act.06
本当は、死にたかった。
死んで当然だった。
いや、それよりも、生まれてこなければよかったんだ。
そうすれば、誰も傷つけず自分も傷つかず、そう、俺達がこうして出会うこともなかったのに。
欲しくて欲しくて、そして絶対に手に入らないもの。
いつも見ていなければ、こんなに拘らなかったはずなのに。
出会わなければ、こんなことにならなかったはずなのに。
でも、全ては「イマサラ」だ。
今更後悔したって、もう遅いんだよ。
今朝から降り始めた雨は、翌日の夜遅くになっても上がることなく降り続けた。
梅雨の季節が今年は早く迫っているのかもしれない。この時期には珍しいくらいのスコールのような激しい雨だった。
香倉は、店の裏にある階段の踊り場で、ガラスを滴り落ちる水滴を見ながらゴロワーズを吹かしていた。
今日の上がりはたいしたことないな・・・そんなことをぼんやりと考えていた矢先、裏口のドアが開いて、ボーイが出てきた。
辻村尋だ。
「おい、何処へ行く。外は凄い雨だぞ。たばこでも買いにいくのか」
香倉が何気に声をかけると、俯いた顔のまま、辻村は軽く頭を下げるのだった。
「傘ぐらい持って行ったらどうだ」
再度香倉が声をかけると、辻村はようやく足を止めた。
「いえ、大した用事じゃないんで、大丈夫です」
香倉が見る限り、「大丈夫です」という辻村は、およそ大丈夫そうじゃなかった。
夕べ無断で店を休んだと思ったら、今日は唇の縁に傷を作ったやつれ顔で、死人のように店に入ってきた。
昨日何があったかは解らないが、いつにも増して今日の辻村は巷の泥を無理に被っているように見える。客の無遠慮でいやらしい手を拒むことなく、客に言われるがまま酒を煽っている。
── まったく、ボーイはホステスと違うのだが。
荒れる辻村を横目に、香倉はすっかり気分が悪くなって、外の風に当たりにきたと言う訳だ。
「お前、何かあったのか。例えば・・・── あのベビーフェイスのお兄さんとかと」
香倉がカマを掛けると、途端に辻村が動揺をみせた。
「1時間したら戻ります」
慌ててそう言って階段を駆け下りて行ったが、その瞳はギョロギョロと居心地が悪そうに忙しなく動いていた。
「反応がストレートすぎるんだよ。お前は」
もういない辻村に向かって香倉はそう言って、窓の外に目をやった。
ビルの下に、裏道には不似合いの深い青色をした旧型のベンツが止まっている。
その車のナンバープレートの一部がチラリと見えて、香倉は眉間に皺を寄せた。
香倉が今吸い込んだゴロワーズの煙を吐き出す頃には、その車に乗り込む辻村尋の姿が見えた。
香倉が舌打ちをして振り返る。と同時に店の裏口のドアがバタンと閉まった。
香倉は首を傾ける。
香倉が裏口を開けて店内に戻ると、店長の怯えた背中がチラリと見えたのだった。
尋が再び店に戻ってきたのは、一時間半後のことだった。
「おい、大丈夫か、辻村」
最悪な顔色と白いシャツのところどころに血の跡をつけている尋を見て、店長がさほど心のこもってない声で言う。
「何か、悪いことしちゃったな。あの夫婦には手荒なことはしないでくださいって一応頼んであったんだけど。この後も店、出れるか? ほら、顔には余計な傷ついてないし、着替えれば分かんないから。オーナーには内緒でやってるし、辻村いないと、香倉が不審がるからさ・・・」
「分かってますって。全然OKですよ。別に」
おどおどした声を聞くのにうんざりして、尋は遮るようにして言う。
「何か、悪いねぇ・・・。お手当、弾むから」
「別にいいですよ。めんどくさい。ほんと、こんなこと何でもないですから」
── 本当に、こんなこと、なんでもねぇ。なんでも・・・。
何度も頭の中で繰り返しながら、尋は従業員控え室に行く。
バタンとロッカーを開けて、シャツを脱いだ。
ロッカーについている小さな鏡の中の自分の唇に白く濁った残滓を見つけ、尋は深い虚しさに襲われた。
今日相手した客は、尋とは別の意味で頭がイカレているのかもしれない。
夫婦で尋の身体を散々いたぶった後、尋の身体をSMチックに痛めつけながら、夫婦で深い絶頂を迎えていた。本当にバカバカしい光景だった。
── 俺は一体、何やってるんだろう・・・。
尋の心に、ふと小笠原海の屈託のない笑顔が頭を過ぎり、情けなくて目頭が熱くなる。だが、泣き方を忘れた尋は、涙を流すことはなかった。
「こんなことは何でもない。何でもないんだ」
同じことをまた呟いて、ズボンのジッパーを降ろす。
と、背後のドアが開いた。
鏡越しに、香倉と目があった。
おそらく傷もつれの尋の背中が露骨に目に入ったのだろう。香倉は彼にしては珍しく、正直に不快感を露にした。
「酷いなりをしているな」
尋は敢えて答えず、一旦下げたジッパーを上げた。
片手間に、替えのシャツをロッカーから取り出す。
鏡を見ても一向に香倉は出ていく気配を見せない。戸口に凭れながら両端切りのゴロワーズをくわえ、目を細めて尋を見ている。
「すみません、香倉さん。着替えたいんですけど」
「着替えろよ」
「 ── 俺が着替え終わるまで、そこで見物する気ですか」
「悪いか」
ゾッとするような色香のある瞳で、香倉は尋を見つめている。
尋は、その視線に無性に腹が立った。
「あんたも、あの連中と同じだな。ハイエナみたいに、腐ってやがる」
尋は捨て鉢になってそう言った。
本来なら、香倉に向かってこんな口をきくなんて、大変なことだ。クビはおろか、場合によっては大げさでなく五体満足で店を出れないかもしれない。
だが、尋にとってはどうでもいいことだった。
別に香倉に恩を感じているつもりもない。メチャクチャにしてくれるものなら返って好都合だった。
だが、鏡の中の香倉の目は、嬉しそうに細まっている。
「お前ぐらいだな。この俺に向かってそんな口きくのは」
香倉もまた同じだった。
店の客や他の従業員の前では自分のことを「私」といい、英国紳士のような物腰で話す香倉だが、尋の前では敢えて「俺」と言う。
香倉は、ドアを閉めて鍵をかけた。
まだ半分も吸っていないゴロワーズを灰皿でもみ消すと、尋の背後に近づき、尋が今し方上げたジッパーを後ろから回した手で降ろす。そして尋が躊躇う間もなく、下着ごとズボンを引き降ろした。
香倉の目に、内股に滴る血が曝される。
目尻を多少赤らめながら、それでも抑揚のない声で、尋は言った。
「あんたも、俺を抱きたいのか」
「── ああ。抱きたいね」
そのままヤラれるかもしれない、と覚悟を決めた尋だったが、ふいに香倉の気配が遠のいた。背後で蛇口を捻る音がして、すぐに香倉が戻ってくる。
香倉は、事務的な手つきで内股の汚れを濡れタオルで拭った後、背中の汚れを拭いてくれた。
尋は、まるで香倉の子どもになったかのようにされるままになる。
身体の向きを変えられた。
尋より5センチほど背の高い香倉に顎を上向けられ、尋は光のない目で香倉を見つめた。
「まったく、酷いナリだ」
今度ははっきりと怒りを露にして、香倉は尋の口の端を拭う。
また裏返しにされて、背後から性器を拭われても、尋は呆然と床を見つめていた。そしてポツリという。
「こんなことは、なんでもない」
一瞬香倉の手が止まったが、すぐになんでもなかったかのように、身体を拭き始める。
「強いんだな。お前は」
香倉が、ぼそりと呟いた。
── 身体を動かす度に背中の傷がシャツと擦れて痛む・・・。
いつになく青ざめた顔つきをしていた尋は、結局香倉に店を追い出された。
香倉は、「そんなツラで店の中うろつかれたら迷惑だ」と彼にしては珍しい荒い口調でそう言った。
だが、店を出る尋のポケットに深夜までやっている病院の地図を書いたメモ用紙をねじ込んだところを見ると、体調の悪い尋を見かねてのことだろう。それは香倉流の優しさに違いなかった。
だが逆に尋は、自分が本当にどうしようもない人間に思えて、頭を抱えつつ店を後にした。「こんなこと、なんでもないんだ」と再び自分に言い聞かせながら。
エレベーターを降りてビルの出入口に立つと、外はしとしとと静かな雨が降っていた。
香倉に手渡された傘をきごちなく開こうとした時、ビルの向かいに立っている電柱に凭れるようにして立っている人影が見えた。
その人影が誰なのか分かった時、夜の繁華街に響くクラクションや女の嬌声がピタリと止んだように思えた。
電柱の下で、赤いネオンに照らされたその濡れネズミは。
尋の呼吸が一瞬止まった。
これは夢なんじゃないかと思った。
なぜなら、昨日自分は、あんなに酷く彼を拒絶したからだ。最後には、彼の顔に砂まで蹴り掛けるような真似まで。
完全に地に落ちたと、尋は思った。
本当に最低の人間に成り下がったと。
あの時の、自分を真っ直ぐ見上げていた海の深く澄んだ瞳を思い出すと、今でも身体に震えが走る。その海を自分は踏みにじった筈なのに。
しかし、その幻想が近づいてきて、息がかかるほどの距離まで迫られると、やはりそれは紛れもなく本物の小笠原海だということが嫌でも分かった。
── なんでこんな日にくるんだ。どうしてお前は、俺がこんなにガタガタになっている時に現れるんだ。なんで、なんで、なんで、なんで・・・!
尋の頭がパニックに陥る。
尋は目を見開いたまま、手にしていた傘を落とした。
「よかった・・・。無事帰ってて・・・。お前、帰りの足がなくて困ってるだろうと思ってた・・・」
海はそう言って安堵の溜息を洩らす。
その一言で、昨日あれから海が尋を心配して海岸線を探し回っている姿が簡単に尋の脳裏に浮かんだ。
── こいつは、俺がタクシーを拾って帰ったとは思わなかったのだろうか。
そう思うと、目の前の男の不器用さ加減に気が抜けた。
こいつはどうしてこんなにお人好しなんだろうか、と。
「昨日は、ごめん。お前の傷ついた心、踏みにじるようなこと言ったみたいで・・・」
そう言って頭を下げる海。
違う。と尋は思う。
踏みにじったのは俺。お前の優しさを踏みにじったのは、俺の方だ。
また身体に震えが来る。あの『ヤバイ』感覚が沸き上がって来る。
「最後、お前を見上げた時、俺思った。俺は今、こいつに酷いことをしてるって。俺は間違ってたんだ。尋は不器用だけど、ホントは強いヤツだと思ってたから・・・。でも、違うよな」
海が、尋の身体の震えを抑えるように、両手を尋の両肩にそっと置いた。
海が顔を上げる。
南の深く蒼い海の底のような瞳の色。
「──もう恐がらなくていいんだよ」
その言葉を言われた途端。
尋の脳裏が真っ白になった。
狂気一歩手前のあの恐ろしい感覚も、知らぬ間にどこかに消え失せていた。
海の濡れた冷たい身体が、鞭打たれた傷で火照った尋の身体を覆い包む。
「もう生きる残ることに怯えなくていいんだ」
そう耳元で言われ、ふいに鼻の奥がツンとした。
視界がグラグラと揺れる。
あの日、逆光で見た母と警察官のシルエットが見える。
「・・・嘘ついて、ごめんなさい・・・。あの時、嘘ついて、ごめんなさい・・・。本当は、嘘なんてつきたくなかった。嘘なんて、つきたくなかった・・・・」
「分かってる。尋はもう、充分その罪を償ってるんだよ」
「ごめんなさい・・・、ごめん・・・。貢、ごめん。俺、俺・・・・!」
ふいにグッと抱きしめられる。
尋の頬に、水滴の滴る海の頬が押しつけられる。
「いいんだよ、尋。俺が、許してやる。全部・・・全部」
八年間。
この八年間、誰も言ってくれなかった言葉。・・・一番欲しかった言葉。
「── 尋? 尋!」
遠くで海の声が聞こえる・・・。
次の瞬間、尋は気を失い、崩れ落ちるように海の身体に身を預けていた。
神様の住む国 act.06 end.
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編集後記
恐ろしいことに、最近昼休み中しか更新作業が出来ません・・・。きょえ~~~~!大慌てでやったので、チョンボがあるかも。ごめんなすって。
[国沢]
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