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act.10

 「どうした?」
 唐突にそう訊かれ、海は夢から覚めたように尋に視線をやった。
「ん? 何?」
「── いや・・・。何か難しそうな顔してたから」
 ベッドの隣で横たわったままの尋に下から顔を覗き込まれ、ベッドの上に両膝を立てて座っている海は少しドキリとした。
「俺、そんなに難しい顔してた?」
 身に覚えがない海は、思わずそう訊き返した。
 尋が静かな顔で二、三度頷く。
「やっぱ、こんなことになるのは急ぎ過ぎたかなって、ちょっと思う。俺は正直、こういうことにはもう慣れてるけど、海は違うだろ? ・・・少し焦ったかもしれない、俺。ごめん」
 神妙そうな顔つきで尋は俯いた。
 伏せられた睫毛の影が落ちるその横顔を見て、海は純粋に美しいと思った。
 なんて美しい人だろうと。
 その瞬間海は、そんな彼を得ることができた自分を世界中の人間に知らせたいという衝動に駆られ、そんな自分を浅はかだと思う自分もいた。
「謝るなって何度も言ったろ? 俺だって、ああなるのが嫌だったら、一晩中ヤリまくったりするもんか」
 海がふざけた口調でそう言うと、「そりゃそうだ」と少し顔を赤らめた尋が笑顔を浮かべた。
 時計を見ると朝の六時。カーテンの隙間から、明け方の淡い光がどんどん濃く差し込んでくる。
 本当に夕べは、何度も抱き合った。そして何度も口づけをした。
 途中感きわまって尋が海の身体にしがみついてきて何十分もそのままでいた時、改めて海は尋の想いの深さを実感した。
 何度も謝る尋に、「もう俺に謝んな」と言って尋を抱き締めた。
 確かに尋の心の傷を癒したのは海だったが、海自身も尋にある意味癒されていたのだから。
 ── また人を愛することができてよかったじゃない。
 京子の言ってくれた言葉が、何度も海の脳裏を掠めた。
 ああ。本当にそうだね、京子さん。本当に彼を好きになれてよかった。
「なぁ、風呂借りていいか?」
 汗でひんやりとした髪の毛を上へ撫で上げ、海は訊いた。「もちろん」と尋が身体を起こす。
「シャワーもある。・・・一人で大丈夫か?」
 一瞬海は何を言われているか分からなかった。
「ちゃんと立てるか。結構俺、我慢できなくて無茶したから」
 そう言われ、海は自分の顔が熱くなるのを感じた。その顔を見て、尋がニヤリと嫌な笑みを浮かべる。
「何なら、お手伝いしましょうか?」
「バカ言うな。ヨレッてる姿なんか、格好悪くて見せられるか」
 海はそう捨て台詞を吐いて尋の頭にシーツを被せると、ベッドを離れた。
 確かに身体には鈍い痛みが残っていたが、我慢ができないほどではなかった。
 尋はああ言ったが、夕べの尋は充分海の身体を気遣って彼を抱いたのだ。それは海もよく分かっていた。
 寝室を出る間際、「本当に手伝いがいるなら呼んでくれよ」と真摯な声が掛けられ、海は手だけで返事をした。意外なほどの尋の優しさには、流石に海も照れてしまう。
 だがそんな浮かれ気分は、バスルームに入る頃には消え去っていた。
 鏡の中の自分とふいに目が合う。
 難しい顔。
 ── 尋の言っていた顔は、これか。
 海は、少し伸びた顎髭をさすった。
 確かに、海の中には迷いがあった。
 それは、尋とこういう関係になったことに対しての迷いではなく、海自身についての迷いだった。
 初めての経験だった筈なのに、身体を激しく貫かれる快感は酷く身体に馴染んでいた。しかも、その感覚に飢えていたとも言っていい。海自身戸惑いを覚えるうちに、身体は勝手にもっと、もっとと尋の身体を欲しがった。
 海は大きく深呼吸をして顔を両手で擦ると、再び鏡の中の自分に目をやった。
 ただの淫乱なら話はまだ早い。
 海は、頭の中で悪態をついた。
 ── あの時浮かんだ、あの映像は何だ。
 赤い部屋。まとわりつく暗幕。簾のように幾重に垂れるフィルムの帯。
 嫌な気分だった。
 最愛の人と身体を併せておきながら、一瞬でも違うことを思い浮かべた自分に純粋な嫌悪感を感じた。
 そこに何かがありそうな予感がした。


 見晴らしのいい高層の階にある応接室の上座にいきなり座らされ、海はそわそわと腰が落ちつかない心持ちだった。
 久住に無理矢理連れてこられた湯島コーポレーションは、自社ビルではないにしろ、丸の内のオフィス街の一角にある巨大なビルの半分のフロアを占拠するような大きな会社だった。
 久住に言われ、一応それなりの服を尋に借りて何とか格好はつけたが、それを差し引いても自分は相当場違いだと海は思った。
「いやぁ、すみませんな。お忙しい中、わざわざお越しいただいて」
 白髪のいかにも企業人と言った風情のおじさんにそう言われ、海は曖昧な笑みを浮かべた。
「うちの広報部長が小笠原さんの絵をいたく気に入りましてね。ぜひお会いしたいと言うものですから、久住さんに無理を言ってお願いした次第なんですよ」
「お前も絵描き冥利に尽きるだろう。ここまで褒めてもらって」
 久住の満面の笑みを見て、俺よりもよっぽど嬉しそうな顔をしてると海は思った。
 しかし、その久住の心境も分からないではない。
 一時は海の陥ったスランプにより、パンフレット制作の話自体が頓挫しかかったのだ。しかし、海が空前のスランプから無事脱出してから3日間で、彼は素晴らしい大作を描き上げた。
 雄大で優しさに満ちた大きな樹木の絵。
 それを見せられた時、流石の久住も舌を巻いた。
 今度のスランプで、海は人間的に豊かになるような何かを得たようだった。
 納期を先送りにされて機嫌の悪かった湯島コーポレーションも、絵を見せた段階で一切の文句を言わなくなったほど、海の絵は素晴らしい出来だった。
「いやぁ、昨今の石油業界も不況の煽りを受けましてなかなか大変なんですよ。黙っていても売れていた時代も過ぎ、21世紀はエコの世紀だと言われています。我が社と致しましても、次世代のエネルギーについて模索している最中です。地球環境に貢献する企業としてのイメージ作りは大変重要だと我が社は考えております」
「江崎さんのおっしゃられる通りだと私も実感しています。最近の経済危機を受けて広報課関係の予算を削減される企業も多いですが、江崎さんはなかなか先見の明がお有りだ」
「いやいや、これはうちの広報部長の受け売りなのですよ。彼は中途採用で我が社に入社したんですがね、なかなかこれが大した男でね。我が社の幹部連中も、彼には一目置いています。── そういえば遅いな」
 その時、応接室のドアが開いた。
「すみません、お待たせしました」
 四十間近の落ちついた雰囲気を持つ男が入ってきた。久住と江崎が立ち上がるのを見て、海もそれに習う。
「おお、峰石君。丁度噂をしていたところだよ。うちの広報部長の峰石だ。アド・ファインズの久住さんは知ってるな。こちらが君の会いたがっていた小笠原さんだ」
「どうも、小笠原です」
 海はとりあえず右手を差し出した。
 だが、相手は自分の顔を食い入るように見つめるばかりで、全然反応がないことに海は戸惑い、思わず久住を見る。久住もどうしていいか分からず、江崎の方を見やった。
「どうしたのかね、峰石君」
 江崎に肩を叩かれ、峰石は目が覚めたかのように江崎を見、再び海の顔を見て二回瞬きをした。
「申し訳ない。知り合いによく似ていらしたものですから。どうぞおかけください」
 それから以後は、スムーズにことは運んだ。
 海が絵を始めたきっかけやこれまでの経歴などについて話題が昇り、峰石は久住の説明やたまにしゃべる海の顔を交互に見つめながら満足げに頷いた。
 それから話題はパンフレットの仕上がりについての話に移り、海は手持ちぶさたに窓の外を眺めたりしていたが、たまに視線を感じるといつもそこに峰石の目があった。益々居ずらくなって海は席を立つ。
「すみません。薬を飲みたいんですが、どこか水のあるところありませんか?」
「水? 水ならここに運ばせるが」
 江崎が言う。海は笑ってそれを断った。
「すみません。ちょっと外の空気にも当たりたいんです。こんなに緊張したのも久しぶりなので」
 海の笑顔は大抵の人間にいい印象を与える。
 江崎も顔色の余り良くない海を気の毒に思ったのか、同じ階にある給湯室の場所を教えてくれた。
 海は誰もいない給湯室に入ると、懐からピンクの錠剤を取り出し、それを水で流し込んだ。
 大きく溜息をつき壁に凭れる。
 タバコを持ってくるのを忘れたことに気づき、海は舌打ちをした。
「吸うかね?」
 目の前にタバコを差し出され、海は顔を上げた。
 峰石だった。
「すみません。いただきます」
 海が頭を下げてタバコを引き抜くと、峰石がライターの上蓋を弾いて火をつけた。海は2、3度タバコをふかして再び頭を下げた。
「君は何か病気でもしてるのかな?」
 峰石にそう訊かれ、海は苦笑いした。
「交通事故の後遺症なんですよ。時々酷い頭痛がするんです」
「交通事故」
 峰石がやけに鋭く反応する。
「それはいつのことだい?」
「・・・七年・・・、いや八年前でしょうか。かなり大きな事故だったと聞いています。僕は事故のことはあまりよく覚えていません」
「そう・・・」
 峰石が身体を寄せてきた。
 反射的に海は、給湯室の奥の壁に身を寄せる格好になる。
 上から覆い被さるような格好で見つめられながら、こう囁かれた。
「僕のことは覚えていないのかい? 瀬尾貢君」
 一瞬、何と言われたか理解できなかった。
「本当の名前は、瀬尾貢だろう? あんな酷い事故でよく生き残ったな。しかも素性をすっかり変えるなんて、なかなか頭がいい。あんな騒ぎがあった後だ。うまいこと第二の人生を手に入れたってことか」
「・・・あの・・・、何のことですか? 言ってることがよく・・・」
「つれないことを言うな、君は。こっちは、あんなことになっても君のことが忘れらずにいたというのに。でも、君が生きていて本当によかった。僕としても、罪悪感を感じていたからね。恋しかったよ、ずっと」
 そう言って峰石は、海の腰に手を回す。
 海はギョッとして峰石の手を押し返した。
 峰石は意外そうな顔をして見せた。
「どうした、貢。前は刺激的な場所の方が好きだったろう? 特に暗室がお前の好みの場所だった。今でも君のことが好きなんだよ、貢」
 海は眉間に皺を寄せて、信じられないものを見るかのように峰石を見た。
「久しぶりで怯えてるのか? 可愛いな。今でも目に焼き付いてるよ、貢の背中にある三つ並んだ黒子が何とも言えずセクシーで・・・」
 海はカッとして峰石の身体を押した。
 息を切らしながら給湯室の入口に立つ。海は峰石を振り返って言った。
「俺の背中に三つ並んだ黒子なんてありません。完全な人違いです」


 今、ルーレット台の上には尋の書いた辞表が置かれていた。
 尋はそれを前にして、二度目の謝罪の言葉を口にした。「すみません」と。
 ゴロワーズの煙の向こうには、ルーレット台に腰掛け、目を細めて尋を見つめる香倉の顔があった。
「アルバイトの分際で辞表なんて大げさかとも思いましたが、自分でもきっちりと踏ん切りをつけたかったので書かさせてもらいました。── 本当にすみません。よくしていただいた香倉さんの顔に泥を塗るようなまねをして・・・。夜の世界の道義に反していることは充分に理解できます。それについての代償も、ある程度は覚悟しています。でも、これだけは引くことができない。・・・俺、真っ直ぐ生きていきたいんです。許されるならもう一度、顔をしっかりあげて生きていきたい。── 無理を承知でお願いします。辞めさせてください」
 香倉は、暫くの間返事も返さず、ただ黙って尋の顔を見つめ続けた。
 開店前のクラブは従業員の騒がしく準備する音でうるさいものなのだが、隠し扉を閉めたカジノ部屋は、恐ろしいほどの静寂が部屋中を支配していた。
 しかし尋は、決して香倉から目線を外さなかった。例えどんな背筋の凍るような台詞を香倉から言われようと、全て堪えてみせると尋は心に決めていた。そう、あの心優しい絵描きのためなら、どんなことだって堪えてやると。
 現在の店の状態は、店長の鈴木が二週間前にクビにされており、その全権は今や完全に香倉の手中にあった。
 香倉は店長として表に立つのを嫌がり、葛西という男を店長にすげたが、その男は前にも増して香倉の操り人形だった。
 突如、香倉が口を開く。
 ゴロワーズをふかしながら、非常に落ちついた声で「辻村、お前はクビだ」と言った。
「お前に辞表を出されなくても、こっちからお前をクビにしてやる」
 香倉の台詞に心底驚く尋に、再度香倉はそう繰り返す。
 尋を無理矢理雇ったのは他でもない香倉だった。難色を見せていたオーナーをわざわざ説得して、クラブ唯一の特例を許した。
 しかし今や尋は、オーナーのお気に入りであり、恐らくオーナーは如何にして一介のアルバイトである尋を完全な夜の世界の住人に育て上げるかを模索していたはずだ。もちろんそれは、香倉の希望でもあった。それなのに。
 香倉は、まだ半分も吸っていないタバコを指でもみ消した。
 そうして尋の顔を一瞥し、鼻で笑う。
「辻村、俺はな、お前のその自己破壊的なところが好きだった。他人がうらやむような顔や身体を持っているくせに、いつも不幸を招いているような自虐的なツラしてやがるお前がな」
 何を思ったか尋は、少し俯いて表情を緩ませた。
 苦笑だった。その表情をごまかすように彼は鼻先を擦る。その仕草を見て、香倉はニヤリと笑った。
 だが、すぐあの冷たい能面のような表情に戻す。
「だが、今はどうだ。辻村、お前、鏡は見たか」
 香倉はルーレット台から立ち上がると、左手にあるバーカウンターの奥からステンレス製の丸いトレイを手に取り、それを尋に向かって投げつけてきた。
「今俺の目の前にいる辻村尋は、俺の知っている辻村尋じゃない。憑き物が落ちたようなサッパリした顔して、嫌みなくらい真っ直ぐ前を見据えて。そんなヤツが薄汚れた夜の世界で生きていけるはずがない。目障りだ。失せろ」
「香倉さん・・・」
「二度とそのツラを見せるな。この店だけじゃない。この街のどこにでもだ。もしまたこんな街で働いているところを見たら、今度こそ奈落の底に突き落としてやる。脅しじゃないぜ」
 香倉の表情は限りなく無表情でそう言った。
 尋は、そんな香倉の真意を今だ掴めずにいるようだった。
 だが香倉にとって、尋にそれを理解してもらうつもりは更々なかった。
 むしろ、知られない方がいいと香倉は思った。
「行けよ。早く」
 香倉は静かに尋を見下ろし言った。
 尋は頭を深く下げると、香倉に背を向け、カジノ部屋のドアに向かった。
 香倉は懐から新しいタバコを取り出し、火をつける。
「香倉さん」
 ふいに尋に声を掛けられ、香倉は顔を上げた。
 清々しい辻村尋の顔がそこにあった。
「お別れですね。永遠に」
「── ああ、そうだな。・・・永遠に」
 香倉がそう返すと、尋が破笑した。今までに見たこともないような、22歳の青年らしい笑顔だった。
 バタンとドアが閉まる音がする。
 香倉は何の気なしに頭を抱えた。
 自分でも頭を抱えた理由が分からなかった。
「最後の最後にあんなツラ見せやがって・・・。バカヤロウ」
 香倉は、低い声でそう悪態をついた。


 尋がバイトを辞めてきた話をすると、海は思いのほか喜んだ。
 尋の家の近くにある小さな居酒屋の座敷で遅い晩飯を取りながら、新しい生活のスタートを祝って、乾杯をした。
「コンビニのバイトでも探すよ。それに、大学にも行かなきゃな。多分もう、ダブリは決まりだろうけど」
 尋がテレ臭そうにそう言うと、海はアハハと笑った。
「いいじゃん。納得するまで大学行けよ。俺も美大中退したこと今でも後悔してる。お前、俺より前向きだよ」
 その台詞に、今度は尋が笑う番だった。
「 ── ところで、まりあちゃんには言ったのか、俺達のこと」
 肉じゃがを箸で突っつきながら海が訊いた。「ん?」と尋が顔を上げる。
「まりあちゃんのことだよ。お前の面倒ずっと見てくれてたんだろ?」
「ああ。 ── あの娘にはきちんと話そうと思ってんだけど、連絡がつかない。自宅に電話しても取り次いでもらえないし、学校にも行ってないようだ。メイドの話によると、彼女の父親が怒り心頭で彼女を家に閉じこめているらしい。もちろん、そうなったのは俺のせいなんだけど・・・」
「それは、俺にも少し責任があるな・・・」
 海がそう呟く。
 尋は怪訝そうに海を見た。
 海はバツが悪そうな苦笑を浮かべた。
「京子さんのコネ使って、白井社長に圧力掛けたんだ。尋の居所を探し出すために」
 しばらくの間沈黙が流れた。
 自分たちの恋愛が、様々な犠牲の元に成り立っていることを痛感させられる沈黙だった。
「 ── まりあには、ちゃんと説明する。お前を好きでいることが止められないってこと、分かってもらう。だから心配しないでくれ、海。もう後ろは見ないって心に誓ったんだ」
 狭いながらも賑やかな居酒屋の片隅で、尋は今だ暗い表情の海の手をテーブルの下でギュッと握りしめた。海が握り返してくる。
「 ── 尋、ひとつ・・・訊きたいことがあるんだ」
「何?」
 尋は、自分の手を握る海の手に一層力が入るのを感じた。
 海は一呼吸おいて、言った。
「俺の背中に、黒子はあるか。三つ並んだ黒子」
 尋は、唐突な海の質問に、2、3回瞬きをした。
「 ── ある。腰の近くに。それがどうかした?」
 一瞬海の瞳が涙の膜で潤んだように見えた。
 尋がそれ以上問い正そうとした時、海がテーブル越しあからさまに尋の身体を抱き寄せた。
 尋の耳元で海が早い口調で言う。
「早く家に帰ろう、尋。早く俺を抱いてほしいんだ」
 それは何かに追い立てられるような声だった。


 翌朝は、雨だった。
 しとしとと水滴が軒先から垂れ落ちる音を繰り返し繰り返し聞きながら、尋は腕の中で眠る海の腕をそっと撫でていた。
 海は、尋の胸元で規則正しい寝息をたてているが、尋は夕べから一睡もしていなかった。
 海の様子が少しおかしいことに、尋は気づいていた。
 セックスした後に、海がこうして尋の身体にしっかり抱きついて寝入ることは、今まで一度もなかったからだ。
 セックスしている最中は、まるで相手を飲み込むように激しく抱き合う二人だったが、それが終わるとまた男同士の合宿所のような実にさっぱりとした関係に戻った。
 海は尋に抱かれること自体には何の抵抗も見せなかったが、尋に女扱いを受けることを酷く嫌がった。
 もちろん尋もそのつもりで海と付き合い始めた訳ではないから、自然とそういうざっくりとした付き合い方になった。
 しかしそれでも、お互いの愛情は充分感じることができたし、互いが相手の気持ちを最優先させていた。
 セックスの後には別々にシャワーを使い(大抵海が先に使った)、尋がシャワーを浴び終わる頃にはベッドの上で大の字になって、色気も何もあったもんじゃないようなイビキをかきながら眠る海を心底いとおしいと思っていたし、海は海で、今まで送ってきた生活の中で怠けてきたことを必死に取り戻そうと頑張る尋をじっと守っていこうと思っていた。
 互いの家を行き来し、時に笑って時に殴り合いのケンカして、本当に相手が自分の半身でであることを心に刻みながら、掛け替えのない半月を過ごしてきた。
 だが、今になって海が何かの不安に怯えている。
 尋が繰り返し訊いても海はうまくそれをごまかすばかりで、ちっとも答えようしない。しかし、不安そうに尋の身体に掻き付く海は、明らかに怯えていた。
 ── 嫌な予感がする。
 尋は、胸板にかかる海の体重が急に幻のような気がして、海の髪に口づけた。
 その途端、目覚まし時計がジリジリと派手に鳴り響いた。
 最近尋が再び始めたプール通いのために早めに時間をセットした目覚まし時計だった。
 尋は舌打ちをして本来時計があるはずの箇所に手を持っていったが、そこに時計がないのを感じ、海を起こさないようにしながら身体をベッドから起こした。海は、夕べ失神したまま眠り込んでしまったため、ベルの音にも起きる気配を見せない。
 尋は、裸のままの格好でベッドから抜け出し、床に転がった時計を拾った。
 自分自身寝不足で疲れているのか、思ったように指が動かず、やっとのことでベルを止めると、ふと寝室のドア側に向けた身体にひんやりとした風が当たるのを感じた。尋はドアの方に顔を向ける。
 そこには、眼球が飛び出さんばかりに両目が見開かれた、グロテスクな瞳があった。
「キャァ ──!!」
 あんなにきれいに伸ばしていた黒髪を無惨に刈り込んだまりあが、ヒステリックに叫んだ。
 その断末魔を思わせるものすごい悲鳴に、流石の海も飛び起きた。
 まりあは海の傷もつれの裸を目の当たりにし、益々声を荒げた。
「まりあ!」
 尋がまりあの肩を掴む。まりあは錯乱したように何度も何度も小さな拳で尋を殴った。
「やっと家から逃げて来たのに! やっとパパから逃げ出して来たのに! どういうことなのこれ! ねぇ、どういうことなのよ!!」
 半月の間、一体まりあに何があったかは分からなかったが、そのやつれ具合といい尋常じゃない髪型といい、まりあが情緒不安定に陥っていることは明らかだった。
「まりあ、まりあ! 聞いてくれ、まりあ!」
 まりあの両手首を掴みながら、尋は叫んだ。
「俺は本当に好きな人を見つけることができたんだ、まりあ」
 ふいにまりあの動きがピタリと止まった。ギョロリとした目が尋を見上げる。
「俺は、海のことが好きだ」
 まりあがヒヒヒと笑った。尋と海を交互に見比べる。
「──だって・・・、男同士じゃない、尋君たち。男同士で、どうやって本当に愛し合うことができるっていうの? 尋君が働いてたクラブでも、皆遊びだったよ。誰も本気じゃなかった。そんなの、嘘でしょ?」
「嘘じゃない、まりあ。男同士とかそんなんじゃなく、小笠原海だから愛してるんだ。海がいないと、俺は生きて行けないんだ。一番酷い時に支えてくれたお前には、本当に悪いと思ってる。でも、海じゃないとダメなんだ」
 ひきつった笑顔を浮かべるまりあの両目から涙が溢れ出た。しかしまりあは、一度も瞬きをしなかった。
「まりあだって分かってたよ。尋君がまりあのこと好きじゃないって。だからまりあ、尋君が他の人を好きになってもいいって思ってた。自分が一生懸命尋君を好きでいれば、いつかは振り向いてくれるって、ずっと思ってた。でも・・・、でも酷いじゃない! 私、男の人に負けたっていうの?! あんな傷だらけの、醜い男の人の身体に負けたっていうの?!」
 まりあの絶叫に、海が両目を堅く瞑った。唇を噛みしめる海を見て、尋はカッと頭に血が登った。
 次の瞬間には、尋は無意識のうちにまりあの頬を叩いていた。
「尋!」
 海がベッドから駆け下りてきて尋の腕を掴む。
 肩で息をする尋は、両手で顔を覆ったまりあにゆっくりと視線を合わせた。
 まりあは、顔を手で覆ったまま、低い唸り声のような声で言った。
「尋君も殴るのね・・・。尋君もまりあのこと殴るんだ・・・。皆、皆まりあのことが嫌いなんだ・・・」
 両手の間から、赤く充血してギョロリと見開かれたまりあの瞳が見えた。そのあまりの形相に、思わず海が身体を引く。
 息の詰まる静寂の後、弾かれたようにまりあが部屋を飛び出して行った。
「まりあちゃん!」
 海はそう叫んだ後、尋を振り返った。
「追っかけろよ、尋! 早くまりあちゃんを追っかけろ!」
 尋が海を見上げた。驚いた顔だった。
 その顔つきに、海は舌打ちをする。
「さっきのあの娘の目を見たろ?! このまま放っておくと、何するか分からない。早く行ってやれ!」
「お前置いて行ける訳ないだろ! お前を置いて行ける訳ないじゃないか! こんな・・・、こんな泣きそうなツラしてるお前置いて・・・」
 尋が海の両頬を包む。
 海は一瞬奥歯を噛みしめた。
 グッと涙を堪え、尋の両肩を掴む。
「俺は大丈夫だから。俺はお前のこと信じてるから。だから行ってやれ」
 尋はいとおしそうに海の目尻を親指で拭い、頬に口づけると、手近にあった白いシャツとジーンズを着て部屋を飛び出そうとした。
 瞬間立ち止まって海を振り返る。
「必ず、帰って来るから」
 尋がそう言うと、海は2、3回頷いて言った。
「尋、愛してるよ」
 海の台詞に尋は少し目を見開いた。
 それはセックスに夢中になっている時以外は、海が照れくさがって決して言わなかった言葉。
 尋は笑顔でそれに答えると、勢いよく部屋を出て行った。

神様の住む国 act.10 end.

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編集後記

いやぁ~、先週ラブラブだったのに、今週はすでにこのような始末。宣言通り、ジェットコースター・ハイ・ロマンになりつつあるのでしょうか? もっとゆっくりラブラブを楽しませろよという皆さんの痛い声がきこえてきそう・・・。今週に続き、次週も激しく動きます。お楽しみに。(え? ヤダ?)

[国沢]

小説等についての感想は、本編最後にあるWEB拍手ボタンからもどうぞ!

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