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nothing to lose title

act.12

 尋が一ヶ月半ぶりに自分のマンションに帰宅した時、部屋は惨憺たる状態だった。
 留守番電話用のテープの残骸が床に転がり、ずたずたに引き裂かれた絵が周囲に撒き散らかされていた。リビングの中央には、誰かが吐いた跡がひからびて残っていた。
 自分が居なかった一ヶ月半の間に、何かが海の身に起こったことは明らかだった。
 尋は、散らかった自分の部屋もそのままに、海の家へ急いだ。
 しかし、海の家のドアにはしっかりと鍵がかけられており、中から人の気配はしなかった。ドアの下に新聞が山積みなっているところを見ると、海自身もしばらくここには寄りついていないことが窺えた。
 もう一度自分の部屋に戻った尋は、散らかった部屋をさらにひっくり返して久住の名刺を探した。名刺は、Gジャンのポケットに入っていた。
 まだ昼休みに突入していないことを腕時計で確認して、尋は久住の会社に電話をかけた。
『はい、変わりました。久住です』
「辻村です」
 尋が名前を名乗ると、一瞬沈黙が流れた。
『 ── 君が訊きたいことについては見当がついてる。しかしここでその話題に触れるのはまずい。外に出て来てくれないか。2時に新宿のフェアリー・カフェという喫茶店で待っている。知ってるか』
「はい。あのオープンカフェのような店でしょうか」
『そうだ。人で賑わっているような店の方がいい。じゃ、2時に』
 そう言って電話は切れた。久住の声の調子を聞くと、久住は尋にいい感情を持っていないことは簡単に想像ができた。
 尋は、あとの時間を部屋の片づけに費やし、12時には家を出た。
 久住との待ち合わせ場所であるカフェには1時過ぎに到着し、出入口の様子が分かる席に座ってレギュラーコーヒーを注文した。
 すぐにきたコーヒーは、なかなかいい薫りを漂わせていたが、口をつける気にはならなかった。
 久住が姿を現したのは、2時を10分ほど回った時刻だった。
「すまない。待たせた。── 席を替えよう」
 尋は、久住に連れられて店の奥の席に座った。
 しかし店の奥までいっぱいになった店は、BGMが聴き取れないほどの騒がしく、確かにこれほどの音なら、かなりの大声を出さない限り人の注目を受けたり話を盗み聴きされる心配もない。
 久住は自分のためのブレンドと、尋の冷めたコーヒーを取り替えてくれるように店員に頼んだ。
 久住はタバコを取り出して、「構わないかな?」と訊いた。尋は「俺も吸いますから」と言ってライターを取り出し、久住のタバコに火をつけた。
 久住は大きくタバコの煙を吸い込むと、深呼吸するかのように煙を吐き出した。少し唇を舐めてから、尋の顔を見やる。
「君は俺に、海がどこにいるかを訊きたいんだろ?」
「はい」
 尋は即座に答えた。コーヒーカップが2つ運ばれてくる。「ま、飲みたまえ」と久住に勧められ、「いただきます」と温かいコーヒーに口をつけた。
 久住はカップに口をつけず、なおもタバコをふかしながら言った。
「実は俺もそれが知りたいんだ」
 小さな衝撃が尋の身体を包む。久住はそれを見越していたようだ。
「もう二日も前からヤツは姿を消した。心当たりは全部捜して、君の家にも五回は通った。実家にも連絡を取ってみたが、姿を現していない。お手上げだ」
 久住は髪を掻き上げ、溜息をついた。
「誰のせいだと思う?」
 その疲れたような口調には刺があった。
 尋がゆっくりと目線を上げると、久住は黒のジャケットの懐から、茶色く煤けた紙を取り出し、白いテーブルの上にそれを投げ置いた。
 尋の顔が強ばる。
 尋の見慣れたあの新聞の切り抜きの裏らしい。真っ赤な字でこう書かれてある。
  『あんたはしょせん、この子のみがわりなのよ!!』。
「君には悪いと思ったが、君の部屋に入らせてもらったよ。そしたらこれが君の部屋に落ちてた。海は君がいなくなって以来、いつ君が帰って来てもいいように君の部屋で仕事をしていた。部屋には、白井まりあに売ったはずの絵がぼろぼろになって散乱していた。オマケにその交通事故の記事には、海の顔写真まで載っている。もっとも別人の名前がついていたけどね。これは一体どういうことなんだ、辻村君。君はちゃんと説明できるんだろう?」
 カップを持つ尋の両手が小刻みに震えた。
 ── ああ、何てことだ。まったく、何てことに。
 尋は、久住に言われた言葉よりも、新聞に書かれた赤い文字に精神を犯されていた。
 何て憎しみのこもった字。
 人間のエゴと欲望にまみれた、何て恐ろしい字だろう。
 海は、何の準備もなく、この文字に攻撃されたのだ。
 別れ際の海の瞳が目に浮かぶ。
 涙をいっぱい溜めて「愛してる」と言った海。
 ── ああ、本当に、何てことに。
「実は海が姿を消す前、電話で話をしたんだ」
 久住がそう言う。
 尋は再び顔を上げた。
「恐らく、ぼろぼろになった絵を見た直後だったんだろう。酷く動揺していた。──いや錯乱と言っていいかな。 ── 自分は全部思い出した。俺は小笠原海じゃない。辻村尋に死ねばよかったと言われた。エトセトラエトセトラ・・・。まったく訳が分からなかったよ。どう考えても普通じゃなかったんで、慌てて君の家に行ったら鍵が開いていた。だが部屋はもぬけの殻で、そこにあったのはボロボロになった海の絵と吐いたあと、そしてその新聞記事。・・・なぁ、辻村君。瀬尾貢って誰だ。海とはどういうつながりがあるんだ?」
「・・・それはこちらが訊きたいことです。海の口から、瀬尾貢の名前が出たんですか?」
 怯えた尋の声に、久住は頷いた。
「ああ。自分は瀬尾貢だと言っていた」
 しばらく尋は、声が出せなかった。
 小笠原海が、瀬尾貢。瀬尾貢が小笠原海・・・。
 夢を見ているのではないかと尋は思った。
 だが、久住の吸うタバコの煙も、自分の顔が映り込んでいるコーヒーの薫りも、どれもがしっかりとした現実だった。
 久住は、尋が口を開くことを根気よく待っていた。
 久住はどうやら尋に対してある程度の怒りを示していたが、理性をどこかにやって怒鳴り散らすような男ではなかった。
 今回判明した事実が、この辻村尋という青年にも少なからずダメージを与えていることを充分に理解しているようだった。
 尋は、全てを久住に話した。
 全て包み隠さず、海に話した時のように、今度は海と貢がうりふたつだったことも含めて全部。
 今の海に対する自分の気持ちも話し、先日まで自分が抱えていたまりあの問題についても全て話した。話し終える頃には、外の日差しもすっかり傾き、店の中の客も疎らになっていた。
 流石の久住も、この尋の話にはどっと疲れを覚えたらしい。全てを聴き終わった後の久住は、ボウッと放心した様子で何本目かに火をつけたタバコも、ろくに吸わないまま長細い灰になってしまっていた。
「── つまり君は、同じ顔をした二人の人間を好きになった訳か。しかも、それが今になって同一人物だということが分かったと・・・。こう言っては何だが、やはり君は海を瀬尾貢の身代わりとして愛したんじゃないのか? 昔の罪の意識が手伝って、そういう気分になった。どうなんだ」
 久住にそう訊かれ、尋は再び自分と向き合った。果たしてどうなんだと、久住が訊いたように自分に訊いた。しかし、あまりに恐くて答えが出せなかった。自分が何を感じ、何を思っているのか、自分自身のことなのに、まるで分からなかった。
 ずっと黙っている尋を見て、久住は遂に痺れを切らしてしまったらしい。とっくの昔に火の消えたタバコを灰皿に押しつけ席を立った。
「きっと君には一生答えは出せないだろう。君が海と会うことはもうないだろうから。君には悪いけど、もし僕が海の居所を掴んだとしても、君には知らせないよ。── もっとも、小笠原海はこの世から本当に消滅して、瀬尾貢が生き残っているいるのかもしれないが・・・」
 尋は動けなかった。
 ただ、海が永遠にこの世から消え去ってしまったかもしれないという言葉を聞いて、恐ろしいほど悲しくなった。


 その頃海は、瀬尾貢だった頃住んでいた街を訪れていた。
 貢の通っていた中学校。
 貢の住んでいた市営住宅。
 公園、川の土手、ゲームセンター。
 まるで昨日のことのように、よく馴染んだ風景だった。
 今の海は、意識があるままに2つの人格が同居した奇妙な状態だった。
 小笠原海と瀬尾貢。
 この2つの相いれない人格が、ひとつの身体の中でせめぎ合った。
 自分は小笠原海なのか、それとも瀬尾貢なのか。
 答えは、そのどちらでもあり、そのどちらでもなかった。
「死んだら海(うみ)に灰をまいてほしい」
 自分がそう言った時の尋の顔を、海は思い出していた。
 あんな悲しい顔をした尋を見るのは、あの時が初めてだった。
 ── 自分は、いつも尋を傷つけてばかりいる。貢の時も、海の時も。
 もうどうすればいいか分からなかった。ただ頭を空っぽにしたかった。
 無性に自分のこの人生を終わらせたくて、海(うみ)にも行ってはみたが、浜にいた“先客”に邪魔をされて、それも思い直した。
 とにかく、自分がなんなのか、決着をつけたい。
 新しい第一歩を踏み出したい。
 海は高速バスに乗った。
 母の墓を目指した。そこに行けば、何かの答えに出会えるような気がして。
 あれだけの事故にあったというのに、不思議とバスに乗るのは恐くなかった。
 正確には自分は、バスではなく乗用車に乗っていたのだから、バスが恐いはずがないとバスに乗った後からそう思い直した。
 小笠原の実家の豆腐屋がある伊豆までの旅は、海にとってまさに、自分捜しの旅となった。
 小笠原家の墓は、小さな街が見渡せる高台にある。
 いつも風が強く、冬場の乾燥した時期にはよく山火事を起こしていた。
 高校に入学して間もなく、家族で墓参りをした時、驚くほど近くでサイレンがなって父親と二人で野次馬をしに行ったことがある。その時は母親に腰を叩かれ、父親共々まるで小さな子どものように家に連れて帰られた。
 小笠原家の墓は、周囲の墓に比べてよく手入れをされていた。毎日足しげく父親が通っているのだろうか。墓前には真新しい花が供えられていた。
 墓石があまり大きくないこの墓には、母の遺骨だけが納骨されている。
 海の父は小笠原家の分家に当たり、小笠原家代々の墓に母の遺骨を納骨することはできなかった。
 海が記憶する限り、親戚付き合いも殆どしていなかった母だから、敢えてお墓を別に構えられたのは返って母のためになったのではと海は思っていた。
 しかし、今から考えると、母が親戚付き合いをしなかったのは、自分の息子が、事故前の本当の息子と顔が違っていたせいではなかっただろうか。
 今更ながらに、随分気苦労をかけたと海は思った。
 墓の前で、何時間座っていただろう。陽がもう西の山際に消えかけようとしていた頃、肩を捕まれ揺り動かされた。
 どうやら自分はいつの間にか眠ってしまっていたらしい。ここのところろくに睡眠をとっていなかったから、そのせいだろうと海は思った。
 海がゆっくり振り返ると、父の顔がそこにあった。久しぶりに見る父の顔は、意外なことに笑っていた。
「やっぱり俺の思ってた通りだ。そのうちお前は、絶対にここに来ると思っていた」
 父の手には、母の好物だったイチゴのパックが握られていた。
「母さんには悪いが、せっかくだ。少し分けてもらおう」
 父は海の隣に腰掛けると、イチゴのパックからセロハンをとった。
 この父の図々しさは相変わらずで、正直海はほっとした。季節外れのイチゴはかなり酸味が強く、その数分後には二人で文句の言い合いになった。あれほど自分は瀬尾貢と小笠原海という二つの名前に悩んでいたのに、こんなちっぽけでつまらないことで真剣に父と言い合いをしている自分がそこにいることに、海はおかしくなった。
 突如笑い出した息子につられ、海の父もまた笑い出す。姿はあまり似ていなくても、ある意味よく似た親子だった。
 陽もとっぷりと暮れ、街の明かりが美しく瞬き始める頃、父はことの真相を話し始めた。
 久しぶりに母の前で父親と笑い合ったせいもあるのか、海は意外に落ちついた心持ちで父の話を聞いた。
「あの日、お前は横浜に引っ越した友達のところに遊びに行くと言って、一人でバスに乗った。一番前の席だった。年は15歳。誕生日を迎えたばかりだった。受験の息抜きに丁度いいだろうと、俺も母さんも笑顔で見送った。
 次にお前に会ったのは、事故のけが人が収容された救急病院でだった。乗用車との追突のショックで、バスの通路に投げ出されたお前は、顔や身体にガラスの破片が刺さっていたり、火傷をしていたり、骨折をしていたりと、それはもう酷い状態だった。
 緊急手術の後、顔や身体を包帯でぐるぐる巻きにされたお前は、その後も三度の手術に堪えた。火傷の跡を治す皮膚移植のためだ。それでもお前は、泣かずによく頑張ったな。母さんも俺も、そんなお前を息子に持って鼻が高かった。だから、お医者さんからお前が著しい記憶障害を持っていると言われた時も、お前なら頑張れると思ったよ。そんなお前を一生懸命応援していこうって、母さんと誓い合った。
 そして・・・、お前の顔の包帯が取れた日、俺と母さんは、お前の顔が事故に遭う前の顔と少し違っていることに気が付いた。
 その日、事故処理が終わっても不振な点がまだあるからと、警察の人が来ていてな。包帯が取れたばかりだというのに、まるで尋問をするように事故のことを問いただすんで、母さんが言ったんだ。『うちの息子を傷つけることはしないでください』って。それを聞いた時、俺は心に言い聞かせた。息子の顔は、皮膚移植のせいで変わってしまったんだってね。そして母さんもそう信じた。
 それから三ヶ月後、お前が退院する前の日、母さんと二人で瀬尾さんの家の墓参りに行った。お前には内緒にしていたが、母さんが病院に入院してしまう前の年までずっと、毎年お参りに行っていた。
 ひょっとしたら、お前の身代わりになってくれたかもしれない人たちの墓だもんな。それぐらいはしなくては」
 時々、周りに寄ってくる虫を手で追い払いながら、父は話した。
 暗かったので、その表情はよく見えなかった。
 ズキズキと胸が痛む。
 ── この人は、こうしてまだ自分を本当の息子として話をしてくれる。
 血を分けた筈の息子を失い、しかも事故原因の家族の息子として身代わりにされ、そのことをすべて終わった段階で知らなくてはならなかった両親の悲しみ。
 想像もできやしない。
 それなのに、それをすべて知った上で、まだ自分のことを息子と呼んでくれる。
「── 悔しくなかったの? 息子が違う顔だと・・・違う人間だと気づいた時、本当の息子のことを思って悔しくなかったの?」
 思わず海はそう訊いた。そう訊かずにはおれなかった。
 だが父は、あまりおいしくないイチゴをまたひとつ頬張ると、呑気に鼻の頭を掻いた。
「本当の息子だったさ。お前、病室で初めて気が付いた時、俺の顔を見て『父さん』って言ったろう? あの時から、いいやその以前から、お前は俺の息子だったんだよ。お前は、母さんによく似て真っ直ぐに育ってくれた。父親の俺が言うのも照れくさいが、お前はなかなか親孝行な息子だよ。── なぁ、母さん」
 父はそう言って、後ろを振り返る。
 海も思わず振り返った。
 そこは真っ暗闇で何も見えなかったが、母が微笑んでいるように見えた。
 鼻の奥がツンとする。涙がボロボロとこぼれた。
「父ちゃん・・・」
 鼻を啜りながら海は言った。「父ちゃんの作った豆腐が食いたい」と。

 

神様の住む国 act.12 end.

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編集後記

本当に収拾がつくのかよ、おい?って感じだと思いますが。一応収拾は国沢なりにつけているつもり・・・。この話は、本当に最後まで気が抜けませんよ。来週はホントのホントに最終回。どうなることやら。

[国沢]

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