act.03
久しぶりの大学。朝の日差しが差し込む大講義室は、学生の他愛のないおしゃべりで溢れ返っている。
尋はいつも、教室に入る時は、後ろの出入口から入ることにしていた。こうすると目立たずに席につくことができる。それでも、一部の学生には気づかれるから、遠慮のない熱っぽい視線を身体中に浴びることになるが、それでも大講義室の中の全員から好奇の視線を浴びるよりはいくらかはましだった。
尋は滅多に大学に来ないから、今や天然記念物のような扱いを受けていた。
尋の知らないところで撮られた写真が、アイドルの生写真のようにして校内や校外で取引されていることは、尋も気づいている。
── これじゃ、おちおちトイレにも行けやしない。
尋の存在は大学でもどこか浮いていて、尋はいつも、まるで借り物のような時間を過ごしているような気がしてならなかった。
講義室に歴史学の老教授が入ってきた。と、同時に尋の右隣に滑り込むようにして遅れてきた学生が座ってくる。
尋は、別に気にもとめなかったが、顔の前で組んだ腕の下から見覚えのあるサングラスが差し込まれて、反射的に右隣の学生に目を向けた。
ギョッとする。
思わず驚きの声が口をついて出そうになったが、マイク越しの老教授の「出欠をとります」という声に阻まれて、尋は一旦声を飲み込んだ。
「あんた、こんなところで何してるんだ」
「── 随分とごあいさつじゃん。折角忘れ物届けてやったのに」
小笠原海は、この間の険悪な別れ方がまるで夢だったかのような清々しい顔で、尋を見つめ返してくる。
尋は舌打ちをした。
「届け物って・・・。あんた正気か? 今講義中だぜ。ここの学生でもないくせに、何考えてんだよ」
「いいじゃん。俺、結構とけ込んでるだろ?」
海は、ケロリとした顔で飄々と言ってのける。
確かに、まるで百年も前からここの学生でしたというような風情でそこに座っていた。
「俺さぁ、美大中退してんだよ。なんだか懐かしくてドキドキしちゃうな、この雰囲気。こっぱずかしくってソワソワするね」
そう言って海は、子どものようなむず痒い笑みを浮かべる。
── こっぱずかしいんなら、なんでこんなトコに堂々と座っていやがるんだよ、コイツ。
ウキウキしている海を余所に、尋は限りなく憂鬱になっていく。
「あんた、俺がこの大学に通ってるってどうやって調べた」
いろいろ身辺を嗅ぎ回られるのは気分が悪い。
ストーカーまがいの女によく付け回される尋は、あまり自分の素性を人に話したりしない。
海は、尋のテキストを勝手に手に取り、パラパラとめくっている。
「まりあちゃんに教えてもらった。ほら、彼女、記帳に住所書いてあったからさ、後は電話帳で電話調べて、電話かけて。彼女、あの白井物産のお嬢様なんだな。もう驚いたのなんのって。しかも彼女、絵まで買ってくれちゃってさ。あ、今度会ったらお礼言っといてよ」
「なんで俺が、あんたなんかのお礼を言わなきゃならねぇんだよ」
「いいじゃん。んなかてぇ~こと言うな。減るもんじゃなし」
その言いぐさに益々苛付いてくる尋。
こんなに近くで見ても貢にそっくりなのに、性格は腹が立つほどにまるで違う。
粗野で乱暴で子どもっぽくて。
── やっぱり、まりあなんかに大学のことしゃべるんじゃなかった・・・。
尋はそう思いながら、舌打ちをした。
「どうして俺がここにいるって解ったんだよ。いろいろ犬みたいに嗅ぎ回りやがったのか」
尋がそう言うと、海は露骨に顔をしかめた。
「あんた、人聞きの悪いこと言うね。初対面の人間に」
── どっちがだよ・・・。
尋は頭を抱えて溜息をついた。
完全に尋は、海のペースにはまっている。
「あんた、自分がこの大学の中で相当有名人だってこと知らないねぇ。校内入って初めて聞いた女の子にあんたの姿形説明したら、ここの教室教えてくれたよ。おまけに、今日一日のあんたの講義スケジュールまで把握してたぜ、彼女。モテる男は辛いよな」
尋は、呑気な海の声を聞いている内に本気で腹が立ってきた。
「さっきから聞いてると、あんた、あんたって、あんたなんかにあんた呼ばわりされる謂れはないね」
「あはは、なんかそれ早口言葉みてぇ。あんた、結構面白いね。口開くと」
「うるさい。あんたって呼ぶな」
「だって、俺、あんたの名前知らねぇんだもん。まりあちゃんに訊きそびれちゃってさ。じゃ教えてくれよ、名前」
尋は、思わず自分の名前を口走りそうになったが、そこではたと正気に戻った。
「教えない」
「なんでぇ。減るもんじゃねぇだろぉ」
どうやら「減るもんじゃなし」が小笠原海の口癖らしい。
「誰があんたみたいな厚かましい男に名前を教えるか」
「ケチ」
「ケチで結構」
「もっと大人になろうぜ」
「あんたの口から出る大人なんて、ろくな大人じゃないね」
尋は海から視線を外し、レポート用紙を開きながら言い返す。
尋が、こんな子どもじみた会話を同世代の男と交わすのは随分と久しぶりのことだ。
同世代の男どもは、瀬尾貢を除いて大体の者が尋を敬遠する。尋の側にいると、必ず自分が見劣りするからだ。尋は、瀬尾貢以外の少年とふざけあった記憶が殆どなかった。
だが、海とのこの会話は、あまりにも自然過ぎて、尋は自分が子供じみた真似をしていること自体に気づいていなかった。
「教えろよ」
「教えない」
「教えろって」
「教えない」
「経済3年、辻村尋」
「はい」
尋は反射的に返事をしてから、しまったと思った。
ちらりと隣に目をやると、嫌みなほどにいやらしい笑みを浮かべて(この清々しい青年は、こんなえげつない笑みも浮かべることができる)、自分の手のひらにカタカナでツジムラヒロと書き込んでいる。それも、尋の筆箱から勝手にペンを取り出して。
「な、漢字でどう書くんだよ」
ものすごく自然にそう言われて、尋はカタカナの下に漢字を書いてやった。そこでハッとする。
「あのねぇ。あんた、一体何しにきたの。サングラス返しに来たんなら、もう用事はすんだだろ」
「よくぞ聞いてくれました。用事はそれだけじゃないんだな」
「なんだよ」
── まだ何かあんのかよ、バカヤロウ・・・。
心の中で悪態をついた尋に、海は言う。
「おい、モデルやってくれ。絵のモデル」
一瞬尋は、目の前の男が自分に何を言ったのか理解できなかった。
「── え?」
「おいおい、耳かっぽじってよく聞けよ。モデルしろっつってんだろ。絵のモデル」
一度しか言ってやらねぇぜといった具合の表情をする海。
尋の顔が蒼白になった。
「冗談じゃない!」
尋は、大声で怒鳴って立ち上がった。講義中だということも忘れて。
「どうしたんだね。ソコ」
老教授のとぼけた声が尋を正気に戻した。
ハッとして尋は、周りを見渡す。
女どもは誰もが熱い目をして尋を見上げている。男どもは、かの天然記念物の生声を初めて聞いたと純粋に感動している。
尋は、ゴクンと一回唾を飲み込んで、自分の荷物を片づけた。
「すみません、先生。気分が悪いので退席させてください」
本当に尋の顔色は悪かったので、老教授も納得したようだ。犬をはらうようにシッシと手を振る。
席を離れる尋を追おうとして、海が立ち上がった。
尋としては、ずっと追いかけられては堪らない。
尋は立ち止まって言った。
「先生。もうひとつお願いがあります。この男、他の大学のヤツなんですが、先生の講義を聞きたくてわざわざ聴講しているそうです。できれば是非、先生の近くで講義を聴かせてやってください」
この尋の言い草には、流石の海も度肝を抜かれたようだ。反論もできず、口をぱくぱくさせている。
老教授は、落ちついたもので、髭づらの顎を撫でながら目を細めた。
「そういうことは早く言いなさい。丁度一番前の席が空いてるよ。遠慮することはない。さぁ、ここへ座りなさい」
やんわりとそう言われ、海は思わず苦笑いしながら頭を掻く。
「はぁ・・・」
「わざわざ外から講義を受けに来てくれるなんて嬉しいじゃないか。私のゼミの連中に爪の垢を煎じて飲ませてやりたい」
ほほほほほとこもった声でそう笑われ、海は観念したらしい。
すごすごと前の席に行ってすとんと腰を下ろした。
老教授にレポート用紙と鉛筆まで渡されて、「ありがとうございます。いやはや、こんなことまでしていただいて」と本気で頭を下げている。
どうやらお年寄りに弱いらしい。
講義室中が明るい笑いで一杯になる中、尋は講義室を出た。
「バカなヤツ」
まるで試合に負けた後に捨て台詞を吐くようにして、一言そう言いながら。
家に帰ると、自宅の固定電話に留守電が4件入っていた。
固定電話は、一人暮らしを始めた後、携帯だけで事が足りると言った尋を心配した両親が勝手に取り付けていったものだ。尋が携帯電話の充電をこまめにしないせいで連絡がつきにくく、業を煮やした尋の母親が、ある日勝手に業者を呼んで、取り付けていった。
留守電に吹き込まれたメッセージは、いずれもまりあからのもので、それぞれ微妙に内容が違ったが、結局は逢いたいというところに論点は落ちついていた。
まりあは、その番号を無理矢理尋から訊き出して以来、その番号を知っているのは自分だけ、という優劣感を味わうために、よく固定電話の方に連絡をしてくる。
電話の内容から察すると、まりあは今、この間30万使い込んだのが親にばれ、自宅謹慎の最中らしい。
最後のメッセージには、それでもどうしても逢いたいから、連絡をくれと締めくくられていた。愛していますのコメントも添えて。
それを聞いた途端、尋は深い溜息をついて首筋に手をやった。
まりあのことは嫌いではない。
彼女独特のわがままも可愛らしいと思っているし、尋が相手しているおばさま連中よりはずっとましだ。
だが、尋の心の中には、愛するという単語はなかった。
そんな感情はもう、随分昔に人知れず燃やしてしまった。
まりあは、尋のそういうところが解っていなかった。
金で繋がっている関係なんだと何度言い聞かせても、そこまで割り切れるほど、まりあはまだ大人ではない。尋に逢う度にいくらかの金を払いながらも、その紙と紙の隙間に紙切れだけでは計れないものが潜んでいると彼女なりに信じているのだ。
少し気分が悪くなった尋は、まりあに連絡も取らず、ゼミダブルのベッドに倒れ込むようにして眠った。
目が覚めたのは、夕方6時頃、普段ならバイトに出かける時間だった。いつもの癖で、この時間帯になるとついつい目が覚めてしまう。
本当なら、その日もバイトは休むつもりでいた。
どうしても、例の顔がちらついて、心が安定しない。
あいつ。
小笠原海とかいう男。
思い出す度に心臓が痛む。
貢と同じ顔をしているくせに、貢とはまったく正反対の性格をしている。
土足で人の心の平穏をかき乱し、そのくせ懐かしい笑顔を見せるのだ。
── ああ、なんてことだ。折角、こうして自分の心を宥めすかして、説得して、ようやくひっそりと生きる手だてをみつけたというのに。
何も感じず、何も思わず。誰かを好きになることなく、自分を主張することなく、海底に沈む難破船のように誰にも干渉されず、気づかれることなく、ただ細くひっそりと呼吸をしていく生き方。
それなのにアイツは、生命を赤々と燃えたぎらせているようなオーラを放つその瞳で、そうして生きていくことを決めた俺を責めるように、さげすむように、真っ直ぐと見つめるんだ。
ああ、本当に、なんてことだ。
生き残ることを許してもらう代償に、心というものを捨て、自分を堕落の泥の中に沈めてどうにか自分をごまかしてきた。それが恥ずかしい生き方だということにも、わざと気づかずにおいておいたのに、ヤツの顔を見た途端、こんなに自分のしていることが情けなくなるなんて・・・。
次々と沸き上がる感情を制御できない。
こんな状態の時は要注意だ。
面白いことに尋の場合、ノイローゼの発作が起きる時は、狂気に陥る前の前兆みたいなものをよく感じることがあった。まさに、「ヤバイ」という感覚だ。
あの事故の直後は、毎日数時間ごとにそれを感じていたものだが、ここ数年間では久しぶりである。
尋は、キッチンの戸棚を開いた。そこは食料品用の戸棚のはずなのに、中にはタバコのカートンだけが無造作に何段も詰まれている。
尋は封の切られた赤いカートンを取り出すと、乱暴に蓋を開けタバコを取り出した。大きく震える手でライターを弾くが、オイルが切れて役に立たない。
尋は、プラスチックライターを床に投げ捨てると、油汚れひとつついていないガスコンロに火をつけ、そこにタバコの先を突っ込んだ。
ようやくタバコに火がついた瞬間、尋の身体から目に見えて力が抜け、タバコをくわえたまま、彼はその場に蹲ったのだった。
タバコは、尋にとって精神安定剤のひとつだ。
中学時代から唯一“やる気を出して”行っているプール通いも心をニュートラルにしてくれるもののひとつだが、タバコと比べると、今ひとつ即効性に欠ける。
尋は、長い時間かけてタバコをゆっくりと吸った。
ジジジと葉っぱの燃える音がする。
その音と芳ばしい香りが、尋の心の細波をじわりじわりと滑らかにしていく。
立て続けに3本吸い終えるころには、元の感覚が戻ってきた。
短くなったタバコを流しに落とし、またコンロで4本目に火をつけようとした時、また固定電話が鳴った。
きっちり5回鳴った後、留守電に切り替わる。
お決まりの機械的なメッセージの後、慌ただしい騒音に混じって、しっとりとした大人の男の声が続いた。
『辻村、そこにいるんだろう? 店の前でお前の名前を叫んでいるやつが古賀ともめてる。オーナーが来る前になんとかしておいた方がいい。来いよ。すぐ』
バイト先のカジノディーラー・香倉の声だ。
香倉は尋より一回り年上の男で、漆黒のタキシードを品よく着こなし、物腰もスマートで洗練されている。そのため、女性も多数来るその店でかなり人気が高い。
さらに店のホステスにも受けがよく、意外にボーイ達の面倒見もよかった。
店長といわれる男は別にいるが、実質上は香倉が店の実権を握っているようなものだ。
実際、オーナーが店長を通さず香倉に直接用事を言い渡すこともあるし、香倉が決定したことが店長を通さずにオーナーまで通ることもある。
尋が、学生ながらあんな高級クラブでバイトできるのも、香倉が即OKを出したからだ。
店の客を初め、店の従業員はおろか街で働いている人間の殆どが香倉は優しくてできた男だからと安心して懐いているが、尋は正直、香倉のこそ恐しい人間だと思っている。
香倉は普段、自分の好きな仕事をしながら、影ではあの噂に名高い会員制高級クラブを勝手気ままに牛耳っている。
いつもソワソワしている店長は、香倉の手のひらの中でただ転がっているだけだ。
聞けば、夜の街を仕切る恐い連中も、香倉には一目置いているという。あの店は、香倉がいるからガサ入れを免れているらしいというまことしやかな噂が流れていた。
── それも満更嘘じゃなさそうだ・・・。
尋はそう思いつつ、なるべく彼に近づかないようにしているが、相手は不愛想な尋のどこが気に入ったのか、他のバーテンやボーイよりまめに面倒をみてくれているようである。何とも薄ら寒い話だ。
折角の香倉の忠告を無視にする訳にもいかず、尋は4本目のタバコを半分でもみ消した。
エレベーターの扉が開くと、突然香倉の言っていた騒ぎに出くわした。
その騒ぎの主の声を聞いて、尋はげんなりする。
── どうして自分はこの事態を予測できなかったんだろう・・・。
尋は思わず頭を抱えた。
香倉から電話がかかってきた時は、てっきりまた森若公子が騒いでいるものだと思いこんでしまったのだ。それがまさか、男とは。
「だから、いるでしょ中に。いるって絶対。俺、ちゃんと聞いて来たんだって。辻村尋がここでバイトしてるって」
小笠原海が、店の用心棒の古賀をとっ捕まえて騒いでいた。
古賀は店に入る客をチェックしている男で、身長が190センチを越える大男だ。
この店の細かいもめ事が他の店より極端に少ないのは、店を影で支配している香倉と、もうひとつはこのプロレスラー崩れのスキンヘッド男のお陰だった。
店に粉をかけてくる連中の大凡は、古賀の凶暴そうな容姿を見ただけでスゴスゴと消えて行く。
── そのはずなのだが・・・。
香倉さんも人が悪い。男なら男と言ってくれればよかったのに。もしそれが分かってたら、俺はここには来なかった。
尋は、その男の後ろ姿を見ただけでゲッソリすると、今日になって何度目かの深い溜息をついた。
── ・・・・。帰ろう。
尋は、何も言わずまたエレベーターに乗ろうとした。が、不幸なことに、古賀が尋に気が付いた。しかもこともあろうにそのことを古賀のバカヤロウは口に出してしまったのだった。
「あ、辻村クン」
古賀のどこかホッとしたような声を聞くところによると、相当しつこく食い下がられたらしい。
古賀もとんだ災難だ。いつもは、一睨みでカタがつくというのに。
尋が再び深い溜息を付いて観念したように振り返ると、古賀のスーツの襟を掴んだまま、きょとんとした表情で尋の姿を見つめる海がいた。
「ほら、ウソは言ってないって、あれだけ言ったでしょ」
妙にフレンドリーな口調でしゃべる古賀に、海は片眉をクイッと上げて見せた。
「あれ。ほんと」
そのセリフを聞いて、尋は益々脱力した。
「なんであんたこんなトコにいんの?」
「なんでって、そりゃ、まりあちゃんに聞いたんだけど」
「そうじゃなくて、なんの用だっつーの。こんなトコまで追いかけてきて」
尋がそう訊くと、海は、なにをそんな当たり前のこと訊くんだとでも言いたいかのように顔をしかめた。
「だって、返事もらってないから。モデルの件」
それを聞いて、尋は頭をかきむしりたくなった。
「それは昼間断っただろ!」
ヒステリックにそう叫んで、古賀の脇をすり抜けようとする尋のジャケットを海がつかさず掴む。尋は振り向きざま、その手を払い落とした。
「あんたもしつこいね。モデルはやらない。これが返事だ。解ったら、さっさと失せろ。ここは会員制の高級クラブだ。あんたみたいなシケタ男が入れるようなところじゃない。とっととケツまくってお引きとりください」
尋の悪意に満ちた言葉に、海の大きな瞳がさらに大きく見開かれた。
── あ、流石に傷ついたかな・・・と尋が海の瞳を盗み見ると、その瞬間海はカラシの塊を口に突っ込まれたかのように露骨に顔をしかめて隣の古賀を見た。
「なぁ、こいつって、いっつもこんな性格ブスなの?」
「さぁ・・・」
苦い表情で首を傾げる古賀。そんな小動物のような仕草を見せる古賀を尋は初めて見た。
「性格ブスで悪かったな。その性格ブスにモデルしてくれって頼んだのは、どいつだよ」
古賀を肘でどつきながら、尋は悪態をつく。例え一瞬でも、こんな調子の海のことを気にかけた自分に苛立って、古賀に八つ当たりをしてしまった。
「かっわいくないねぇ~。おたくんトコ、社員教育なってないんじゃないの? コガっち」
呑気な海の声に(しかも強面の古賀を捕まえて既にあだ名までつけている)、益々尋の神経が逆撫でされる。
「気安く古賀さんに話しかけんな。古賀さんも、早くコイツを摘み出してくれよ!」
「そりゃ、いくらなんでも気が引けるんじゃないの、コガっちだって」
「摘み出される側が勝手に判断すんじゃねぇ」
「そりゃそうだ」
尋は、段々眩暈を感じ始めた。まるでこれでは掛け合いの漫才をやってるようなものだ。
「とにかく、早く消えろよ!」
尋がそう怒鳴った時だ。背後からゴロワーズの煙が香ってきた。
「珍しいな。辻村が怒鳴っているなんて」
古賀が頭を下げる。香倉だ。
「私は騒ぎを大きくしろと言った覚えはない。もうすぐお客様も見えられる時間だ。騒ぐのは店の奥でしろ」
香倉の言いぐさに今度は尋が目を剥く番だ。
「香倉さん! こいつを店の中に入れる気ですか?」
尋が香倉を睨む。と同時に、海が、妙に輝いた子犬のような瞳で香倉を見つめた。 香倉は、誰もが竦む尋の睨みにも怯むことなく、寧ろ冷笑を頬に浮かべ、尋と海を交互に見やった。
「私は二度同じ事を言うつもりはない。いいな」
流石の尋も、香倉には楯を突けない。尋が唇を噛みしめるのを見て、海がそれを指さした。
「や~い。怒られてやんの」
「失礼ですが、お客様」
遮るように香倉の剃刀のような声がかけられ、海は指さした姿勢のまま身体を硬直させた。
香倉は穏やかながらも氷のような瞳で海をじっと見つめた。
「当店は、お客様をこちらから選ばさせていただくお店です。みっともなく騒がれると店の品位に傷がつく。そのおつもりでしたらどうか、このままお引きとりください」
そう言われた海は、担任の先生に怒られた子どものように急にシュンとすると、香倉を目だけで見上げた。
「すみません。もう騒ぎません」
「よろしい」
ふっと香倉が表情を和らげる。その香倉の表情を見て、尋はギョッとした。
香倉という男は、確かに面倒見がよく皆に慕われてはいたが、その瞳に浮かぶ冷たい光は消えたことがない。香倉によく話しかけられる尋は、それを充分知っていた。
それなのに小笠原海は、その香倉を上目遣いの目だけでほぐしてしまったのだ。
──まったく、古賀さんといい香倉さんといい、情けねぇ。完全に牙を抜かれてるじゃないか・・・。
何度目かの溜息をつく尋に、香倉の声がかかった。
「辻村。お客様だ。席までご案内して差し上げろ」
意外に広い店内。
店の中は通常のクラブとは違ってボックス席がいくつもあるわけではなく、古びた洋館の格式深いパーティールームのような様相をしていた。高級クラブに恥じないだけのアール・デコ風の家具や調度品が品よく空間に収まっていて、デカダンな雰囲気を醸し出していた。
まともな客としてテーブルに案内された海は、座った途端、店のホステスの黄色い歓声に囲まれた。
店の女達も、こんなかわいいお客がくるのが物珍しいのだろう。開店直前だったので他に客がいるわけでもなく、今日出ているホステスの殆どが海の座ったソファーの周りに陣取った。
尋が海のテーブルをセットしてから立ち去ろうとすると、今まできれいな女の子達に囲まれて上機嫌だった海が、ふいに不安そうな表情を見せた。
「あれ、行っちゃうの?」
尋は溜息をついて振り返ると、腕組みをした。
「あのね。俺はここでボーイしてんだよ。ユニフォームにも着替えなきゃならないし、酒も運ばないといけない。ホステスみたくテーブルにつくわけじゃないんだよ」
尋の怒った目が、余計海を不安げにさせた。その様子を見て、ホステスの一人が声をあげる。
「いいじゃない、辻村くん。座ってあげたら。別に他にまだお客様もいないんだし。お店が忙しくなるまでいてあげたら?」
── どいつも、こいつも、何でこのアホの肩を持つんだ。
辻村は、それがなぜかまったく理解できなかった。
尋は、海のテーブルについた女達の顔をぐるりと見回す。
いつもはお互いにその美しさを競い合い、気高いプライドをぶつけ合っている女達が、皆一様に同じ表情をして、尋を見つめている。
尋は結局、全員から責められるような目線を一身に受けてしまった。
「 ── とにかく、着替えてきます」
憮然とした顔で尋はそう言うと、店の奥にある更衣室に向かった。
手慣れた手つきでボーイのユニフォームに着替え部屋を出ると、奥のカジノ場でルーレット台の準備をする香倉が見えた。
香倉が尋の視線に気づき、顔を上げる。
その目が、面白いものでも見たかのように細められた。
「なぜですか、香倉さん」
「なぜ? なぜとはなんだ」
「あいつのことですよ。会員でもないのに簡単に店に通したりして。店長に言いあげられでもしたら・・・」
「ヤツにそんな度胸があるものか。それに、なかなか趣向が変わった客でおもしろいじゃないか。自分勝手にデカダンな気分に溺れている連中ばかり相手にするのも飽きていたところだ。“エクスタシー”でも出してやるか? サービスで」
香倉の台詞に、尋は明らかに動揺した顔をしてみせた。香倉は、そんな尋の表情を楽しむようにして先を続ける。
「あんなタイプは一度クスリを覚えると、確実に溺れる。顔もなかなかベビーフェースでかわいいし、いい客がつくんじゃないか。女でも勿論いけるし、案外ああいうタイプは男にもうけがいい」
「香倉さん!」
尋が声を荒げる。
香倉は目線だけを尋に向けてきた。
その冷たい微笑み。
尋は香倉の目を受け返しながら、こう続けた。
「 ── あいつは、そんなことできるようなたまじゃないですよ。あんなガキてがって、何がおもしろいんですか」
尋は、不快感を露にして香倉を睨む。
その途端、香倉が声を上げて笑った。
珍しいことなのか、周囲の従業員が目を剥いて香倉を見る。
尋は、なにがそんなにおもしろいのか解らず、戸惑った。
「冗談だよ。そこまで私は鬼畜じゃない。辻村がどんな顔をするか見てみたかっただけだ。初めて見た。お前の焦っている顔」
尋の顔に自らの顔を寄せ、囁くように香倉は言う。尋は自分がからかわれたことを知って、再度香倉を睨んだ。少し頬が赤い。
「別に、焦ってなんてないですよ・・・俺は」
「じゃ、いいんだな。アイツがどうなっても」
挑むような目が尋を羽交い締めにする。
「まだ、俺をからかっているんですか? 香倉さんらしくない。あなたがそんな台詞吐くのは。・・・ガキには興味がないんでしょうが」
「興味はある。辻村をここまで感情的にできる男にはな」
香倉が身体を引いた。尋は深く息を吐いた。
「酒を運んでやれよ。子犬みたいな目つきでお前が来るのを待っているぞ」
香倉は尋の返事を待たずにカジノ場に入り、隠し扉をバタンと閉めた。
香倉に完全におもちゃにされた尋は、おもしろくない。
調子は狂いっぱなしで、ボトルを用意する手も小刻みに震えている。
── 感情的? この俺が感情的だと? 心がぶっ壊れてる人間に感情なんてあるものか。
頭の中でそう悪態をついても、イライラは収まる筈がない。
── 一杯濃い水割りでも飲ませて、さっさと追い出してやろう。
そう考えた尋は、テーブルに運ぶ前に濃い水割りを作って、海のテーブルに運んだ。
少し驚く。
女達は既にいなくなっており、海だけが尋を見つめていた。
「ねぇさん達はどうした」
「事情を話して席を離れてもらった。俺はここに遊びにきたんじゃない。お前にモデルをしてもらいたくて来たんだ」
深刻そうな顔をして、尋を見つめてくる。
尋は、周囲を見回した。ホステス達は、ぽつぽつ来だした客の相手をしたり、テーブルを整えたりしながらも、こちらを気にしているようだ。
その熱っぽい冷やかしのような雰囲気に、尋の頭に嫌なものが浮かぶ。
「お前、どういうふうに事情を説明したんだ」
「え、ごく普通に説明したけど」
「だから、どういう風に」
「あんたに俺の願いを聞き入れてもらいたくて追いかけてるんだが、あんたは酷くつれなくするって」
尋は、自分の背中に鉛の重石を乗せられたかのようなだるさを感じて、へなへなと海の横のソファーに横たわった。「完全に誤解されてるぞ・・・」と呟きながら。
「何が誤解だ。がんばれって、皆励ましてくれたぞ」
「あんた、何にも解ってないな。あんたって人間は、肝心なところで言葉が足りてねぇんだよ。バカ」
「バカとはなんだ。バカにバカ言う方がバカなんだぞ」
海はムキになって怒っている。それを見上げて、尋は再びソファーに顔を埋めた。
── 穴があったら入りたいとはこのことだ・・・。
ホステス達のあの目は、男同士の首筋が痒くなりそうな純愛ゲームが気になって仕方がないというような視線だった。
このクラブは、他のクラブとは違って男だの女だのの区別もなく、様々な客がくる。金が有り余っている連中が、退廃的な喜びを得るために訪れる裏の社交場だった。クスリの快感を求めに来る客もいれば、同性愛という禁断の蜜を啜りにくる客もいる。
このクラブにタブーは少ない。大概何があっても店の者は驚かないし、興味を過剰にそそられることがない。
また他人の趣味に口を挟まないように教育もされている。
自分が拘わっていないことには見て見ぬ振り。それが鉄則の筈なのに、今はそれが完全に破られていた。
流石に、こんなあか抜けない少年然とした瞳の男が、こんなに殺伐と乱れたこのクラブで、真剣に淡い恋心を語るなんてことは彼女達にとって前代未聞だったのだろう。このあまりにも場はずれた男に、「がんばって」なんて励ましたのがいい証拠だ。
彼女達は、ウブな瞳のこの男に、自分がまだ初めて恋をした頃の自分を重ねているのだ。その餌になった尋はたまったものではない。
これから先、女達の格好のおもちゃにされるのは目に見えている。元々、尋に付け入る隙を探していた彼女達だ。目前の男のお陰で、尋が苦労して積み上げたバリケードが、ガラガラと音をたてて崩れ落ちた。
尋はソファーから身体を起こすと、海のために作った筈の水割りを半分ほどカッ食らい、海の前に乱暴にグラスを置いた。
海がビクリと身体を振るわせる。
「あれ。ひょっとしてまた怒ってる?」
さっきまでの威勢の良さはどこへやら。怯えた子犬のような顔つきの海に、最早尋は怒鳴ることもできない。
「どうしてなんだ。どうしてあんたは、俺なんかにモデルを頼む。渋谷の街中に張られてるポスター描いてるようなあんただったら、俺よりきれいなモデルなんていくらでも選べるだろ? こんなひねた男捕まえてどうしようってんだ。あんた、ひょっとして本当にゲイなのか」
「芸? 俺が芸人ってこと?」
「── ホモってことだよ」
「え、あ、そういう意味。 ── え? ええ! ちっ、違うよ! とんでもない!」
海はすっかりあたふたしている。
顔を真っ赤にして、尋が口をつけた後の水割りを一気に飲み干して、軽く咳込んだ。
── ゲイっていう言葉を聞いて、芸人のゲイと思うやつがどこにいるってんだ。
尋は、ぼんやりと目前の男に目をやる。
真っ赤な顔をして恐縮している海。
──いるんだな・・・。残念なことに、目の前に・・・。
尋は自虐的な笑みを浮かべた(笑みといっても、口の端が少しひきつった程度のものだったが)。
「ホモでもないのに、何で俺の尻ばっか追いかける。どうして俺なんかに拘るんだ。俺にしてみれば、甚だバカらしいと思うけどね。愛想のない男の顔描いたって」
その台詞に、海はムッとした顔をした。
「バカらしいって、なんだ。バカらしいことだと思ってるのか、絵を描くことが」
「別に絵を描くことをバカにはしてないさ。俺を描こうとすることがバカみたいだって言ってるんだ」
「どうしてそう思うんだよ」
「どうしてって・・・」
尋は、いつかの展覧会の会場を思い浮かべていた。
清く澄んだ水の中にいるような色彩。和やかな風景。暖かな人々の表情。そんな絵に戸惑った自分。自分の卑屈さを痛いほど突きつけられたような気がした。自分は、あの絵の中の住人には相応しくない。
尋は意外にもストレートに、その気持ちを海に告げた。
正直尋は、海の絵を美しいと感じたし、海の絵については敬意に近い気持ちを抱いていた。素直に絵を褒めることができた。
そんな尋の思いをどうとったのか、海は一瞬寂しげな表情を浮かべた後、口を尖らせた。
「モデルは、俺が決める」
「あんたもしつこいね」
「うるさい! 俺は描きたいと思ったものを描くんだ」
「まるで子どもみたいに単純なことを言うな・・・」
苦笑を浮かべる尋に、海がテーブルを両手で叩く。その瞬間、店内がシンと静まり返った。
「子ども? バカヤロウ。大人が子どもより偉いとでも思っていやがるのか。単純? それで上等じゃねぇか。人間なんて、そんな生き物だろ? 寝たい。食べたい。買いたい。儲けたい」
静寂に包まれた店内に、海の声だけが響く。
「恋したい。愛したい。そばにいたい。逢いたい。話したい。もっと知りたい。 ── 俺の場合は、“描きたい”」
海は、真摯な瞳で真っ直ぐに尋を見つめる。
「確かにめちゃくちゃ単純だとは思うけど、それのどこが間違ってるっていうんだ? 俺は絵描きだし、いつも、どんな時も真剣に絵を描いてる。絵が描けない俺なんて、俺じゃないって叫べるほど、絵を描くことは俺の全てだ。描きたいっていう気持ちが、他の理由に劣ってるだなんて、俺は思ってない」
── なんて・・・・、なんてことだ。これはなんということなんだ。
尋は、その場で完全に硬直していた。
そんな尋を襲った、突然のデ・ジャブ。
── これじゃまるで、プロポーズみたいじゃないか・・・・
尋は、そう思ってハッとする。
背後でふと貢の声が聞こえたような気がして、尋は身体を振るわせた。
神様の住む国 act.03 end.
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編集後記
前回と比べ、異様に茶番劇な今回、いかがだったでしょうか? なんせ、海くんは、まさしく強引グ・マイウェイなキャラクターなもので、こんなことに・・・。でも回を重ねるにつけ、そんな彼も次第に苦悩していくことになります・・・。超絶に不器用な二人なんですが、よろしくお願いしますね。
[国沢]
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