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act.13

 「すみません、店長。急用ができちゃって・・・。夜のシフト、誰かと交代できませんかね」
 ニキビの後も生々しい店員にそう言われ、男は明らかに気分を害したように顔をしかめた。
「お前、またか」
 思わずそんな台詞が口を付いて出る。
「ありがとうございました!! またどうぞ!」
 ガラスの向こうで店員の大きな明るい声が聞こえ、男の目は自然とそちらの方に移った。
 オレンジ色の制服を着た背の高い青年が、キャップを取って深々とお辞儀しながら車を見送っている。
「お前、あいつを見習ってみろよ。あいつ、お前より2つも年下なんだぞ。それにお前は正社員で、やつはアルバイトだ。そんなことじゃ示しがつかんだろう」
 そう言っている矢先、噂の青年がスタンドの中に入ってきた。
 汚れた雑巾の入ったバケツを裏の洗濯機に運ぼうとするその青年を、ニキビ顔の店員が捕まえた。
「な、辻村。悪いけど、夜のシフト変わってくれよ。俺、急用ができちゃって」
 縋るようにそう言う店員とカウンターの向こうで渋い顔をしている店長の顔を見て、青年は明るい笑顔を浮かべた。
「いいですよ」
 頬についた汚れを腕で拭いながら、青年はそう言う。
 ニキビ顔の店員は「やった!」と奇声を上げ、店長に何か言われる前にさっさと荷物を纏め、「今度埋め合わせはするから」と言ってスタンドを出て行った。青年は、そんな先輩の姿を目で追いながら、呑気な笑顔を浮かべている。
 一方、ガソリンスタンドの店長は、深い溜息をついた。
「辻村、お前なぁ。清水に対して甘いんだよ。そりゃ、お前がいてくれりゃ、女性客の入りも格段にいいし、対応もいいから、うちの評判も上がるけどさ。ちょっとお前、働き過ぎだよ。疲れないか、そんなんで」
 辻村と呼ばれた青年は、肩を少し竦めると、しゃがんでバケツの中の雑巾をゴシゴシと擦り併せた。
 店長は、側の自動販売機でホットの缶コーヒーをふたつ買うと、1個を辻村に向かって放った。辻村は器用にそれをキャッチする。
「すみません、いただきます」
 辻村は側のペーパータオルを取って手を拭うと、キャップを脱いで腰のポケットに差した。
 少し離れたカウンターの裏からでも、青年の美しい横顔が窺える。
 髪は男らしく短く刈り込んであったが、それを差し引いても、青年の顔はこんな小さなガソリンスタンドには不似合いなほど美しかった。
 店長の岩倉は、こんな青年が、陽もとっぷりと暮れようとした自分の店にいること自体が不思議でならなかった。
「── お前、毎日そんな遅くまで働いて、彼女怒らないか? 昼間は映像の専門学校に行ってるんだろ? 彼女と会ってる暇がないじゃないか」
 岩倉がそう言うと、両手で温かい缶を包み込むようにしながらコーヒーを飲む辻村は、テレたような苦々しい笑みを浮かべた。
「いませんよ、彼女なんて」
 青年はそう言って、あかぎれた手を擦り併せた。
 岩倉は、純粋に驚いてみせる。
「お前ほどの男に彼女がいないなんてことはないだろう。こないだ来たうちのかみさんだって、お前見かけて目をハートにしてたぞ」
 岩倉がそう言うと、辻村はアハハと声に出して笑った。
「本当にいないんですよ。── ただ、好きな人はいますけど」
「へぇ、なんだ、片想いか」
 岩倉の言葉に、辻村は複雑な表情を浮かべた。
「片想いなのか、両想いなのか、俺にもよく分からないんです。訳あって、ずっと会えずにいますから・・・」
「お前を待たすなんて、凄い女だな。俺が女だとしても、お前ほどの男を待たせておくなんて、とてもできないよ。そんなにいい女なのか」
 岩倉は、こんな男を待たせておく女に、珍しく好奇心をそそられた。どんな凄い女なんだろうと。
 一方辻村は、複雑な表情を浮かべたまま、少し笑って見せた。
「── いい女という訳ではないですけど・・・。俺にとって掛け替えのない人です。本当に死ぬほど好きだけど、俺が側にいたらあいつが苦しむだけだから、俺は一緒にいられない。だから敢えて捜さないことにしたんです。それがあいつのためなんだと思って・・・」
 伏し目がちにそう言う辻村の言葉を聞いて、ふいに岩倉は自分のことが恥ずかしくなった。興味本位に訊くことではなかったような気がしたのだ。
「── 何だか、悪かったな。辛い恋をしてるのに、何だか俺・・・」
 恐縮している店長の姿を見て、辻村はまたあの清々しい笑みを浮かべた。
「やめてくださいよ、店長。店長らしくない。別に俺、後ろ向きの人生送ってる訳じゃありませんから。── あ、いらっしゃいませ!!」
 新たに入ってくるエンジ色のボルボを見つけ、辻村は外に飛び出して行った。
「いらっしゃいませ!」
 尋が頭を下げると、ボルボの窓がスーと下がった。
「ハイオク満たんにしてちょうだい」
 濃い色のサングラスをした女性が、歯切れのいい声でそう言った。
「ありがとうございます。ハイオク満たん入ります!」
 尋はそう叫んできれいに手入れさせた車の給油口を開くと、給油機のパネルにハイオク満たんをセットしてフロントの窓を拭きにかかった。
「灰皿、ゴミはよろしいですか?」
 運転席側の窓を拭きながら尋がそう言うと、その女性客はサングラスをずらしてまじまじと尋の顔を見た。そんなことはいつものことなので、尋が黙々と窓を拭いていると「ねぇ」と声を掛けられた。
「覚えてない? 私のこと」
 尋は窓を拭く手を止める。このガソリンスタンドに勤めだして六ヶ月以上になるが、流石にそんな台詞を言われたことはなかったからだ。
 今度は尋がまじまじと女性客の顔を見つめると、サングラスを外した女性は艶やかに笑って見せた。大人の完成された美しさ漂う知的な笑顔だった。
「覚えてる訳ないか。私はあなたを知ってるけれど、あなたは私にこうして真正面から対面したことはなかったものね」
 怪訝そうな顔をする尋に、彼女は言った。
「久住遼一郎の元彼女と言えば分かりやすいかしら。それとも、小笠原海の自称東京での保護者と言った方がいい?」
 小笠原海の名を聞いて、尋はにわかに顔色を変えた。
「初めまして。澤田京子と言います。あなたの名前は、辻村尋君でいいのよね?」
 そう言って京子は、窓から手を差し出した。青年は、躊躇いがちにその手を握り返してくる。骨ばった手は傷もつれで、正しく勤勉に働く男の手だった。
「見違えたわ、辻村君。少し痩せたの? 最初は全然分からなかった。随分久しぶりだものね。最初にあなたに会ったのは、海の個展の時だったから、もう一年ぐらい前になるのかしら?」
「・・・もうそれぐらい経つのか・・・」
 青年の口から思わずそんな言葉が洩れる。その言葉には実感がこもっていた。
「久住があなたと連絡が取れないって言ってたわ。君、前にいたマンションも引っ越して、大学も辞めたんだって?」
 京子がそう訊くと、尋は意外そうな顔をして見せた。
「── 久住さんが俺に連絡を取ろうと? そんなバカな。どうして?」
「私もその理由は知らない」
 本当に理由の知らない京子は、正直にそう言った。ただし、その理由はある程度想像できたが。
「ねぇ、仕事、何時に終わるの? よかったら、一杯奢ってあげたいんだけど」
「え・・・。ええと、仕事は・・・」
 尋が言葉を濁して周囲に目をやった時、すぐ隣でスクーターに給油していた店長が尋に向かって目配せをしてきた。恐らく、二人のやり取りを聞いていたのだろう。彼の目は「行って来い」と言っていた。
「この店で待ってるわ。仕事が終わって気が向いたら来てちょうだい」
 京子は鞄からカクテルバーのマッチを取り出し、尋の汚れた手にそれを渡した。


 南青山にあるそのバーは、女性向けの華やかな店が多い昨今では珍しいほどの、重厚な男らしい店構えを見せていた。
 入口の緑青ぶいた銅板の看板といい、入口を開けた時に流れるオールドジャズの調べといい、控えめなほど抑えられた間接照明といい、さほど古くさそうな店ではないにも関わらず、比較的年輩の客が多い店だった。
 その店の雰囲気に一瞬飲まれた尋は、気を取り直して店に入ると、京子の姿を捜した。
 ── いた。飴色の長い一枚板のカウンターの一番奥に品よく腰掛けていた。
 息を切らせて隣のストールに腰掛けた尋に、京子はあの艶やかな微笑みを浮かべる。
「ここ、私が内装をコーディネートした店なの」
 京子の口からそんな言葉が飛び出して、尋は正直に驚く。こんな無骨そうな内装のバーと目の前の華やかな京子の容姿が今ひとつ結びつかない。京子は、尋のそんな表情を充分に楽しんで、バーテンを呼んだ。
「何飲む?」
 尋はそう訊かれ、「ビールを」と答えた。
「彼にはビール。私にはさっきと同じものを」
「畏まりました」
 年老いたバーテンが、尋の前にコースターと白い霜をつけた小さなグラスを置く。
「飲んで大丈夫なんですか?」
 尋が思わずそう訊くと、「大丈夫よ。車はちゃんと置いてきたから」と京子はウインクして見せた。
 グラスの中によく冷えたビールが注がれ、少し遅れて新しい大振りのグラスが京子のコースターに置かれた。透明な液体に鮮やかな緑色のライムが沈んでいる。その見覚えのある光景に、尋の胸はチクリと痛んだ。
「これ、海の好きなカクテルよね」
 京子は、尋の顔色に気がついてそう言ってくる。彼女は何もかもお見通しのようだった。
「海・・・、元気にしてますか?」
 恐る恐る、尋は訊いた。
 その質問には、“海はまだ海のままなのか”という意味も密かに込められていた。
 生憎と京子には、そこまで推し量れなかったらしい。
「元気よ。取りあえず」
 と京子は、ストレートに答えてきた。苦笑いをする。
「もっとも、私も仕事が忙しくてあまり会ったりはしていないんだけど。── 海、また絵を描き始めたみたい。久住が言ってた」
 尋は二度瞬きをした。
 隠しようのない安堵の溜息が洩れる。
 尋にとって、その言葉だけで充分だった。
 ── 海が、絵を描いている。
 それがどんな絵だったにしろ、尋の心が救われたことには違いない。
 ずっとそれだけが、気がかりだったのだ。今自分が海にどう思われていようとも、それが憎しみだったとしても、海が絵を描いていてくれさえいればそれでよかった。
 絵を描くこと自体が、海がまだこの世に生きている証のような気がして。
「辻村君はどうして海に会いにいかないの?」
 当然のようにきた質問だった。
「家も引っ越して、学校も辞めて、まるで何かから逃げるみたい。ずっと会っていないんでしょ? 折角両想いになっていたっていうのに。こんな状態で踏ん切りがつくの?」
 尋は、ビールで口を湿らせた。
「両想いって言っても、それは海が昔の記憶を取り戻す前の話ですから・・・。あなたはどこまでご存じか知らないけど、記憶を取り戻した海にとって俺は、一番辛い記憶の一部なんです。俺は、海が海になるまでの彼を随分傷つけてきましたから」
「── それはもう、海のこと好きじゃなくなったってこと?」
「そんな! ・・・何と言っていいか分からないけどでも、今でも海のことをいとおしく思っているのは間違いありません。俺の人生は、あいつなしでは語れない。これまでもそうだし、これからもそうだと思っています。でも、一緒にはいれない。あいつの苦しむ顔は見ていられない。そうした方があいつの幸せになるんじゃないかって、そう思うんです。正直、俺自身も自分が本当に小笠原海を好きになったのか、瀬尾貢の身代わりにしてしまったのか、分からずにいるんです。確かに俺は、逃げているのかもしれませんね・・・。でも、勇気がなくて・・・」
 そう言って頭を抱える尋を見て、京子は唐突に言った。
「あなた、泣いたことがある?」
 突然の京子の質問に、尋は何て答えていいか分からなかった。
 京子が目を細めて尋を見る。
「どんな泣き方でもいいのよ。心の底から本当に感情が揺さぶられて、もう泣けないっていうくらいに泣いたこと。ある?」
 尋は、自分の中の過ぎていった時間を振り返った。
 そして、自分が泣き方を忘れてしまうほど随分長い間、泣いていないことに気がついた。海に抱き締められた時ですら、涙は流すことはなかったのだ。
 尋が、ゆっくりと頭を横に振ると、京子は優しげに微笑んでみせた。
「そう・・・。女はね、泣いて強くなるの。自分が納得するまで泣いて泣いて。全て泣き切ったら、それでそのことはおしまい。次に自分ができることを考えるの。悲しいことや辛いこと。うまくいかないこと。くやしいこと。一度そのことについて涙が涸れるまで泣いちゃったら、次また同じことがあっても、大丈夫頑張っていけるって思うことができる。前より強い自分がいることを知る。女はそうやって強くなっていくの。すごいでしょ?」
 尋は、屈託なく話す京子の美しい横顔を見つめた。
「だから損よね。男は。だって、簡単には泣けないものね。それこそ大の男が大声上げて泣くなんて、よっぽどの事情がないかぎり、女々しい奴って後ろ指さされちゃう。でもね。正々堂々と泣ける男ほど、ずっと強いって思うのよ。だって、毎日毎日我慢して、いつしか泣き方を忘れちゃった人って、もし自分が頑張れなくなったらどうするのかしら? だから私、人は誰でも、大いに泣いていいと思うの。別に人前で泣けっていってる訳じゃない。泣きたい時に思いきり泣けたらそれでいいと思うのよ。でないと、新しい自分になって次の一歩が踏み出せないから。いつまでもその悲しみに捕らわれて、引きずられてしまうから。人生なんて、一度きりよ。ただでさえ、毎日の時間が大切なのに、いつまでもつまんないことで悶々としてるなんて不毛じゃない。頑張って泣きなさいよ。本当に死ぬ気になって泣きなさい。そして今までのいろんなことを洗い流せたら、また会いに行けばいいじゃない。その時はもう、新しく生まれ変わった、そして少しだけ強くなったあなたなんだから」
 尋の胸が熱くなった。魔法が解けたような気がした。
 尋が声に詰まってようやく2、3度頷くと、カウンターの上に水滴がぽたぽたと落ちた。
 尋はあっと驚く。
 あんなに枯れていた涙が、今自分の頬を伝っていた。
 それに気が付いた途端、嗚咽が堪えられなくなった。
 カウンターの上で握りしめた拳がぶるぶると震えた。
 京子は、そしらぬ顔で堅い味のカクテルを喉に流し込んでいる。それが返って励まされているようで、益々尋の心は熱くなった。
 一頻り泣きに泣いて、気づけば、すっきりとした自分がいることに気が付いた。
 海と離れ離れになってからというもの、自問自答して、何かに意地を張るように頑なに次の人生を模索していた。
 海が側にいなくても生きて行けるようにと、自分を仕事で虐め、新たに始めた勉強で虐めた。両親にも全てを話し、一からやり直すと誓いを立てた。
 そんな肩ひじ張った自分が酷くちっぽけなものに思えて、尋は洟を啜った。
 気持ちを無理矢理ねじ伏せて、自分を偽ったまま生きていこうとする自分が、恥ずかしかった。
 ── 人生なんて、一度きりよ。
 その言葉が胸に染みた。
 そうだ。この一度しかない人生の中で、一度失った筈の愛しい人に、自分は再び出会うことができたというのに・・・。
 瀬尾貢だろうが、小笠原海だろうが、それがなんだというのだ。自分は、あの南の澄んだ海《うみ》を渡ってくる大きな風のような笑顔に惚れたのではないのか。あの大きくて澄んだ瞳に・・・。
「俺・・・、会いに行きます。会いに行って来ます」
 京子が、自分を見つめていることが分かった。
「嫌いだって怒鳴られてもいい、酷いヤツだって罵られてもいい。自分の正直な気持ちを伝えに行きます」
 ビールの入ったグラスの前に、京子がメモ用紙を差し出す。それには、西荻窪のマンションの住所が書かれてあった。
「海はそこにいるわ」
 尋は、そのメモ用紙を掴むと席を立った。出入口のドアの前で振り返る。
「ありがとう、ございました」
 憑き物が落ちたかのような、清々しい顔だった。
 尋は、文句なく美しい慎み深い微笑みを浮かべ、頭を下げる。そして尋は、慌てた様子で店を出て行った。
 京子は、尋を見送った後、溜息をひとつついて、ふと隣のグラスに目をやった。グラスの影には、控えめに置かれた一万円札。それを見て京子は、あちゃぁと頭を抱えた。
「やっぱいい男だわ、あいつ」
「惜しいことしましたね。京子さん。ま、毎度のことですか」
 カウンター越し、落ちついた物腰の老バーテンダーが微笑んでいる。
「やっぱり溝渕さんもそう思う? そうなのよねぇ、私。いつもそう。恋愛感情より前に、まず母性愛が目覚めちゃって。これじゃまるで私、世の中の頼りない男ども皆の母親がわりよ。婚期逃すはずよねぇ。ね、溝渕さんどう思う?」
「私は美しい京子さんが他の男のものにならなくてすんで、大変結構ですがね」
 そう言って老バーテンは、特別にシェイクしたドライマティーニを京子に差し出した。ふふふと京子は小さく笑う。
「お世辞だと分かっていても嬉しいわ。だから私はこの席の常連なのよ」


 尋は、駅までの道を急いだ。
 早くしないと西荻窪までの電車がなくなってしまう。
 日はもうとっくの昔に暮れて、街はすっかり夜の顔をしていた。
 これから夜の街に繰り出そうと駅から出てくる人混みをかき分け、尋は駅構内を走った。乗り換えの駅までの切符を買い、尋は人通りの少ない通路を選んで改札口を目指した。
 ふと、その通路の壁一面に何枚も張り出されたポスターに目が向いた。
『あなたがスキ。イタイほど、アイタイ。』
 そんなキャッチコピーがついたファッションビルの真新しいポスター。
 そのポスターにまるで海中の光のような穏やかな色彩で描かれた美しい青年の笑顔は、紛れも無く、髪が長い頃の自分だった。
「・・・・」
 尋は、言葉なくそのポスターに縋った。
 ポスターの片隅に印刷されたイラストレーターの名前を指で辿る。
 ── イラスト 小笠原 海
 尋は、再び緩む涙腺の向こうに、いつか海の目の前で浮かべた懐かしい笑顔の自分を見ていた。
 せつなさで、心が壊れそうになってしまう。
 ── あなたがスキ。イタイほど、アイタイ・・・。
 そうだね、海。俺も、イタイほどお前に会いたいよ・・・。
 尋は、足を踏み出した。
 もはや尋を遮るものは何もなかった。
 ── 海に会ったら、まず何を言おう。
 最近ガソリンスタンドで働いてんだと言おうか、それとも、映像の作り方を教えてもらえる学校に通い始めたことを話そうか。
 尋は、改札口に向かって歩いた。
 気分だけが焦ってしまう。
 騒がしく長い通路を、もどかしい足取りで歩き出してしばらく。
 夜の駅構内なのに、改札口の向こうに明るい光が瞬いたような気がして、気づけば自分の身体の周りの音がなくなっていた。
 まるで、永遠に近いような、一瞬。
「キャァ ──!!」
 遠くで、女の人の悲鳴が聞こえた。
 なんだと思う前に、視界が揺れた。
 背中が熱い。焼けた鉄を肌に押しつけられたような気がした。
 自分の頬が、駅の冷たい床の上にぶつかるのを感じる。その視界の端に、まりあが真っ赤に濡れた刃物を持って呆然と立ちすくんでいる姿が見えた。
「誰か救急車を呼べ! 人が刺された! 誰か、その娘から包丁を取り上げろ!!」
 側で誰かが怒鳴っている。そうか、自分は刺されたんだ、と思った。
「おい、あんた大丈夫か?!」
 見知らぬ男の人に頬を叩かれ、痛いなと感じた。急激に身体が冷えるのを感じた。
「・・・事故です。これは、事故です・・・。彼女は、悪くない。警察には、そう言ってください」
 自分の口から出た声は、他人の声のように酷く掠れていた。
「あまり喋らない方がいい」
 背中の傷をグッと押さえつけられる。その男の人の腕を掴み、尋は言った。
「── 小笠原海という人に会ったら・・・、愛していると伝えてください。本当に、愛してると」
「分かった、伝えるよ。── おい! 救急車はまだか?! しっかりしろ、君。・・・おい、おい! しっかりするんだ!!」
 まりあの泣き声がする。慌ただしい幾人もの足音がする。
 そして尋は、意識を手放した。


 ── 脳が酸欠状態って、どういうことなの? あなた!
 ── 心臓近くの静脈が切れてひどい内出血を起こして、心臓がショック状態になって動くことをやめていたそうだ。話によると、意識が回復しても、それ相当のリハビリが必要だと言っていた。恐らく、記憶障害の恐れもあると・・・・

 ── あなたのことは、息子から電話で聞かされていました。息子がこうなる前の六ヶ月間は、息子はよく家に電話をくれていましたから・・・。息子は、見違えるように変わったわ。私たち、本当に驚いたんですのよ。息子は決して血の繋がった私たちにさえ心を開くことはなかったのだから。全部あなたのお陰だって、息子は言っていました。・・・もちろん、あなたたち二人の関係も聞かされています。最初は戸惑ったけれど、息子の生き生きした様子を感じるにつけ、私たちはそれを受け入れたの。だって、「母さん、元気? 今までずっとごめんね。俺、やっと真っ直ぐ生きて行けるようになったよ」って言われたら・・・、嬉しくない親なんていないでしょ? それなのに、こんなこと・・・・

 ── おお、今日も来てくれたのか。今日は僕の当番でね。妻は息子の部屋の片づけに行ってる。随分と長い入院生活になりそうだからね。今日はなかなか顔色がいいだろう。さっき話しかけると、少し瞼が動いたんだよ。この分だときっと・・・・

 ── 彼女を不起訴処分してほしいとの嘆願をされたというのは本当ですか?
 ── ええ。息子も、意識を失う寸前に「これは事故だった。彼女は悪くない」と繰り返し強調していたそうです。僕達は息子に何もしてあげれなかった情けない親なんですよ。せめて息子の気持ちをくみ取ってやりたいと、妻と相談して決めました。瀬尾君・・・いや今は小笠原さんでしたかな? 彼にも充分事情を説明していただいて・・・・

 ── ねぇ、あなた。この子はこれから、どんな人生を歩んでいくんでしょうね・・・。
 ── さぁ、どうかな・・・。素晴らしい新たな人生が待っていればいいが。
 ── そうね。きっと、素晴らしい人生だと思うわ。だって、あなた。この子はひとりじゃないんですもの・・・・

 ── 尋・・・、尋・・・


 彼は、深い深い水の底から、一気に海面を目指すように眼球を動かした。みるみる瞼の裏が黄色い光に満ち溢れ、あまりの眩しさに瞼を開いた。
「・・・尋! 気がついたのか!」
 大きな瞳。柔らかそうな唇。男らしい眉。
 少し驚いたように目を見開いたその若い男の顔が、次の瞬間、南国の花がこぼれ落ちるような笑顔を浮かべた。
「尋、俺のこと分かるか? 俺のこと覚えてる?」
 彼には、そう言う青年のことがまったく分からず、そればかりか自分の名前すら分からなかった。
 でも、「まぁいいや。そんなことはたいしたことない」と青年があの笑顔のままそう言うと、彼はなぜか、ひどく安心した気分になって、彼に任せておけば全てうまくいくような気がした。
 青年が、自分の両頬を温かい両手で覆い包み、額に優しく唇を押し当ててくれる。 「尋、俺はずっとお前のことしか見てないんだよ。── 尋、俺ともう一度恋をしよう。一緒に、怒ったり、泣いたり、笑ったり、メチャクチャすごい恋をしようぜ。三度目の正直なんて言葉もある。きっと神様も賛成してくれるさ・・・」
 青年の台詞に知らず知らず自分も微笑みながら、彼はふと懐かしい気分になった。なんだか、海の香りがしたようで。


| エピローグ |

 「ねぇ、ちょっと、ちょっと! 見てよ、これ、これ!」
 ビジネス街の片隅にあるコンビニストアの雑誌コーナーで、ひとりのOLが黄色い声を上げた。そのOLが騒がしいのはいつものことで、店員も他の客も見て見ない振りをした。
 しかし、彼女の同僚である小柄なOLは、そうもいかない。
 おにぎりを持った手を無理矢理捕まれ、引き寄せられてしまった。
「この人メチャ素敵! ね、あんた知ってた?」
 肩まで伸びた髪が美しい小柄のOLは、雑誌を覗き込む。
「知ってるわよ、もちろん。昔絵のモデルもしたことあるもの」
「え、そうなの? あ、本当だ。ここの記事に書いてある。え! あのポスターの絵のモデル?! 超有名じゃん! そういやあんた、あのイラストレーターのファンだもんね」
「そういうこと。じゃ、あたしもう行くよ」
「あ! ちょっと! ねぇ、この雑誌買わないの?」
 雑誌を手に取らず、さっさとレジに向かう友人に、そのOLは声を掛けた。声を掛けられた彼女は、レジにおにぎりとお茶を置きながら振り返る。
「無駄遣いはしないって決めてるの! そんな雑誌買わなくったって、その人がカッコイイことは百も承知なんだから。ほら、さっさとしないと置いてくよ!」
 友人は、支払いを済ませて店を出て行く。
「もう・・・、あいつ、経済感覚だけはしっかりしてんだから。あいつ、ホントに白井商事のお嬢様なのかしら? ちょっと、ねぇ、待ってよ、まりあ!」
 OLは、平積みになった漫画雑誌の上にその雑誌を広げたまま置くと、急いでレジの支払いを済ませて友人の後を追った。
 開かれた雑誌の記事は、まるで少年のような無邪気な笑顔を浮かべる男のモノクロ写真が大きく載せられたもので、その男の特集記事だった。そこにはこう書かれてある。


~かのブルース・アンダーゾンに“永遠の少年”と称された世界一有名な日本人~

 辻村様。ああ辻村様、辻村様、辻村様。
 こんな風に書くと、頭が狂ったかと評されそうだが、モデル辻村尋を目の前にして、他のどんな言葉が浮かんでこようか。
 今年で26歳になる辻村は、一昨年ファッションフォト業界に鮮烈にデビューを果たした。しかも、その半年後には、世界的に有名なファッションカメラマンであるあのブルース・アンダーゾン自らにご指名をかけられ、ヴォーグオム誌の表紙は飾らないにしろ、ブルース特集ページの唯一の被写体として6ページにも渡ってその美しさを世間に知らしめたのである。
 はっきり言えば、モデルデビューを20歳もとうに過ぎた年齢で果たすのは難しい。しかも、このように圧倒的な成功を収める形でのデビューは。
 だが、辻村尋に関しては、誰も文句がつけられない。
 現に先日、前衛的なカットと素材使いでパリとミラノを大きく湧かせた話題のブランド『ジャルダ』が彼を今年の春夏のキャンペーンイメージキャストにしたいと公式に発表したばかりだ。
 近頃はやりのアジアンテイストにジャルダが飛びついただけと一部のマスコミに叩かれもしたが、ジャルダの斬新でアンニュイなスーツに身を包み、こちらをひたと見つめる彼が早く見たい・・・そう思っている人間は、世界中に五万と溢れているだろう。
 僅か2年にもみたない間に、世界の注目の的となってしまった辻村だが、本人は意外に呑気に構えているようだ。
 あまり詳しくは公表されていないが、5年ほど前の事故で、右半身の麻痺と後天的な記憶障害をもってしまった彼は、一時読み書きすることはおろか、話すことすら出来なくなってしまったという。
 今では身体の麻痺もすっかり取れ、カメラの前で自然なポーズを取れる彼だが、記憶障害の影響はまだ残っており、撮影現場にも小学生が持つような漢字ドリルをいつも持ち歩いている。
 「僕は生まれ変わってまだ5年しか経ってないんだ。だからまだ5歳なんだよ」。
 初めて公のインタビューの席についた時、彼はそう言ったが、しかし逆説的に言えばその事故があったからこそ、ブルースをもってして“永遠の少年”といわしめたあの透明な笑顔が生まれたのかもしれない。
 そして辻村尋は、周りの喧噪をよそに、慌てず騒がず、月の半分以上は恋人が待つ南の島に帰る。辻村本人は、あまり金儲けには興味がないようだ。
 これは補足だが、今月末に全編辻村尋をモデルにした画集「神様の住む国~楽園~」が発売される。勿論、作者は、前年度国際広告ビエンナーレのイラストレーション部門で二度目の優秀賞受賞という快挙を成し遂げた小笠原海だ。
 これはあまりにも有名な話になるが、辻村尋がデビューするきっかけを作ったのは、くしくも小笠原が前回同賞を受賞した時の作品である。
 画面いっぱいに描き出された屈託のない青年の笑顔。それは辻村尋のあの純粋無垢な笑顔を完璧に描ききった作品だった。
  『あなたがスキ。イタイほど、アイタイ。』のコピーと相まって(クライアントもよくぞこんなコピーを採用したものだ)、一筋縄では行かない世界の強豪達を見事押しのけたのだ。
 当時、小笠原海は一躍マスコミに騒がれる身となり、それは彼自身望んでいないスキャンダルにまで発展した。なにせ、公の印刷物を使って、絵の中の想い人に愛のメッセージを送ったのだから。
 だが、この禁んじられた恋物語は、意外にもすんなりと受け入れられた。むしろ、それが人々の心を鷲掴みにしたといっていい。もちろん、彼らを激しく攻撃する人々が現れたことも事実だが、実際に彼らは、自分達が支持されようが、否定されようが、そんなことは関係ないのだろう。
 この辻村尋の安らぎに満ちた表情を見て欲しい。
 誰になんと言われようが、大切なものを手に入れたものだけが浮かべることのできる至福の微笑みだ。
 本当の愛情がどういうものか分からなくなっている現代にあって、まさに彼のナチュラルな笑顔は、真の美しさを秘めているといえよう。
 もう2ヶ月もしたらパリコレが始まる。
 あのジャルダのランウェイをたくさんの拍手を浴びて歩く辻村の姿が目に浮かぶ。
 だがそれまでは、辻村の生の姿を見ることはできない。
 なにせ今ごろ、絵を描くことが上手な恋人と南の島の楽園で心地よい昼寝に没頭しているのだろうから。

 

神様の住む国 end.

楽園 NOVEL MENU webclap

編集後記

いかがだったでしょうか、ジェットコースター・ハイ・ロマン(?)。最後まで揺れに揺れたでがしょ? でも着地点は一応幸せムンムンな南の島ですから・・・。なんだか一生の間に輪廻転生を何回もやってのけた二人って感じですが(←かなり無茶)、エンディングは「幸せに暮らしたとさ」ということで、めでたし、めでたしです。これで内臓大破壊王・国沢の汚名返上となるか?と首を傾げつつ、またひとつ連載が終わってしまって、ほっとしているやら寂しいやら。複雑な気分の国沢なのでした。

[国沢]

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