんなら、いこ。家。みぞれが待っとる」
「・・・いかない」
「尋ちゃ~ん」
「海が帰ってくるまでここにいる」
尋はすっかりお冠だ。
本当なら、海は昨日帰ってくるはずだったのだ。昨日海から帰宅できないとの電話連絡があった後は完全にふてくされて、自分の部屋から出てこなかった。
彼は不安なのだ。海がいないと。
心の底から愛しているというのもあるが、数年前からの記憶を一切なくしてしまっている尋にとって、縋る者が海以外にいないから、どうしてもそうなるのだろう。
駿作は、道具をコンテナの中に置くと、溜息をついた。
「困ったなぁ、こりゃ」
駿作がガリガリと頭を掻いた時、沖合いの方から汽笛の音が聞こえてきた。
尋の顔が、パッと沖合いを向く。まるで猫のような敏捷さで。
駿作は、その動きを見て、目を細めて沖合いを眺めた。
「ありゃ~、尋ちゃんのお祈りが効いたかな。随分と早いお着きで」
尋は立ち上がると、弾かれたようにフェリーの船着場に向かって走り出した。
その躍動する肉体を見ていたとしたら、ブルースはおろかあの理沙でさえ、その煩い口を噤んだだろう。完璧なまでの美しさ。自然に育まれた微妙なバランスの身体の線・・・。
5年前に受けた傷のための麻痺はすっかり癒え、リハビリのために訪れたこの島が、今や彼の掛け替えのない故郷となっている。
この島で彼は何にも変えがたい愛情を再び手に入れ、そしてスピリチュアルな島の自然にその身体を癒されたのだ。
『どなた様も、お忘れ物のないよう・・・』
聞き慣れたアナウンスを聞きながら、小笠原海は大ぶりのプラスチックケースとディバック、数々の紙袋を抱え、桟橋に降り立った。
「・・・やっと帰ってきた」
仕事で島を出る度に、最後はこの言葉が彼の旅を締めくくる。
何せ交通の便が悪いせいで、一度本土に行ってしまうと随分長い旅に出る気分になる。それも仕方のないことだ。
夢だけを食っては生きていけない。特に、今自分は一人で暮らしている訳ではないのだ。自分には、掛け替えのない『家族』がいるのだから・・・。
「・・・海!!」
堤防の先から、その愛すべき家族が走ってくる。
「尋! そんなに走ったら危ないって!」
海は、両脇に抱えた荷物でオタオタとなりながら遠くの彼に釘を刺すが、彼はそんなことなど耳に入らないといった風情だ。
物凄い勢いで走ってきたかと思うと、まるでアメフト選手がタックルをお見舞いするかのごとく海の身体に抱きついてきた。
「ううううわ!」
その勢いに負けた海は、両手の荷物を放り出して尋の身体を受け止め、ようやく転倒しそうになるのを堪える。
「おかえり・・・おかえり、海・・・」
頭を海の肩口にグリグリと押し付けてくる。
5年前の『事故』で記憶障害を持った尋は、それ以来自分の感情に正直に海を求めてきた。心の中の不安を、それで補うように。
海は鼻先を尋の髪に埋めながら、その香りをスンと嗅いだ。たちまち眉間に皺を寄せる。
「めちゃくちゃ潮と太陽の匂いがする。尋、お前一体何時間、港にいたんだ?」
「・・・内緒」
「尋ぉ」
海が尋を引き離して顔を覗き込むと、尋は俯いて口を尖らせた。海はジーンズのポケットからキャップを取り出すと、すっかり熱くなった尋の頭に被せる。
「前も言っただろ? 何時間も真昼間に太陽の下にいたら、病気になっちゃうんだぞ。また熱出して寝込んじまうんだから」
「・・・ごめん。もうしない」
「よろしい」
鼻息荒く言う海の王様のような仕草に、尋は笑顔を浮かべる。
やっぱり海がいるといい。まるでお日様が帰ってきたみたいだ。おもしろい。嬉しい。楽しい。海は、俺の太陽だ・・・。
この4日間、誰がどう機嫌を取ろうとしても見せてくれなかった笑顔が、今零れんばかりの勢いで尋の顔に浮かぶ。
その笑顔を見て、骨抜きになるのは世界中の著名なカメラマンだけではない。この新進気鋭の若きイラストレーターだってそうだ。
「まったく、しょうがねぇな」
今度は海が口を尖らせて尋を見、最後にこう付け加えた。「俺も」と。
最後まで厳しくしようと思っているのに、この笑顔を見るとどうしようもなくなる。
二人で笑い合って、再び抱き締め合った。
そこで気がつく。
「あれ? 絵の入ったケース、どこ行った?」
海は、周囲を見回して、顔を青くした。
「あ~! あんなところに落ちてる!!」
桟橋の向こう側の海(うみ)に、プラスチックケースがプカプカ浮かんでいる。
だが次の瞬間には、尋が海(うみ)に飛び込んで、あっという間にケースを拾ってしまった。
昔水泳をやっていただけあって、記憶をなくしても身体が自然に動くのだろうか。
まるで人魚のように滑らかな泳ぎ・・・。
「取った!!」
自慢げにケースを持ち上げる尋を見て、海は笑いながら溜息をついた。
「全く・・・私って一体何なの?」
夕刻迫る浜辺で、焚き火の炎に照らされた尋が極上の笑顔を浮かべている。
「いいね。その笑顔が欲しかったんだ」
ブルースもまた上機嫌でシャッターを切っている。
平屋建ての家の縁側からその様子を見つめ、理沙は重い溜息をついた。
「まぁ、そう落ち込みなさんな」
横から野菜スティックとビールを差し出され、理沙は人参をガリッと齧った。
「あなたに言われると、益々落ち込みそう・・・」
横目で小笠原海の顔を見て、理沙はまた重い溜息をついた。
「エージェントとしての限界を痛感したわ」
海がハハハと笑う。
「伊藤さんなら大丈夫。今まで会ってきたコーディネーターの中で一番強情な人だから」
「それ、誉めてます?」
「もち、誉めてます」
海がにっこりと笑顔を浮かべた。全く、この飄々とした青年も憎めない笑顔を持っているときているから、始末が悪い。
「ミスター・アンダーソンのためよ。どうしても辻村尋じゃなくてはダメだって。・・・今私達の雑誌は正念場で、あと少し頑張れば、ヴォーグを越えることも夢じゃないわ。その期待が、ミスター・アンダーソンにかかっているの。そして、そのミスター・アンダーソンが頼りにしているのが、あなたのパートナーなのよ」
「その情熱が伝わってきたからこそ、仕事を受けたんです。本当なら、俺が留守にする期間仕事はさせないつもりでいました。でも、伊藤さん、必死な瞳をしていたから」
ビールを飲みながら、海が言う。理沙が海を見ると、海は縁側に無造作に置いていたスケッチブックを手に取り、広げた。
理沙はそれを覗き込むと、驚きのあまり口をぽかりと開けたまま、それを見つめ続けた。
「これ・・・、私?」
切り立った岩の先の立ち、長い衣を大きな風にはためかせ、毅然とした顔で先を見つめている女神のような女性。その顔は、理沙によく似ていた。
「その瞳に思わず触発されて。基本的に俺、頑張ってる人って好きだから。・・・よかったら貰ってくださいよ、それ。苦労をかけてしまった御礼として」
「・・・本当に、いいの?」
理沙らしくなく、しおらしい声が出てしまった。
理沙だって、目の前のイラストレーターの絵が、今どれほど貴重な価値があるのか知っている。それに、その絵は素晴らしく美しいできだった。この絵をしかるべきところで発表すれば、彼の評価も上がるだろうに。
それでも海は、スケッチブックの一ページを破ると、分厚いボール紙で出来た封筒にそれを入れ、今日の日付を書き、理沙と自分の名前を書いて理沙に手渡した。
「・・・ありがとう」
「これしきのことでご婦人のご機嫌が直るんだったら、何枚でも」
海がそう言うのを聞いて理沙は笑うと、肘で海の脇腹を軽く押した。
「よく言うわ。あなたがご機嫌を取りたい人間はひとりでしょ」
「ま、確かに」
二人の見つめる先に、尋の屈託のない笑顔がある。
ブルースのアシスタント達がふざけて滑稽な踊りをしているのを見て、子供っぽい笑い声を上げている。ブルースは、そんな自然な様子の尋をただ見つめて、瞬間のシャッターチャンスを捉えているのだ。
「悔しいけど、あなたの恋人は本当に美しいわ。世界では、自分の美しさをキープするために必死になっている人間が五万といる。そしてどんなに頑張っても、一流に手が届かない人達がいるの。それに比べたら、あなたの彼は本当にラッキーよ」
理沙の呟きを聞いて、海は背伸びをした。
「そう、思います?」
「え?」
理沙が海を見ると、海は彼にしては珍しく、少し淋しげな顔つきで浜辺を見つめていた。
「あいつがそんなに美しく見えるのは、あいつが必死になって生きているからですよ。今もあいつの心は、暗い闇と戦っている。自分が何者なのか、今までどうしてきたのか。・・・思い出したくない。思い出さないといけない。自分ひとりでは何も分からない。何もできない。それでも必死になって前を向こうと頑張ってる。真実の自分を探そうともがいてる。他人には分からないけど、それはそれは辛い旅なんです。俺は、そんな健気な尋の姿をスケッチブックに写し取っただけ。丁度、今、伊藤さんを写し取ったみたいにね。それに美しいと価値を見出したのは、あなた達なんだ。こう言うと、また気分を悪くしてしまうかもしれないけれど」
海は、ビールを一気に煽ると、肩を竦めて見せた。
「本当は閉じ込めておきたかったんです。俺だけのものにしておきたかった。その方が尋を守ることができるし、余計な心配もないし。でも・・・。それじゃダメだって気づいたんです。尋に、自分自身価値がある人間だと分かって欲しかった。何も出来ない人間だと思って欲しくなかった。そんな折りに昔の知り合いの方から、ファッションメーカーの広告のモデルをしてほしいと頼まれて。随分お世話になった人だったから断われなくて。でも、これがいい機会になるのかなぁと思って仕事を受けたら、こんなことになっちゃった」
「海!! これ貰った!!」
浜辺の方から、サッカーボールを頭の上に翳して尋が手を振ってくる。海も手を振り返した。
「随分率直な人なのね、あなた。会って間もない私なんかに、そんなことを話してくれるなんて」
海は小さな笑顔を浮かべる。
「だって、これから長い付き合いになりそうだから。あなたは必要とあらば、また勇気を振り絞って懲りずにここへやってくる。そうでしょう?」
理沙も海がしたように肩を竦めると、楽しそうにサッカーボールを蹴る尋を見つめた。
・・・ま、確かにそうだけどね。
理沙は心の中で苦笑いを浮かべる。
どんなにコケにされようが、しんどい思いをしようが、必要とあらば私はまたここにくる。何度も、何度も・・・。
心の奥底をくすぐられたような気がして、理沙は胸元に手をやったのだった。
シューとスプレーを吹く音がただ広い部屋に響いていた。
「何も、そこまですることないじゃん」
スプレーを向けられた海は、憮然とした顔つきで胡座をかいて座っている。
海の周りをグルグル回って、海に芳香スプレーをかけているのは尋だ。
その様子を見た撮影スタッフは、指差して笑っている。
しかし尋の顔つきは真剣そのもので、まるで海に取り付いた悪霊を祓うかのごとき真剣さでスプレーを吹いている。
「もういいだろう、尋」
「ダメ。まだ煙草くさい」
都会から帰ってきた海に待っている儀式だ。
以前は、海が根を上げるほどヘビースモーカーだった尋だったが、あの事故以来、煙草とは無縁の生活をしている。この島に移り住んでからは、益々敏感になった。
「分かった! 分かったよ。降参! 降参!! 風呂に入ってくる!」
息苦しさを感じながら、海が立ち上がる。
今日はお客さんが来ているから後で・・・と思っていたのが甘かった。
「すみません、ブルース。やんごとなき事情で、風呂に入ってきます」
英語で海がブルースに断りを入れると、ブルースは笑いを堪えきれない顔つきをしながら「ぜひそうした方がいいようだね」と返した。
「尋、ちゃんと最後まで飯食えよ。須磨のばあちゃんが折角つくってくれたご馳走だぞ。それから、漢字ドリル。今日の分のノルマ終わってないだろう。きちんとやっとけよ」
「分かってるよ。そんなことぐらい。早く風呂入ってこいよ。臭い!臭い!!」
自分の鼻を摘んで言う尋に思わず吹き出しながら、海は奥の部屋に消えていく。
「尋ちゃん、早くこっちに来て食べたら?」
「そうや。早く食べんとなくなるし」
駿作とみぞれが尋を呼ぶ。尋は、廊下の先の脱衣所に海の背中が消えたのを確認して、満足そうに酒宴の間に帰ってきた。
開け放たれた縁側から吹いてくる心地よい夜風。ただっぴろい居間の片隅に置かれた様々な高さの観葉植物が、ゆさりゆさりと揺れている。室内には、アジアのエキゾチックな民族音楽が流れ、さながらここは酷く素朴なリゾートホテルのヴィラのようである。
この島独特の料理がずらりと並んだ食卓の上では、日本語と英語、島独特の方言とが入り乱れて、なんとも国際色豊かだ。
尋も、簡単な英語なら分かるし、話せる。
5年前の事故により、言語に関しても一からの出発となった尋だったので、逆にそれが幸いしたとも言える。ここ数年の間は、日本の標準語より島の言葉や英語に触れる機会の方が多かったからだ。
「ねぇ、ブルース。明日も撮るの?」
ブルースの隣で豚肉の煮付けを頬張りながら尋が訊くと、ブルースは白い髭にビールの泡をまとい付かせながら「ああ」と頷いた。
「もう少し撮らせてもらえないかな。疲れたかね?」
まるで自分の息子を見るかのように温かな目を尋に向ける。尋はきゅっと唇を結ぶと、首を横に振った。
「今までいっぱい迷惑をかけたから、明日は頑張る。さっきも海に怒られた。仕事なんだからって」
「まぁ、尋の恋人は厳しいのね」
スタッフの一人、サンドラが驚きの声を上げる。
「さっきも何だか厳しそうなことを言われてたし。何も怒る必要はないんじゃないかなぁ。尋は彼の帰りを待ち焦がれていてくれたんだから」
サンドラの隣に座るビルが続けて言った。サンドラはブルースのカメラアシスタントで、ブロンドを短く刈り上げており、一方黒髪を肩まで伸ばしているビルはブルースがよく使うヘアメークアーティストだ。そんな対象的な二人は恋人同士で、とても仲がよい。
「違うよ、俺が悪いんだよ。海は俺のことを思って怒ってくれてるんだよ。だから海のことを悪く言わないで」
必死になってそう言う尋に思わず口をつぐんだ二人を見て、駿作とみぞれが目を見合わせて密かに微笑んだ。
海と尋のことをきちんと分かっていない人間は、概してそんなことを言うのだ。
時として尋に厳しく当たる海のことを、厳しいとか心無い人だとか、そんな風に言う。
そんなやり取りを見ていた理沙は、夕刻海が言っていた意味を少しだけ垣間見たような気がした。
やっぱり・・・簡単には入り込めない絆があるんだわ・・・。
地酒の入ったガラス杯の端をペロリと舐めながら、理沙はブルースを見た。
ブルースは、海を必死になって庇う尋の横顔を、温かな微笑みで見つめている。
ブルースは、そのことに気がついているのかしら? 小笠原君が言うような、辻村尋の本当の美しさに。
海が風呂から上がった頃、酒宴会場の居間は既にまったりとした雰囲気に包まれていた。皆、地元のアルコール度数が高い酒にやられてしまったらしい。
床でそのまま眠りこける者、ここには姿が見えない者、クダを巻いている者。
駿作までもが、あまり言葉の通じない撮影スタッフと呂律の回らない口で何か言い合いをしている。
海は少しふき出しながら、尋の隣に座った。尋は満腹になったら眠たくなったのか、ブルースの身体に凭れかかって舟をこいでいる。
「すみません、ブルース」
海は、籐の椅子に置かれたクッションを取ってくると、尋の頭の下にそれを梳け、彼を横たえた。
「夕方随分とはしゃいでいたから、疲れたようだ」
ブルースがそう言う。
「海さん、ご飯まだでしょ。取っておいた」
せわしなく皆の世話をしていたみぞれが、海の前におかずとご飯を並べる。
「お、サンキュー、みぞれちゃん。助かった。もう食うもんがないかと思ってた。・・・あれ? 伊藤さんは?」
海がそう訊くと、横でブルースが笑った。
みぞれが説明する。
「いつものお酒を飲むペースでうちの自家製古酒を飲んだものだから、完全につぶれちゃったわ。さっきブルースさんと運んで、今帰ってきたところ。肝心の時にお兄ちゃんはあんなだし」
みぞれが横目で駿作を見ると、駿作は半開きの眼で若手スタッフの一人、ジャックと凭れあって意味不明のことを呟きあっている。
「ま、お疲れさん」
海の空いたグラスに、ブルースが新たなビールを注ぐ。
「あ、すみません」
「私もそろそろ自分の部屋に戻ろうかと思っていたが、君がこれから晩酌をするのであれば、もう少し付き合うかな」
「そんな・・・。すみません、なんだか。それにしても、ブルースは凄いな。最後まで生き残っているのが最年長者だなんて、なんだかおかしい」
「コツは、須磨酒を30分に一杯やるだけにしておくことだ。後は、ビール」
「あ。なるほど」
クククと笑いながら海が須磨のおばあちゃんの手料理を摘む。
「かー! うまい!! 本土に行ってると、どうも舌が合わなくなっちゃって」
海はふいに立ち上がると、縁側に出て隣の民宿・須磨に向かって大声を上げる。
「ヒトエ、最高!!」
しばらくして、遠くから「いぇ~い」との声が帰ってきた。海は、民宿に灯る明かりに向かってグッと親指を立てる。
それを見てみぞれは大笑いしている。
「うちのヒトエおばあちゃんと海さんって、『親友』なんです」
それを聞いて、流石の天才カメラマンも大笑いする。
前回の撮影は、厳しいスケジュールの最中行ったので、日帰りだった。やはりここは、深く入るにしたがって、たまらない魅力に溢れている場所なのだ。
魂の休息の場所。正しく、楽園。
エニグマの巻頭特集を好きに使っていいと言われ、ブルースは即座にこの島のことを思い浮かべた。
殺伐とした時代、本当の幸せとは何か、写真と言う形でメッセージを伝えたかった。
ブルースは、長きに渡り、ファッションフォト業界に身をおいてきたが、ただ単にブランド品に身を包んだモデルを撮るだけではここまでこれなかった、と思っている。きれいな写真を撮るカメラマンなら、自分以外にもたくさんいる。自分より技術力の高い若いカメラマンは五万といるのだ。
だが、それでも第一線のカメラマンとして地位を守ることができたのは、常に『本物』の真理を求めて挑戦してきたからだと思ってる。
本物の美しさ。本物の幸せ。人生の素晴らしき営み。
カメラは多くを語らないが、そのカメラを操るカメラマンのメッセージが込められた写真は多くを語る。
人が互いに自分のことしか考えず、他人を思いやれないような時代。大げさだが、人間の存在する価値というものを再認識したくて、この島に来たのだ。
20年と言うキャリアが、ブルースに撮影条件を優位に提示できる権利を与えてくれている。今そのありがたさを彼はひしひしと感じていた。
50も過ぎて、少々青臭い話だが・・・。
ブルースはそう思ったが、海と尋の姿を見ていると、余計な邪念が何処かに飛んでいってしまう。
直向に生きる人間は、いつの時だって美しい。
この姿を、記録していきたい・・・。
カメラマンの本能だった。
だから、少々撮影が難航しようが、そんなものはまったく気にならない。
ブルースは確かな手ごたえを感じていた。
極力飾りをなくした、ありのままの彼とこの島を撮るだけでいい。
このセッションが、自分の新たなキャリアになることをブルースは肌で感じていた。
「海。明日よかったら、君もファインダーに納まってみないか」
ブルースがそう言うと、海はギョッとした顔をした。
「へ? 俺?!」
自分の顔を指差して、驚きの声を上げる。
「無理無理。俺なんて。背は低いし、尋と比べると見劣りするし」
「そうかい? うちの娘なんて、君が写った前回のスナップ写真を見て、とてもハンサムだって言ってたよ」
「そうよ。海さんは気づいてないのよ」
みぞれも会話に入ってくる。海は、顔を顰めた。
「いや、ホント。俺なんて柄じゃないって。それに明日の撮影、海(うみ)にも入るんでしょ? 俺、身体こんなんだし」
海は、白いTシャツの裾をまくって、広範囲にわたる火傷の跡を見せた。
それを初めて見たみぞれは、驚きを隠せずに手で口を覆った。
ブルースも眉間に皺を寄せる。
「どうしたんだね、それは。・・・もし訊いてもいいのなら、だが」
海は、笑顔を浮かべ、鼻をスンと鳴らした。
「別に隠している訳じゃないんですけどね。大抵の人はびっくりするから、敢えて見せたりはしてないんだけど。もう痛くないんですよ、全然。でも、この火傷がなかったら、俺は尋と再び出会うことはなかった・・・そう思ってます」
ケロリという海だったが、そこにコンプレックスの欠片もないといったら嘘になった。このせいでTシャツなしでは迂闊に泳げないし、温泉にもいけない。人の目を気にしなくてもいいということは分かっていても、実際は気分が悪いものだ。執拗に同情の視線を受けることは・・・。
「・・・う・・・ん? 海?」
尋が目を覚ました。目を擦りながら身体を起こす。
「お、起きたか? 眠いんなら、布団できちんと寝たらどうだ?」
海がそう言うと、「いやだ」と海の背中にもたれかかる。
「・・・海、煙草の臭い消えた。合格」
「ありがとさん」
そんな二人のやりとりが沈み気味だったその場の雰囲気を和ませる。
「ねぇ、サンドラとビルがいないよ」
尋が部屋を見渡して訊く。
「二人は、潮風に当たってくるって行って、少し前に出て行ったわ」
ふーんと尋は呟いた後、ガバッと身体を起こした。
「蚊取り線香持っていった?」
「え?」
「持っていった?」
みぞれが小首を傾げる。
「多分持っていってないと思うけど・・・」
「大変だ!」
尋が立ち上がる前に海が立ち上がり、居間の箪笥から蚊取り線香のセットを取り出す。
「ほら、届けてあげな」
「海岸の後ろの藪から、大きな蚊がたくさん来るんだよ」
島に来たばかりの頃、海岸で散々遊び尽くしてそのまま眠りこけた二人は、次の日蚊に刺された跡で全身埋め尽くされ、酷い目にあったことがある。それを思い出して言っているのだ。
「行ってくる!」
尋はライトも持たずに、縁側を飛び出して行った。
星屑が今にも零れ落ちてきそうだ。
熱帯の甘い空気が、波の囁き声と相まって神秘的な世界を演出している。
ライトなどなくても、月明かりだけで歩くことができた。
「サンドラ、ビル!」
呼びかけても返事はない。
浜辺がよく見える小さな丘の上に立っても、浜辺には人影がない。
「あれぇ?」
蚊取り線香の入った容器をブラブラさせながら、もう一度目を凝らす。
「あ、いた」
浜辺の片隅にある小船の中に、ビルとサンドラらしき人影が見えた。
尋は少し驚かせてやろうと、小船の中から見えにくい裏側に回って、足音を忍ばせる。
声をかけようというところまで近づいた時、サンドラの声が聞こえた。
「あ・・・、あぁ、ビル・・・」
尋は驚いて声を上げそうになって、片手で口を塞いだ。
船の中の様子をマジマジと見つめる。
「あぁ、とても気持ちがいいわ、ビル。あなたとのセックスは最高よ・・・」
サンドラがそう呟き、ビルと情熱的な口付けを交わす。
尋は顔を真っ赤にすると、二人に気づかれないようにしながら、慌ててその場を走り去った。
慌しく尋が帰ってきたのを見て、海は怪訝そうな声を上げた。
「あれ? 蚊取り線香渡してこなかったのか?」
尋はやっと気がついたというようにハッとして自分の右手に下がっているものを見ると、「見つけられなかったんだ」と早口でまくし立てて自分の部屋に消えていった。
海は首を傾げる。
「ヒロはどうかしたのかな?」
ブルースも心配げに尋の消えていった先を見つめる。
「ちょっと見てきます」
海が腰を上げると、台所からみぞれが出てきた。
「大体片付けは済ませておいたから。・・・どうしたの?」
「いや。ちょっと機嫌が悪くなったみたいだ。様子を見てくる」
「じゃ、私達はもう失礼するよ。もう夜遅い時間だからね。ヒロも疲れたんだろう。明日は早いから、休ませて上げてくれ」
「すみません、ブルース」
海が肩を竦めて言う。ブルースは、居間に残っている連中を叩き起こして、隣の民宿に帰っていった。
「私も明日のお客様の準備があるから。ごめんね、お兄ちゃんが迷惑かけちゃって」
すっかり酔いつぶれた情けないアニキの腰を、みぞれがパチリと叩く。
「いや、みぞれちゃんが来てくれて助かったよ。こちらこそごめんな。片づけまでさせて」
「いいのよ。それが趣味だから。ほら、お兄ちゃん! 起きて!!」
「んぁ・・・・? ジャックは・・・・?」
「とっくの昔に部屋に帰ったわよ」
結局駿作は、妹に腰を叩かれながら、覚束ない足取りで民宿に帰っていった。
あの様子では、明日の朝の漁は無理だろう。
「・・・明日の民宿の飯・・・淋しそうだな」
海は一人きりになった居間でそう呟くと、奥の部屋に向かった。
尋は、蚊帳の中の夏布団にもぐりこんでいた。
まだ心臓がドキドキしている。
話には聞いたことがあったが、大人のセックスというのをもろに見てしまった。
多分、自分にも経験はあるのだろうが、あの事件以来そんなこととは無縁だった。記憶をなくしてしまった自分は、もちろんやり方なんて知らないし、海もずっと一緒に住んではいたが、そんなことをする素振りも見せない。この5年間、一度も、だ。
モデルの仕事で島の外に出る時には、友達になった他のモデルから、そっち方面の話を聞かされることはあった。
恋人なら、心の愛を交わすのも大事だけど、体の愛を交わすことも重要だ、と。
でも海は、「そんなことは必要ない」という。まだ早いと。
そういうのは、好奇心にかられてするものじゃない。本当に必要な時がきたら、自然と訪れるものなのだから。
確かに、他の人の話を聞いていたら、なんだか物騒そうな話だし、ちょっと怖かったから、海がそう言ってくれて正直ほっとした。
そんなことをしなくても、海は自分のことを好きでいてくれると言ってくれたのだ。
でも・・・。
さっきのサンドラは、本当に幸せそうだった。
何だか酷く苦しそうな声を出していたが、その顔には幸せが滲み出ていた。
そんなに・・・気持ちのいいものなのかなぁ・・・。
男同士でも、できると聞いた事があるけど、どうやってするんだろう。
海は、やり方を知ってるのかなぁ。
「おい、尋」
ふいに海の声がして、尋はビクリと身体を震わせた。
バサバサという音をさせて、海が蚊帳の中に入ってくるのを感じる。
「どうした? やっぱ昼間日に当たり過ぎて、具合悪くなったんじゃないか?」
海が布団を捲ってくる。
尋は慌てて布団を押えた。
こんな顔を海に見られたくない。恥かしい・・・!
「本当に大丈夫か?」
心底心配そうな声の海に、「大丈夫だから、放っておいて!」とついついきつい口調でやり返してしまった。
「あ、そ」
海は少し気分を害したらしく、あっさりと手を引くと、隣に敷いてある自分の寝床に入っていった。
尋はそうっと海の方を盗み見る。海の目とバッチリ合ってしまった。
またもや海の策略に嵌ったことを尋は知った。
「何かあったか?」
優しげな目が尋を見つめている。その瞳を見て、尋は益々顔を赤くした。
その途端、下半身がズキリと疼くのを感じる。
尋はビックリして、思わず股間を手で押えた。
海が布団から身体を起こす。
「・・・尋・・・お前?」
尋は恥かしくなって、海に背を向けた。
こんなの恥かしい。嫌われる。
「尋。ちゃんとこっち見て。正直に言ってくれよ」
海の手が、肩に掛かる。尋の体がビクリと震えた。
「触るな!」
「・・・尋」
「・・・き、嫌わないで・・・」
蚊の鳴くような声で尋が言う。
海は、尋の身体を強引に起こした。
「いやだ!」
尋は俯いて、布団で股間を隠す。
「どうして俺が尋のこと嫌うんだよ。そんな離れ業ができると思ってんの?」
いつもの海の口調だ。尋はソロリと顔を上げる。
「本当のこと言ってくれないと、分からない。不安だよ、尋。尋が困ってんのに、俺が何も手助けできないなんて」
海は俺の太陽だ。いつだって俺のことを一番好きでいてくれる・・・。
尋は、海をぎゅっと抱きしめ、すぐに身体を離した。
海の体から香るお風呂の匂いに、益々股間が痛くなる。
「サンドラとビルが・・・」
「サンドラとビルが?」
「・・・そのう・・・『気持ちのいい』セックスをしてた。最高だって、言ってた」
今度は、海が顔を真っ赤にする番だった。
「お前・・・、見たの?!」
尋はコクリと頷く。
「凄かった」
海は頭を抱える。
別にその部分を避けているつもりはなかったが、実際にはやはり避けていた。
この5年間、尋に何も感じなかったというのは嘘になる。だが、海はそういう意味で尋に触れたことは、この5年間皆無だった。キスすらしていないのだ。
記憶をなくし、幼い子供同然の状態にまで陥った彼を前にして、性欲の対象にするのは気が引けたからだ。
でも、今目の前の尋は・・・。
「サンドラとビル見た時はただビックリしただけだったけど、さっき海に見つめられて、何だか変な気分になった。俺のここがビルと同じになっちゃって・・・こんなの・・・恥かしいよ、俺・・・」
今にも泣き出しそうな顔をしている。
ダメだ。尋にこんな思いをさせるのは、間違っている。
海は慌てた。そして言う。
「恥かしくなんかないよ。当たり前のことなんだから」
尋が顔を上げる。
海は、尋の目を真っ直ぐ見つめて言う。
「尋は俺のこと好きでいてくれているだろ?」
「うん。大好き」
「だから、そこがそうなるんだよ。間違いじゃない。俺を見て、そう感じてくれるのなら、俺も嬉しい」
海は、尋の手を取って、自分の股間に押し付けた。
布越しに尋の体温を感じて、そこはすぐに反応を見せる。
「・・・あ・・・。俺と、同じになった・・・」
海は、はぁと溜息をつく。
「俺も、尋のことを愛してるから、ここがこんなになる。ちっとも恥かしいことじゃない」
「サンドラもビルも幸せそうな顔してた・・・」
尋の表情が明るくなる。
「とってもきれいだったんだ・・・」
「愛し合っているからだよ。俺達みたいに・・・」
海はそう言って、瞼を開いたままの尋に口付けた。そっと。
顔を放すと、尋は驚いた顔をしていた。
「今のがキスだよね」
「そう」
「・・・すげぇ! 何だか、よく分かんなかった。分かんなかったけど、スゲェ。もう一度してくれよ。もっと分かるように」
海は、なぜか神様にすみませんと謝りながら・・・しかし、なぜ謝る必要があるというのだろう・・・、尋に再度口付けた。今度は、深く熱い大人のキスだ。
「・・・う・・・ん・・・」
背中に回った尋の手が、海のTシャツをぎゅっと握る。
顔を放すと、尋が大きく息をした。息を止めていたようだ。大人のキスをするには、もっと勉強が必要である。
「大丈夫か?」
海が顔を覗き込むと、尋は肩で大きく息をして、にっこりと微笑んだ。
「苦しいけど、気持ちいい。こんなことだったら、もっといっぱいしとくんだった」
意外に屈託のない尋を見て、海は安心する。身体は興奮しているのだが、心はなぜか平穏で、不思議な気分になった。
「俺もセックスしたい。海とセックスしたい。ダメか?」
必死な表情をして尋が訊いてくる。海は頷いた。
「いいよ、尋。しよう、セックス」
再度尋にキスをしながら、布団の上に押し倒す・・・。
<以下のシーンについては、URL請求。→編集後記>
次の朝、尋が目を覚ますと、自分の身体の下で海がイビキをかいていた。
尋はガリガリと頭を掻く。
海。おっさんみたい。
夕べの魅惑的な海を思い浮かべながら、再度イビキをかいている海を見下ろして、尋は少し笑った。
そしてぼんやりと開け放した戸から見える海を眺めながら、尋はハッとする。
「今、何時?!」
口ではそう言いながら、外の日の具合でとっくの昔にブルースとの約束の時間が過ぎていることを感じていた。
海も、尋の声に目を覚ましたらしい。
「・・・何?」
「何じゃないぜ、海! 撮影時間!」
バタバタと慌てて脱ぎ散らかした服を着て、蚊帳を飛び出す尋を見て、海も顔を青くする。
蚊帳の外に転がしてある腕時計を見て、益々顔が青くなった。
「やべぇ・・・。もうお昼じゃん・・・」
保護者として、失格だ、こりゃ。
海も慌てて服を着て、尋を追いかける。
「おい!尋!夕べの今日で、そんなに急に動いて、大丈夫か?!」
波打ち際にブルースの姿を発見し、一目散で駆け下りる尋に、思わず海は大声を上げた。そしてハッとして手で口を塞ぐ。
幸い、波打ち際にはブルースしかいない。
「もう一仕事終えているから、安心したまえ!」
ブルースは海に向かってそう言うと、にっこりと微笑んだ。
ドタバタの撮影セッションを終え、ブルース達一向が島を去って一ヵ月後、尋と海の手元にエニグマの最新号が送られてきた。
不屈のコーディネーター、伊藤理沙の手紙つきだった。
『ブルースの写真を見て、あなた達の本当の美しさを思い知ったわ。悔しいけど、また私はあなた達の島を訊ねることになるでしょう』
短い走り書きのような手紙だったが、それが理沙らしかった。
「早くページ捲って」
催促する尋の声に、海はややもたつきながらビニールの被いを外すと、ごほんと咳払いしてページを捲る。
ブルース・アンダーソンの名が大きく印刷されたページ。
尋の海を見つめるエキセントリックな表情。
「いい写真だ・・・・」
少し鮮やかさが抑えられた、優しい色合いの写真。
いろんな尋がいる。
海しか知らないような表情まで、逃さず捉えているのは流石だ。
「きれいだね。まるで俺じゃないみたい」
「あ、これ、すました顔してる。あはは」
二人であれやこれやいいながらページを捲って、最後にふと手が止った。
『earthly paradise』
真っ黒いページに、白抜きの文字。
その隣には、裸で抱き合い穏やかに眠る尋と海の姿を、肩から上の部分アップにした写真が掲載されていた。
「なんじゃこりゃ!」
顔を真っ赤にしながら海が叫ぶ。
それを見て、尋がケタケタと笑い転げた。
「笑ってる場合か、尋!! 見られたぞ、ブルースに! 丸裸なところを!!」
「いいじゃん、別に!」
尋が海の手から雑誌を取り上げて、縁側から浜に向かって走り出す。
「おーい! 駿作さぁん! 雑誌きたぁ!」
雑誌を掲げて走る尋を、海が追いかける。
「ちょ、ちょちょちょ、ちょっと待ってって! 尋! 尋!!」
砂浜に、二人の姿が溶けていく。
青緑の波が二人を飲み込んだ。
さっぱりとした潮風。
優しい潮の香り。
この島に降り立った者を訳隔てなく歓迎してくれる、スピリチュアルな空気・・・。
ページの最後には、尋と海の名前が印刷されており、こんな言葉が添えられてあった。
『あなたの楽園もすぐそこにあるはず』、と。
楽園 end.
NOVEL MENU | webclap |
編集後記
随分、随分、随分とお待たせをいたしました!!
やっと書けました。本当に。
長い間お待たせした方々、ごめんなさい。
何だか山も谷もないお話になってしまいましたが(汗)。
そしてまたもやのURL配信・・・。
すみません。いまだなお、不器用者(いや、堅物者か)で・・・。
島での日常ということで、島に移り住んだ海と尋の普段の生活をそのまま写し取った形になってしまいました。なんだか、絵日記状態。
ちょっとガキな感じの尋、不気味なんですけど(図体は大人なんでね・・・)、それを猫かわいがりしている海が微笑ましいというか。
辛いこととかあっても、二人なら大丈夫!って感じが伝わればいいかなぁと思ってます。
そして駿作のいい加減な訛り具合(笑)。適当に書いているので、突っ込まないでくださいね(汗)。訛っているというのが伝わったらいいです(←もはや雰囲気だけで書き流ししてる・・・)
しっかし、久々にラブ度まっしぐらの話を書いたような気がする・・・。あじゃじゃ(赤)。
よければ、また感想なんかをいただけると、とっても嬉しいです。
今回の大人シーン、内容的にはあんまり艶っぽくないかも(汗)。あまりにウブすぎて・・・。
期待させると、「なんじゃこりゃ(松田優作風)」なことになるので、一応お断りさせていただきます・・・。エロくないっす、あんまり。ほのぼの路線です。
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