act.08
ドアを数回ノックしても、まったく返事がない。
留守かな・・・と久住が引き返そうとした時、立て付けの悪い化粧板張りの安っぽいドアが、細く開いた。
「なんだ、海。いるんじゃないか」
ドアを透かしたまま奥に行く海を追って、久住は室内に入った。
室内の様子に、一瞬久住は息を呑む。
辺り一面にクロッキー帳から破り取られた紙が散乱し、足の踏み場もない。
天気のいい朝だというのに、分厚いカーテンも開けず、電気もつけず、まるで今にもカビが生えてきそうな雰囲気だ。
「おい、おい、なんだ。この有り様」
久住の言葉に、海が振り返る。
「どうしたんだ、お前。その顔・・・」
おそらく、久住でなくとも、この場合、普段の海を知る者なら誰でもそう言うだろう。
両目の下の酷いくま、カサカサに乾いた唇、二、三日そのままの状態の無精ひげ。何があったか知らないが、まさに最悪のコンディションの海がいた。
── まずいな。スランプにでも落ちたか。
久住は、心の中で舌打ちをする。
── しかし、今度の仕事はさほど難しい仕事じゃないはずだが・・・。
「おい、海。湯島コーポレーションのパンフレットのイラスト、できてるのか。今日だぞ、締め切り」
久住自身、嫌な予感を感じながら言ってみる。次の海の表情で、その予感が的中したことを思い知らされた。
海は、久住にそう言われて、一瞬言われた意味が解らないといったような表情を浮かべた後、大きく深呼吸するように溜息をついた。
「ワリィ・・・。今から、描く」
今度は久住が溜息をつく番だった。
「おい、バカも休み休み言え。今からやって、間に合う訳がないだろう? フルカラーだぞ。絵の具が乾くもんか。── まぁいい。せめてラフスケッチを上げてくれ。今日は取り合えずそれで乗り切る」
「 ── 判った。大きな木があるようなイメージのやつだよな。どこか抽象的な感じもあるようなやつで」
「そうだ。なんだ、しっかり解ってるじゃないか」
部屋の入口で久住が見守る中、海は重い動きでその辺の紙屑をあさりつつ、鉛筆とクロッキー帳を手に取る。
その場に座り込んで、しばらくの間鉛筆を動かしていたが、ふと彼はその手を止めた。
力が抜けきった海の手から、鉛筆とクロッキー帳が滑り落ちる。
「なんだ、海。どうした」
「・・・・」
「え? 何? 聞こえない。何だ、頭、痛いのか?」
「描けない」
「は?」
「ごめん、遼さん。描けない、俺」
海は、頭を膝に埋めてそう呟いた後、ガバッと立ち上がって一方的に部屋を出ていった。久住が唖然としている間に。
「おい、海! 待てよ、お前! 描けないって、どういう意味だ! 現にお前、部屋一杯に散らかるほど、スケッチしてるじゃないか!」
久住はそう怒鳴って、紙が散乱した部屋に入り、さっきまで海がスケッチしていたクロッキー帳を手に取った。
思わず、あっと声が漏れる。
そこに、大きな木などなかった。
あの青年の横顔。
すっきりと整っていて端正な、けれど途方もなく悲しい表情をしたあの青年の横顔。
久住の背筋に、寒気が走る。
── まさか・・・。
久住は、自分の足下に広がる紙に目をやった。
目を凝らす。
顔。顔。顔。
どれもが、あの青年の顔。
どれをとっても負のエナジーに満ちた、悲しみがたくさん詰まった青年の顔・・・。
久住は、慌ててその部屋から飛び出た。台所の板の間から、後ろの部屋を振り返る。
まるで、その部屋だけ、見えない霧のような膜が被っているかのようで、久住は身震いした。
たかが絵に、まるで生気を抜き取られる恐怖を感じ、久住は外に出る。大きく深呼吸をした。
「── どういうことなんだ。一体、どうなってる・・・」
久住は、額から流れる冷や汗を袖口で拭った。
「ごめん、待った?」
京子はテーブルにつくなり、あることに気がついた。
今夜の久住は、彼にしては本当に珍しく、ひどく感情的に気分を害している、と。
かろうじて最後に残った理性で、怒鳴り散らしたい気持ちを抑えてはいるようだが、今にも目の前のグラスをどこかに投げつけそうな雰囲気である。
「どうしたの。珍しく、目がイッちゃってるわね」
「イッちゃったのは、海の方だよ」
「海? ちょっと待って。どういうことよ」
「お客様、ご注文は・・・」
「あ、ホワイトレディちょうだい」
会話が遮られ、久住がロックグラスに口をつける。
それで少し落ちついたようだ。
「うちで頼んだ仕事で、今日締め切りの分が上がらなかった。まぁそれはいいんだが、問題は、海がヤツの絵しか描けなくなったようだということだ」
「ヤツって・・・、辻村尋?」
「そ。辻村尋。部屋中一面、辻村尋。危うく溺れるところだった。その辻村尋に」
「ああ・・・。そう・・・」
京子は、ゆっくりと背もたれに身を預ける。
── それで、辻褄があったわ。
京子は久住の愚痴を聞きつつ、心の中でそう思った。
実は、今日。
ついさっきまで海と会っていたのだ。
会っていたというよりは寧ろ、あっちがフラフラさまよっているところを捕まえたというのが正確だが。
自分の手がおかしくなっただの、ひとつのことしか考えられなくなっただの、海の言うことはまるで芯が抜けていて、京子が何を訊いても、すっかり興奮した様子で譫言のように同じことを何度も呟くのだ。
かなり情緒が不安定で参っている様子だったから、一先ずホットミルクを飲ませた。家には帰りたくないと言うので、今海は京子の部屋で眠っている。ホットミルクのお陰か、寝入り込むのは穏やかだった。
むろん、このことを久住に伝えるつもりはない。
こんな様子の久住じゃ、本人はそんなつもりはないにしろ、海を追い込んでしまう。
確かに、海が仕事を期日までに上げなかったのが悪いのだが、今の海はとにかく酷く傷ついている。
「なぁ、京子、聞いてるのか?」
「はいはい。ちゃんと聞いてるわよ。で、今日私を呼びだしたのは、ただ単に愚痴を聞かせるため?」
「愚痴ってそんな・・・って、やっぱ愚痴か。だめだ、俺も引きずられてる」
久住が、今日おそらく十数回目の溜息をついて、頭を緩く横に振った。
「あのさ、あの学生の住所判るか」
「辻村尋の?」
「そう」
「私が、知ってる訳ないでしょう」
京子は、顔をしかめてカクテルを口に含んだ。
「そうか・・・。そうだよな。知る訳ないよなぁ」
久住の頭が、ガックリとうなだれる。
ピスタチオをかじりながら、京子はふと気がついた。
「あ、でも彼女の住所なら判るわよ」
「え?」
久住が、顔を上げる。
「ほら、辻村君の彼女。まりあちゃんだっけ? 彼女、海の展覧会の奉加帳に住所と氏名書いてったわよ、確か。辻村君は、書いてなかったけど」
「そうか。奉加帳か。気がつかなかった。京子、お前、天才! さすが、伊達に年取ってない! サンキュー!」
久住は、途端に上機嫌になると、グラスの中身もそのままに、ヌメ革製の飴色の鞄を掴んで店を出ていった。
「ちょっと! 人をババア呼ばわりした上に、勘定まで払えって言うの! なによ、たった5つしか違わないじゃない。 ── クソ、言ってる自分が惨めだわ」
京子は自分のグラスだけじゃ飽きたらず、久住の残していったウイスキーを煽り飲んだ。
京子が部屋に帰ると、バスローブ姿の海が丁度洗面所から出てくるところだった。
「ごめん、京子さん。シェーバー勝手に借りた」
タオルで顔の水滴を拭いながら海が照れくさそうに言う。
なるほど、無精ひげがなくなってさっぱりした顔つきをしていた。
しかし、さっぱりした顔に見えたのは、髭がなくなったせいだけではないようだ。ぐっすりと眠ったせいで、随分と落ちついたらしい。
京子は胸を撫で下ろすように溜息をつくと、「いいのよ。あのシェーバー、遼一郎の忘れ物なんだから」と言ってハイヒールを脱いで靴棚に入れた。
「遼さん、まだここに来てるの?」
少し怯えた様子でそう言う海に、京子は苦笑いして海の額を指で小突いた。
「来ないわよ。まったくこうなったのも誰のせいだと思ってんの?」
「・・・ごめん」
二人の仲が以前と少し様変わりしたことを薄々感じている海は、自分にその原因があることも分かっている様子だった。再び落ち込んだ様子の海に、京子は背伸びをして海の髪をグシャグシャとかき乱した。
「しおらしくなんてしないで。海らしくない。それよりお腹減ったでしょ。夜食作ってあげる。簡単なパスタしか作れないけど、いいでしょ」
海はコクンと頷いた。その海に、さっき閉店ギリギリ滑り込みで買ってきた白ワインのボトルを渡す。
「それ、冷蔵庫に入れておいて。それから、着替えるなら寝室のクローゼットの一番下に遼一郎の服が一式あるからそれを着てなさい。下着はそこのコンビニの袋に入ってる。久しぶりに男の下着なんか買ったから、ちょっとドキドキして楽しかったわよ」
京子がそう言うと、海がアハハと笑った。──よかった。元気出てきた。内心京子はホッとしつつ、ダイニングキッチンに向かった。
ペンネ・アラビアータができる頃には、海も着替えを終えてダイニングキッチンのテーブルについた。
遼一郎の服はサイズが大きいのか、コットンパンツの裾もボタンダウンのシャツも裾や袖口を何回も折り返して着ている。その何だか子どもじみた様子に、京子は大きな声を上げて笑った。
「身長が違うんだから仕方ないだろ!」
ムキになって言う海は、もういつもの海だった。
「分かってるわ。分かってるって。ねぇ、ワイン開けて」
冷蔵庫から程良く冷えた白ワインを出して、テーブルに置く。
海はまだ少し憮然とした顔で、黙々とワインの栓を抜いた。その間に、京子は器用にテーブルをセットしていく。
ランチョンマット代わりのざっくりとした帯状の布の上に一人分のできたてのパスタと簡単なサラダ、スープボールが並べられた。
口の細いワイングラス二つにワインを注ぎ、グラスのひとつを海の方に差し出す。海がそのグラスを受け取ると、京子は勝手に自分のグラスをそれに打ちつけ、「ちびの海にカンパイ」と言った。海は顔を赤らめながら、京子を見上げ「ちびなんかじゃねぇよ」と悪態をついた。
京子はにっこりと微笑むと、海の向かいの椅子に腰掛ける。
「いただきます」と両手を併せる海を眺めながら、彼女はワインを啜った。
海はなかなか見事な食べっぷりで、ここのところろくな食事も取っていなかったことが窺えた。そんな海を見ていると、どうしても保護欲が掻き立てられる。
京子は、久住が海の面倒を見ることで精いっぱいになる気持ちも充分理解していた。それでなければ、二人が別れた原因である海をこんな目で見つめることなんてできない。
京子自身も、海が可愛くて仕方がないのだ。
実際、久住も京子も父親・母親の心境で海をずっと見守ってきた。
この小笠原海という青年は、他人の痛みには敏感なのに、自分が傷つけられることに対しては酷く鈍感だ。そして気づいた時には傷が深く成りすぎていて自分ではどうしようもなくなっている時がよくある。しかしこんな海だからこそ、あんなに素晴らしい絵が描けるのだと京子は思っていた。
小笠原海は、強くて脆い。
だが人々は、そんなアンバランスさにたまらなく惹かれるのだ。自分がなくしてきた純粋さを見せつけられるようで。
「ねぇ、そろそろ聞いてもいい? 何があったのか」
海があっと言う間にパスタを平らげゲプッとしているところを見計らって、京子はそう切り出した。海の動きが一瞬止まり、やがて上目遣いで京子を見つめてきた。
「言いにくい?」
京子が小首を傾げると、海は首を横に振った。ワインを一気に飲み干して一息つくと、海は口を開いた。
「京子さん。俺、好きな人がいる。 ── いや好きな人ができた」
海のその発言に、ある程度のものを予想していた京子も正直驚かされた。
なまじ久住にされた話が頭に浮かんだから余計である。
京子は、何とか表向きの表情は穏やかに取り繕ったが、内心は穏やかでなかった。感の鋭い京子は、海のこの様子と久住の話を総合して、海の想い人を素早く割り出していた。
── 海の想い人は・・・。
「俺、辻村尋のことが好きだ」
海が姿勢を正して真っ直ぐと京子を見つめてくる。その真摯な瞳に、京子はドキリとした。
「京子さんも知ってるだろ。俺の個展に来てたやつだよ。覚えてる?」
「えっ! ええ、ええ。簡単には忘れられないわよ、あんなきれいな子は」
京子は迷わず本音を言った。
しかし、その後思わず口ごもってしまう。
「で、でも海、きれいと言ってもあの子は・・・」
「分かってる。男同士だってことは」
遮るように海は言った。だが、その揺らぐことのない瞳は、もう動揺はしておらず、昼間の海とはまるで別人のようであった。海は潔く心を決めたらしい。
「躊躇いはあった。また人をこんな風に好きになることなんてもうないと思ってたから」
以前、酷い失恋を体験している海のことを知っている京子は、それが正しく海の本音であることが分かった。
「しかも同性同士って、かなりリスク高いよね。・・・でもダメなんだ。もう止めようがないんだ。その気持ちを無理矢理抑えようとしてたら、ついにパンクしちまった。ほら、俺って堪え性ないから」
そう言って、海は照れ笑いをする。
「 ── 京子さん・・・、尋ってねぇ、ああいう顔してるでしょ。だから誤解されやすいんだと思うけど、本当にひとりぼっちな寂しがり屋なんだよね。カッコイイから幸せじゃんって思われがちだけど、それが返ってアダになって、抱えなくてもいい傷をたくさん心に押し込んでる。 ── なんか、悲しくなっちゃってさ。神様も酷いことするよって・・・。俺、ただの偽善者なのかもしれないけど、いじっぱりで不器用でどうしようもなく寂しげなあいつ見てたら、居ても立ってもいられなくなって。気づいたら、好きになってた。あいつを思いきり抱き締めてやりたい。もう、ゆっくり休んでいいよって言ってやりたい。そう思ったのに、また逃げられちゃった。つくづく俺もドジだよね」
ヘヘヘと海は悲しげに笑う。
「心当たりは全部探したけど、バイト先にも学校にも姿表してない。画廊に一緒に来てたあの女の子も行方不明。もうどうしていいか分かんなくて、一生逢えないのかなと思ったら、途端に感情が溢れ出してきてとまんなくなった。たまんないよ・・・。恋しくて・・・。ねぇ、京子さん。・・・やっぱ俺、間違ってんのかな?」
一瞬京子は、何と答えていいか分からなかった。
ただ、大きな瞳に涙を浮かべ、辻村尋のことを必死に語る海は、文句無く美しかった。
その海を誰が止められるというのだろう。
「遼さんにももう迷惑かけてるし、京子さんにも迷惑かけた。多分これからも迷惑かけると思う。先に謝っておくよ。ごめんなさい」
畏まって頭を下げる海に、京子は慌てて声を上げた。
「やめてよ、らしくないじゃない。こっちがテレちゃうわよ」
自分の頬が赤らむのを感じて、京子はワインを煽った。海は、少し笑みを浮かべ「ごめん」と小さく言った。酷く大人びた表情だった。
── こんな顔もできるようになったのねぇ・・・。
京子は正直、男の色気を急に沸き立たせた海に舌を巻きながら、そうさせたのは間違いなく辻村尋なんだということを痛感した。
「遼一郎はともかく、私はこういう風にしか言えないわ。海、あなたの好きなように生きなさいな。あなたは人生の大切さを誰よりも知ってる。そうでしょ?」
海が酷い事故で生き残ったことも熟知している京子にそう言われ、海は頷いた。
「また人を愛することができてよかったじゃない。 ── あら、変ね。私が泣いてどうするのよ」
京子は目尻を拭いながら鼻を啜る。海が近くのティッシュボックスを京子に渡した。
「でも大変ね、海。彼に会いたくても、居場所が分からないんでしょう?」
「そうなんだ・・・。ヤツのバイト先によくしてくれる人がいて、その人にも訊いたんだけど、バイト先の店に残ってる住所って、引っ越しする前の住所でさ。今どこに住んでんのか、全然分かんないんだって。もとより人と距離を置くようなヤツだから仕方ないけど・・・。電話かけても、通じすらしないんだ。その香倉さんって言う人も困ってたよ。こっちも連絡が取れないって」
京子は、ティッシュで両目を抑えながら、考えを巡らせる。
「その一緒に来てた女の子って、辻村君の彼女じゃないの?」
「尋は違うって言ってた。 ── あいつ、ジゴロみたいなことも店の店長に頼まれてしてるみたいだから」
「ふ~ん・・・、そう。その子、有名なところのお嬢さんなんだって?」
「そう。白井物産のご令嬢」
「あっそう。・・・彼女の方は、めちゃ惚れってことか。行方不明ってことは、辻村君といる可能性も高いってことよね。・・・わかった。ちょっと私にアイデアがある」
「京子さん?」
何だか怪しい様子の京子に、海が妙に顔を歪める。
「今回、遼一郎には悪いけど、ちょっと事情が変わってきたわ。あたしが一肌脱ぐから、あんたは黙ってついてらっしゃい」
こうなったら京子は、完全に海の保護者気分である。
女というものは、母親になったその瞬間が一番強いというのは、あながち嘘ではないらしい。
神様の住む国 act.08 end.
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編集後記
子供だ、子供だと思っていた子が急に大人びた表情を見せる時ってドキッとしますよね。海はとっくの昔に成人してるんだけど、なんか子供みたいなヤツで、この回に関しては、京子共々急に大人びた海にドキッとしたのです。少年から青年にかけて成長していく危うさっていうか、なんていうか。でも、あくまで成人はしてるんですけどね、海は。
さて、来週はいよいよ第一回目のクライマックスです。どうなるんでしょうね?
[国沢]
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