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act.02

 「貢! おい、貢! どこにいるんだよ!」
 尋は、もうかれこれ5つぐらい、空っぽになった教室を見て回っている。
「チキショー。貢のやつ、先に帰ったのかよ」
 尋が短い溜息をつき、プールから上がったばかりの湿った髪を掻き上げたと同時に、廊下の向こうから間違えようのない声が聞こえてきたのだった。
「尋、なに怒鳴ってるの?」
 日に焼けた尋とは対照的に、白くて滑らかな顔に穏やかな笑みを浮かべ、瀬尾貢《せおみつぐ》が歩いてくる。放課後の廊下だ。確かに大声を上げなくても、互いの声はよく響いた。
「何だよ、貢。部活終わったら、教室で待ってるって約束じゃん」
「ああ、何だか片付けに手間取っちゃって」
 現像液のツンとした匂いをかすかに香らせながら、貢が言う。その身体はしっとりと汗ばんでいて、今まで貢がいただろう暗室の暑さが安易に想像できた。
「ごめんね、待たせたね。先に帰ってもよかったのに」
 未だ不機嫌そうな尋に、貢は少し困ったように、はにかんだ笑みを浮かべた。そんな顔をされると、尋も文句が言えなくなってしまう。
 少年らしく口を尖らせる尋に、更に貢が微笑んだ。
 尋が同世代の少年らしい素振りを見せるのは、この瀬尾貢の前でだけだ。一方的なわがままも悪態も、貢なら自然に受け止めてくれる。尋にとっては、特別な存在だった。
 貢と一緒にいない時の尋は、おとなしくしていることの方が多かった。
 余りに端正な顔立ちのせいで敬遠され、クラスでも特別扱いをされることが殆ど。側にいると比べられるからと、男友達はずっとできなかった。
 そんな中で、貢だけは違っていた。
 唯一同等に扱ってくれた。
 独りでいることが当たり前になっていた尋に、独りでいることの寂しさ、不幸せさを初めて教えてくれたのが彼だった。
 その穏やかな性格のためか、クラスでも一番に慕われていた貢は、同級生と尋の間の潤滑油として、尋に普通の学生生活を与えてくれた。貢がいれば、忘れていた笑顔も取り戻すことができた。
 だからこそ、こう言えるのだ。
「いつも一緒に帰ってるじゃんか。貢じゃないと、駄目なんだよ」
 尋は照れることなく、大きな声でそう言い切ると貢に背を向け歩き出した。だが貢がついて来ないことを感じると、尋は後ろを返り見た。そこには、複雑そうな表情を浮かべている貢がいた。
「大真面目な顔をして、そんなこと言わないでくれる? 何だか、プロポーズされたみたいで照れくさいよ」
「 ── バーカ。何言ってんだ」
 再び貢に背を向けたのは、その貢の台詞を聞いて、尋も変に意識してしまったせいだ。
 ── よかった、西日がきつくて・・・。
 尋はおぼろげにそう思ったのだった。


 事件が起こったのは、その一週間後のことだ。
 中学校創立以来の、最低最悪の不祥事。
 教師と生徒のスキャンダル。
 それが男性教師と男子生徒の取り合わせだったために、事は更に大きくなってしまった。
 朝、尋が教室に入ると、教室内はホームルームどころの話ではなくなっていた。尋のクラスどころか、学校中あげての大騒ぎである。
「なに? どうしたの?」
 尋が教室の入口でそう呟くと、クラスのざわめきがピタリと止んだ。クラスのその反応に、尋も戸惑う。
 何か背中に薄ら寒いものを感じ、尋は反射的に貢の姿を目で探した。彼の姿は見えない。
「辻村君、知らなかったの?」
 クラス委員長の女生徒が、逆に尋に訊いてくる。
「何を・・・?」
 何のことかさっぱり分からない。言い知れない不安が、尋を襲う。
 ミツグハ ドコダ。
「瀬尾君のことよ」
 ミツグハ ドコナンダ。
「今、瀬尾君、校長室に呼ばれてるわ」
「何? え・・・? どういう・・・」
 混乱する尋に、後ろから別の男子生徒が、言葉をぶつけた。
「瀬尾のヤツ、理科の峰石とデキてたんだよ」
 その敵意に満ちた声に、尋はゆっくり振り返る。
「ヤツら学校で、男同士のくせにセックスしてたんだ。アレを突っ込まれてるところを用務員に見つかったんだよ!」
 最早、その男子生徒の顔が判別できなかった。
 ただ、唇の動きが気味の悪いスローモーション映像を見ているようで、気持ちが悪くなった。
 男同士のセックスという、自分より遠い別世界の出来事が、その生々しい唇の動きで変にリアルに思えて、尋は吐き気を催した。
 教室を飛び出す尋の背中の向こうで、クラス委員長のヒステリックな声が響く。
「そんな言い方しなくてもいいでしょうぉ! 辻村君の・・・」
 彼女の言葉の最後は、流しで吐く自分の呻き声でかき消されてしまった・・・。


 その後、貢が教室に帰ってくることはなかった。
 ただ、貢の学生鞄がポツンと教室に残っていた。
 結局その日は、ろくに授業ができず、早々に放課となったのだが、校門では新聞記者やテレビレポーターが下校する生徒達を待ち構えていた。
 この手のスキャンダルは、いかに隠そうとしても、必ずどこからか漏れてしまう。しかも、火が燃え移るより早いスピードで飛び火する。
 次の日も、その次の日も、貢は学校に来なかった。相変わらず鞄だけが主のいない机に寂しく引っかかっているだけだった。
 しかし、その鞄を貢の家に届ける勇気は、尋にはなかった。
 尋の、その時の貢に対する感情は、もはや怒りや憎悪を通り越して、恐怖に変わっていた。純粋に貢の顔を見るのが怖かった。
 二日後に峰石の懲戒免職処分が決定し、彼は警察に捕まった。そして貢は、転校するという噂が流れた。
 ミツグガ イナクナッテシマウ。
 尋の気持ちに焦りが加わった。
 ── もし転校の話が本当なら、俺はこのまま貢と会えなくなってしまう。果たして、それでいいの?
 尋にとっても最後のチャンスだった。
 これまでの人生の中で唯一純粋な、自分の宝物。掛け替えのない存在。思い出。それを繋ぎ止めるための、最後のチャンス。
 貢の鞄を右手に握り締め、尋は貢の家を訪ねた。
 貢の家は川べりの集合住宅の一室で、ほんの二週間前までは毎日訪れていた場所だった。現に今だって、夕方子供達が住宅前の道路で遊ぶ姿を尻目に階段を上がっていると、あの事は夢の中の出来事だったようで、何もかもが自分の勘違いのような気がする。尋はそうであってほしいと願いつつ、瀬尾家のチャイムを鳴らした。
 いつもはすぐに貢の母親が出迎えるのに、返事はない。
 夕方遅い時間だというのに、室内の明かりも外に漏れてこない。
 だが、すりガラスの向こうには確かに人の気配が感じられた。
 尋は、ダークグレイの鉄のドアをドンドンと叩いた。
「辻村です! 貢君の鞄、届けに来たんですけど!」
 尋の声に、同じ階のドアが数ヶ所開き、ドア越しにこちらの様子を伺っているのが分かった。
 尋は、好奇心丸出しの分厚い皮を被った女達を一瞥する。
 顔が端正なだけあって、冷たく刺すようなその視線に、ドアは次々と閉まっていった。
 すると、それを待っていたかのように、尋の目前のドアが薄く開いた。
「尋君?」
 弱々しい女の声。
 疲労困憊しきった貢の母親だった。
 その変貌振りに尋は一瞬息を呑んだが、彼女の目の前に貢の鞄を翳した。
「鞄、届けにきました。貢君、いますか?」
「ええ・・・。いるには、いるんだけど、ちょっと・・・」
 カサカサに乾いた声が震えている。
 あんなに上品だった貢の母親と、ドアの隙間からチェーン越しにギョロリと自分を見つめる女が同一人物だとはとても思えなかった。
「あなたには悪いんだけど、会わす訳にはいかないのよ・・・」
「貢が会いたくないって言ってるんですか」
 苛立ちが抑えられず、きつい口調になってしまった。
 母親が一瞬怯む。
「いいえ、そうじゃないんだけど・・・」
「おばさん、引越しするって、本当ですか」
 ドアの向こうの声が詰まる。
「おばさん」
「え、ええ。そうなの。いつになるかは分からないんだけど、近いうちに・・・」
「会わせてください。貢に、会わせてください」
「尋君、せっかくだけど・・・」
「お願いします!」
「尋君、勘弁して・・・」
「貢! 会いたいんだよ! 出てこいよ!」
「尋君、お願いだから」
「いいよ、母さん。そこどいて」
 意外にも、貢の声はいつもと変わらなかった。
 一端ドアが閉まり、チェーンが外される音がして、やがてドアが開いた。
 なんだかホッとして尋は溜息をついた。
 少しやつれてはいたものの、いつもの穏やかな貢がそこにいた。そこにあの事件のようないやらしく忌まわしい空気は微塵も感じられなかった。
「鞄、サンキュ・・・」
 尋の右手から鞄を取ると、貢はそれを母親に渡してドアを閉めた。
「ここじゃなんだし、堤防行こうか」
 ぽつりと貢は言った。


 「ちょっと見ない間に、なんだか背が伸びた感じがするな、尋」
 人目のつきにくい橋の下。落書きだらけの壁に寄りかかって、貢は言った。
「そうかな・・・」
「うん、そんな感じ」
 ぎこちない会話。ぎこちない空気。
 尋は、握り締めた手のひらにじっとりと汗が滲み出るのを感じていた。
「貢・・・、あれ・・・、あれ、本当なのか」
 自分でも情けないくらい、声が震えていた。
 貢は一瞬尋の目を見つめてから、すぐに視線を逸らした。
 卑屈な笑みを浮かべる。
「まぁ・・・ね。ワイドショーで言ってるみたいに過激じゃないけど、大筋はあってる」
 脳みその中をハンマーで殴られた感じ。身体が、船に揺られているような感覚。
 やっとの思いで口を開いた。
「あの日も、ずっと俺は待ってた。お前が教室に来るのを待ってたんだ。なのに、お前は来なかった」
「行きたくても、それどころじゃなかったからね」
 苦笑する貢。
 グアングアンと身体の中で声が乱反射している。
「どうして・・・、どうしてあんなヤツと、あんなこと・・・」
「あんなヤツって言われても、あの人はあの人で、いい人だったよ。基本的には」
「どういう・・・」
「確かに、最初は無理やりって感じだったけどね。でも、あの人は一番僕を分かってくれてたんだと思うよ」
 え・・・? 言ってる意味がよく・・・
「つまり、僕は片想いしてて、それは多分一生かなわない恋で、でも昂ぶる気持ちはどうしようもなくて、抑え切れない身体をどうすることもできなくて。 ── 気が狂いそうだった僕を、方法はどうであれ、あの人は慰めてくれた」
 そう叫ぶ貢の瞳にはうっすらと涙が浮かぶ。
 尋は、うまく呼吸ができなかった。
 つまり、貢が言ってることは・・・
「お前、片想いの相手って、男か」
「そうだよ。今でもたまらなく好きさ」
「誰なんだ」
 そう言いながら、尋はもう自分が答えに行き着いていることに気づいていた。
 あの日。夕日の中の貢。プロポーズされたみたいで・・・と呟いた時の、あの表情。照れくさいというよりは、物悲しげな。
 空中に浮遊した意識が、脊髄に集中していく感じ。腰の付け根がぞくぞくとした。
「まさか・・・。お前の好きな相手って、もしかして、俺?」
 その瞬間、貢の身体から一気に力が抜けていくのが見た目にも分かった。がっくりと項垂れた頭が、返事だった。
「そうか・・・。そうなんだな・・・」
 尋は後退る。
「なんで・・・、言わなかった・・・」
「言えなかったんだよ!」
 貢がヒステリックに叫ぶ。そんな貢の声を、尋は初めて聞いた。
「いつか尋、他の学校の奴から手紙もらったこと、あったよね。差出人は男で、ラブレターだった。尋はそれを僕の目の前で破って燃やした。男同士で気持ち悪い、ヘドが出るって言った。でもね、尋。僕は尋に触れたかったよ。どんな形でもいい、尋とひとつになりたかった。セックスしたかった。言える訳ないだろ、こんなこと。そんなこと言ったら、尋はあの手紙みたいに、僕の存在を燃やすんだ。それが分かってるのに、言える訳が」
 それはまるで悲鳴だった。まるで、喉の奥から血が滲み出しそうな。
 尋の頭の中は、完全に混乱していた。どれが本当の感情なのかが分からなくなってしまっていた。
 それは怒りであり、嫌悪であり、憤りであり、裏切られたという憎しみであり、悔しさであり・・・。
「だから僕は先生を受け入れた! 先生とセックスした!」
 その時、尋の中で何かがぷつんと切れた。
「お前なんか、死んじまえ」
 無意識のうちに口をついて出た。
「お前なんか、生まれてこなけりゃよかったのに」
 その時の、貢の表情。
 無表情に強張った両目から、透明の液体を流すだけの能面のような顔。


 「!!」
 尋は、声にならない悲鳴を上げて、ベッドから飛び起きた。
 全身は冷や汗に被われていて、スウェットがぐっしょりと湿っていた。
 真っ黒に統一された部屋。
 誰もまだ入れたことのない無気質な部屋だった。
 重いカーテンの隙間から漏れるのは、青白い光。枕元のデジタル時計に目をやると、朝の4時だった。
 フローリングの床には、ウイスキーの空ボトルが転がっている。
 尋は、まだ自分の身体が小刻みに震えていることに気がつくと、腹立たしくデジタル時計を床に払い落とした。そして深い溜息をつくと、尋は頭を抱えた。
 身体は、どっと疲れを感じていた。少しだが、キリキリと胃が痛む。
 まりあと一緒にギャラリーに行って以来、ここのところ毎晩同じ夢を見ていた。
 貢とまるっきり同じ顔をしたあの若い画家のせいだ。
 お陰でこの頃バイトも滞りがちになっているし、おまけに睡眠不足だ。
 尋は腕の間から、空ボトルの先にある古い新聞記事を見つめる。
  "高速道路で、バスと普通乗用車が正面衝突。バス・乗用車とも炎上。死者4名、重軽傷者25名"
 その記事についてある写真は、丸焦げになった普通乗用車と運転席が焼け焦げているバスの写真で、その下には死亡者の写真が並んでいる。
 上から三番目。
 その年の春に撮ったクラス写真の切り抜きだった。
 新聞の記事には、こう書かれてある。
  "対向車線から飛び出したバスを回避できたのにも拘わらず、なぜ普通乗用車運転の瀬尾さんは回避行動をしなかったのかが、今後の事故原因の捜査の鍵となる。"
 結局尋は、貢に謝ることができなかった。
 あの堤防から帰った後、自分がなんて酷いことを言ってしまったのかと気づいた尋は、すぐに貢の家に電話をかけたがそれが通じることはなく、急いで行ったマンションのドアは堅く閉ざされたまま、二度と開くことはなかった。
 堪らない不安に襲われ、いつまでもそこの立ちすくむ尋を見かねて、隣のおばさんが「ここは先ほど出かけていった」と教えてくれた。
 そして、そのまま貢は、家族もろともこの世界からいなくなってしまった。
 永遠に。
 その日を境に、それからの尋の人生は、がらりと変わってしまった。
 それまで真っ直ぐ貢に向いて流れていた感情が不意に行き場を失い、宙ぶらりんの状態になって尋の中で渦を巻いた。
 いろんな思いが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。
 だがどれも、酷く退廃的なものばかりで、尋の心を確実に蝕んでいった。
 唯一の親友だと思っていた人間すら、自分の顔と身体を目当てにしていたというショック。裏切られたという気持ち。結局自分は、この忌々しい外見でしか評価されない人間だという思い。そんな苦い思いを一番残酷な形で知らしめた貢。しかも、こともあろうか、汚い大人に満たされないその身体を預けていただなんて。
 断言してしまえば、尋は貢を恨んでいた。
 この世で自分はただのひとりぼっちなんだということを心に刻みつけたのは貢だったからだ。けれどその憎しみは、そんなに単純に片づけられるものではなかった。
 尋は、貢を憎むと同時に、自分のことも憎んだのだ。
 温厚を絵に描いたような貢を、あそこまで追い込んでしまった自分。
 その貢にこの世で最も酷い言葉を吐きかけた自分。
 それを謝れなかった自分。
 そして遂に彼を死に追いやった自分。
 だが、尋を最も悩ませ傷つけたのは、貢を抱き続けた峰石に嫉妬心を抱いている自分だった。
 どうして貢を抱く相手が自分ではなかったのか。
 あれだけホモセクシャルに嫌悪感を示したのは、いずれ自分もそうなってしまうのではないかという不安の裏返しだったのではなかったか。
 後悔。贖罪。嫌悪の日々。
 悪夢にうなされ、頭痛に苛まれ、沸き上がった感情を誰にもぶつけられない。
 尋は、最後の貢とのやり取りを誰にも話すことができなかった。
 自分が貢に言った言葉で他人から人殺しと罵られることが恐かった。
 貢に最後に会った人物が尋だと知れ、「どんなことを話したの?」と母親に訊かれた。母親の後ろには冷ややかな顔をして立つ警官がいた。
 尋は、咄嗟に嘘をついた。
 今考えるとバカバカしいが、その時は本気で逮捕されて裁判にかけられると思った。
 裁判にかけられたら、全てがバレてしまう。
 貢は本当は自分のことが好きだったこと。
 そして自分も貢と同じホモセクシャルのけがあったこと。
 そして、貢に死刑宣告を下したのが、他ならぬ自分だったこと。
 咄嗟に嘘をついたのは、自己防衛本能だったのだろう。
 貢の死について、その後誰も尋を責めることはなかったが、世界でただひとり、自分だけは自分のことが許せなくなった。
 嘘をついたことは、結局尋の精神のバランスを食いつぶした。
 咄嗟に働いた自己防衛本能は、尋を守るどころか、一層尋を傷つけた。
 尋はいつしか精神に異常をきたしはじめ、その結果高校受験を一年見送ることになった。
 しかしその程度で尋が日常の世界に戻ってこれたのは、優秀なセラピストのお陰でもあり、一人息子が狂っていくように、自分達も狂っていきそうなほど動揺した両親のお陰だ。
 特に母親の衰弱は酷く、一見すると息子より状態が酷かった。
 人間、自分よりヤバそうな人間がいたら自分がしっかりしなきゃという妙な義務感を抱く生き物なのか、尋は急激に立ち直ってみせた。──といっても、もっとも、外側の薄い部分での回復でしかなかったが。
 尋は今でも、自分は心が完全に壊れてしまった異常者だと自分を評価しているし、決して他人を(その中には両親も入る)信じることができない自分は、救いようがないほど汚れきった嫌なヤツだと思っている。
 本当なら、「あんな、酷いことを言ってゴメン」と、「俺も貢のことを好きだった」と言いたかった。「貢を死に追いやったのは自分です」とも。
 だが、今更それを言ってどうなると言うのだろう。
 もう、貢はこの世にいないし、尋がついた嘘は、真実よりも更に真実味を帯びて、尋の周囲は愚か瀬尾家の親族にまで浸透している。
 尋は、床の新聞記事を拾い上げると、両手にそれを握りしめ、その場に蹲った。
 身体はまだガタガタと震えている。
 壊れた心は、修復できないところまできている。
 きっともう、誰も信じられない。
 自分のことも信じられない。
 一生ひとりきり。
 そしてそのまま、この忌々しい器ごと朽ち果てて行く。
 だが、それでいいと尋は思っていた。
 もう一生誰も好きにはならない。誰かを欲することもない。誰かを、何かを手に入れれば、いずれそれは自分の前から消えてなくなる。もう何も失いたくない。もう二度と、あんな思いはしたくない。あんな思いをするのなら、また誰かを失うのなら、自分はずっとひとりでいい。この世でただ一人でも・・・。
 八年間、ずっとそう思って生きてきた。
 叫び出しそうになるのを堪え、死にきれなかった恥ずかしさを心に刻みながら、何も感じず何も思わず、自分をごまかし生きていく。もういい加減そんな生活に慣れてきたはずなのに。
 ── 自分は今、泣きたいのかな。
 尋はそう思ったが、涙は出てこなかった。
 人というものは、あまりにショックなことに出会うと、涙も出ないという。
 あれ以来尋は、泣く方法を完全に忘れてしまっていた。
 ── バカバカしい。
 尋は、涙の代わりに薄っぺらな自嘲の笑みを浮かべる。
 ── 今更泣いて、何が変わるというんだ・・・。
 喉から絞り出される笑い声は、まるで嗚咽のようだった。

 

神様の住む国 act.02 end.

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編集後記

今回もかなりブルーな回となってしまいました。決して私が根暗な訳ではないのですが。(だよね?な~んて自信がなくなってきつつある・・・)話もブルーなら、タイトルのイラストもブルー、バックカラーもブルー、題字もブルー、みんなブルー!!(デレク・ジャーマン状態!・・・誰が判るよ、このひとりツッコミ・・・ブルーシャトウの方がまだまし?もっと酷い!ザボ~ン!) この話、尋ひとりだとメチャクチャ暗いのよね。海が出てくると途端に明るくなるのにね。やっぱりキャラクターの差よね。ということで、次回はまるで茶番劇です(笑)。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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