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act.09

 海が久しぶりに自分の部屋に帰ると、その惨憺たる部屋の様子に自分でも呆れてしまった。いかに自分が追い詰められていたかが分かる。
 少し冷静になった今では、客観的に見ることができた。
 それにしても、と思う。
 海は、床に散らばるスケッチの一枚を取った。
 切なくて胸が張り裂けそうだとは使い古された言葉だが、まさにそれを体験している。どうして尋に恋焦がれるのか、海自身も今はまだ説明がつけられない。言ってみれば、本能が呼んでいるのか・・・。
 海は立ち上がってカーテンを開けた。
 眩さに、一瞬目がくらんだ。
 背後を振り返る。そこは、一面の悲劇的な美しい男の顔。
 ふいに泣けてきた。
 こんなに人を好きなのに、こんなに悲しいだなんて酷すぎる。
 海がスケッチの紙を抱きしめて嗚咽を零した時、真新しい電話のベルが鳴った。
 赤く充血した目のまま、ゆっくりと受話器を取る。
「はい、小笠原です」
 鼻を啜りながら電話に出た。
「・・・ん? 大丈夫。ちょっと鼻炎。・・・うん、うん。・・・え? マジで? ホント? まって!  今メモるから!」
 海は、床に転がっている鉛筆を取って、何度も芯を折りながらスケッチした紙にとある住所を書き込んだのだった。  


 尋は、もう一週間もの間家に閉じこもりっぱなしで、外界と完全に縁を切っていた。唯一外界との接触があるとすればそれは、白井まりあである。
 ついに尋の自宅に入ることができたまりあは、最初の2、3日は有頂天だったが、毎日狂ったように尋に身体を求められるにつけ、次第に不安そうな顔を見せるようになった。
 右も左も分からないお嬢様でも、尋が日に日にやつれていくことは、放っておくことはできなかったのだろう。
 今では彼女は、慣れない手つきで三度の食事を用意し、まりあを抱くこと意外無気力な尋を風呂に入れ、髭を剃ってやり、飲んだくれる尋から酒を取り上げた。
 最早金銭のやり取りのない肉体関係を結ぶようになったまりあは、本当にかいがいしく尋の世話を焼いた。
 彼女は、親の制止を幾度となく振り切り、やっとできた友達とも交流を絶ち、彼女の持つすべての時間を尋との生活に費やした。いくらまりあが他人の感情に無頓着に生きるようになったとはいえ、尋の抱えるとてつもなく大きな傷は、その原因が分からなかったにせよ、まりあにとってはこれまでの人生において最大の問題には違いなかった。
 ── 自分が何とかしてあげないと・・・。
 まりあは、人に何かをしてあげることについては恐ろしく不器用だったが、彼女は彼女なりに最大限の努力をした。例えそれが、尋の心の奥にまで届いていないと分かっていたにせよ。
 まりあは、真新しいタオルで両手を拭きながら寝室に入った。セミダブルのベッド上には、素肌に黒いシーツを纏いつかせた尋が、生気のない瞳でただ空を見つめている。
「昨日、久しぶりに学校に行ったら、久住さんって人に会ったわ。尋君のこと捜してた。尋君の居場所は分からないって言っておいた」
 まりあがそう言っても、尋はぴくりとも動かない。
「パパにも凄く怒られたわ。雑誌記者にいろいろ訊かれて不愉快だったって。だから私、今日はどうしても帰らないといけなくなっちゃったの。晩御飯キッチンに用意できてるから、ちゃんと食べてね。また来るから」
 返事がこないと分かってはいるものの、一応まりあは話しかけた。床に転がったショルダーバックを拾い、部屋を出ようとした時、「・・・まりあ」と尋の細い声が聞こえた。まりあは慌てた様子で振り返る。尋がまりあの名を呼んだのは、随分と久しぶりのことだった。
「何? 尋君」
「もう、そんなにしてくれなくていい・・・」
 酷くかさかさの乾いた声で尋は言った。
「俺は、お前にそんなにしてもらう資格はない。俺はお前の期待に応えられない。俺は完全に狂ってる。自分を抑えることができない。俺の側にいることは、まりあのためにならない」
 まりあは、じっと尋を見つめた。しかし尋は、そんなまりあと目を合わせることはなかった。
「俺は酷いヤツだ。 ── 俺は、まりあを愛しては・・・」
「知ってる」
 尋の言葉を遮ってまりあは言った。
「尋君が別の人のことを考えていることぐらい、まりあにだって分かるよ。でも、いいの。抱いてくれるだけでいいの。──いつに来れるか分からないけど、絶対また来るね・・・」
 尋が初めてまりあの顔を見る。
 まりあ自身、自分に驚いていた。
 ガラス窓に映る、酷く大人びた顔つきの自分の顔に。


 ふいにチャイムが鳴った。
 ── 忘れ物か・・・。
 尋はぼんやりとそう思いながら気怠い身体を起こし、玄関に向かった。
 まりあが出て行ったばかりのドアを、レンズを覗き込むこともしないで唐突に開ける。
 自分の目線と同じ高さに、ギョッと見開いた男の目があった。
 次の瞬間には、男の目の縁が真っ赤に赤面した。
 目のやり場に困っている男の顔つきを見て、尋は自分が素っ裸だということを思い出した。
 尋はドアを閉めることも忘れ、部屋に引き返すとソファーに脱ぎ散らかしてあったTシャツとジーンズを素肌に身につけた。その間に男は部屋の中に勝手に上がり込んでくる。
「どうして俺から逃げるんだよ」
 男の第一声はそれだった。
 久しぶりに聞く小笠原海の第一声は。
 尋は、酷く冷静だった。
 それには、尋自身にとっても意外に思えた。
 あまりに突然の訪問だったので感覚が麻痺しているのか、完全に気が狂ってしまったのか。
 膝のすり切れたジーンズのジッパーを引き上げて尋は振り返る。
 まだ若干赤い顔で、海は尋を見つめていた。悔しそうに唇を噛みしめて。
 青白い顔色の尋をどう思ったか、一瞬同情するかのような色がその瞳に浮かび、尋はうんざりしたように溜息をついた。
「 ── 逃げたことは謝る。あんたにも随分迷惑をかけた。悪かった。許してくれ」
 疲れ果てた声で尋はそう言うと、手近な鞄を拾い上げ、その中に財布やら時計やらを闇雲に突っ込んだ。
 海は、自分の姿を一目も見ない尋にじれて怒鳴る。
「俺はそんな言葉を聞きたい訳じゃない! 何で逃げたのか知りたいんだ!」
「もう俺とは関わらない方がいい」
 尋はクローゼットからGジャンを取り出し、それを着込む。キッチンに向かう尋を海が追いかけてきた。
「それどういう意味だよ。それって、どういう・・・!」
 尋はキッチンの戸棚からタバコを2箱取ると、さっき床に投げ置いたナイロン製の鞄にそれらを放り込んだ。そして初めて海を見つめる。
「もう二度と会わないってことだ。俺はモデルをしないし、あんたは俺以外のものを描く」
 射るように尋に見つめられ、海は一瞬言葉を失ったようだ。尋はそんな海をやり過ごすと、鞄を肩に引っかけ玄関に向かう。少し遅れて海が後を追ってきた。
「あの夜・・・、あの雨の夜、お前、俺に心を開いてくれたじゃないか・・・!」
 尋は玄関のドアを開けながら振り返った。冷たい目で海を見る。
「それはアンタの思い過ごしだ。悪いけど、これからバイトに行く。部屋の中の物を壊すなり、火をつけるなり好きなことをしてもらっていいが、俺が帰って来る前に消えておいてくれ」
「尋!!」
 海の言葉を聞く前に、尋はバタンとドアを閉めた。丁度5階で止まっているエレベーターに素早く乗り込む。尋は何回も”閉”のボタンを押した。エレベーターのドアが閉まっていく。部屋から裸足で飛び出してきた海が、閉まるドアを激しく叩いた。
「尋! 尋! ・・・チクショウ!」
 今にも泣きそうな海の大きな瞳がドアの向こうに消える。
 尋はエレベーターの奥の壁にぴったりと身体を寄せると、恐る恐る肩で大きく息をした。身体は小刻みに震えていた。
 エレベーターの扉が開く。
 尋は急いで通りに出た。
 本当なら右手の駅の方に向かって歩いて行くのだが、今日はそんな悠長なことはしていられない。タクシーだ。
 尋はガードレールを跨ぎ通りの向こう側に渡ろうとするが、車はなかなか切れそうにない。
「尋!!」
 マンションのエントランスホールに海の声がこだました。尋は後ろを振り返る。
 階段を駆け下りてきた荒い呼吸の海が、尋の姿を見つける。
 尋は道路に飛び出した。何台もの車にクラクションを鳴らされながらも、なんとか無事に道路を渡りきる。振り返ると、海がガードレールにしがみつくところだった。
「尋! 聞いてくれ!」
 尋はタクシーのライトを必死で探した。
「尋! 好きだ!!」
 一瞬、尋の動きが止まった。尋は、自分の耳までもがおかしくなったかと思った。
「好きなんだ!!」
 なおも海が道路の向こう側で叫ぶ。
 尋は、信じられないものでも見るかのように、ゆっくりと海に視線を合わせた。
「好きになっちゃったんだよ。お前のこと」
 今度は少し情けなさそうな顔をして海が言った。
 そして再び声を荒げてこう怒鳴った。
「お前のこと描けないなら、俺は絵をやめる!!」
 あまりの発言に、尋は言葉を失った。
 ── 何てことを言い出すんだ。こいつは、何てことを。
「お前を描けなくて、俺の絵に何の意味がある! 俺は本気だ! 俺は絵をやめる!」
 ふいに尋の顔が歪んだ。目の奥がじんわりと熱くなるのを尋は感じた。
「何でそんなこと言うんだよ! どうしてそんな酷いこと考えるんだ!」
「酷いこと?! 何が酷いことだ?!」
「酷いことじゃないか! たかが俺なんかのために筆を置くことなんてない! アンタは自分の絵の価値が分かってない! アンタの絵を見て、どれだけの人間の心が助けられたと思う?!」
「俺は、お前の心以外に興味はない! 俺が欲しいのは、お前の心だけなんだ!」
 一人、二人と立ち止まる通行人の目をはばかることなく、海は真っ直ぐ尋を見つめ続ける。
 尋は、何と返していいか分からず、一瞬カッと沸き上がった苛立ちを側の電柱にぶつけた。
 右の拳に鈍い痛みが走る。尋は大きく両手を前に振り出し、口を数回パクパクさせると、やがて力無くこう言った。
「アンタ・・・、バカだ」
 尋は遠くにタクシーの明かりを見つけて手を上げる。
「尋、行くな!」
 激しいクラクションの音。
 ギョッとして向かいの通りに目を向けると、ガードレールを飛び越えた海が、対向車線に仁王立ちで立っていた。その海に向かって車が走ってくる。しかし海は、尋を見据えたまま、ものすごい声で怒鳴った。
「助けろよ、尋! 俺を助けてみやがれ!!」
「・・・あのバカッ!」
 反射的に尋の身体は動いていた。
 大型のRV車独特の太くて暴力的なクラクション、眩しく揺れるヘッドライト、耳を覆いたくなるようなタイヤのブレーキ音。
 しかし、そのけたたましい音の中に、人が車に跳ね飛ばされる音はしなかった。
「バカ野郎! 死にたいのか!!」
 危うく人殺しになりかけていた車の運転手は、おきまりの台詞を吐くとアクセルを乱暴にふかし、排ガスを辺りにまき散らすと、早々にその場から走り去っていった。
 尋は、排ガスをまともに吸い込み、ゲホゲホと咳込んだ。それは、植え込みの中で尋の身体の下敷きになっている海も同じことだった。
 ひとしきり二人で咳込んで、やっと視界が鮮明になってきた頃、尋は海の胸ぐらを鷲掴みにして植え込みから引きずり出した。
「あんた気でも狂ってんのか?! あんなバカなことして!」
「 ── バカにバカって言う方がバカだってんだよ」
 上目遣いで海がそう言う。
 尋はいつかのクラブでの一幕を思い出した。
 あの時、尋にモデルを引き受けてもらった海のバカ騒ぎぶりが、尋の脳裏に蘇った。
 たかが絵のモデル一人獲得するために、危うく自己破産しかけたバカな絵描き。海のバカさ加減は、既に証明済みなのだった。
 ふいに喉の奥の方から笑いがこみ上げてきた。やがて堪えられなくなった尋は、海の胸ぐらを掴んだまま吹き出した。海が何事か分からず怪訝そうな顔を浮かべる。
「そうだ・・・、そうだ。あんたもバカだし、この俺もバカだ・・・!」
 アハハハハと尋は声を上げて笑う。海もつられて笑い始めた。
 通行人の誰もが、道路の縁石のところに座り込んで高笑いをする男二人に眉を潜めながら通り過ぎていった。
 ひとしきり笑いに笑って尋が目尻に浮かんだ涙を拭った時、海がこう言った。
「助けてくれて、ありがとう」
 尋が顔を上げると、真顔の海の目と視線が合った。
「俺の命を助けてくれて、ありがとう」
 その一言に尋は、目の前から霧が一瞬にしてパァッと晴れた感じがした。
 ── 命を助けてくれて、ありがとう。
 そうか、俺は人の命を助けたんだ。それも、誰よりも大切な人の命を・・・。
 尋の身体から、固い強ばりが消えた。変な拘りや恐れが尋の元から離れていくような気がして、 不思議なことに夕暮れ間近の薄暗がりの中でも、海の顔が鮮明に見えた。
「── まただ。・・・また、やっと目が覚めたってな顔つきしてる」
 海の両手が、そっと尋の両頬を包む。その手は、ガタガタと大きく震えていた。
 ── あんなに平気そうな顔をしていたくせに・・・。こいつも俺に負けず劣らずの頑固者だ。
 そんな海を早く安心させてあげたくて、尋はとりあえず海を抱き締めた。それしか頭に浮かばなかった。他に幾千もの言葉や行動があっただろうに、尋はただ海を抱き締めることしかできなかった。
 海の前で尋は、本当に不器用なただの男だった。
 自分の身体を武器にするでもなく、自分の顔を隠れ蓑にするわけでもなく、ごく普通の22歳の傷ついた青年がいるだけだった。
「惚れたって言えよ、尋。俺に夢中だって」
 尋の耳元で海が囁く。
「俺は全部知ってるんだぜ、尋。お前は俺に惚れてんだ。さっさと認めちまえよ」
 何の躊躇いもなしにそんなことを言う海。
 一瞬、『言えなかった』と叫ぶ貢の声が聞こえたような気がした。
 互いに正直でなかった貢とあの頃の俺。
 それが全ての始まりだった。
 尋は、自分の身体がふわりと浮かぶ感覚を覚えた。
 尋はもう一度、堅く海の身体を抱きしめる。
「好きだ、海。初めて逢った時から、たまらなく惹かれてた・・・」
 自然に唇が重なる。
 人に見られてようが構わなかった。
 それは海も同じ気持ちだったらしい。
 二人は、息をするのももどかしそうな、深い深い口づけを交わした。


 近くの街灯の青白い光が差し込むリビングで、二人は抱き合った。
 お互い微笑みを浮かべながら、ざっくりとしたインド綿のラグの上に転がる。
 さっき道路でひとしきり熱い口づけを交わした後、二人の様子をずっと傍観していた女子高生二人組に「これ、映画のロケか何かですか?」と唐突に言われ、一瞬二人は顔を見合わせた。
 整った容姿の男二人が道の往来で抱き合っていることが非現実的だったのだろう。
 やがて海が「今年の正月公開するから」と真顔で答え、「サインください」とねだる女子高生に、海にハッパを掛けられた尋は適当な名前でサインを書いてやった。
 エレベーターの中でひとしきり大笑いして、部屋に転がり込み再び笑いあった。
 二度目の口づけは驚くほど自然で、まるで高校生がじゃれあうように、互いの服を脱がせあった。
 尋のTシャツは強引な海の手によって引き剥かれ、尋は笑いながら逃げる海を捕まえてシャツを矧いだ。流石に互いが全裸になる頃はもう笑い疲れ、しばらく裸のままラグにねっころがった。
「人に裸さらすのなんて、久しぶりだ」
 落ちつかない手つきで傷の残る自分の胸元をさする海の声は、僅かに緊張していた。
 尋が身体を起こして、海の顔を覗き込む。
 尋もまた、一週間ほど前に客から受けた背中の傷がまだうっすらと残っていた。お互い臑どころか身体中に傷を持つ者同士である。
 尋は、海を少しからかってやりたくなった。
「── 悪かないぜ。お前の身体」
「なんだよ。俺様は、悪かない程度か」
「ウソウソ! すっげぇ、クル」
 そう言って尋は、また白い歯を浮かべる。その意外に少年くさい尋の笑顔に、海は顔を赤くした。
「なんだよ」
「うっせぇ。間近で笑うな。テレる」
「あのな。笑えって言ったり、笑うなって言ったり、本当はどっちなんだよ」
「自分でも分かんねぇよ!」
 そう言って耳まで赤くなる海が、尋はたまらなくいとおしかった。
 尋はゆっくりと海の唇を奪う・・・。

以下のシーンについては、URL請求。→編集後記

 

神様の住む国 act.09 end.

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編集後記

何か法則があるようですね。そう、国沢のエロの法則。大体、9回目まできたら、1回エロが入るという(笑)。単なる偶然でしょうけど・・・。
ということで、大人シーンは、URL請求制となっています。ご請求いただいたアドレスには、当サイトの大人シーンを全て掲載していく予定ですので、一度請求するだけで当サイトに公開中の全ての小説の大人シーンが閲覧可能となります。
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[国沢]

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