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nothing to lose title

act.01

|プロローグ|

 あんたは、人を殺したことがある?
 方法はなんだっていい。命ばかりか、その存在や人生の記憶そのものを完全に破壊しきったことは?
  ── 俺は、ある。
 そこにあった真実は何であれ、俺は人を殺した。それも、この世でたったひとりの親友を。
 拭い切れない罪、逃れられない後悔を抱いて。
 何も感じず、何も思わず。そうして心を殺さなければ、生きて行けず。
 そうだ。この世に神様なんていない。


  <神様の住む国>


 鏡の中の男は、今日もまた責めるような目つきで彼を見つめ返している。
 お世辞抜きで不気味なほど美しく端正な顔が、いつものごとく責めなじる。「まだ生きてやがるのか、この人殺し」と。
 瞼がひくひくと引きつり始めると、“発作”はすぐ側まで迫っている証拠だ。
 一見てんかんの発作と酷似しているが、これはあくまで彼がメンタル的な問題を抱えているせいだ。だが、それに気づいてくれる人間は、彼の身の回りには一人としていない。
 獣のような唸り声と共に湿気で曇った鏡を叩き割ろうとした時、浴室のドアがノックされた。
「尋くん? 尋くん! 大丈夫?!」
 彼のただならぬ唸り声に不安を感じたのか、若い女の声はわずかに震えていた。
 辻村尋《つじむらひろ》は、突然現実に引き戻される。
 爆発のタイミングを外した発作は、頭の奥の引き出しにしまい込まれてしまったようだ。
 尋は濡れた頭を軽く振ると、鏡に向かってタオルを投げつけ、浴室を出た。
「どうしたの?」
 黒い下着姿の女が、怯えた顔をしてドアの前に立っていた。その化粧の取れた顔は、大人っぽいデザインの下着とはアンバランスで、まだ幼さが残っている。
「 ── 何でもない」
 静かな声で尋はそう呟くと、床に脱ぎ捨てられたジャケットからタバコを取り出し、女に背を向け、火をつけた。その手は小刻みに震えている。
 眠らない夜景が眼下に広がる羽目殺しの窓辺に立ち、ひんやりとした空気に触れると、ようやく手の震えが収まってきた。
 腰にバスタオルを巻いただけの身体に、水滴がするすると伝い落ちていく様を、女はベッドに寝っ転がりながら、うっとりと見つめた。
 身長は180センチに近い。中学・高校と水泳をしていたせいか、スレンダーな割にしっかりした筋肉がついている。髪の色は、今時の若者にしては珍しい黒で、無造作にカットされた髪は、それでもしっとりとした艶があった。
 すっと通った鼻筋、独特のカーブを描く上唇が印象的な唇、そして物憂げな瞳。日本人にしては少し色が薄いのだろうか。その瞳には、いつも寂しげな光が浮かんでいる。それが余計に彼を魅力的にしていた。
 しかし、他人が羨むようなその美貌のせいで、今までどれだけ彼が傷つけられてきたのかは誰も知らない。
  ── 容姿が整いすぎている人間は、他人にとってただの観賞用ペットでしかない。
 彼がそんな歪んだ考えを持つようになったのも、事実そんな扱いを受けることが多かったせいで、彼が人間らしい表情を浮かべることが極端に少ないことも、後天的な持病のようなものだった。
「ねぇ、どうしていつもイカないの?」
 女が呟いた。
「男って、勃起すると必ずイっちゃうものなんじゃないの?」
 女、白井まりあは、少女のような初々しさが残る顔をしているくせに、時としてどぎつい台詞を平気で口にする。わざとそうすることで、尋を取り巻く有閑マダム達に対抗しているようだ。
「子どもつくられちゃ、かなわないからな」
 そのまりあに視線もやらず、尋は冷たく言い放った。
 まりあは、今にも灰を落としそうなタバコの下に灰皿を持っていきながら、上目遣いで尋を見つめた。
「大丈夫。ちゃんとゴムしてるじゃん」
 尋はちらりとまりあに目をやり、再び窓の外に目を向けた。
「昔、ゴムにわざわざ穴を開けてた女がいた。誰も信用なんてできやしない」
「ひどぉい! そんな言い方ってあり?」
 そう言いながらも、まりあは尋の胸板に鼻先を擦り付けてくる。
 いくら冷たくあしらっても、女というものは縋り付いてくる。
 ── 俺ならこんな男、即座に殺してやるのに。
 尋はそう思いながら、タバコを吹かした。
「別にお前には関係ねぇだろ。失神するくらい、イケてんだから」
「ヤダ、失神なんかしてないよ!」
 顔を真っ赤にするところは、いくら大人ぶってはいても、まだまだ子どもだ。高校3年生にしては、意外にすれていない。
「タバコちょーだい!」
 まりあは、赤面した自分をごまかすように尋から取り上げたタバコをスパスパと口先だけで吹かし、すぐに灰皿に押し付けた。
「あ、そうだ。ねぇ、明日空いてるでしょ。どうせ大学には行かないわよね」
 まりあは灰皿を尋に押し付けると、床に散らばった自分の服を掻き分け、シャネルの大ぶりなバックを探った。
 白い背中に栗色の美しい髪の毛が揺れる。
 まりあは少し肉付きがいい。別に太っている訳ではなく、痩せぎすの女よりはずっといいと尋は思うが、本人はいつもダイエットの本を鞄に忍ばせていた。
 彼女は、“成金親父の血を引く即席お嬢様”と自分を卑下していた。
 現在通っているミッション系のお嬢様学校にも馴染めず、かといって昔の友達とは疎遠になり、彼女の携帯に電話をかけてくる連中といえば、金目当てである。
 そんな中で、辻村尋という男の存在は特異なものらしい。
 知り合った場所は、会員制の高級クラブという如何わしい場所であったにもかかわらず、金をせびる訳でない。そして見え透いたお世辞を言う訳でもないこの青年は、まりあにとって心の拠り所だった。結局は、自分から金で繋ぎ止めるという関係に落ち着いたとしても。
 まりあは、バッグの中から札束とハードカバーの本を取り出すと、尋の前に翳した。
「30万出したら、昼間も付き合ってくれるんでしょ。森若のババアが自慢してた」
 尋は、目の前の札束をそっけなく見つめて、その向こうのまりあを見た。
「明日、ギャラリーに行くの。付き合って」
「ギャラリー?」
 まりあの口から意外な言葉が出てきて、尋は思わず訊き返した。尋は札束を避けて、本を手に取った。
 真っ白い表紙に、ネイビーブルーの文字。
「神様の住む国・・・」
 尋は本のタイトルを呟いた。タイトルの下には、“小笠原海作品集”とある。
 本を開くと、そこには何気ない日常の風景が幻想的で柔らかい色彩によって描き出されていた。
 その色はまるで、その作家の名のごとく、海の中から海面を仰ぎ見るような感覚を思い起こさせる。華やかなのに不思議と心穏やかな気持ちにさせる、そんな清らかな絵。
 ページの最後には、『日常のどんな些細な物事にも、神様は生きている』と印字されていた。
 正直、まりあにこんな趣味があるとは思っていなかったが、こういうものに縋りたくなる気持ちも分からないではなかった。
「明日からこの人の個展が始まるの。絵を買いたいから、付き合って」
 尋は本から顔を上げて、顔を顰めた。
「別に俺でなくったって、荷物持ちはたくさんいるだろ」
「尋くんがいいの! だって尋くんといると皆絶対振り返るんだもん。見せびらかしたいの。いいでしょ」
 強い瞳でまりあは尋を見つめた。


 鏡の中の男は、ひどく緊張している。
「えー、本日はお日柄もよく、俺の、じゃねぇ、私、小笠原海の初の個展にお越しいただきまして、いたみいる ── じゃねぇよ、チクショウ。時代劇じゃねぇんだぞ、バカ」
 小笠原海《おがさわらかい》が思いつく限りの悪態をつき終わった頃、洗面所のドアが開いた。細身のネクタイを締めた長身の男が顔を覗かせる。久住遼一郎。大手の広告代理店のクリエイティブディレクターだ。
 海が美大生だった頃からの知り合いで、今ではまるでマネージャーのように海の面倒をみている。この個展をプロデュースしたのも彼だ。
「おい、招待客集まってきてるぞ。何だ、珍しく緊張してるな」
「できるなら、このまま帰りてぇ心境だよ」
 海は、頭を掻き毟った。背後で久住の溜息が聞こえる。
「おいおい、京子が怒るぞ。折角きれいにセットしてやったのにって」
「いいんだよ! どうせ俺にはこんなの似合わないんだから」
「拗ねるなよ。ほら、行くぞ」
 久住に掴まれた手を、海は慌てて抑えた。
「あ、あ、あ、待って。薬だけ飲ませてくれ」
 久住が顔を曇らせる。
「また痛むのか。頭」
「もう慣れてるよ」
 海は、トイレの手洗い場の水を手で受けてピンクの錠剤を飲み込んだ。それを見て、久住が更に顔を顰める。
「バカ、そんな水で飲むやつがあるか」
「いいの。俺はんなちっちゃなことは気にしない男なの」
「そのくせ、自分の初個展の挨拶でめちゃくちゃビビッてるくせに」
「行くよ! 行きゃいいんだろ!」
 久住を押しのけて海がドカドカと洗面所を出て行くと、ドアの向こうで女の悲鳴が上がった。
「何よ、海! その頭!」
「うるさい! 槍でも鉄砲でも持ってきやがれってんだ!」
 海の裏返った怒鳴り声に、会場内が和やかな笑いに包まれた。


 ドタバタのオープニングを何とかやり過ごし、小笠原海作品展は無事開場した。
 今回は初の個展とあって、古い作品から新しい作品まで、かなりの作品数が並ぶ展覧会となったが、メインはやはり先日出版された画集の作品群である。
 オープニングですっかり暴走してしまった海は、持病の頭痛が酷くなって、受付カウンター奥の個室で少し横になっている。
「結構な人の入りね。凄いじゃない」
 受付カウンターの後ろで、澤田京子が久住を見上げて言った。
「手伝いに来てくれてよかったよ。会場内のディスプレイ、ぎりぎりまでどうしようかって困ってたんだ」
「なんで最初から私に声かけなかったのよ」
「最近一段と忙しそうだったから。まさか来てくれるとは思わなくて」
「バカねぇ。遼一郎の頼みなら、あのバカ猿の個展会場だろうがどこだろうが、這ってでも来るわよ」
 緩くウエーブのかかった長い髪を無造作にかきあげながら、京子は言った。
「元彼に言うべき台詞じゃないね」
 セクシーな京子の仕草を見ながら、久住は苦笑した。
「別にイヤミのつもりはないのよ。ただ、恋愛と仕事を両立できない不器用な男を呪ってんの」
「うーん。今日はいやに絡んでくるね」
「まったく、サル坊主が独り立ちするまではお預けなんて。それを指咥えて見てる私の身にもなってみてよ。あのサル坊主のどこがいいんだが・・・」
 上品なベージュのルージュが引かれた唇をわざとらしく歪めながら、憎まれ口をたたく京子を横目で見ながら、久住は思わず吹き出しそうになった。
 なんだかんだ言ったって、結局彼女も海のことが心配でならないのだ。
 今や売れっ子の空間コーディネーターとして活躍中の彼女は、雑誌撮影用のスタジオセッティングやら大企業のオフィスデザインやらと、とにかく大忙しで、本来ならばたかが若手のイラストレーターの個展会場なんかで、呑気に悪態をついている場合ではないのだから。
「とにかく、今日はありがとう」
 久住が頭を下げると、京子は嫌なものでも見たというような顔つきをした。
「やめてよ、変なお礼なんて。それより、サル坊主、大丈夫なの?」
「ああ。薬も飲んでたし、少し休めば大丈夫だと思う。ちょっと緊張しすぎたんだろ」
「そう。 ── 坊やも大変ね。事故の後遺症なんだって? あの頭痛」
「ああ。まぁね」
 変に勢いのいい海だから、身体の方も丈夫なんだろうと周囲から思われがちなのだが、実際はそうでもない。
 身体中には火傷や細かい傷跡が無数にあるし、母親が亡くなったことと手ひどい失恋を一度に経験していることもあって、一時期実に酷い生活をしていた。一年前に渋谷のファッションビルの広報ポスターにイラストが起用されてからは、なんとか人並みの生活を送れるようにはなってきたが、それでも久住がちょっと目を離すと、一日一食の生活をしかけない危うさが海にはあった。
 今日は焼肉でも連れて行ってやるか、と久住が思った時である。隣で京子が声を上げた。
「あ、美形」
「え?」
「ほら、あそこ」
 久住は、京子の指差した方に目をやった。
 確かに、目の覚めるような美しい青年がいた。
 若いが、立っているだけで万人の目を引くような暗い男の色香が既に備わっていて、格好がいいというよりは、純粋に美しいという言葉が彼には似合いだった。年の頃は25、6といったところか。だが、働いているようには見えない。
「どれどれ、京子さんの大人の魅力で・・・って、あ、なに、コブつきじゃないの。クソ」
 聡明な美人と名高い顔を醜く歪める京子に、はははと久住は笑った。
「そりゃそうだよ。あれほどのイケメンに彼女がいない訳がないじゃないか・・・」
「何、どうしたのアネさん。マンドリルみたいな顔して」
 突然二人の背後から海が顔を覗かせる。
「海、名前の通り海《うみ》に沈めてやろうか」
 京子がギロリと海を睨むと、海は「おおコワ」と言いながら久住の背後に身体を隠した。
「もう具合はいいのか?」
 久住の心配そうな声に、海は肩を竦めた。
「やっと薬が効いてきたみたい。で、何の騒ぎ?」
「滅多に拝めないほどの男前がそこを歩いてんのよ」
 京子が指を差さずとも、海はすぐに分かったらしい。「ああ、ホントだ・・・」と呟いたきり、黙り込んでしまった。
「今のCM業界でもあれだけの子、ちょっといないんじゃない?」
 京子の言葉に、久住も頷く。
「そうだな。だけど、ちょっと陰があり過ぎる感じかな。CM向きじゃないね。彼はどちらかというと・・・」
 絵のモデルの方がと久住が言いかけた時、ぼんやり突っ立っていただけだった海が、突然動いた。
「ちょっと、どうしたのよ、海! いきなり」
 京子の声にも返事をせず、人ごみを掻き分けていく海の背中を見つめ、久住は溜息をついた。
「どうやら獲物をハンティングしにいったらしいな」
 事実、久住の言っていることは正しかった。


 例のギャラリーは、青山にあった。
 平日でも人通りがあり、気軽に入れるような雰囲気であった。
 ギャラリー自体はさほど広くはない。開放されたガラス製のドアをくぐると、尋達の目前に海中の光が溢れたかのような穏やかな色彩が広がった。
 一瞬、故郷の懐かしい潮の香りがしたような気がして、尋は軽い眩暈を覚える。ふと、両親の頼りなげな顔が浮かんで、尋は無理にそれをかき消した。
 会場内は、モノトーンを基調として、鮮やかな色彩が互いに喧嘩し合わないように、隅々まで配慮されたレイアウトがなされている。狭い会場ながらも、混乱なくスムーズに人の流れができていて、なかなか気の利いた会場作りができている。
 受付カウンターにある記帳は、初日だというのにもう二冊目が出されており、いかにこの作家が注目をされているのかが伺えた。
「すごぉーい・・・。きれーい・・・」
 いつもは生意気ばかり言っているまりあも、本物の絵を目の前にして、圧倒されているようだ。
 柔らかな陽の光に浮かび上がる名もない小さな町並み。
 さりげなく佇む街路樹たち。
 壊れかけの木造家屋。
 早朝の公園で新聞を読む老人や、小さなバケツにすっぽりと納まって水浴びをする下町の子ども。
 何気ない風景、何気ない笑顔、何気ない幸せ。それが嫌というほど尋の目に焼き付いてくる。
 尋は急にこの世から取り残されたような気がして、鼻の奥がツンとなった。
 五枚ほど見た時点で、足が自然と竦んでしまう。絵の中の穢れない笑顔たちに追い詰められ、この場に自分がいることがひどく場違いな気がして。
 ふいに尋は自分の存在が恥ずかしく思えて、それを隠すようにサングラスをかけた。 まりあは絵選びにすっかり夢中で、尋の様子に気づくことはない。お気に入りの一枚を見つけたようである。
「ねぇ、尋くん! これ、この絵!」
 まりあが指差した絵は、どこか遠い南の島の海辺に、真っ黒い犬が佇んでいるものだった。
「何だかこの犬、尋くんに似てる。アタシ、この絵に決めたわ。ねぇ、絵を買う時はどうすればいいの?」
 会場内の係員を探そうと、まりあが乱暴に身体の向きを変えた瞬間、背後の人物に凭れ掛かるようにぶつかってしまった。
「きゃ!」
 まりあがずり落ちそうになるところを、背後の人物が両脇から支える形になった。
「大丈夫?」
 若い男の声にまりあが顔を上げると、男の黒目がちな瞳に出会った。まりあは慌てて身体を起こす。
「ごめんなさい。アタシ、絵のことに夢中で・・・」
 流石に恥ずかしくなってまりあが顔を赤らめると、青年は人懐っこい笑顔を浮かべた。
 ブルーのコットンシャツにありきたりの煤けたブルージーンズを合わせた少年然とした姿は、このフォーマルな会場内の雰囲気とは無縁の様相をしていながら、一番意外な名前を口にした。
「絵を気に入ってもらえて嬉しいよ。初めまして、小笠原です」
「え? ── ええ!」
 まりあは、辺りはばからず大声で叫ぶ。周囲の冷たい目線に気づかないぐらいに驚いた様子で、まじまじと青年を見つめた。
 大きな瞳に、優しげでふっくらとした唇。ともすれば甘くなりがちな顔を、意思の強そうな男らしい眉がグッと引き締めている。
 一見どこにでもいそうだが、一度見たら忘れられなくなるような予感を感じさせる空気がある。それになにより、その屈託のない人好きのする笑顔が魅力的だった。
「もっとナイーブそうなオジン想像してた」
 思わず口から零れたまりあの呟きに、海は露骨に顔を歪ませた。
「そりゃ、あんまりだろ」
「いや、こんなに格好いい人だとは思ってなかったんでぇ・・・アハハハハ」
「なんだか都合がいいなぁー、アハハハ。君、名前なんてーの?」
「白井まりあですぅ」
「そう、まりあちゃんってーのぉ。なんかギャップがあるねぇ、しとやかそうな名前で」
「やだ、海さんの方こそ、全然品格がなさそうで、いい感じですぅ」
「アハハハ、やっぱ君もそう思う?」
 今度は周囲から奇妙な視線を受けながらも、変に意気投合してしまう二人である。ひとしきり二人で笑いあって、ふと海は本来の目的を思い出したのだった。
「あ、そうだ。ちょっと君の彼氏に話があるんだけど。彼氏、名前は何て言うのかな?」
 海はそう訊きながら、尋の前にすっと手を差し出した。だが、尋が一向にその手を握り返さないので、海よりはむしろまりあの方が、訝しげに尋を顧みた。
 当の尋は、完全に硬直していた。
 ── こんな、こんなことがあっていいのか・・・。
 尋は声を発することもできず、ただ目前の小笠原海を見つめることしかできなかった。
 ── 亡霊だ。これは、貢の亡霊だ・・・。
 尋の顔から血の気が引いて、額に冷や汗がじんわりと滲んだ。
 尋自身は気づいていなかったが、彼の身体は小刻みに震えていた。
「ちょっとあんた、具合が悪いんじゃないか?」
 見るからに青ざめている尋の顔を見て、本気で心配そうな表情を見せるこの亡霊は、こともあろうか尋の頬に触れようとしてきて・・・。
 次の瞬間、静かな会場内に異質な音が響き、会場内の空気が止まった。
 取材に来ていた記者と雑談をしていた久住は、その音にギョッとして、音がした方向に目をやる。
 丁度例のあの青年が、海の手を叩きはらったところであった。青年が手を挙げた拍子に彼のかけていたサングラスが床に落ち、乾いた音を立てる。
 青年は、明らかに怯えていた。サングラスの下から現れた瞳は病的に見開かれ、ただ海を見つめていた。
 一方海は、手を叩きはらわれたことに怒るでもなく、ただ呆気にとられて同じく青年を見つめている。
 会場内の誰しもが、微妙な緊張の糸の上に息を止め、二人の様子を伺っていた。
 動いたのは、青年の方だ。
 まるで静止画面のようなその光景から抜け出すかのように、青年は二、三歩後ずさると、弾かれたように外に飛び出して行った。
「あ! 待って!」
 連れの女の子が慌ててその後を追っていく。後に残されたのは、ただポカンと立ち尽くす海と床に転がったサングラス。
 やがて海は、サングラスを拾い上げた。
「おい、海! 大丈夫か、お前。何があったんだ?」
 久住が駆け寄ってそう訊いても、海は未だ魔法がかかったままのようなおぼろげな瞳でサングラスを見つめ、呟いたのだった。
「あいつ・・・。吸い込まれそうな目ぇしてた・・・」

 

神様の住む国 act.01 end.

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編集後記

またまたディープな出だしから始めちゃったのっつーことで、自他共に認める「ひねくれ男」尋と、明るさと勢いだけが取り得な自称「繊細吟遊画家(笑)」海の物語でございます。これは以前から書き溜めていたもので、相変わらずこれも長いっす。(ようするに国沢には短編だなんてしゃれたものは書けないってことですよ)またまた根気よくお付き合いくださいね。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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