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nothing to lose title

act.04

 小笠原海の家は、吉祥寺にあった。
 夕べ無理矢理手渡された名刺の住所にたどり着いた尋は、思わず目を疑った。
 日の出荘。
 それは、今売り出し中のイラストレーターというイメージからは程遠い簡素なアパートだった。
 名刺の住所とブロック塀に張り付けられた番地のプレートを何度も見比べても、結果が変わるはずもない。
「まじかよ」
 一言尋はそう言って、アパートの階段を上がる。夕べ海は、2階の東の端だと言っていた。
 化粧板を張り付けたドアを恐る恐るノックすると、「はい」とも「おお」ともとれるような生返事が返ってきた。「開いてるよぉ」とも。
 尋はひとつ深呼吸をしてからドアを開ける。
 そこはいきなり3畳ほどの台所だった。
 お世辞にもダイニングキッチンとはいえない空気が漂っている。
 流しを見ると、ドンブリやら茶碗やらがそのまま洗い桶に埋もれていた。
 男所帯を露骨に感じさせる光景。
 ── こいつ、絶対女いねぇな。
 湿気の多い気候のせいで少し臭う流し台を横目に見て、尋は苦笑いした。
 てっきり、ハイセンスなマンションやこだわりの伺える部屋が出てくることを予想していた尋は、まさに肩すかしを食らったわけだが、むしろそれがおかしく思えた。
 まりあがこのことを知ったら、卒倒するだろう。憧れのイラストレーターが、こんなむさ苦しいアパートに住んでいるなんて。
 当のイラストレーターは、奥の部屋にいるようだ。目の前はガラス戸で仕切られていて、人影が見える。
「約束通り来てやったぜ」
 尋の呼びかけにしばらく間があった後、返ってきたのはまたも生返事だった。
 尋は少しムッとする。あれだけ人を熱心に口説きおとしておいて、その扱いはないだろう、と尋は思った。
 多少遠慮していた気もなくなり、本革の編み上げブーツを脱いで、尋はどかどかと上がり込んだ。
 ガラス戸を開ける。
 部屋の中央に、尋に背を向けて、そのイラストレーターは胡座をかいて座っていた。心なしか背中がしょげている。
「なんだよ、あんた。人が折角出向いてやったのに、その態度は」
 不機嫌さを隠さずに尋が声を荒げると、海は頭を抱えた。
「あぁ、あんま吠えんな。頭に響く」
 その酷く掠れた声に、尋は、ははぁと目を細めた。
「なんだ。二日酔いか」
 あざ笑うかのような口調で尋がそう言ってやると、海は恨めしそうに振り返った。
「ああ。そうだよ。高い酒、浴びるほど飲んでやったからな」
 夕べ、尋のバイト先でロミオとジュリエットのロミオばりの大演説をかました海は、その熱意に尋がようやく首を縦に振った後すっかり有頂天になり、高いブランデーをガバガバとカッ食らったばかりか、その時来ていたお客全てに酒を奢ると豪語して、拍手喝采を受けたのだった。
「で、請求いくらきたんだよ」
 尋が当然のようにそう訊ねると、海は頭を抱えて唸った。
「訊くな。それは、訊くな。腹立つから」
「あんたも無茶だよね。うちみたいな高級クラブで全員に奢るだなんて奇声上げるから、こんなことになるんでしょ。それで払えんの? こんな部屋住んでて」
「うるさい。ちゃんと払えるよ。・・・・・・今ある貯金、全部おろしたら」
 海のその言葉に、尋は大きな溜息をつく。
「あんた、ほんとにバカだよね」
「うるさい、うるさい! バカって言うほうがバカなんだ! うわぁ!」
 ついに海は、頭のネジが吹き飛んだらしい。
 髪をかきむしってその場に根っこがり、バタバタとむなしく暴れ回る海。
 それを見て尋はしゃがみこんだ。
 何気なく、言葉が口をついて出る。
「まったく、姿形は一緒でも、誰かさんとは大違いだよ。あんた」
 海がぴたりと動きを止め、腕の合間から尋を見つめてきた。
「誰かって、誰?」
 そう言われて尋は、はっとする。一瞬口を手で被ってから、海の目を避けるように視線を逸らした。
「こっちの話。それより、どうするんだよ。絵を描くんだろ?」
 尋はそう言って、窓際の机に整然と並べられた画材一式に目をやった。
 机の上だけは、部屋の散らかりようとは縁がなさそうな顔つきをして、極めて効率的に道具がきちんと並べられている。それを見て尋は、漠然と感じる。こいつ、絵を描く時はやはりプロなんだな、と。
 どんな手順であの海中の光のような絵ができあがるんだろう、と沸き上がる好奇心を努めて顔に出さないようにする尋に、海は言った。
「絵を描く前にしとかなきゃいけないことがある」
 海はさっと身体を起こした。さっきまで子どものように駄々をこねていたことが嘘のようだ。
「おい。出かけるぞ」
 海は、台所のテーブルの上にある鍵をジーンズの後ろポケットに突っ込むと、裸足のままスニーカーを引っかけドアを開けた。
 尋は慌てて後を追う。
「ちょっ、ちょっと待てよ!」
 すっかり不意をつかれた尋。お陰でブーツを履くのにかなり手間取ってしまった。
「この小春日和といっていい暖かな日差しの最中、真冬仕様のブーツですか。面倒臭いのにご苦労なことですな」
 ニヤニヤと海に笑われ、流石に尋はバツが悪い。
 自分の格好悪さに顔を赤らめるなんてことは、随分と久しぶりだった。
 冷えた体温が、熱を持って循環し始める感じがして、尋は自分の手を何度か握りしめた。
「出かけるってどういうことだよ。しとかなきゃいけないことってなんだ」
 少し声が大きくなったのは、妙なテレを隠すため。
 海は、あの独特の少年くさい笑顔を浮かべ、さっさと階段を下りていく。
「そういっぺんに訊くな。来れば分かるよ」
 そう言って海は、歩き出す。その手には、スケッチブックはおろか、鉛筆すら持ってない。
「なんだよ。あんたと散歩する約束まではしてないぜ」
 カリカリとした口調の尋に比べ、海はいたって呑気な歩調で歩いていく。
「お前、歩く時、周り見てないだろ。あんまり」
「それがどうした」
「今、どんな花が咲いてるか知ってるか?」
「そんなこと知らなくたって生きていける」
「ま、そうだけど。あ、ほら」
 尋の目の前を海の腕が横切る。海の指さした先には、真っ白い大振りの花が、濃い色の枝に一斉に咲いていた。
「木蓮。いい香りだろ?」
 思わず尋は立ち止まる。軽やかで甘い木蓮の香り。尋は正直驚いた。都会の腐った空気の中で咲く花の白さ。汚れなさ。そして、自分がまだその微妙な香りを感じることができることに。
 今まで尋は、都会に植物など生えていないと本気で思っていた。
 鳥なんて、精々カラスぐらいのもので、彼らはいつも生ゴミを漁りながら、人間を小馬鹿にしたような鳴き声をあげる。この世の中はすべて、無機質なグレイの上に偽物の色が散乱してできているものだ。尋はそう信じていた。
 まるでなにか憑き物が落ちたかのような気持ちになる。今初めて朝日が差し込んできたかのような。
「今やっと目が覚めたってな顔つきしてるな。お前、今までどういう生活してきたんだよ」
 海がまた歩き出す。
 その真っ直ぐな背中を見て、尋は分かる気がした。海がどうしてあんな絵を描けるのか。そして、どうしてその絵が、どうして人を引きつけてやまないのかが。
 この男は、魔法の目を持っている。
 ほんの何気ないことに美しさと気持ちよさを感じとれる目。
 そしてそれを増幅して、他の人に触れさせることができる手。
 そのことを知って、尋は少し胸がちくりとした。海が特別選ばれた人間のような気がして。
「おい、置いてくぞぉ」
 尋を振り返りもせずに、海が言う。
 ドキリとした。
 “置いてくぞ。”
 尋にとってその言葉はとても新鮮だった。
 今まで長いことずっと独りだった尋。
 だから誰かに置いていかれることなどなかった。
 腹の奥がなんだかむず痒い。尋は、海の後を小走りして追った。


  「なぁ、尋。海(うみ)見に行かないか? 海(うみ)」
  尋に対しては、いつも受け身だった貢。
 その彼が、唯一尋に対して言った我がまま。
  海(うみ)。
  貢は、とても海(うみ)が好きだった。
 その訳を訊くと、何もかも洗い流してくれるような気がしてさ・・・と、言いながら、貢は儚い微笑みを浮かべた。
  いつも物静かだった貢。その静かさが尋にとって唯一の安らぎだった。
  その完璧すぎる容姿のせいで尋は、その頃から既に騒がれ、妬まれ、陰口をたたかれ、もてはやされた。
 他人のことが信用できない病気にかかっていた尋。
 その尋にとって貢は、ただひとつ無条件に信用できるものだった。
 尋を飾りとしてでなく、ただ一人の人間として、対等に話をしてくれる人間。汚れた目で見つめてこない人間。それが貢だった。
 二人して授業を抜け出して行った海(うみ)は、いつも風が強くて、濃い潮の香りがした。
「俺、死んだら海に灰をまいてほしい」
 一頻り波間で遊んで、びしょびしょの服を乾かす間、海(うみ)を見つめてそう言った貢。
 「まだ中学生のくせして何言ってんだ」と尋がちゃかしたせいで、貢は自分がそのセリフを思わず口に出してしまったことをひどく後悔したような顔をして見せた。
 今でもその時の顔が忘れられない。
 セピア色の思い出は、いつしか血の色に染まった。
 自動車事故で燃え尽きた貢。
 真っ黒焦げになった貢の、「灰を海にまいてほしい」というささやかな願いは、結局叶えられることはなかった。


  「ね。ミツグって、誰のこと?」
  耳元でそう言われ、尋はうっすらと瞼を上げた。
「ん・・・?」
「ミツグ。そう寝言で言ってたよ」
 ベッドから身体を起こすと、隣にまりあがいた。
「ああ・・・。俺、寝ちまったのか・・・」
 服を着たままベッドに横たわるまりあを見て、尋は大きく溜息をついた。額に触れると、しっとりと寝汗をかいていた。
「久しぶりなのに、なんだか疲れてるね。ベッドに横になった途端、キスしてる間にもう寝息たててるんだもん。まるで昼間一頻り遊んだ子どもみたい。ま、お陰で尋クンの意外とかわいい寝顔を初めて見れたけど」
 ベッドの上に頬杖をついてまりあが言う。
「そうか・・・」
 尋自身、こんなことは初めてだった。
 今まで、バイトで身体がボロボロになるまで働いて疲れたことはあったが、こんな寝入り方をしたことはない。女に、寝顔を見せたことは一度もなかった。
 確かに、肉体的には疲れていた。客達との無機質なセックスで、ではなく、至極健康的なことで。
 今日尋は、海(かい)に連れられて山に行った。人があまり知らない小さな滝があると、海は言った。まるで、それがものすごく特別でとっておきの秘密だと言わんばかりに、尋に耳打ちをして。
 尋が、海の気ままなスケッチ散歩に付き合わされ始めて、二週間以上経っている。お陰で、小笠原海については、彼のファンであるまりあ以上に詳しくなってしまった。
 なぜなら、尋は未だ海とろくに口をきいていなかったから、必然的に海が話をする時間が多かったからだ。尋が口を開くとすれば、ただ文句を言う時だけである。
 しかし、尋が不平の声を上げるのももっともだ。
 あれから二週間以上も経つのに、海は尋をスケッチすらしようとしない。
 海は、毎回尋を呼び出す度に、ここに行こうあそこに行こうと言っては、訳のわからない場所に尋を連れ回した。大抵は徒歩で行けるところで、それは近所の公園だったり、隣町のおでん屋台だったりした。
 海は、本当に楽しそうにスケッチをする。
 何がそんなに楽しいかは知らないが、カウンターのむこうで涎を垂らしながら思わずうたた寝をしているおでん屋の親父や、犬の糞を掴んで嬉しそうに母親のところに持っていく小さな子どもの姿を、本当に優しい目で見つめ、時には「ナハハ」と変わった笑い声をあげながら鉛筆を走らせる。その隣で、ただじっと座っているだけの尋はただの道化だ。本当にただ、座っているだけなのだ。
  「あんた、本当に俺にモデルしてもらいたいのかよ。いい加減にしてくれ」と尋がごねても、逆に海は開き直ってこう言ってくる。
「じゃぁ、別に来なくてもいいよ。でも、呼び出したら来るじゃん。お前」
 ── あんたがしつこく何回も電話してくるからじゃないか・・・。
 尋は、はっきり言って、海に電話番号を教えたことを後悔していた。
 尋自身、なぜこの男に携帯ばかりか自宅の電話番号を教えたのか分からない。
 まりあでさえ、知り合って一年以上経ってから仕事上どうしても教えないとダメな状況になったので、教えたぐらいだ。余程のことでない限り、自分の電話番号を進んで教えたことはない。
 尋が海に番号を教えてしまった理由は、何度考えても分からない。
 多分、海が自分の電話を持っていないから安心したのだろう。
 そう。驚くことに海は、電話を持っていなかった。
 一人が一台携帯電話を持つようなこのご時世に、なんて時代遅れの男なんだと尋は呆れてしまった。
 仕事をする時に困るだろうにと尋は思ったが、いつも仕事を持ってきてくれる超几帳面な世話好き男がいるから大丈夫なんだ、と海は言い切った。
 ちなみに尋は、その男に二度会っている。
 街角の交差点で、偶然海を見かけた時に一緒にいるところを見たのが1回目。2回目は、例の如くのスケッチ散歩から帰ってきた時、男は部屋の中でコーヒーを飲みながら腕組みして海の帰りを待っていた。
 尋の顔を見て、男は驚きを隠さなかった。
  「お前、いつの間に口説き落としたんだ?」と呟く男に、海は得意げに威張ってみせていた。
「初めまして。久住と言います。こいつのお守りをしています。よろしく」
 そう言って立ち上がった久住は、尋が見上げるほど背か高かった。尋も決して背が低い方ではないので、久住の身長は、ゆうに190cmを越えるだろう。
 久住は、海の部屋の鍵を持っているらしく、海以上に海の部屋のことを分かっているようだった。結局その日、尋が海の家に通い始めて初めて出されるコーヒーを手際よく煎れたのは、久住だった。
 仕立てのいいスーツに身を包んだ見るからに大人のいい男にコーヒーを出された身としては、居心地の悪さを感じずにはいられない。結局その日は、そのまま仕事の打ち合わせに入ってしまった二人にさよならも告げず、さっさと退散をした。
 しかしそれからも、いや以前にも増して、海の電話攻撃は酷くなった。ヤツはどうやら、自宅近くのタバコ屋においてある公衆電話からかけてくるらしい。会話の途中には必ず、コインが落ちる時のノイズが何回も入っていた。そんなに電話する金があるんなら、とっとと電話機買え、と思うのは尋だけだろうか。とにかく海は、今まで尋が出会った人間の中でも相当変わり者だった。
 今日山に行く時も酷いものだった。今日は初めて海の車に乗った。
 電話も持っていない男の口から「俺の車で行こうぜ」という言葉が出てきたことも驚きだが、その車と対面した時も驚いた。車は、日の出荘より少し放れた空き地に無造作に止めてあった。
「なんだよ。これ」
 尋の第一声はこうだった。だってそうしか、言いようがなかったから。
「これとはなんだ。失礼な奴だな。これは俺の愛車、灰とダイアモンド号だ」
「なに、その灰となんとかって」
「灰とダイアモンドだよ。知らないのか? 究極のバードボイルド・ムービーだよ。モノクロでカッコいいんだぞ」
「モノクロ? 知るかよ、んな映画。お前ほんとに俺とタメ年か? いつの話してんだか・・・」
「まったく文化的に乏しい男だな、お前。ちゃんと学校行ったか?」
「余計なお世話だ!」
 またも海のペースに乗せられてムキになっている自分に気づく尋。尋は、冷静さを取り戻すために咳払いをひとつした。
「とにかく、こいつ、動くのかよ」
 尋は、目の前のポンコツを指さして言った。
 お世辞にもおしゃれなクラシックカーとは言えない代物。一昔前に爆発的に流行った小型車。その小さな四角い型のボディは、長年日にそのまま照らされていたせいで、煤けた濃いグレイに色褪せしていた。
「これ、一体いくらで買ったんだよ」
 いざ車に乗り込んで、キーを何度も回す海を横目に尋がそう訊くと、海は熱心にキーを回し続けながらこう答えた。
「3万」
「信じらんねぇ・・・。こいつ」
 溜息をつきながら緩く頭を振る尋に構うことなく、エンジンがかかった途端、海は嬉しそうに奇声を上げた。
「ほら! エンジンかかった、エンジン!」
 ── エンジンかかって当たり前だっつーの。
 もはや口にするもの億劫な尋は、横で我が物顔に運転する海を見て、再び溜息をついた。
 ── もしかしてこれ、走ってたらエンジン落ちないか・・・?
 絶対ありえそうにないことでも、この男と一緒にいると起きてしまいそうな気がしてならない。そんな男についつい付き合ってしまう自分に一抹の不安を感じる尋だった。


 「へぇ。なんだかおもしろそうじゃない」
 ベッドに頬杖をついたまま、まりあが言う。
「おもしろいもんか。ただ疲れるだけだよ」
 今し方冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを飲み干し、尋はまりあを見た。
 まりあは、拗ねたような顔つきをして尋を見ていた。
「なんだよ。変な顔して」
「変なのはそっちでしょ。凄く楽しそうな顔してる、尋クン。あの小笠原海と昼間遊び回って、終いにはこのまりあ様の魅惑のボディーを放ったらかしにして寝ちゃうだなんて、酷いじゃない。おまけに、遠足から帰ってきた子どもみたいな顔して話しちゃったりして。アタシ嫉妬しちゃうな。尋クンが羨ましい」
「・・・・。何言ってんだよ。そんなことあるわけないだろ。先シャワー浴びるぜ。もうバイトに行く時間だから」
 尋はそう言って、逃げるようにバスルームに入った。
 服を脱ぎながらふと鏡に目をやる。
 ── 俺は、どんな顔をして話をしていたんだろう・・・。
 しばらく鏡を見つめていたが、不意にそれ自体がバカらしく思え、尋はさっさと服を脱ぎ切った。
 シャワーのコックを捻る。すぐに心地いい温度のお湯が出てきて、尋は頭からざばざばと被った。
 一頻り汗を洗い流して、コックを閉める。水滴の落ちる髪を掻き上げて、タイルの壁にもたれ掛かった。
 ── なぜ・・・・。なぜ俺は、お前も一緒に来いよ、とまりあに言えなかったんだろう。
 まりあの言う通り、自分は少しおかしくなってきているのかもしれない、と尋は思った。
 ただでさえ、今まで充分異常だったというのに、これよりさらにおかしくなることがあるなんてな・・・。
 尋は、その笑えない冗談を鼻で笑った。


 まりあと別れ、尋は一旦家に帰った。別に直接店に行ってもよかったのだが、家でしておきたいことがあった。尋は、ドアを閉めながら時計に目をやる。時間は押し迫っていた。もう家を出なくてはならない。
 尋は真っ直ぐ電話に向かうと、留守電のスイッチを押そうとした。だが、そのスイッチが点滅していないことに気づく。ここのところ、海からしつこいぐらいにメッセージが入っていたのに、今日に限ってメッセージが入っていない。
 ── あいつ・・・、何してるんだ・・・。
 受話器を取ってから、ハッとする尋。
 ── そういえば、あいつん家、電話なかったんだっけ・・・。
「今時信じらんねぇヤツ」
 尋はそう悪態をつきながら、受話器を置く。その途端、電話が鳴り始めた。例の如く居留守を使おうと留守電に任せたまま、尋は電話に背を向けた。
 おきまりのメッセージの後、相手の声が入る。
『あれ? 何だよ、また留守か』
 海の声。尋は慌てて振り返って受話器を取る。
「もしもし?」
『なんだ、いるの? なんで留守電なんかにしてんだよ』
「イタ電よけ。それより、そっちこそなんだよ。また公衆電話からでも電話してんの?」
『んふふ。ちっがうんだな~。小笠原海、22歳、独身。この度、新しく電話買いました。おめでと~!!』
 その言いぐさに吹き出す尋。
「なに自分で祝ってんだよ。電話買ったのか。よく金があるな、お前」
 海が、尋のバイト先で自己破産しかけたのは、つい二、三週間前のことである。
『昨日ギャラが入ったんだよ。結構でかい金がさ。おい、お前、聞いて驚くなよ。これファックスもついてんだぜ。お陰で仕組みが解るまで暫く悪戦苦闘してたけどさ、今やっと使い方がわかったっつー訳』
「なんだよ、どんくせーな」
『あっ、なんだよ、その言い草は。せっかく一番に電話かけてやったのに』
 尋は、海の思わぬ台詞に、キョトンとする。
「・・・。一番最初に、俺にかけてんの?」
『そうだよ』
「ウソだろ?」
『そんなことウソついてなんの得になるんだよ』
「そりゃそうだけど・・・。なんで?」
『なんでって・・・。知るかよ。訳なんて特に考えなかったけど、なんとなく最初に顔が浮かんだからさ』
 ぶっきらぼうな海に、尋は首筋がむず痒くなった。「変なヤツ」と思わず口をついて出る。
『うっさい。とにかく、明日家来いよ。海(うみ)、見に行こう。海(うみ)』
「海(うみ)・・・?」
 尋は、ほんの少し前まで見ていた夢に思いを馳せた。
 海(うみ)。
 貢とよく行った海(うみ)・・・。
「── ああ。いいぜ」
 尋がそう答えると、途端に海(かい)の声が弾んだ。
『ほんとか? 来なかったら、また電話するぜ。なんせこっちはファックスつきだからな』
 海の訳の分からない大いばりの声を聞いて、尋は密かに笑みを浮かべた。
「しろよ。どんどんしてみろよ。できるもんならな。電話代かさむぜ」
『あっ、きったねぇ~なぁ。んじゃ、もう電話切るぜ』
「ああ」
『んじゃ、明日な』
「ああ」
『少し早いけど、おやすみ』
 そう言って電話は切れる。
 ── おやすみ・・・。おやすみ、か。
 尋は口の中でそう呟いて、ふっと鼻で笑ったのだった。

 

神様の住む国 act.04 end.

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編集後記

前回と比べ、異様に茶番劇な今回、いかがだったでしょうか? なんせ、海くんは、まさしく強引グ・マイウェイなキャラクターなもので、こんなことに・・・。でも回を重ねるにつけ、そんな彼も次第に苦悩していくことになります・・・。超絶に不器用な二人なんですが、よろしくお願いしますね。

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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